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「みなしごキャンパス」

第1話「とあるお人好しの選択」

 

 

1――走る大学生たち

 

 東京はあきる野市にある、あきる野農工大学。あきる野のイニシャルと、農学、工学のイニシャルを合わせた「AAE」の愛称を持つこの大学は、日本でも数少ない国立農工大学である。広大な敷地の中に農学部キャンパス、工学部キャンパス、共学棟の三つの勉学に関わる大きな建物が建ち、他にも男子学生寮、女子学生寮、大学生協、研究に関わる小さな研究棟などが多数建設されている。

 そんな大学敷地内を、男子学生寮の方から工学部キャンパスにかけて走る二人の男子学生がいた。人っ気のないその空間に、二人分の靴がコンクリートを叩く乾いた音が響いて行く。 

 「遅れる遅れる遅れるー!!」

 二人のうちの一人、ニコちゃんマークのプリントがあるプルオーバーパーカーを着た、あちらこちらにはねるくせ毛が目立つ武(たけ)見里(みざと)秀(ひで)太(た)が、必死にそう言いながら走る。

 「うるせえなぁ! んなこと言ってる暇があったらさっさと走れ!」

 秀太の「遅れる」連呼に、その隣を走っている束ねた長髪と小柄な体格が特徴的な天利龍望(あまりたつみ)が粗暴な口調で怒鳴る。

 「走ってるよー! そんなの見ればわかるじゃんー!」

 「走りながら隣り見る余裕なんてあるか! ……つうか、誰のせいで遅刻しそうになって走ってると思ってんだよ?!」

 「そんなの知らないよ!」

 「知らないじゃねえよ、お前のせいだよ! このお人好しがぁ!」

 「あれとそれとは関係ないよー!」

 「大ありだっつーの! このお人好しぃ!」

 「二回も言わなくたっていいじゃん!」

 「何度だって言ってやるよ! お人好しお人好しお人好しヒデのお人好しぃ!!」

 「なんだよぉ! お人好しの何が悪いんだよぉ!」

 どうでも良いような他愛ない言い合いが終わる様子もなく、秀太と龍望は工学部キャンパスに向かって走る――

 あきる野農工大学、工学部機械工学科三年生の武見里秀太。

 同じくあきる野農工大学、工学部機械工学科、こちらは二年生の天利龍望。

 この二人、学年こそ一つ違えど、お互いにタメ口をきき、お互いに「ヒデ」「タツ」とあだ名で呼びあうほどに仲が良い、大学に入る前からの親友同士である。学生寮で利用している部屋も同じルームメイトであり、今日のように学年が違えど同じ時間に講義が始まる日は二人で大学に向かうのが常だった。

 ちなみに、現在は午前九時を少し過ぎた頃。講義は九時十分から始まるというのに、教室まで走っても十分はかかるという場所に二人はいるのだ。いつもなら遅刻などとは縁のない二人なのだが、なぜ二人はこんなにギリギリの時間にこんな場所に居るかと言うと……遡ること三十分前、午前八時半ごろに、事は起きていた。

 

 

2――遅刻? の理由

 

 同日、午前八時半頃、秀太と龍望の二人は寮の朝食を食べ終えて仕度を済ませ、工学部キャンパスに向かって歩いていた。

 「なんで月曜日に限って機械工学科はどの学年も朝一なんだろうな……」

 面倒くさそうにそう言い放つ龍望に、秀太は呆れを露わにして、

 「そーいうこと言う人は、どの曜日が朝一でも同じこと言うんじゃないの?」

 と、言い放つ。

 「ああ? どーいう意味だよ――」

 龍望が不愉快そうにそう言った、その時。後ろの方から、嬉しそうな犬の鳴き声が段々と近づいてくることに、二人は気付いた。

 「ん~?」

 「ああ?」

 各々に不思議そうな声を出し、思わず振り返る秀太と龍望。

 「あ、リジチョ――」

 犬の正体に気付いてその名前を呼んだ瞬間に、リジチョーと呼ばれた黒い中型犬は勢いよく秀太に飛び掛かった。

 「うわっ……!」

 リジチョーの勢いに、秀太は思わず尻もちをついて後ろに倒れ込む。

 「痛ぁ……」

 痛がる秀太だったが、そんなことお構いなしに一鳴きしてから秀太の顔を舐めはじめるリジチョーに、秀太も思わずくすぐったそうに笑う。

 「あははっ! くすぐったいなもう~!」

 笑う秀太に、リジチョーはさらに嬉しそうに顔を舐めまくるが、秀太はそんなリジチョーの脇を掴んで持ち上げる。

 「よいしょ、っと。おはよう、リジチョー!」

 秀太の挨拶に、アン! と嬉しそうに一鳴きするリジチョーだったが、ふいに後ろに回っていた龍望に抱かれて秀太から離れる。

 「くぉら! お前は朝の時間がない時に限って――」

 龍望が抱えたリジチョーにそう言いかけた時だった。先ほどの近づいてくるリジチョーの鳴き声と同様に、荒々しい足音と、

 「リーージチョォオーー!」

 と言う豪快な呼び声が、リジチョーが走ってきた方向から聞えてくる。向かってくるのは、息を切らして走ってくる初老の男性だ。

 「荒俣(あらまた)さん!」

 走ってきた男性に、秀太も龍望も声を揃えてそう呼びかける。

 この荒俣と呼ばれた男性、本名を荒俣勇志郎(ゆうしろう)といい、リジチョーの飼い主である。また、農学部キャンパスが所有するエリアにある、動物保護施設の管理人でもあり、秀太の友人的存在でもあった。

 「お! なんだヒデタツじゃねえか!」

 嬉しそうにそう言う荒俣だったが、対照的に秀太は苦笑気味であり、龍望に至ってはひどく呆れているようだった。

 「その呼び方やめてくださいよ、俺の名前「ツ」しか残ってないじゃないすか……」

 抱きかかえたリジチョーを荒俣の傍に下ろしながらそう言う龍望。

 「なんだよ、ヒデとタツだろ? 別に秀太とツ! なんて思ってねえよ!」

 「いや、わかってるけど……」

 「それにしても珍しいね、こんな時間にリジチョーの散歩なんて」

 特に水を差すような雰囲気でもなく、自然と秀太が話題を変える。

 「いや、珍しいも何も散歩じゃなくてな……俺ぁヒデのことを待ってたんだよ」

 「待ってた、ってことは、何か用事でもあった?」

 「いや、別に用事ってほどのことでもねぇんだけどよ。ほら、だから約束もしてねぇだろ?」

 「あー、うん。そうだねぇ」

 「んで、だ。学生寮と大学の間でリジチョーと二人でボーっと突っ立ってお前ら待つのもなんだから、ちょっと歩き回ろうと思った途端にだな、リジチョーがお前らを見つけて俺のことも置いて走り出しちまったってわけだ!」

 「あー、そーゆうこと。……で、用事ってほどでもない用事って何?」

 「ヒデ、お前今日もハーモニカ持ち歩いてんだろ? だったら、いつものやつをリジチョーに聴かせてやってほしくてな。いやぁ、実はよ……昨日の夜にテレビでハーモニカの曲が流れてよ、それからリジチョーのやつソワソワしっぱなしで見てられなくてな……きっとお前のハーモニカが聴きたくて仕方なくなっちまったんだと思うと俺もいても経ってもいられなくなっちまってよ……」

 そう話す荒俣に、龍望は納得したような顔をしている。

 「荒俣さんとこ、みんなしてヒデのハーモニカ好きだもんなぁ……いや、でも、まあ……それってまさか今やれ、なんてバカなことは言わないですよね――」

 「できりゃあ今すぐに――」

 「嘘だろ?!」

 荒俣の言葉に、龍望は思わず言葉を遮って言い放つ。

 「いいよ」

 遅刻を懸念する龍望の心情も余所に、秀太は即答した。

 「おいこら!」

 「なに?」

 「俺らこれから講義だぞ? 朝一だぞ? 単位落としたら留年もできない貧乏学生なんだぞ? 間に合わなくて遅刻なんてして留年に近づいちまったらどうするんだよ!」

 龍望の言う通り、秀太と龍望は家庭環境の関係で経済的に余裕のない学生だった。実家からの仕送りは大学の最低限の学費しかもらえず、携帯もパソコンも持てず、学校が終わった後に居酒屋でバイトをしながら生活費を稼いでいる身なのである。一年たりとも、留年は許されていなかった。

 「ん~……あれだったら、タツ先に学校行ってなよ」

 「お前なぁ……そーいう問題じゃねえだろうがよ。留年禁止貧乏学生はお前も一緒だっての……」

 「ん~……ま、遅刻しかけたってうまくやれるよ。荒俣さんもリジチョーも、せっかくこんな朝っぱらから待っててくれたんだしさ、ちょっとくらい大丈夫だって」

 「よっし! そんじゃあ頼むぜヒデ!」

 「はーい」

 そう言って、秀太は着ているプルオーバーのポケットからケースに仕舞われたハーモニカを取り出し、リジチョーに合わせるようにしゃがみ込む。

 「ったく……」

 呆れる龍望をよそに、年季の入ったハーモニカから、優しい奏が響きだした。

 秀太は、このハーモニカをまるでお守りのようにいつでも持ち歩いている。そして秀太が奏でるこのハーモニカの音色は、どこか懐かしみのある癖があり、暖かく、優しく、誰しもをその音色に聴き惚れさせる。それは秀太のハーモニカを初めて聴く人間も、何度も聴いている人間も同じであり、時間がないと言っていた龍望であっても、今まさにその音色に聴き惚れていた――

 

 気付けば、荒俣に言われて秀太がハーモニカを吹き始めてから三十分近くが経っていた。曲が終わる度に荒俣はもう一曲、もう少しと催促をし、秀太も快く言われるままにハーモニカを吹き続けるものだから、時間が経つことに誰も気付けなかったようである。

 このようなことがあって、秀太と龍望は遅刻と隣り合わせの状況で必死に走っていた。

 相変わらず他愛ない言い合いをしながら走る二人だったが、無情にも工学部キャンパスの方からチャイムの音が響きだす。

 「うわ、五分前のチャイム鳴った!」

 「やべーよ、意地でもあと五分で教室入るぞ!」

 「わかってるよ!」

 走りながらも、そんなことを言いつつ体に負荷をかけつつも二人は教室に向かって加速していった。

 

 秀太と龍望は特別に優等生と言うわけでもなく、人並みか、もしくはそれより少しだけ多く学業とバイトをし、時間があれば友人たちと遊ぶような、そんなどこにでもいるような大学生だった。

 何をもって普通と言えばいいのか、それは誰にもわからない。しかし、工学部の学生としての二人の大学生活は、今この時までは至って普通なものであった。

 

 

3――工学の悪友たち

 

 二つの講義が終わり、あきる野農工大学に昼休みがやってくる。

 学年が違う関係で秀太と龍望は別の教室で二講時目の講義を受けていたのだが、朝同様に、二人はいつも昼休みは共学棟の学生食堂で待ち合わせをして一緒に昼食を取ることにしている。

 今日も二人は食堂の端の方にあるテーブルにひっそりと座り、持参した弁当を広げていた。

 「いただきます」

 行儀よく二人揃って手を合わせて食前の挨拶をし、箸を持つ秀太と龍望。と、そこに、

 「お、いたいた!」

 「学生寮の朝食の弁当詰めなんて、相変わらずわびしいお昼ご飯~……」

 と、誰かがやってくる。

 「ん?」

 秀太は、声がした方に顔をあげると、そこには二人の男子学生が、学食が乗ったトレーを持ってやってきていた。

 カレーライスとサラダのセットをトレーに乗せた、背が高くどこか気怠そうな目つきの工学部機械情報科の三年生、修堂(しゅうどう)飛鳥(あすか)。

 そしてオムライスとスープのセットを持って来た、どこか人懐っこい雰囲気を持つ工学部機械情報科の二年生、響鬼(ひびき)信(まこと)。

 この二人、学科は違えど秀太や龍望と同じ工学部であり、男子学生寮では秀太たちの隣の部屋を利用している、大学でできた二人の友人だった。

 「誰かと思えば……なんだよ飛鳥さんか」

 「ホントだ、飛鳥だー」

 「ちょ! ボクもいるって!」

 ふざけたように起伏のない言葉でそう言い放つ龍望と秀太に、信が本気で慌てる。

 「あー、ホントだー、信くんもいたー」

 「ホントだー、信くんだー」

 相変わらず、ふざけた調子の龍望と秀太。

 「もー……ヒデさんもタツもひどいよー……」

 口を尖らせてそう言いながら、信は向かい合って座っている秀太と龍望の、秀太の隣の席に着く。

 「お隣失礼しますよっ、と」

 「いいよー」

 そんな中、飛鳥も当たり前のように龍望の隣に腰を下ろす。

 「あ、信くん今日はオムライス?」

 隣に座った信のトレーを見て、秀太が言った。

 「そう! オムライスいいよね! ボク、オムライスとかの甘いメニューが大好きなんだ! あ、良かったら一口ずつ二人にあげるよ!」

 「ホントに? ありがとう」

 「ということで、飛鳥も二人にカレーあげなよ!」

 「なんでだよ!」

 「お隣ルームメイトのよしみ」

 「知らねえよ、んなよしみ! ったく……」

 と、信に突っ込んでから、飛鳥は一息ついて秀太と龍望を見る。

 「にしても、聞いたぞお前らぁ。一講時目、二人揃って遅刻しかけたんだってな」

 「なに……遅刻しかけたなんてしょーもないこと、機械科学科まで噂になってるの……?」

 秀太は苦笑気味である。

 「だってヒデさんたちが遅刻しかけるなんて珍しいからねぇ。留年はおろか、再履修も金銭的に無理なんでしょ?」

 「そんなことまで噂になってんのかよ……」

 苦笑と言えど笑える余裕のある秀太とは違い、龍望は本気で嫌そうな顔をしている。

 「ま、何から何まで噂になるのは仕方ないんじゃねえか? お前ら、二人揃っていろいろと目立つもんなぁ」

 「えー……そんなに目立ってるかなぁ……」

 飛鳥の言いように、秀太は今度は困ったような顔を見せる。

 「目立ってる、目立ってる。二人ともうちの学校じゃ珍しい北海道出身だし……なによりお前ら、言っとくけど見た目から目立ってんだかんな」

 「ねー。タツみたいに髪長い男子ってなかなかいないし、ヒデさんみたいに大学生にもなってニコちゃんのプリントが付いたパーカーを着こなせる人はそうそういないし……」

 飛鳥の話題に、信が自然と乗っかってくる。

 「あー、これニコちゃんじゃなくてニコ太くんって名前が――」

 「こだわってるな、おい!」

 飛鳥が、秀太の説明にすかさずツッコむ。

 「それ、ニコ太くんって言うんだ! 覚えとくー! ……そういえば、タツも髪伸ばしてるのってこだわりあるのー?」

 「こだわりっつうか……うちのお袋、散髪に金かけるなんてもったいねえって言うくせに子供の髪も切れねえような不器用な母親だから、ガキん時から髪は自分で切ってんだけどよ、ある程度長さがないと自分で見ながら切れねえだろ? だからこの長さにしてんだよ」

 「なるほどなー。でも、お前らの貧乏レベルってほとんど一緒だよな? ヒデは髪どうしてんだ?」

 今度は、飛鳥が秀太に質問する。

 「実家にいる時はじいちゃんに切ってもらってて、今はタツに切ってもらってるよ。タツすごいんだよ、実家にいる時はお母さんとか弟の髪も切ってあげてたんだって」

 「でも、ホント二人ってお金に関して頑張ってるよねー。二人揃って携帯も持ってないし、二人揃って服装が二、三日でローテーションしちゃってるし、二人揃って有料の任意参加講習は受けないし、二人揃って外食に誘ってもいつも断ってるし、二人揃ってお昼ご飯は決まって学生寮の朝ごはんの残りの詰め合わせだし――」

 「あー!! もういい! それ以上人の貧乏を晒すな!!」

 信の遠慮のない事実のオンパレードに、龍望は耐えきれなく言葉を遮る。

 「えー、本当のことなのにぃ~……」

 「おいこら信! お前には常識、ってもんがねえのか?!」

 「そんなの、もちろん――」

 「あるわけねえだろ」

 飛鳥が言い放つ。

 「うん、知ってる」

 秀太も言い放つ。

 「ちょっと三年生組ー!? さらっとひどいこと言わないでー?!」

 たまらなくなる信。

 「んで、お前らどうして遅刻なんてしかけたんだよ――」

 「ちょっと飛鳥、無視しないでー!」

 「いや、実はさぁ――」

 「ヒデさんもー!」

 「お前はとにかく黙っとけ。んで、遅刻の理由といえばヒデのお人好しよ」

 収拾のつかなくなった信いじりに、龍望が収拾をつけて話し始める。

 「まだそんな言い方するー?」

 秀太は不服そうな顔をしてそう言う。

 「ホントのことだろうがよ」

 「で、ヒデのお人好しがどうしたって?」

 二人のやりとりも気にせず、飛鳥が話を急かす。

 「あー、ほら。農学部キャンパスの敷地にみなしごキャンパスってあるだろ? あそこの管理人がさ、何の気まぐれか、朝っぱらから飼い犬にハーモニカ聴かせたい、って言ってきてさ」

 「なるほどなるほど、それで時間がないのに吹いてあげたんだ」

 信が言う。

 「そゆこと。余裕持って寮出たのに、気付けば始業十分前だったってわけだよ」

 「そりゃあタツが災難だったな」

 飛鳥は、本気で心配そうな顔をして龍望に言う。

 「んっとだよ……まあ、ヒデのお人好しのとばっちりはもう慣れたけどな」

 「あのさぁ、僕、そんな言うほどお人好しじゃないと思うんだけど……」

 「あー? どの口が言うんだよ? ……どのパターンも自分の予定や疲労なんて考えずにだ! 誰かが探しものをしてたら迷わず手伝う、バイトのシフトも代わりに入ってくれって言わたら「いいよ」の二つ返事、勉強に付き合ってほしいって言われりゃ相手が納得するまで付き合うし、頼まれごとだって滅多に断らない……そんな人間をお人好しと呼んで何が悪い?」

 「それはもう、お人好し以外の何者でもないな」

 「いい人は早死にしやすいんだから、気を付けてよー?」

 しみじみとそう言う、機械情報科組。

 「いや、あー……うん、もういいや、なんでも……」

 反論が面倒くさくなったのか、秀太はそう言って話を終わらせようとした。

 「でもよー、お前らよくそのみなしごキャンパス? だかってとこに遊びに行ってるけど、実際何なんだよあそこ」

 「管理人さん、荒俣勇志郎さんっていうんだけど、その荒俣さんが人間不信になっちゃって里子に出せないような動物を引き取ってお世話をしてる場所だよ」

 「ま、一匹は荒俣さんのもとからの飼い犬だから、べらぼうに人懐っこいんだけどな」

 飛鳥の質問に、秀太と龍望が二人で答える。

 「なんなら、今度飛鳥たちも遊びに来る? ……きっとみんな逃げちゃうけど」

 「いや、遠慮しとくよ……噛まれたりしたらヤだし……」

 「なんとなく農学部の敷地って入りづらいしね~……」

 そんな話の中、ふっと龍望が思い出したように

 「……なあ、話に夢中になるのはいいけど、せっかくの学食飯が冷めちまうぞ?」

 と水を差した。

 「あー! そうだ、ボクのオムライスー!」

 「できればもうちょっと早く教えてほしかったよ……」

 そんなどこにでもありそうな日常の会話が進む中、今日も昼休みは過ぎて行った。

 

 

4――みなしごキャンパスへ行こう

 

 三時限目終了のチャイムが鳴り響く中、玄関の方へと向かって悠々と歩く二人の学生の姿があった。無論、秀太と龍望である。

 「本日の講義お~わり! やー、いいねぇ! 三講時終わりの日は帰りが早くて!」

 「ねー。バイトもないし、試験もまだ先だから慌てて勉強することもないし……」

 そう言って、秀太は歩きながら龍望を見る。

 「……ってことは、今日は暇?」

 「暇」

 「だったら、一回寮に帰って荷物置いたら、みなキャンに遊びに行こうよ。リジチョーに会ったらみんなにも会いたくなっちゃった」

 みなキャン――昼休みの秀太たちの会話に出てきた、みなしごキャンパスの略称である。秀太も龍望も、他の人間も大抵はみなしごキャンパスのことをそう呼ぶ傾向が高い。

 「みなキャンに? そーだねぇ……行くか。最近遊びに行ってないし、せっかくだからみんなにもハーモニカきかせてやれよ」

 「だったら、せっかくだからタツもギター持ってってよ。どうせハーモニカ吹くなら、たまには合わせてもいいしょ?」

 「俺もやんのかよ、しゃーねえなぁ」

 顔を見合わせて嬉しそうに笑った後、二人は学生寮にみなしごキャンパスに遊びに行くため一旦寮へ帰ろうと、外に向かって工学部キャンパスの中を走り出した。

 

 「荒俣さーん! 入るねー!」

 一度学生寮の自分たちの部屋に寄って学校の荷物を置いた秀太と龍望がやってきたのは、やや工学部キャンパスの敷地よりに位置する、農学部キャンパスの敷地内に建つ建物だった。その入り口部分には、「みなしごキャンパス」と書かれたボードが張りつけてある。

 引き戸を開けた瞬間、建物の中からはリジチョーの鳴く声や他の犬の声にバサバサという羽音、建物の奥の方からは馬の声も聞こえてくる。そして馬以外の鳴き声の主たちがこぞって秀太の周りへと駆け寄ってきた。

 「だー! いつもだけどうるさいな! ったく……」

 そんなことを言う龍望を無視するように、ウェスティとペルシャ猫が龍望を避けるように、秀太の足元にとてとてとやってきて、嬉しそうに鳴いている。そんな二匹に目線を合わせるように秀太はしゃがんで、順番にその頭を撫でてやる。

 「カストルにポル~、二人とも元気そうだね~」

 猫がカストル、ウェスティ――犬の方がポルである。この二匹は元は同じ飼い主に飼われていたがゆえに、種類は違えど、兄妹のように仲が良い。

 「今日は一段とふわふわしてるねー、シャンプーしてもらったのかな?」

 「ほー。どれ、俺も撫でてやろうか?」

 龍望がしゃがんで手を近づけた途端、カストルもポルも素早く二人から離れてしまう。

 「……相変わらずタツ嫌われてるねー」

 「お前が懐かれすぎなんだよ! おかしいだろ、荒俣さんにも懐かない奴らにこんなに懐かれるとか……」

 そんなことを言っている龍望の足元に、いつの間にか一羽の鳩が歩み寄ってきていて、二人が気付いていないうちに龍望の足をつついた。

 「――痛ってぇ! ……お前、ピースゥ!」

 ピースと呼ばれた鳩は、龍望に怒鳴られても慌てる様子も見せずに、しゃがんでいて低くなっていた秀太の膝、それから肩、続いて頭へと跳ねて登っていく。

 「人のこと、おかしいとか言うからピースも怒ったんだよ。ねー」

 ピースに同意を求めるようにそう言うと、意思疎通ができているかのようにピースは小さく喉を鳴らす。

 「なんなんだよ、んっとによー……」

 「それにしても、荒俣さんもリジチョーもいないね」

 「なー。鍵が開いてたってことは……運動場か?」

 このみなしごキャンパス、建物自体は入り口から直結している、ソファやテーブル、動物たちのケージ等が置いてあるコンビニ程の広さがあるフリースペースと、フリースペースとは壁で仕切られている六畳ほどの寝室兼管理人室、同じくフリースペースや管理人室とは仕切られている風呂やトイレ、洗面所などがある部屋から成っており、なぜかフリースペースの奥の方にある台所、その近くにある裏口を出た先には広めの運動場があった。

 「かもしれないね。行ってみようか――」

 秀太がそう言った瞬間、裏口が開き、開いた瞬間にリジチョーが外から勢いよく室内に入ってきて元気よく鳴きながら秀太に飛びつく。

 「うわっ! ……と」

 「リジチョー……なんでお前はもっと大人しく飛び掛かってこれないんだよ?」

 「大人しかったら飛び掛かったりしないだろうがよ!」

 リジチョーの後から室内に入ってきた荒俣が、笑いながら龍望にそんなことを言う。

 「荒俣さん、やっぱり運動場にいたんだ」

 秀太は、リジチョーの相手をしながらホッとしたようにそう言う。

 「ああ。モーターの小屋の掃除をしてたんだけどよ、そしたらお前らの声が聞こえたから中断して戻ってきたんだよ!」

 モーターとは、運動場の中に建てられた馬小屋で飼われている馬のことである。天気が良い日の日中はほとんど運動場で遊んでいて、その間を見て、荒俣は馬小屋の掃除をしていたのだ。

 「しっかしなんだよお前ら、バイトはどうした?」

 「今日は休みだし、あっても居酒屋だから夕方からだよ」

 「ほお? んじゃあ勉強はどうした?」

 「今日の講義は終わったし、試験もまだ先ですよ」

 「ほお! つまりお前ら……」

 「久しぶりに遊びに来たんだよ。タツもギター持ってきてくれたし、よかったらリジチョーだけじゃなくてみんなにもどうかなぁ、って」

 「おお、頼むよ! いやぁ、朝は勢いでリジチョーだけ連れて行っちまって満足してたんだけどよ、改めて考えたら他の奴らに悪いことしたなぁ、って思ってたんだよ! そんじゃあ、モーターを中に入れるわけにゃいかねえから、みんな連れて運動場に出るか! 行くぞリジチョー!」

 言うや否や、荒俣は元気に鳴いて返事をしたリジチョーを連れて運動場に戻っていった。

 「……じゃ、俺も先に外出てるから、みんな連れて来いよな」

 「え、僕一人で……?」

 「だって俺が呼んだって誰も来ねえし。じゃ、おっ先~」

 そう言って、龍望も秀太を置いてさっさと運動場に出ていってしまう。

 「……まあ、確かに名前呼んだらみんな来てくれるからいいけどさぁ……」

 不服そうにそう言って、そっと頭上に手を伸ばす秀太。

 「ピース……は、まだ頭の上だね」

 ピースは秀太に応えるように小さく喉を鳴らし、嫌がることなく彼の手に優しく掴まれる。

 「カストルー! ポルー! 外に出るよー!」

 先ほど龍望を嫌がって距離を取っていたカストルとポルも、秀太に呼ばれて彼の足もとまで再びかけてくる。それを確認し、秀太は頭の上のピースを腕に抱き直してから外へと歩き出した。

 

 裏口を出たところに広がっている動物たちの運動場。そこにはモーターの馬小屋が一棟、物置小屋が一棟、建物に隣接するように置いてあるベンチが一基、建物の外側からみなしごキャンパスの屋上に行ける階段等があり、あとはただ広い土地が金網で囲まれているのみである。

 そんな馬一頭が満足に走り回れるほどに広いスペースがあるというのに、不思議と動物たちはベンチに座った三人の周りでおとなしくしている。そんな中、ギターを構えていた龍望が数回軽く弦を鳴らすと、ハーモニカを持っていた秀太がそれを口元へと運んだ。

 奏でられているのは、「TSUNAGU」――秀太と龍望が、高校生の時に二人で作り、今現在までお互いに大事にしてきている曲。そして、この二人が音楽をやることを知っている人間なら、一度は聞いたことのある二人の代名詞である。

 動物に人間の音楽感覚がわかっているのかなんて誰もわからない。だが、荒俣はもちろん、その場にいる動物みんな、二人の演奏に聴き入っているかのようにずっとおとなしくしていた。

 程なくして、二人は演奏を終えた。

 「はあー……うまくはないが、相変わらずいい演奏だな」

 まるで褒めていないようなその言葉に、秀太も龍望も怒ることもなく逆に嬉しそうな顔をした。

 「あのね……けなすのか褒めるのか、どっちかにしてくださいよ」

 苦笑してそう言う龍望に、荒俣はどこか感慨深そうに言う。

 「いや、うまくはないってぇのは別に下手だと言ってるわけじゃねえ。だけど、金を取れるほどでもねえってことだよ」

 そう言われ、秀太はもっともそうに、

 「そりゃ、趣味でやってるだけだからね」

 と、言う。

 「でもすげえよな。今更だけどお前ら、どこでそんなもん覚えたんだ?」

 不思議がる荒俣に、秀太はまず龍望を見ながら、

 「高校の部活……かな? 僕もタツも、楽器持ってるからって音楽研究会の人に誘われてさ。なんとなく入部して気楽にやってた感じ」

 と、話す。

 「ほお、んじゃあその頃からお前ら楽器持ってたのか。……貧乏の癖に」

 最後の言葉だけ、悪気はないのだろうがなぜか強調されている。

 「貧乏で悪かったですね! ……なんか知らんけど、ガキの頃からずっと家にギターがあって、いらないからってお袋がくれたんですよ。んで……ヒデのハーモニカは、確か親父さんからもらったんだったよな?」

 「そうだよ。お父さんの宝物だったハーモニカだから、僕もお守り代わりにして大事にしてるんだ」

 ハーモニカを見つめてそう話す秀太は、優しい顔をしていた。

 「なるほどな、大事にしてる楽器なら、こいつらが聴きたがる演奏ができても不思議じゃねえや」

 「それ、どーゆう理屈ですか……」

 呆れるように苦笑する龍望に、荒俣はまた豪快に笑う。

 「ははは! 理屈なんて俺もわかんねえよ! ……しかしまあ、今日は久しぶりにいいもん聴かせてもらったよ。なあ、お前ら?」

 そう言って荒俣は動物たちを見渡す。すると各々、賛同するように鳴き始める動物たちの声に、二人ともどこか嬉しそうな顔をした。

 「せっかくバイトも休みだってのに、わざわざ来てくれてホントにありがとな――」

 礼を言いかけて、荒俣は大きく咳き込んでしばらくの間咳が止まらなくなってしまう。

 「大丈夫? ……荒俣さん、風邪でも引いた?」

 「あ、ああ……かもしれねえな。ったく、この歳じゃ風邪もバカにできねえよ」

 心配して背中をさすりながらそう言う秀太に、荒俣は咳を落ち着かせようとしながら言って、咳が落ち着いた頃に立ち上がった。

 「なんだか、だいぶ冷えてきたし、そろそろ戻るか」

 その言葉に、龍望は少し不思議そうな顔をした。対して秀太は何か嫌な予感を覚えたようだったが、無意識のうちに誰にもその事を悟らせまいと、顔に現れたその予感をすぐに呑み込んだ。

 「……そうだね。寒くなる前に入ろうか」

 そう言う秀太をも、龍望は不思議そうに見ていた。

 「じゃあ、悪いがリジチョーたち連れて先に中入っててくれるか? 俺はモーターを小屋に戻してから行くから」

 「うん、わかった」

 「よし、帰るぞモーター」

 秀太の返事を聞いて、荒俣はモーターを引っ張って運動場の隅に設置してある馬小屋へと歩いて行く。

 「さ、みんなも中に入ろっか」

 秀太のその言葉に、まるで言葉が通じあっているかのように動物たちは秀太の足元によってくる。鳩のピースに至っては、運動場に出る前と同じように秀太の頭までわざわざ登っていったくらいである。その光景に、龍望は何か感じるものがあるようである――

 秀太は、相手が人であろうと動物であろうと、その相手がどんなに心を閉ざしていようと、本人にそのような気はなくとも自然と惹きつけ、心を開かせる。だからこそ、荒俣にすら懐きもしない人間不信な動物たちが、まるで人間不信だなんて感じさせないほどに秀太には心を開いている。そんな、才能とも呼べる雰囲気を秀太は持っていて、自分では気づいていない。

 龍望は、秀太と出会った中学生の時から今にかけてずっと、そんな秀太の持つ雰囲気を不思議に感じ、そしてその雰囲気に身を任せている節がある。

 ――人が良いから、誰もが心を許してしまう。だからお人好しなんだよな……

 度々そんなことを思う龍望だったが、こう思った時には、同時に、

 ――そのお人好しに、俺も助けられっぱなしなんだよな……

 と、思わざるを得ない。

 今日も、動物たちと心通わす秀太の姿にそんなことを思っていた龍望だったが、考え事をしている間は歩を止めてしまっていたようで、

 「タツ? ……どうしたのボーっとして。早く入ろう?」

 と、少し先を歩いていた秀太が振り向き、声をかける。

 「……あ、今行くって!」

 秀太の声でハッと我に返り、龍望は慌てて走り出した。

 

 

5――秀太の憂鬱

 

 秀太と龍望がみなしごキャンパスに遊びに行った日の夜のこと。男子学生寮の秀太と龍望の部屋で、二人は寝間着代わりのジャージに着替え、布団を敷き終わり、さあ寝ようと龍望が電灯の紐に手をかけていた。

 「消すぞー」

 「うんー……」

 「んん? どうしたヒデ?」

 先に布団に入っていた秀太の返事に元気がない、どこか悩みでもあるようなことに、長い付き合いの龍望はすぐに気付いた。

 「どうした、って?」

 「これから寝るー、ってやつの返事じゃなかったぞ? んー? なんだよ、暗い顔なんかしちゃってよ」

 電気を消すのをいったん止めて、布団にあぐらをかいて秀太の顔を覗き込む龍望。

 「いや……なんかねぇ」

 そう言って、秀太は上半身を起こした。

 「なんか、変なんだ」

 「変って何が?」

 「それはわかんないけど……でも、何かが変なんだ。落ち着かないって言うかさ……」

 そう語る秀太を見て、龍望もにわかに不安がこみ上げてくる。

 「……いちいちそーいうの気にしてると疲れるぞ」

 わざとそっけなくそう言い放ち、龍望はまた立ち上がって電灯の紐を掴む。

 「……今日、みなキャンに行ってから何か変なんだ」

 「……電気、消すからな」

 秀太の言葉に答える気もなく、龍望は沈んだため息をついてから、相変わらずのそっけない口調のままそう言って、電灯を消した。

 「あそこのことをいちいち気にしてたら……お前、ホントに潰れちまうぞ?」

 どこか冷たげにそう言いながら布団にもぐる龍望。

 「ただでさえ、いつだって自分のことはそっちのけにするくせに……」

 秀太に背を向けて、しかし別に隠す気もなく小さくそう言い放つ龍望に、秀太は何も言わずにその背中を見つめることしかできなかった。

 

 翌日、いつものように午前の講義二つを終え、いつものように秀太と龍望は学生食堂の隅に座って弁当を広げていたのだが……なぜか秀太が浮かない顔をしていた。

 「……ヒデ?」

 「……」

 龍望の呼びかけにも気付かないほど、秀太は何かを考えているようだった。その表情は、昨晩のままのようにどこか暗めである。

 「た~け~み~ざ~と~……秀太くん!!」

 「……ん? ……呼んだ?」

 「呼んだよ、それも二回も! ……ったく、まだ気にしてんのか? 昨日の夜言ってたこと」

 「うん、ちょっとね……」

 そう言って、秀太は持っていた箸をテーブルに置く。

 「あのさ、昨日って寒かった?」

 「は? ……寒いわけねーだろ? もう五月も近いのに」

 「だよね……」

 「……」

 そう言って何か考え込む秀太に、龍望も心配そうな表情をしたものの、あえてそれ以上その話題に触れようとはしなかった。

 

 

6――日常を襲う異変

 

 時刻は十五時になったところ、三時限目終了を知らせるチャイムが響く中、秀太と龍望は珍しくただ隣に並んでいるだけで、会話を交わすことなく玄関に向かって歩いていた。

 「……そんなに気になるなら、今日もみなキャン行ってみるか?」

 先に口を開いたのは龍望である。

 「でも、今日はバイトあるし……」

 「あー……」

 学費以外の生活費の仕送りをもらえない秀太と龍望にとって、バイトは大学生として暮らしていくための大事なモノである。落ち込んだ様子の秀太を心配するあまりみなしごキャンパスに行くことを提案した龍望だったが、現実を見て言葉を飲んでしまった。

 「……でも、バイト行くまでちょっと寄っていいかな?」

 その言葉に、龍望は「やれやれ」と言ったような、しかしどこか安心したような顔をする。

 「最初からそう言えっての。どうせバイトは夕方からだし、一時間くらいなら大丈夫だろ」

 その言葉に、秀太もどことなく表情の暗さが取れたようだった。

 

 工学部キャンパスの玄関付近まで来た時、二人はどこか騒がしい事に気付く。

 「なんだあれ、玄関スゲー人だかりじゃん……これじゃ外出れねーよ」

 怪訝そうにそう言う龍望に、秀太はふと何かに気付く。

 「あ……」

 「ん? どうかしたか?」

 「なんか聞こえない?」

 「いや、なんかっつわれても……」

 「犬の鳴き声、聞こえない?」

 悩みこむ龍望に、秀太はまるで最初から分かっていたように静かにそう言う。

 「犬? ……あ、おいヒデ!!」

 何も言わずに走り出す秀太に、思わず驚いて追いかける龍望。

 「なんなんだよ……あの人、そこまで耳よかったっけ?」

 走りながらもそうぼやく龍望だったが、人だかりに近づくと秀太の言っていた言葉の意味を理解した。そして人だかりをかきわけている秀太に追いつく。

 「おい……これ、もしかして……」

 「もしかしなくたって、この鳴き声――」

 秀太が全部言い終える前に、何かが思い切り秀太に飛びついてくる。

 「うわ!」

 人だかりの向こうから、何か――リジチョーが勢いよく秀太に向かって突っこんできたのだ。

 「リジチョー! ……お前、荒俣さんは?」

 龍望がそう訊き終わる前に、リジチョーは踵を返して外へと走り出した。

 「あ、待ってよリジチョー!」

 そう言うや否や、秀太も反射的にリジチョーを追って走り出し、龍望も秀太を追って走り出した。

 

 「なあ、リジチョーもう見えないんだけどさ、アイツどこ行ったかわかって走ってるのか?」

 犬の足に追いつけるわけもなく、早い段階でリジチョーを見失った二人だが、少なくとも秀太は行く先を定めているかのように走り続けていた。

 「わかってるも何も、リジチョーが行くとこったらあそこしかないって!」

 「あそこ」がどこか、龍望は言われた瞬間に理解していた。

 「……みなしごキャンパスか?」

 「うん……!」

 走りながらお互いの考えを照らし合わせる二人だったが、その時再びリジチョーの声が聞こえた。それと同時に、二人の視界にはみなしごキャンパスの建物が入る。

 「なあ、リジチョーの奴、建物の中から吠えてねーか?!」

 「……玄関のドア開いてるし、たぶんそうだ!」

 そう言うや否や、秀太は迷いもなく玄関へと急ぐ。龍望も何も言わずに彼について行った。

 「荒俣さん!!」

 みなしごキャンパスの中を覗いて、秀太も龍望も驚いた。そこには倒れている荒俣と、そんな荒俣を心配するかのように彼の周りをおろおろしている動物たちがいた。

 「……ん? なんだ、ヒデか……?」

 秀太と龍望の訪問に気付いてかすれた声を出す荒俣だったが、その異常なまでに擦れた声に秀太は慌てて言う。

 「無理して喋らないで……!」

 そう言って、秀太は龍望を見る。

 「タツ、ちょっと荒俣さん見ててくれる? 僕、電話借りて救急車呼んでくるから!」

 「わ、わかった……!」

 龍望の返事を聞くや否や、秀太は管理人室に急いだ。

 

 秀太の早急な対応のおかげで、荒俣は比較的早く病院で診てもらうことができた。秀太は一人、病院の待合室で不安げな表情をしていたが、そんな彼のもとに外来入口の方から龍望が歩いてくる。

 「ヒデー! 荒俣さんの車、持って来たぞ」

 貧乏学生ではあるが、学割と合宿を利用して免許を取れば割安で免許は取れる。カツカツな金銭のやりくりをして、龍望は就職のことを考えて一年生の夏休みに免許を取得していた。

 「あ、ありがとう。ごめんね、面倒掛けさせて」

 「いや、別にいいよ。車一台持って来とけばなんかあってもすぐ戻れるし、お前免許持ってないしさ」

 ちなみに、秀太は免許取得のための費用は念のためにと貯蓄に回し、免許は卒業後に取ろうと考えていた。

 「……でも、荒俣さんの車勝手に借りちゃって怒られないかな?」

 荒俣は秀太が一年生の時からの友人であって、龍望とは秀太がいるからこそ知り合ったようなものである。だから、荒俣の車のことに関しては秀太に言われて持って来ただけであり、そのような不安がよぎった。

 「それは大丈夫だと思うけど……」

 そう言って表情を曇らせる秀太に、龍望も気付いて表情を曇らせる。

 「そっか? ならいいけど。……で? 荒俣さんどうだったって?」

 「まだわかんない。……けど、昨日から変だったし、あんまり良くはないと思う」

 「……なあ、昨日からって言うけどさ、そんな変なことなんてあったか?」

 「こんな時期に寒がるなんておかしいな、って……それにあの咳だって風邪っぽくなかったし」

 「……」

 秀太の話を聞いて、龍望は昼休みにした秀太との会話を思い出した。

 

 ――「あのさ、昨日って寒かった?」

 「は? ……寒いわけねーだろ? もう五月も近いのに」――

 

 ――ヒデのやつ、そんなこと気にしてたんだ……

 こんな時ではあるが、改めて秀太の細かな気遣いを感心する龍望。

 ――なんか変とか言ってたけど、昨日の夜の話……的を得てたってわけかよ……

 と、龍望が人知れずそんなことを思っていた時、誰かを探すようにキョロキョロしながら待合室に入ってくる看護師と秀太の目が合い、看護師は二人のもとへと歩いてきた。

 「あの、あなたたち、荒俣勇志朗さんのお連れさんですよね?」

 「あ、はい……」

 「あの、荒俣さんの病態っていうのかな……やっぱり良くなさそうですか?」

 龍望の質問に、看護師は顔色を曇らせる。

 「ええ……ご家族にもお話した方がいい状況で……なので荒俣さんのご家族の方と連絡を取ってほしいのですが、荒俣さん、管理されてる施設のメモを見ないと電話番号を思い出せないとおっしゃっていたので……それで、連れに頼んでくれって言われまして」

 少し言いにくそうにそう言う看護師の話に、龍望は不思議そうに

 「家族の連絡先覚えてないって……荒俣さんって家族と仲悪いのか?」

 と秀太に訊くが、秀太は苦笑して

 「いや、仲は悪くないみたいなんだけど……「便りが無いのがいい便り主義」な人だから、滅多に娘さん夫婦と連絡取らないんだって」

 と説明する。

 「なんつういい加減な……」

 呆れる龍望に相変わらずの苦笑で返し、秀太は看護師を見て、

 「えっと……家族の連絡先でしたよね、今取って来るんで、ちょっと時間もらって大丈夫です?」

 と、話を戻す。

 「あ、はい! お願いします」

 「って、ちょっとまでヒデ。お前、そのメモの場所とかわかってんのか?」

 「場所って、みなキャンにあるんでしょ?」

 「じゃなくて! みなキャンのどこにあるのかって話だよ!」

 「……。さあ?」

 「さあ、ってお前……」

 「探せば何とかなるって」

 楽観的なその言葉、そして今に始まったことではない秀太の「何とかなる」思想に、龍望は諦めたように立ちあがる。

 「ったく……だったら、車出してやるからさっさと行くぞ?」

 「うん」

 二人は立ち上がり、駐車場へと向かった。

 

 「ヒデ?」

 AAE(大学)に向かう車を運転しながら、ふと秀太に声をかけた龍望だったが答えはない。気になってちらりと横を見ると、どこか落ち込んだ様子の秀太がいた。

 「あのよ……考え事し出したら俺のこと無視するの、やめろよな」

 「あ、ごめん。……無視してるつもりはないんだけど」

 その言葉が本当であることを知っているがゆえに、龍望は悪いことを言ってしまったと言わんばかりに話題を変える。

 「……家族に連絡取るっていやぁ、それなりにヤバかったんだろうかね」

 「だろうね。……そうじゃなきゃ嬉しいんだけど」

 そう言ってうつむく秀太。

 「……動物の世話で無理しすぎなんだよ。もっと自分のことも考えないとダメなのに」

 そうつぶやく秀太を龍望はちらりと横目で見て、呆れたように言う。

 「あのなぁ……自分のことは棚に上げて、何言ってんだよ」

 「え?」

 「……なんでもねーよ」

 相変わらずの呆れたような口調でそう言って、

 ――自分のことはそっちのけのお人好しはどこのどいつだっての。

 自分の発言でこれ以上秀太を困らせるわけにもいかないと思い、そんなことを思いつつもそれ以上会話を続けようとはしない龍望だったが、この男のお人好しに底辺があるのかどうか、不安になっていたのも確かだった。

「TSUNAGU」演奏ver. -
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7――みなしごキャンパスを知る人

 大学の敷地内まで車を走らせた龍望は、荒俣の車をみなしごキャンパスの車庫に持って行こうとしていた。と、その時だった。

 「うわ!!」

 急ブレーキを踏んで車を止める龍望。車の前に切羽詰まった様子のリジチョーが飛び出してきたからだった。リジチョーは車を止めようとしきりに吠えてくる。

 「危ねえな……って、リジチョー?! なんでこんなとこにいるんだよ?」

 「あ……そういや、バタバタしてて玄関閉めるの忘れてた気がする」

 「あ……」

 「でも、それにしたってホント、どうしてこんなとこに……――って!」

そんな話をしている中、リジチョーはピタリと鳴き止み、踵を返してみなしごキャンパスの方へ走り出す。

 「行っちまった……」

 「なんかあったのかもしれない……早く戻ろう?」

 「あ、ああ……」

 リジチョーを追うように、龍望は急いで再び車を走らせた。

 

 みなしごキャンパスの車庫まで車を運び、秀太と龍望が外に出ようとドアを開けた時だった。金網にぶつかるような音とリジチョーの吠える声を二人は聞いた。

 「これ、金網の音じゃねえか……? それにリジチョーもまた吠えてるし……」

 「金網ってことは……運動場だよね?」

 「しかないだろうな」

 「モーターもきっと運動場に出っ放しだろうし……もしかしたら、モーターになんかあったのかもしれない……リジチョーもそのことを伝えようとして飛び出してきたのかも?」

 「だったらやべぇじゃん……」

 そう言って二人は冷や汗交じりに顔を見合い、急いで金網の外伝いに運動場に向かった。

 

 運動場が視野に入るところまでやってきた二人は、金網の向こうの様子に驚きを隠せなかった。運動場には、不規則に走っては金網や馬小屋に体をぶつけるモーターがいた。そんな中リジチョーは、まるでモーターを止めようとするかのように金網の外から中に向かって吠え続けていたが、二人の姿を見て困ったような声で鳴きながら秀太のもとに駆け寄る。

 「モーターの奴、なんで金網にぶつかってんだよ……!」

 「運動場に行ける裏口が開きっ放しだったから、荒俣さんが倒れたのが見えたんだ……それでパニックになったんだよ、きっと……」

 心配そうにそう言って、秀太はリジチョーを見る。

 「リジチョー、この事を伝えに来てくれたんだね……」

 どうにも困ったような声をあげて秀太を見上げるリジチョー。そんなリジチョーを秀太が撫でてなだめている間、龍望はモーターに呼びかけていた。

 「おい、落ち着けモーター! ……モーター!!」

 だが、モーターは興奮しているせいか、龍望の呼びかけが聞こえていないようだった。

 「ダメだ、アイツ止まんねぇよ……」

 「とにかく、裏口からじゃないと運動場に行けないし、他の子たちも心配だから一回中に入ろう?!」

 「あ、ああ!」

 秀太の提案で二人が玄関に向かおうと振り向いた時、玄関の方から歩いてきている白衣を着た男性が声をかけてきた。

 「お前たち、うちの学生か?」

 男性に対して、不思議とリジチョーは吠えることはなかった。

 「うちって……俺たち、ここの工学部の学生ですけど」

 「工学部? 工学部の学生がここに何の用だ?」

 「何の用って、そっちこそここに何の用ですか?」

 どこか威圧感のある男性の話に、苛立ちを感じてケンカ腰になる龍望だったが、男性は呆れたように一息ついて言う。

 「ここの近くを通った学生から、馬が暴れていると聞いて来てみたんだ」

 「じゃあ、もしかして荒俣さんの知り合い?」

 もしかして、と言う言葉通りに探り探りにそう訊く秀太に、男性は相変わらずの呆れた様子で

 「知り合い? ……そりゃ知り合いだろうさ。私も荒俣のジジイも大学の関係者だからな」

 と、答える。

 「関係者? ……ってえと、あんた事務員かなんか?」

 今度は龍望が訪ねる。

 「事務員? そりゃジジイの方だろうが」

 「は? 荒俣さんはここの管理人でしょ?」

 男性に未だケンカ腰の龍望に、秀太が少し困ったようになだめるように言う。

 「えっとね……荒俣さん、もとは大学の事務員だったんだ。それで定年退職した年に人を怖がってた犬を数匹引き受けることになって、それで昔農学部が使ってた研究棟を改装して、みなしごキャンパスの管理人になったんだよ」

 場違いではあるも、龍望は納得している。

 「そうなんだ……ってか、そんなこと今はどーでもいいよ!」

 「いや、そうなんだけどさぁ……」

 理不尽に怒られても、秀太は苦笑するだけである。

 「で、あんたは結局何なんですか? 大学の関係者とか言ってましたけど……」

 龍望の質問に、男性は呆れた様子で、

 「農学部の教授だよ。ここは農学部の所有施設だからな、お前たち工学部の学生よりもずっとこことは関係が――」

 教授を名乗る男性が話している最中、秀太は意を決したように建物に入ろうと歩き出す。

 「って、おい! お前、何勝手に中に入ろうとしてるんだ?!」

 「ごめん、ちょっと急いでるから」

 珍しく、どこか迷惑そうな顔でそう言う秀太に、教授は怪訝そうに言う。

 「だからと言って、話の途中で中に入ろうとするやつがあるか! 第一、お前たちこそ荒俣とどんな関係なんだ?」

 そう言われて、秀太と龍望はお互いに顔を見合す。

 「どんな関係ってぇと……」

 「友達、って感じで間違ってないよね?」

 「まあ、間違ってはねえわな」

 二人で会話を進める秀太と龍望に、教授はどこか怪訝そうにも少しだけ納得したように

 「知り合いではあるんだな」

 と確認してくる。

 「そりゃあ……倒れてた荒俣さん見つけて救急車呼んだのも俺らだし……」

 「救急車……? 荒俣のやつ、倒れてたのか?」

 「僕たちもまだ詳しくは症状について聞いてないけど、さっき病院で荒俣さんの家族に連絡を取ってほしいって看護師さんに言われて、それで家族の連絡先が書いてあるメモを取りに来たんです」

 「そんで勝手にだけど借りてた車を車庫に戻して車から降りたら、金網の音が聞こえたから慌てて――」

 と、その時。モーターがけたたましいいななきをあげた。

 「そうだ、モーター止めに行かないと!!」

 そう言って、秀太は慌てて玄関に走る。それに続く龍望。そんな二人を見て、教授も二人にこそ見せないが、バツの悪そうな表情をして二人に静かに続いた。

 

 

8――お人好しの所以(ゆえん)

 

 玄関から中に入ると、フリースペースのいたるところに羽や毛が散っていて、棚やテーブルの上の物が散乱し、ケージもいくつか倒れているとう状況だった。

 「うわ、なんだよこれ……」

 「荒俣が倒れて、さらに救急車のサイレンなんてけたたましい騒音を聞いてパニックになったんじゃないのか?」

 「マジかよ……」

 「しかし、部屋を荒らした張本人たちが見当たらないな……」

 荒れたフリースペースを見てそう言いあう龍望や教授を余所に、秀太が建物内に進んでいく。

 「おい、ヒデ……」

 思わず声をかける龍望だったが、秀太はそっと膝をついて、

 「おいで、ピース」

 と、鳩のピースの名を呼んだ。

 ……秀太がピースの名を呼んで、一分も経っていないだろう。

 ピースが、まるで何もなかったかのように棚の後ろからひょこひょこと歩き出てきて、秀太の膝に乗り、差し出された腕に乗った。

 「ピース……」

 改めて見れば、今の落ち着きが嘘のように、まるで喧嘩でもしたかのように羽がところどころ抜けている。

 「羽、抜けるくらい慌てて怖かったよね? 僕も、荒俣さんが倒れてるの見てびっくりしたよ。……でも大丈夫だよ、ちゃんと荒俣さん病院に連れて行ったから」

 言い聞かせるように、優しくピースに話しかける秀太。ピースが落ち着いている様子を見て、秀太はホッとしたような顔をして、

 「タツ、悪いけどピースのケージ戻してもらっていい?」

 と、龍望に、倒れているピースのケージを直すように頼む。

 「あ、ああ。いいよ」

 言いながらケージを立て、その戸を開ける龍望。

 「ちょっと早いけど、今日はケージに戻ろうね。物が落ちてきたりしたら危ないからね」

 秀太に言われ、ピースはまるで人の言葉を理解しているかのように自らケージに入る。

 「ほう……」

 未だ玄関近くに立っている教授が、小さく感嘆の声をあげている。

 「よし、次はカストルとポルだな?」

 そう言って、秀太はソファの下を覗く。

 「やっぱり、ここにいたねー」

 その瞬間、秀太の顔を見てホッとしたのか、ソファの下からカストルとポルが飛び出してきてかがんでいる秀太に撫でてくれ、抱いてくれと催促を始めた。

 「よーしよしよし……カストルたちも毛が抜けちゃったね……でも、怪我はしてないかな? うん、大丈夫だね、よかった……」

 カストルとポルを同時に撫でながら、怪我がないかを確認して安心する秀太。と、そんな秀太を見ながら、龍望が自主的にカストルとポルのケージを戻す。

 「あ、ありがとタツ。それじゃあ二人も今日はもう戻ろうね? 荒俣さん、きっとすぐ帰ってくるからね」

 そう言いながら、秀太はカストルとポルをケージに戻す。動物ですらも、無意識に人と同じように一人、二人と数える秀太だからこそ、言葉の通じない動物たちに信頼されるのかもしれない。

 そんな秀太のもとに、教授が歩み寄る。

 「なんだ、お前随分動物の扱いに慣れてるな。ペットでも飼ってるのか?」

 「ううん、ペットは飼ってないよ。ここの動物たちとたまに遊ぶくらい」

 「よくもまあ、そんな状況でここの動物を扱えるな……荒俣だって毎日世話をしてやっていても手を焼いているんだぞ?」

 「みたいだねぇ。……僕も、なんでみんな懐いてくれるのかはよくわかんないんだけどさ――」

 その時、またモーターのいななきが聞こえる。

 「とりあえず、モーターもなんとかしてあげないと」

 「おい……犬猫ならまだしも、興奮した馬に手を出したら最悪死ぬかもしれないぞ?」

 あくまで冷淡にそう言う教授だったが、秀太は嫌な顔もせずに言う。

 「じゃあ、最悪じゃない場合を願っといてよ。…大丈夫、きっとうまくやれるから」

 そう言って、秀太は裏口に向かう。

 「あ、待てよ俺も行く!」

 龍望も秀太に続く。裏口から運動場に出た二人を見て、教授も面倒くさそうに運動場へと向かった。

 運動場では、外から見た時と同様にモーターが走り回っては時折金網に体をぶつけ、見るからにパニックになっている様子だった。

 「で、あの暴れ馬をどうやって落ち着かせるんだ? ……中の動物たちとはわけが違うぞ」

 「そんなこと言ってないで、農学部の教授ならなんとかしてやってくださいよ! 素人があんなモーターに近づいたら、マジで危ねぇよ……」

 「そうは言うけどな、あれをどうにかするとなると麻酔をかけるくらいしか方法はないが、そんなもの今持ち歩いているわけでもないし、そもそも、あまり麻酔なんて使うべきものではない」

 「じゃあ、どうすればいいんだよ……」

 教授と龍望が言い合っている中、秀太は暴れるモーターのもとへと歩み出していた。

 「って、おいヒデ! 何の準備もなしに近付いたら危ねえぞ!」

 「でも、ここで突っ立ってたってどうにもならないし……」

 「それじゃあ、どうやってあの暴れ馬を止めるつもりなんだ?」

 龍望とは反対に、教授は落ち着いている。

 「どうやって、か……ん~、まあ適当に。とりあえずなんかあったらよろしく」

 「よろしくって、お前なぁ……」

 呆れる教授も気にせずに再びモーターの傍へと静かに歩み寄る秀太を、龍望も教授も止めなかった。

 「……モーター!!」

 走り回るモーターの名をできるだけ大きな声で呼ぶ秀太。運動場の金網の向こうからモーターを呼ぶ龍望の声など聞きもしなかったモーターが、秀太の呼びかけにピクリと耳を動かし、次第に動きを止めていく。

 「反応した……馬なんて犬のように人に懐く生き物ではないんだが……」

 そんなことを言いながら秀太とモーターを見守る教授を気にもせず、秀太はほぼ歩を止めたモーターの首に、優しく腕を回して抱きしめる。

 「大丈夫……大丈夫だよ……荒俣さん、ちゃんと病院行ったからね、きっと良くなって帰ってくるからね」

 秀太の声、秀太の言葉に、モーターは完全に平常心を取り戻したようだった。

 「わかるよね、荒俣さんに何かあったんだって……お前は敏感だから、見てなくてもわかるもんね……でもさ、お前が怪我なんかしたら、荒俣さん悲しむよ?」

 その言葉に、モーターはまるで申し訳なさそうに小さくブルルと息を鳴らす。

 「怪我は……ないね。よかった……」

 安心しながらモーターの顔を見る秀太を、モーターも先ほどの様子が嘘のように穏やかな顔で見つめていた。

 「お前、本当に何なんだ……室内の様子からしても、あんなに興奮していた動物たちをすべて落ち着かせるなんて、普通の人間には到底できんぞ」

 秀太の背中に向かってそう言う教授に、秀太はモーターの顔を撫でてあげながら考える。

 「んー…何なんだって言われてもな……」

 その返答に困るような釧介を見て、龍望がボソッと言う。

 「お人好しだからなぁ……」

 「ん?」

 教授が、ふいを突かれたように龍望を見る。龍望は、なぜか懐かしげな眼差しで秀太を見ながら、

 「アイツ、底抜けのお人好しだから。とにかく人が良いから、損得勘定なんて関係なしに動ける。本当に相手のことだけを考えて動いてるんだってことは、どんなに心を閉ざした相手にだろうと伝わるから。だから、人も動物も、アイツに自然と惹かれちまうんですよ」

 「だからと言って、人間不信の動物たちがここまで懐くなんてバカな話があるわけ――」

 「あるんだよ。……俺だって未だに信じがたいって思う時もあるけど」

 何かを思う出すようにそう話し、龍望は教授の反応も待たずに秀太の近くへと歩み寄る。

 「でもよヒデ、真面目にさ、蹴られたりぶつかられたりしたらどうするつもりだったんだよ?」

 「んー、どうだろうね」

 小さくも笑ってそう言う秀太に、龍望は一気に呆れる。

 「どうだろうね、じゃねえよ。ったく……ほら、モーター小屋に戻して、さっさと荒俣さんの家族の連絡先探すぞ?」

 「あ、そうだった」

 「……」

 思い出したかのようにそう言う秀太に、龍望はもはや脱帽してうなだれる。と、そこに教授も思い出したように言う。

 「そう言えばお前たち、さっきそんなこと言ってたな。なんなら荒俣のいる病院を教えてくれれば、私が連絡先を教えに行くぞ」

 その言葉に、二人は小さくも驚く。

 「え、ホントですか?」

 「ってことは荒俣さんの家族の連絡先知ってるの?」

 「管理人室のデスクの裏にメモ帳が貼ってあるはずだからな。……私も荒俣の状況を知っておきたいし、お前たちもそろそろ帰って休んだ方がいい。で、病院はどこだ?」

 「……あきる野市立総合病院。とりあえず内科にかかったから、内科の受付に行って荒俣さんの連れの代わりだって言ったら大丈夫だと思うけど……」

 「市立の内科だな」

その問いに何も答えなずに心配そうな顔をしている秀太を見て、教授はその心境を察する。

 「それと……お前たちの連絡先も訊いておく」

 「え?」

 「医者やジジイがいいと言ったらの話だが、あとで病院での話を教えてやる。……が、お前たちの連絡先を知らなければそれもできないだろう?」

 「だったら男子学生寮に連絡入れてください。たぶん取り次いでもらえると思うんで」

 「なんだったら直接来てもらってもいいけど」

 あっけらかんと、そう言う龍望と秀太。

 「寮って……そんな面倒くさいことしなくても携帯の番号を教えてくれば早いだろ」

 その言葉に、二人とも痛いところを突かれたような顔をしてお互いの顔を見、それから教授を見る。

 「いや……その、携帯持ってないんだ、僕たち……」

 「はあ?」

 「だから! 持ってないんです!! ……俺ん家もヒデん家も学費以外は仕送りないんです、貧乏なんです、必要最低限のもの以外は買えないんです、悪いですか!!」

 ムキになりつつ、どこか恥ずかしそうにそう言う龍望に、教授は呆然として言う。

 「そうか……」

 「そういうことだからさ、荒俣さんのことは寮まで伝えに来てもらっていいかな? 面倒かけちゃうけど……」

 「今日はこれから、二人でずっと寮にいますんで」

 「あ、でもバイトどうする?」

 「あー……忘れてた……」

 「……中途半端に行くのもかえって迷惑だろうし、連絡入れて休むか」

 仕方なさそうにも優しくそう言う秀太に、龍望も妥協するように言う。

 「そうだな……一日くらい、給料減っても大丈夫だろ」

 それから、龍望は教授に言う。

 「じゃあ、そういうことなんで連絡の方お願いしますね」

 「ああ」

 一言答えて、すぐに教授は慌てる。

 「……って、ちょっと待て! お前らの名前も教えてくれないと、寮に連絡入れるにしても誰に取り次いでもらえばいいかわからないだろう?」

 「あ、ごめん。……僕は武見里秀太で、こっちは天利龍望くん。部屋は二〇八だよ」

 「二〇八の武見里に天利だな。わかったよ」

 「で、教授さんはなんていうんですか?」

 「獣医学科、応用臨床学講座の釧介(せんかい)だ」

 教授――釧介清助(きよすけ)の自己紹介を聞いて、秀太は嬉しそうに小さく笑う。

 「じゃあ釧介教授、連絡の方よろしくね」

 「ああ、わかった。……ここの鍵は私が閉めとくから、お前らもさっさと寮に戻れ」

 そう言って、釧介、秀太と龍望の三人はみなしごキャンパスを後にした。

 

 

9――診断と、その後の危惧

 

 その日の夜、秀太はまるで誰とも話したくないといった様子で枕を抱えるようにうつぶせに横になっていた。

 「おい、電気消すぞ?」

 「うん……」

 体勢のせいで声がくぐもっているだけではない。気分が沈んでいるから声のトーンが落ちているのだと、龍望にはすぐにわかった。

 「心配したってなんにもならねーぞ?」

 電気を消そうと立ち上がっていた龍望は、布団に胡坐をかいてそう言った。

 「そうだけどさ……」

 「……」

 秀太の言葉に、龍望は病院から帰ってきた釧介の話を思い出す。

 

 ――約束通り病院での話を聞かせるために、釧介は寮の玄関で秀太と龍望に会っていた。

 「肺炎……?」

 釧介から聞いた話に、暗い表情で秀太が聞き返す。

 「ああ。まだ軽い方らしいがあれで結構な歳だからな、しばらく療養が必要らしい」

 「療養って、入院ってことですか?」

 今度は龍望が訊く。

 「ああ。ここには当分は戻ってこれないだろうな」

 「戻ってくれないって……じゃあ、みなしごキャンパスはどうなるのかな……」

 「……。みなしごキャンパスは農学部所有の施設だ、どうするかを決めるのは私ではない」

 その口調は、冷淡とした中にもどこか表情を殺しているような雰囲気があった。龍望は気付かずとも、秀太はどことなくその口調に気付いたようだったが、何も言わずに釧介の話を聞いている。

 「どうするかってのは……?」

 秀太が気を落とし始めていることに気付いていて、あえて龍望が口を開いた。

 「存続か廃止か……今から大学に戻って話を出せば、明日には会議が開かれる。そうなれば、明日の放課後には結論も出るだろう。……どっちにしたってここがどうなるかなど、工学部の学生の知るところじゃないがな」

 そう言って、釧介は反論は聞かんとでも言うようにさっさと寮を後にした――

 

 「もしもだよ、もしもみなしごキャンパスが管理人不在で廃止になったりしたら――」

 「あのな……なんでそーいうマイナスなことばっか考えるんだよ?」

 秀太の言葉を遮る龍望は、どこかイラついているようだった。

 「……ごめん」

 枕から顔をあげて謝る秀太を、龍望はバツ悪そうに見る。

 「とにかく今日はもう寝よう? ……いろいろありすぎて疲れた」

 「うん……おやすみ……」

 再び枕に顔を押し付けるようにうつぶせになり、ぶっきらぼうにそう言う秀太を見て、龍望はやりきれない顔で立ち上がって電灯の紐を引いた。

 「……おやすみ」

 いつも、龍望を支えてくれる秀太。そんな彼が弱った時に力になれない悔しさを悟られぬよう、それ以上は言葉を交わさず、龍望は目をつぶった。

 

 次の日の放課後、秀太と龍望の二人はみなしごキャンパスに来ていた。二人……というよりも秀太の気配を感じてかリジチョーは中ですでに騒ぎ始めている。

 「非常時とは言え、まさか三日連続でここに来るなんてなぁ……」

 「……」

 わざとらしく秀太とは顔を合わせずそう言う龍望。だが秀太が何も言わないことに少々焦り、慌てて彼の方を向く。

 「あ、あのさ……冗談だからな? ……別に来るのイヤとかそーいうわけじゃ――」

 「なに一人で慌ててんの?」

あっさりと小さくも笑ってそう言い放つ秀太に、龍望は呆気にとられる。

 「あ、いや……別に……」

 「いつも僕の用事に付き合ってくれてありがとね」

 いつもの優しい笑顔でそう言われ、龍望は調子が狂ったように顔を逸らす。

 「いや……それは、その……俺が勝手にヒデについて歩いてるだけだし……俺の用事にもいつも付き合ってもらってるし……」

 そう言って、龍望は何かに気付いたかのように秀太をバッとみる。

 「てか! ……来たのはいいけど、どうやって中に入るんだ? 釧介って言ったっけ? あの教授、昨日鍵閉めてたけど……」

 「鍵は持ってきたよ」

 「へ……?」

 意味が解らないとでも言いたげな龍望に、秀太はいたずらっぽく笑う。

 「荒俣さんからここの合鍵借りてるんだ」

 「合鍵って……どんだけ仲いいんだよ」

 半ば呆れ気味にそう言う龍望だったが、秀太は特に気にすることもなくしみじみという。

 「なんだかなぁ、こーいう時の事を考えて貸してくれたのかなって、今になってそんな気がしてきた。……とにかく入ろっか。みんな騒いでるし」

 それから二人は合鍵を使ってみなしごキャンパスの中に入る。

 中に入ると、言うまでもなくリジチョーが秀太めがけて飛びついてくるが、不意さえ突かれなければ秀太もちゃんと受けとめられる。

 「おっと……元気そうだね、リジチョー」

 「元気そうなのはいいけどよ……今更だけどヒデ、なんでここに来たんだ? 来たいって言うからついてきちゃったけどさぁ……」

 「いや……なんでって言われてもなぁ……」

 そう言いながら、秀太はソファの上でくつろいでいるカストルと、その近くで同じくくつろいでいるポルのもとまで歩き、カストルの喉を撫でてやる。

 「荒俣さん帰ってこなくても、みんな大丈夫かなって思ってさ……」

 「……そういえばリジチョーがヒデを見て騒ぐのはいつものことだから置いといて、みんな今日は落ち着いてるな。昨日はあんなに興奮してたみたいなのに……」

 「頑張ってるんじゃないかな……不安だけど、騒いでる場合じゃないってわかっててさ……」

 「だとしたら、相当強いな……」

 「そりゃ強いさ。ここの動物たちはみんな、一度は人間のせいで傷ついて、でも今はその傷を乗り越えて生きているんだ、弱いはずがない……」

 そう言って、秀太は二年前のことを思い出す――

 

 

10――荒俣との縁

 

 今から二年前、秀太が一年生の頃のことである。

 「え、カストルとポルって荒俣さんが飼ってるんじゃないの?」

 入学してすぐの頃、迷子になっていたリジチョーを荒俣のもとに連れて行ったことをきっかけにみなしごキャンパスにたまに遊びに行くようになっていた秀太は、その日も講義が終わった後、バイトに行くまでの時間をみなしごキャンパスで過ごそうと遊びに来ていた。

 「なんつーかなぁ……正式に俺が飼ってるのはリジチョーだけよ。……そういや話してなかったな、ここがどんな施設なのか」

 「そういや、遊びには来るけどどういうところかは訊いたことなかった……」

 今更そのことに気付いた二人は、お互いに気まずそうな顔をする。

 「あー……ここはな、人間のせいで傷ついて人間不信になっちまって、普通の飼い主の手には負えなくなった……そんな動物たちのためにと思って俺が作った施設なんだよ。今はカストルとポルだけだがな、去年まではウサギとニワトリが一羽ずつ居たし、みなしごキャンパスを作った時にはポルみてぇに人を極端に怖がる犬が三匹もいたんだ。他にもヤギがいたこともあったし、アヒルがいた時期もあったな……ま、みんな寿命やら病気やらで死んじまったけどよ」

 「そうなんだ。……じゃあさ、ここに来る動物はみんな人間が嫌いってこと? ……この子たちはそんなに人を嫌ってるって感じはしないけど……」

 「「嫌い」っつうか、「怖い」の方が近けぇかな。……ま、お前は特別動物に懐かれやすい体質だから、普通に近寄ってくるのかもしれないがな」

 「そうかな? ……でもすごいね、そんな動物をそんなにたくさん引き取るなんて」

 「すごいのはリジチョーさ。あのワン公と遊んで動物同士仲良くなるだろ? するとだな、懐くってまではいかなくても、俺もあのワン公と仲のいい人間って認識をされるんだろうな、それで世話させてくれるようになるのよ。でも、本当に最初はひどかっだんだぞ? 例えば……今ここにいるカストルとポル。こいつらは二匹一緒に飼われてたんだがな、飼い主に新しくできた恋人が大の動物嫌いで、二匹を飼ってることがバレて破局したんだと。で、その腹いせに、二匹とも飼い主から理不尽な暴力を受けて大怪我をしたせいで人間を恐れるようになっちまった。カストルは近づくだけで唸りだしたし、ポルはいつだって俺から逃げようとする」

 「そりゃ、人も怖くなるね……」

 「ああ。その元の飼い主のいとこがうちの大学の学生でな、本当に偶然だったんだろうが、二匹が大怪我したまさにその時、元の飼い主の部屋に用があって来たんだと。それで二匹を見て急いで大学の付属動物病院に連れ込んだ。で、俺も大学の関係者だからな、二匹が入院している時に治療するのにも一苦労だって話が聞こえてきて、やりきれなくなって引き取ることにしたってわけよ」

 「……だけどさ、カストルもポルも、今だったら人間不信だったなんてわからないくらい、荒俣さんのこと信頼してるんじゃないかな」

 「信頼してくれてたら嬉しいんだけどな……まあ、世話をさせてくれるってことは、心を許してくれたってのは確かだろうがな。ただ、まあ……唸りこそしなくなっても、未だにお前がしてるように、頭とか撫でさせてくれねえのは寂しいけどよ……」

 心の底から感心する秀太に、荒俣もどこか嬉しそうである。

 「それでも、お世話をさせてくれるってことは怖くないんだよ、きっと。虐待を受けたような動物たちが今は人を怖がったりしないで生活できるなんて、荒俣さんもみんなもすごく頑張ったんだね」

 そう言う秀太に、荒俣はどこか苦笑気味になる。

 「とは言っても、こいつらが怖がらないのは、俺とお前くらいだけどな」

 「荒俣さんと僕だけ?」

 「さっきも言ったろ? お前は特別だって。……ここにゃあ、たまに動物好きな学生も遊びに来るんだがな、みんなさっき話したような態度しか取ってもらえねえのよ。カストルは威嚇しっぱなしでひどい時は引っ掻かれたり噛まれて怪我する奴も出るし、ポルは学生たちから逃げ回る。追いかけようとすりゃ、今度は兄貴分のカストルが怒るしな」

 そこまで言って、荒俣はまじまじと秀太を見る。

 「正直よ、お前が初めてここに遊びに来た時は驚いたよ。……初めて会ってこいつらが怖がんない奴なんて今まで誰もいなかったし、怖がられないだけじゃねえ。お前はすぐさまこいつらに好かれた。毎日世話をしている俺にすら懐かないこいつらにだぞ」

 「ホント、なんでみんな僕のこと嫌がらないんだろうね?」

 「そりゃお前……おひと――」

 そう言いかけて、荒俣はなぜか言葉を飲む。

 「……? 何?」

 「いや……なんでもねえよ!」

 そう言って荒俣は勢いよく秀太の背中を叩く。

 「痛った!!」

 「バッカ、これくらいで痛がってんじゃねえよ!」

 「いや、痛いって……」

 そう言いつつも、秀太はどこか荒俣を尊敬しているような顔をしていた。

 

 また、秀太が一年生だった年の、違う日のことである。

 「お邪魔しまーす」

 いつものように、講義が終わりバイトがないこの日、秀太はみなしごキャンパスに遊びに来ていた。

 「お、講義お疲れさん」

 そう言う荒俣が秀太に気付くまでに見ていたのは、マジックショーでよく見るような鳩が止まっている、腰くらいの高さの止まり木だった。

 「あれ、その鳩どうしたの?」

 「こいつか? ここの新入りだよ。さっき俺の知り合いが連れてきやがったんだ。……そうだ、お前ちょっと抱いてみろよ?」

 「抱くのはいいけど……でもその子も訳ありじゃないの……?」

 「まあ、訳ありだわな。じゃねえとこんなとこにゃあ来ねえよ。こいつは知り合いの兄貴の鳩だったんだがな、その兄貴ってのがマジシャンやっててよ、ちょっとした指示違いでこいつを舞台照明にぶつけちまったんだと。しかも、その後に自分のミスを棚に上げた主人にこっぴどく叱られたせいか、それからは飛ぶこともできねえし、指示も何にも聞かなくなっちまってな。それで処分する、なんて話になっちまって、その話を聞いた弟……さっき話した俺の知り合いがここに連れて来たってわけなんだけどよ……まあとにかく抱いてみろって! つつかれたら消毒くらいしてやるからよ」

 「つつかれるのは別にいいけどさ……」

 そう言いつつも、秀太は鳩の前まで歩み寄る。

 「怖がらせたら悪いじゃん……」

 心配しながら手を出した秀太に、鳩は迷うこともなく抱かれに行く。

 「自分から抱かれに来たぞ? ったく、何が怖がらせるだ、やっぱおかしなやつだよお前」

 「おかしなやつは心外だな……あのさ、この子なんていうの?」

 「名前か? ……名前らしい名前はまだねえよ。元の飼い主は、マジックに使う鳩には一号、二号って感じの名前しか付けてなくって、そいつは八号だったんだと。そういや、引き取る時に名前を付け直してもいいんじゃないかとか言われたな……」

 そこまで言って、荒俣は思いついたように言う。

 「そうだ、初対面でもずいぶん気に入られたみたいだし、お前が名前つけてやってくれよ」

 「僕が? 別にいいけど……」

 そう言って鳩と目を合わせる秀太に、鳩も愛おしそうに一鳴きする。

 「そうだな……君は鳩だもんね……」

 それから秀太は荒俣に、

 「あのさ、ちょっと単純な名前でもいい?」

 と、訊く。

 「ああ、構わねえよ。お前がいいと思った名前を付けてやれ」

 「じゃあ……ピース。君の名前はピース!」

 その言葉に、まるで人の言葉を理解しているかのようにピースと名付けられた鳩は嬉しそうに鳴いた。

 「なるほどな、鳩は平和の象徴っつうからピースってか?」

 「そんな感じ。こんな名前でいいと思う?」

 「そんなもん、俺じゃなくてそいつに訊けよ。……ま、心なしかすごく嬉しそうに見えるし、喜んでんじゃねえか?」

 「だといいけどさ。……早くここに馴染んでくれればいいね」

 「おうよ」

 

 それから年度が替わり、秀太は二年生になり、龍望が入学した年のことである。

 「お邪魔しまーす」

 「入りますよー?」

 みなしごキャンパスの玄関口でそう声をかける秀太と龍望。秀太が大学生、龍望が高校生だった一年はともかく、お互いに中学生、高校生だった頃から行動を共にすることが多かったこの二人である。秀太に紹介され、龍望も秀太と共にみなしごキャンパスに遊びに来るようになっていた。

 「なんだよ、せっかく遊びに来たのにいないじゃん……」

 「おっかしいなぁ……今日は別に出掛けるとか聞いてないけど……」

 と、その時。裏口の戸が開いて荒俣がやってくる。

 「お、なんだお前らか。遊びに来てくれたのか?」

 「ええ、今日は暇だったんで」

 「そういや運動場で何してたの? ……みんな中にいるけど」

 「ああ、ちょっとな……そうだ、お前らちょっと外出てみろよ!」

 「……?」

 荒俣にそう言われ、二人は不思議そうに顔を見合わせてから荒俣について行った。

 「ほら、あれ見ろよ!」

 そう言ってドアを開けて運動場を見せるように脇によった荒俣。秀太と龍望が見たのは、運動場に佇む一頭の馬だった。

 「馬だ……」

 「馬ぁ?!」

 驚く二人をよそに、荒俣は馬のもとへと歩いて行く。

 「先週からここで世話することになった馬なんだけどよ、ほら、お前らもこっち来て近くで見てみろよ」

 「いや、こっち来いって言われてもなぁ……」

 「知らない人に近寄られたら怖がるんじゃないの?」

 「どうだろうな。……まあ、攻撃的な奴じゃねえから大丈夫だろ」

 「いい加減すぎる……」

 「まあ……とりあえず近くまで行ってみよっか」

 呆れる龍望だったが、とりあえず馬のもとへと歩き出す秀太につられて龍望も馬のもとへと近寄ってみる。

 馬は、初めて見る二人が近づいて来ても嫌がる様子も逃げ出す様子もなく、物珍しそうに一鳴きする。

「この子、大人しいね」

「まあな。……でもよ、俺の時は初めて会った日は運動場の中逃げ回って世話どころじゃなかったんだぞ?」

 「またヒデだけ特別ってヤツかぁ?」

 どこか茶化すようなその言葉に、秀太も負けじとからかうように言う。

 「僕だけじゃないんじゃないの?」

 「え?」

 「タツだってこの子に嫌がられてないじゃん。カストルにもポルにもピースにも逃げられてばっかなのにさ」

 「あ、そーいや……」

 「そうか、ヒデのお人好しは人に伝染するのか……」

 「伝染~? うわ、ヤダなそれ……」

 真剣な顔で考え込む荒俣と、本気で嫌そうな顔をする龍望。そんな二人に苦笑する秀太。

 「まぁたそうやって、人のことお人好しってバカにする……あ、ところでさ、この子はなんでここに来たの?」

 「ああ。こいつはな、知り合いの厩務員から預かってほしいって頼まれたんだけどよ、もともとは馬術に出るような馬だったんだ」

 「厩務員……?」

 「馬術……?」

 荒俣が口にした言葉を不思議そうにオウム返ししてくる二人に、荒俣は説明を始める。

 「あ~、まあざっくり言えば厩務員ってのは馬の世話をする仕事のことで、馬術ってのは馬に乗ってハードルを跳ぶ競技のことさ。んで、こいつの現役時代の最後に組んだ調教師がまた曲者でな、こいつが体調崩そうが練習を嫌がろうが、そんなことお構いなしにハードルを跳ばせるような奴だったんだと。その結果、無理に出させた試合の最中に人の歓声やら会場の雰囲気やらでパニックになっちまって、それ以来馬術なんかできなくなっちまった。それで処分される話が出たんだが、その話を聞いた俺の知り合いが「そりゃあねえだろう」ってことで、俺に相談して来たんだ」

 「それで、引き取ったんだね?」

 「そーいうこった」

 そう言って馬を撫でようとした荒俣だったが、馬は嫌そうに一鳴きした。

 「おい……ちょっと撫でただけで嫌そうな声出すなよ……」

 そう言う荒俣は、どこか寂しそうである。それからすぐに、切なそうな顔をする。

 「まあ、無理もないよな……跳びたくもないハードルを無理に跳ばせようとしたあげく、お前を殺そうとしたのは俺と同じ人間だもんな……」

 どこかやりきれなさそうな荒俣を見て、秀太は励まそうと声をかける。

 「時間はかかるかもしれないけど、この子もそのうち荒俣さんに慣れてくれるよ」

 「だといいんだけどよ……」

 「そういや、さっきからこいつ、こいつ言ってますけど、この馬名前なんて言うんですか?」

 ふと、龍望はそう訊く。

 「あー…名前な……」

 龍望の質問に、荒俣は困った顔をする。

 「一応あるんだが、名前で呼ぶと練習を思い出すのかひどく怯えるんだ。だから、俺もちょいと困っちまっててなぁ……」

 「だったら、新しい名前つけちゃえば? ……馬って頭よさそうだし、呼び続けたら覚えるんじゃないかな」

 秀太の提案に、荒俣は嬉しそうに驚く。

 「そうか、そうだな! それがいい! ……なあヒデ、お前なんかいい名前付けてくれよ」

 「荒俣さんが付ければ?」

 「俺のセンスはべらぼうに悪いからな。ほら、ピースの時みてえにちゃちゃっと頼むよ!」

 「んー、だったらタツが付けてみれば?」

 「俺? なんで?」

 「いや、僕はピースに名前付けてあげてるし、この子、タツのことも気に入ってるみたいだしさ」

 「気に入ってるぅ? ただ嫌がらないだけだろ?」

 そう言って馬を撫でてみようと手を伸ばす龍望だったが、馬はすかさず一歩下がった。

 「ほら、俺だって嫌われてるよ……」

 「いや、大丈夫だタツ。俺なんて今のお前と同じようなことをしようとしたら、思い切り走って逃げられた」

 「マジで……?」

 そう言って馬を見る龍望に、馬は距離を取りつつ、小さくも何か期待をするような鳴き声をあげる。

 「ま、ちょっとばっかしでも嫌がんないでくれるのもありがたいし、せっかくだから考えるか……」

 まんざらでもなさそうにそう言って、少ししてから龍望は閃いたように言う。

 「モーター、なんてどうだ?」

 「モーター? なんだよ、それ?」

 「いや、なんつーか……有名な競走馬の名前と、すごく似てる名前の洋楽バンドがあって、そのバンドの有名な曲の名前……だと、長すぎるから、その曲を適当に略したんですよ。それがモーターって名前」

 「なんだよ……ずいぶんややっこしい由来だなぁ……」

 「まあ、なんか速そうな名前だし、馬っぽくていいんじゃない?」

 秀太が、馬を撫でながら本心からそう言ってくれる。

 「あ、やっぱそう思う?! ……で、どうだ本人? いや、人じゃないもんな、本馬……か?」

 喜んだ勢いで馬にそう尋ねる龍望に、馬はまるで人の言葉の意味が解っているかのように、嬉しそうないななきをした。

 「なんだ、気に入ったのか?」

 そう言って、荒俣はモーターを撫でる。

 「つーわけで、お前は今日からモーターだ! よかったなぁ、新しい名前をもらえてよ。これから積極的に呼んでくから、ちゃんと覚えろよ?!」

 そんな荒俣とモーターを、秀太と龍望はどこか微笑ましく見ていた――

 

 

11――あるお人好しの選択

 

 「みんな、本当にここに来て頑張ってると思う……ここで暮らすってことは荒俣さんと縁があったってことが前提だけど、それでも生きようとするかしないかは、この子たち次第だからね」

 今いる動物たちとの出会いを思い出しながら、秀太はしみじみとそう語る。

 「そうだよな。野生とかじゃなくって人間のもとで生きることを前提に生まれてきて、その人間に対して不信感を抱くなんて生きづらいハンデ背負って……。――!」

 その時、みなしごキャンパスの玄関が開く音がしたが、振り向いたのは龍望だけだった。

 「お前らな、鍵もなしにどうやって――」

 そこには、釧介が立っていた。

 「荒俣さんから合鍵を預かってるんだ」

 みなしごキャンパスにやってきた釧介の言葉を遮るようにそう言って、秀太は振り向いた。

 「大丈夫だよ。不法侵入じゃないし、鍵もこじ開けたりしてないから」

 「……合鍵使ってまでこんなとこに来て、忘れ物でもしたのか?」

 「えっと、それは……」

 どもりながら、秀太を見る龍望。

 「特別に用があったわけじゃないけど、ちょっとみんなのことが気になってさ」

 どこか苦笑気味にそう言う秀太に、釧介は一瞬表情が硬くなったようだった。

 「気になって、様子を見て、それでお前は満足か?」

 真剣な顔で言われたその言葉の意味を、二人とも理解できていない。

 「……どういうことですか?」

 「……。満足したなら、満足したままさっさと帰れ」

 「いや、わけわかんないし。あんた何が言いたいんだよ?」

 「……」

 何も言わない釧介に、秀太が訊いた。

 「……あのさ、釧介教授は何の用があってここに?」

 「お前たちには関係ないだろう」

 その一言に、秀太はまるでその言葉の真意を察したかのように小さく反応した。

 「関係ないって……そりゃ確かにここは農学部所有の施設で俺らは工学部の学生だけど……だけどヒデは荒俣さんの友達ですよ、それを関係ないってことないんじゃないですか」

 「関係ないと言ったら関係ない――」

 「関係ないんじゃなくて……答えたくないだけじゃないの?」

 釧介の言葉を遮りながらも静かにそう言った秀太に、龍望は意味は分からずとも何かを感じたようだった。

 「え……どういうことだよそれ……?」

 「例えばさ……ここの動物の世話をしに来たなら別に僕たちを帰す必要はないわけだし、事務的なことをするのに学生がいるのがまずいなら、そう言ってくれれば僕らだって納得して帰れる。それ以外って言ったら、ここに来るのにどんな理由があると思う?」

 「え……?」

 「リジチョーは施設の動物じゃなくて荒俣さんの飼い犬だし、性格的にも貰い手はきっとつくさ。でも、他の子たちは……」

 そう言われ、龍望も言葉の先を予想して表情を曇らす。その様子を見て、秀太は目線を釧介に移した。秀太と目が合った釧介は、驚きを隠すように言う。

 「……そこまでわかる前に帰ればよかったんだ。人の気遣いを無駄にしおって」

 「あの……じゃあやっぱりここ――」

 「みなしごキャンパスは、管理費の八割を自ら出していた管理人不在の状況から考えて、これ以上の存続は不可能。ここで世話をしている動物たちはその性質から譲渡は難しいこともあり、かといって荒俣に代わるような飼い主を気長に待つほど、ここの管理に割ける経費は大学にはない。……これ以上は言わせるな」

 そう言う釧介もどこか辛そうだった。しかし、動物の……しかも荒俣にすら「世話をさせてやる」程度にしか心を許さなかった動物たちの世話ができる人間なんてそうそういるはずがないこと、もとは荒俣が始めた慈善事業に大学が急に多額の資金をくれるはずもないことを、釧介は知っていてどうしようもできない。

 「そんな……人の勝手でこいつらは傷ついたのに…今度は人の勝手で生きる場所を奪われるって言うんですか?!」

 こういう時、どうしても感情的になることを抑えられない龍望である。

 「もともと、荒俣と縁がなければ保健所行きだった動物たちだ、ここで生きながらえただけでもいいと思え」

 「なんだよ、それ! 生きながらえたって……」

 そう言う龍望の手は、いつの間にか握られ小刻みに震えている。

 だが、秀太や龍望に諦めさせるためにわざと辛辣な言葉を選んでいる釧介も、少なくとも龍望はその思惑に乗りかけているということに顔には見せずともやりきれなさを感じずにはいられなかった。

 「何にも知らないからそんな簡単に言えんだよ! こいつらが毎日必死に生きてる姿見て……それでも、「生きながらえただけいい」なんて言えるのかよ!!」

 「タツ……」

 「そこまで言うなら……お前が世話をすればいいんじゃないのか?」

 「え……それは……」

 勢いが消えた龍望に、釧介は呆れるように言う。しかし、その呆れすらも、貧乏な学生たちに精神的、金銭的に負担をかけさせないための繕った態度なのである。

 「できないんだろう? まったく……学生とは言え、もう子供じゃないんだ。責任の持てないことは言うもんじゃない。……動物の世話をするのに、どれだけの金がかかるか想像つくか? 荒俣は自身の年金と、働いていた時に貯めた貯金を使ってこの施設を管理していたんだ。それだけでも足りないからと、娘さん夫婦が毎月仕送りをしていたほどだぞ? それに金だけじゃない。ここの動物は飼い主によく懐くペットでもなければ、人によく慣れた実習向けの動物とも違うんだ」

 そう言って、釧介はとても残念そうに秀太を見た。

 「武見里……昨日の動物たちへの対応は確かにすごかったよ。……もしお前に余るほどの金があったなら、こいつらも無駄に死ななくて済むかもしれなかったが……いや、もし金があっても、学生には荷が重すぎるか」

 その言葉に、秀太は何かを感じたようだった。

 「とにかくだ。……この施設は廃止される。動物たちも保健所に連絡を入れて、引き取ってもらうことに決まった。……わかったら、とっとと帰るんだな」

 そう言って、釧介は立ち尽くす二人の脇を通って管理人室に行こうとした。……その時だった。

 「だったら……僕が、ここの管理をする」

 秀太の言葉に、釧介は思わず足を止め、龍望も驚いて思わず秀太の顔を見る。

 「……」

 「え……?」

 まるで説明を求めるような龍望の視線を受けて、秀太は落ち着いた口調で話し出す。

 「ここの管理費を出して、できる限りこの子たちのために時間も作る……荒俣さんの代わりに、僕がみなしごキャンパスを存続させる」

 「お前、本気で言ってるのか……?」

 振り向くこともなく、極力心境を悟られないようにと落としたトーンでそう言う釧介の背中を見るように振り返り、秀太は言う。

 「もちろん本気だよ。それでみんな、これからも生きていけるんだからさ……大丈夫、きっとうまくやれるよ」

 そう言った秀太の顔は、優しくも固い決意がうかがえた。

 「うまくやれる、って……やれるわけないだろ?! おれだって人のこと言えねえけど、お前だって学費以外に仕送りないんだぞ?! 生活費だってバイト代でギリギリだし、貯金は来年、再来年の学費の足しにしなきゃだし……」

 「寮を引き払ってここに住み込めば寮費を管理にまわせるし、生活費だってまだ削れるよ」

 龍望にそんな提案を話す秀太だったが、その話を聞いて釧介が心配するように言う。

 「いや……それじゃきっと足りないと思うぞ……それに、仮に寮費と削った生活費で管理費がギリギリ足りたとしても、だ。お前が生活できなくなる」

 「あー、そっか足りないか……ん~、どうしよう……」

 「せっかくの申し出だがな、一人分の金じゃ無理なんだ。せめて二、三人分の金があれば話は変わるだろうが……」

 落胆するでもなくいい案を考え出そうと悩みだす秀太に、まるで諦めろと言いたげにそう言う釧介。そんな釧介を見て、龍望は意を決したように言う。

 「だったら、俺もここに住む! だから、俺の寮費も使えよな」

 その言葉に、今度は秀太が驚く。

 「え……?」

 「え? じゃねえよ。だから、俺も寮からここに移るっつってんだ。……一人分じゃ足りなくても、二人分の寮費とバイト代がありゃ、ここの管理とギリギリの生活くらいはできるだろ? 荒俣さんが寝室代わりに使ってた管理人室、二人分くらいなら余裕で布団引けそうだしさ、もともと二人で一部屋で生活してたんだ、ここに移ったって大して変わんねえよ」

 その言葉に、秀太の表情は次第に驚きから笑顔に変わっていく。

 「……ありがとう。助かるよ」

 優しくそう言う秀太に、龍望もどこか仕方なさそうな雰囲気を醸しながらも同じように笑って見せる。

 「どーいたしまして」

 そんな二人を見て、釧介は真剣な顔で秀太を見る。

 「冗談じゃなさそうだから確認するが……本当にいいのか?」

 「いいって、何が?」

 龍望が不思議そうに聞き返す。

 「さっきも言ったが、ここの動物の世話をすると言うのはお前たちが想像する以上に大変なことだ。……最悪、大学生とここの管理の両立はできなくなる可能性だってあるんだぞ?」

 「可能性なんてそんなもの考えてたら、なんだってやってけないよ。……大丈夫。さっきも言ったけど、きっとうまくやれるって」

 根拠のないその言葉に、釧介は根拠以上の確信を見た気がしたようだった。

 そして少しの間秀太を見ていた後、玄関に向かって踵を返した。

 「あの、今度はどこ行くんですか……?」

 どこか怪訝そうに訊く龍望に、釧介は歩を止めて言った。

 「ここは農学部所有の施設だ、大学側に新しい管理人が来たことを伝えに行かなければいけないだろう? ……あのな、何をぼさっとしてるんだ、お前たちもさっさと寮母さんに話をつけにいけ。早くしないと、来月分も寮費を払わなけりゃいけなくなるんじゃないのか?」

 そう言われて二人とも嬉しそうな顔をし、釧介を追いぬかす勢いで玄関に向かって走り出した。

 「そ、そっか……!」

 「今行ってくる!」

 「ったく……」

 玄関を出て行く二人の背中を見送って小さくそうぼやき、釧介はどこか感慨深そうに、そして小さくも嬉しそうにみなしごキャンパスの中の動物たちを見回した。

 「あんなお人好し、どこを探したってそうそういないぞ?」

 そうとだけ言って、釧介もみなしごキャンパスを後にした。

 

 ――こうして、ヒデは荒俣さんに代わってみなしごキャンパスの管理人を務めることになり、俺もその手伝いをすることになった。……ヒデのこの決断が、ここにいる命だけでなく、これからたくさんのナニカを救っていくことに繋がるなんて、この時点ではだぁれも予想できてないってのは、ここだけの話――

 

 秀太と龍望の、普通じゃない大学生活は、こうして始まった。

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