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「みなしごキャンパス」

第2話

「同じ想いを持つ仲間」

 

 

1――未開の地、農学部キャンパス

 

 東京はあきる野市にある、日本で数少ない国立農工大学である「あきる野農工大学」、略して「AAE」。その敷地内に、農学部の研究棟を改装したとある施設があった。

 みなしごキャンパス――様々な理由から人間不信に陥り、一般の飼い主には飼育が困難となった動物たちの世話をするための施設である。

 しかし、そのみなしごキャンパスの開設、管理人をしていた荒俣勇志郎(あらまたゆうしろう)が某年の五月に肺炎で入院を余儀なくされ、みなしごキャンパスは存続を危ぶまれたのだが、代理の管理人になることを申し出てその危機を救ったのが、荒俣と仲の良かった工学部三年生の武見里秀太(たけみざとひでた)と、その友人である二年生の天利龍望(あまりたつみ)だった。

 

 某年、六月。秀太たちが利用していた学生寮の部屋を引き払い、住み込みでみなしごキャンパスの管理に携わってからちょうど一ヶ月が経った頃のことである。彼らは今、なぜか所属する学部とは違う農学部のキャンパスを訪れていた……

 「応用臨床学講座の教授室……ここだよな?」

 そう言って龍望が見たのは、教室らしい大きな部屋に隣接している、小さめな部屋のドアにかかっている、「応用臨床学講座 教授室」と書かれたプレートだった。

 「農学部の人が教えてくれた通りだったら、ここであってると思うけど……」

 秀太がそう言うが、それから二人とも、ばつが悪そうな顔をして黙り込む。

 「ついちゃったな……」

 先に沈黙を破ったのは龍望だった。

 「ついちゃったね……」

 同じようなことを、秀太も同じような口調で返す。とにかく、ばつが悪そうにそう言って、二人は一気に落ち込みだす。

 「……で、なんて話せばいいと思う?」

 「お金が足りない……じゃあ、相手にされないかな?」

 「当たり前だって……! 「うまくやれる」、なんて言ってたった一ヶ月で「お金貸してください」なんて……言えるはずない……ただでさえちょこっとだけど農学部から資金もらってるってのに……それでも金が足りないとか……言えるはずないよ……」

 話しながら、どんどんと落胆していく龍望。

 「いやでもさ、バイト先が閉店したのは僕たちのせいじゃないし……ホントついてないよ、狙ったようにお金がいる時期に店長が骨折するなんてさ……」

 「こんなことなら、個人経営の居酒屋なんかでバイトするんじゃなかったよな……店長ダウンしただけでコレだもん……」

 「でも、やっぱ個人経営の方が店長と距離が近い分、講義に合わせてシフトも組んでもらえてやりやすかったし……」

 いつの間にか真剣に話しこむ秀太と龍望だったが、そこまで話して龍望はハッとする。

 「……って、大事なのはそこじゃない! 金だ! バイトの選び方じゃなくて金が足りないことが問題だ!!」

 と、その時だった……

 「もういいです! 失礼しました!!」

 「……?!」

 教授室の中から女性の怒鳴り声が聞えたかと思うと、勢いよくドアが開き、声の主らしき女子大生らしき女性が速足で去っていった。

 秀太も龍望も、二人で驚いたことには驚いたのだが、ちょうどドアのまん前に立っていた秀太にいたっては思わず尻餅をついてへたり込んでしまった。

 「な、なんだぁ……?」

 「さあ……?」

 立ち上がりもせずに呆然と女子大生が去って行った方を見ている秀太に、龍望も秀太と同じ方を見ながら生返事をする。

 「ちょっと、和幸(わこう)さん……!」

 二人が女子大生に気に取られていると、今度は眼鏡をかけた若い女性が教授室から慌てて出てきた。白衣を着ているところを見ると、獣医学科の関係者だろう。秀太と龍望がいることにはさすがに気付いているが、二人が教授室に用があってそこにいるということには気付いていないようである。

 「あー……」

 去っていった女子大生の背中を見送って、どうしようか悩んだようにそんな声を出した秀太に、龍望が気付く。

 「……? 「あー」って、どうした?」

 「ゴメン。タツ、ちょっと教授と話つけといて」

 「俺が?」

 「うん」

 「一人で?」

 「うん」

 「なんで?」

 「今の人、泣きそうだったからちょっと気になって」

 立ちあがりながらそう言って、言い終わるや否やすぐに駆け足で女子大生が立ち去った方向へ走っていく秀太。

 「あ、ちょっと待てって――! ったく……」

 と、龍望がぼやいたその時、白衣の女性はやっと龍望(と、今去っていったばかりの秀太)が教授室に用事があってそこにいるに気付く。

 「あら、あなたもしかして釧介教授に用事?」

 「あ、いえ……まあ、その……」

 と、その時。教授室の中から呆れたような困ったような顔をした釧介が出てきた。

 「おい……聞き覚えのある声がしたと思えば……工学部の学生がこんなところに来て、いったいどうしたんだ?」

 「いや、あの……お久しぶりです」

 どこか気まずそうな龍望に、釧介はさらに呆れた表情を見せる。

 「何が久しぶりだ……武見里はどうしたんだ? あいつの話し声も聞こえてたぞ?」

 「ああー……ヒデならあっちですけど」

 釧介の質問に、秀太が走り去った方向を指差す龍望。

 「和幸さんを追いかけて行ったみたいですね。……でも、その武見里くん? でしたっけ? さっき和幸さんが泣きそうだったって言ってたんですけど……教授気付きました?」

 「まさか。泣くどころか怒ってたぞ? ……まあ、あいつがそう言ったのなら間違いないだろうが」

 真面目な顔でそう話す釧介を見て、龍望は意外そうな顔をする。

 「へぇ~……会ってまだ一ヶ月しか経ってないのに、あいつの言うことを随分信用してるんですね」

 釧介とは馬が合わないのか、どこか嫌味ったらしくそう言い放つ龍望。

 「動物に好かれやすい人間ってのは、勘がいい奴が多いんだ。……別にあいつを信頼しているわけではない」

 「うわ、なんか言い方ひどいな……」

 「会ってまだ一ヶ月の工学部の人間を、農学部の教員の私がなぜ信頼しなけりゃならんのだ?」

 「そりゃそうですけど……」

 そんなやりとりを、白衣の女性が不思議そうに見ている。

 「あの……この子、講座の子じゃなさそうですけど、教授のお知り合いなんですか?」

 「ん? ああ、この前話しただろう? さっき走って行ったのが、荒俣に代わるみなしごキャンパスの管理人を申し出た張本人の武見里で、こっちはその学年違いの友達の天利だよ」

 「あー、そうでしたか。そう言えば、確かに新しい管理人の学生さんって工学部の子たちだって、教授おっしゃってましたもんね」

 そう言って、女性は龍望に優しく笑いかける。

 「初めまして。釧介教授の講座でお手伝いをしてる佐木(さき)といいます」

 「あ、初めまして……! あの、講座の手伝いってぇと……」

 「うちの講座、応用臨床学講座の助教だよ。佐木には以前からみなしごキャンパスの件も手伝ってもらっているから、私がいない時に何か用があったら佐木に頼むといい」

 「あー、はい……」

 思わぬ紹介を受けてそう答え、ふいに龍望は何かを思い出したように

 「あ、そういやさっきの人、何を怒ってたんですか? ……ヒデは泣きそうだったって言ってたけど……」

 と、釧介訊く。

 「ああ……和幸のことか。あの子はちょっとなぁ……」

 「ちょっと……?」

 困ったような表情になる釧介に、龍望は不思議そうな顔をした。

 

 

2――秀太と理寧

 

 その頃、農学部キャンパスのロビーに座って今にも泣きそうな気持ちをこらえている様子の、先ほど和幸と呼ばれた女子大生こと和幸理寧(わこうことね)を見つけた秀太は、静かに彼女のもとに歩み寄っていた。

 「わこーさん? ……で、あってるよね?」

 「え……?」

 「あ、ごめん。ナンパじゃないよ。さっき釧介教授の部屋からすごい勢いで出てきたから、ちょっと気になってさ……」

 秀太は、見ず知らずの学生に話しかけられた理寧の立場を考えると、咄嗟におかしな言い訳をしてしまって口調が少し慌てている。

 そんな秀太の心境に気付いたのか、理寧は小さく笑いながら、

 「そんな慌てなくても大丈夫よ。悪いけど、あなたナンパなんてできそうにない顔してるもの」

 と、冗談めかして言った。 

 「それ、どんな顔?」

 秀太も、苦笑しつつも冗談めしてそう返す。

 「そーいう顔よ。それに、大学生にもなってそんなかわいい服を着てる人が、女の子をナンパするほどオトナだって言われても困っちゃうし」

 かわいい服――貧乏ゆえにバリエーションの少ない衣服を着まわしている秀太は、例が例の如く今日もニコ太くんパーカーを着ていた。

 「服は、その……気にしないで……」

 さすがの秀太も、そのことに触れられるとそれ以上は話題を膨らませられなくなる。

 「でもまあ、いきなり知らない人に声かけられたら嫌だよね。僕、機械工学科の三年で、釧介教授にお世話になってる武見里秀太っていうんだ。これで知らない人じゃなくなったかな?」

 無理もせず自然と、しかしどこか意図して理寧を和ませようとする秀太に、理寧はふっと、先ほどよりもずっと気楽な笑みを浮かべた。

 「武見里くんね。あたしは、さっきあなたが言った通りの和幸。獣医学科四年の和幸理寧よ」

 お互いの名前がわかるだけで、不思議といくらかは緊張も緩むものである。二人は、ついさっき出会ったとは思えないほど自然に笑いあう。

 「あー、そうそう。和幸さんの名前、教授室から出てきた女の人がそう呼んでたから知ってたんだけどさ、あの人も白衣着てたけど、農学部の先生なのかな?」

 結構大事なことを、思い出したように訊く秀太。

 「そうよ。その人、応用臨床学科の釧介教授のお手伝いをしてる助教の佐木奈瑠美(なるみ)さん」

 「ふぅん……」

 素っ気ない一言にも納得の色をしっかりと表し、ここまで話し込んでやっと、秀太は理寧の隣に腰を下ろす。

 「それでさ。お節介かもしれないんだけど……そんな泣きそうな顔しちゃって、教授室で何があったの?」

 「え……」

 本題に入ったかと思えば、自分の心理を鋭く見抜いていた秀太の何気ない一言に、理寧は思わず驚きの声を漏らす。その、驚いて言葉を失った時間さえも優しく待っていてくれる秀太に、理寧は自然と、小さくも嬉しそうな笑みを浮かべた。

 「……あたし、そんな泣きそうな顔してた?」

 「あれ、もしかして僕の勘違いだった?」

 少し慌て気味にそう言う秀太に、理寧はまた違った慌て気味になる。

 「そうじゃなくて! ……ホントは泣きたいくらい悔しくてさ、でも、泣いたら負けだなって気がして我慢してたから。そっか、顔に出ちゃってたか……すごいね、よくあたしの気持ち、わかったね」

 その言葉に、秀太も小さく笑う。

 「……お人好し、なんだって」

 「お人好し……?」

 「そ。なんでか、いっつもそう言われるんだ。……だからかな? 人の気持ちに敏感なんだ、昔っから」

 「お人好し、かぁ……」

 そう言って、理寧は少し考え込んでから秀太の顔を見る。

 「あのさ……よかったらだけど、せっかくわざわざ追いかけてきてくれたみたいだし、話聞いてもらってもいい? ……タダの愚痴になっちゃうかもしれないけど」

 「いいよ。そのために声かけたんだし」

 秀太は快く答えた。

 理寧は、今知り合ったばかりの工学部の学生に、なぜこんなにも自分の胸の内を話したくなったのか、この時は不思議でたまらなかった。

 

 

3――獣医界における「和幸」とは

 

 その頃の教授室前……

 「あの子、和幸理寧は獣医学科の四年生でな、今年からは私の講座に所属することになったんだが……なんと言うか、扱いが難しいと言うか、な……」

 そう言って言葉を曇らせる釧介。

 「扱い? なんスか扱いって?」

 「あの子の父親は、東京でも一、二を争うほどに設備が整った大病院、和幸総合動物病院の院長兼理事長で、母親はそこの副院長なんだ。和幸総合動物病院に勤める獣医師たちは、院長、副院長を含めみな腕の良い者が揃っていて、患畜の飼い主たちからの評判もいい」

 「はあ」

 「それに病院の中だけではなく、獣医界においても和幸の両親は高い地位についている。そんな人たちの娘だ、少なくとも獣医を目指す人間にとっては気を遣う相手だと思わないか?」

 「つまり、親の権力を振りかざしてて、それで扱いが面倒だとか、そんな感じですか?」

 釧介はなんとも言いづらそうに表情を曇らせる。

 「あー……いや、そうじゃあない。むしろその逆だ」

 「そうですね……」

 釧介の話に、佐木も苦笑いをしてそう答える。

 「逆……?」

 そう不思議がる龍望を見て、佐木は、

 「あの子にしたら、親の権力なんて正直邪魔なものなのよ。だから、何をしたって「さすが和幸先生の娘さん」って言われるのを嫌がっててね……」

 と、説明をする。

 「威張り散らしてないなら、別にいいじゃないですか」

 親の権力などとは一ミリも関係なく育った龍望にとって、それほどの小さな問題に思えた。

 「……それがそうでもないんだよ」

 「……?」

 相変わらず、龍望には話の確信が掴めない。

 「親は親、自分は自分。その考えは大したものだよ。だがな……そういう気持ちが強い分、本人も周りの人間もいろいろと大変なんだ。今だって、私からすれば些細なことだったんだが、それが彼女には堪えたようだしな……」

 「本人も、周りの人間も大変ってえのは……?」

 「とにかくいろいろだよ。……もっとも、一番大変なのは彼女だろうが」

 その言葉は龍望にではなく、まるで理寧に向けた言葉のようだった。

 

 

4――理寧の憂鬱

 

 「へえ~、大病院の院長先生の娘さんなんだ。なんかすごいね」

 釧介が龍望に理寧の話をしている頃、理寧は理寧で、どうして教授室を飛び出したのかを説明しようと、まず自らの情報を秀太に話していた。

 「まあ、大病院って言っても動物の病院だけどね……」

 どことなく不機嫌そうなその受け答えに、秀太はなんとなくピンと来たようだった。

 「やっぱ大変なんだろうね、親が偉い人だと。……さっき泣きそうだったのも、それと関係あるんじゃないの?」

 本当のところを突いてくる秀太に、理寧は少し驚いた後に、教授室での出来事を思い出したのか、また不機嫌そうな表情で言う。

 「……そうね、なんて言うか、教授に言われた言葉についカッとなっちゃって……」

 そこまで話して、理寧は複雑そうな表情を浮かべて空を見つめる。

 「実習のことでちょっと質問があったから教授のとこに行ったんだけど、「こんなに勉強熱心だと、和幸先生も安心だろうな」なんて言われてさ……関係ないじゃん、勉強熱心なのと親が誰かなんて! ……そう思って、教授にもそんなことを言い返したんだけど、そしたら今度は「それでも獣医を目指してるのは両親の影響だろう? だったら親と自分が関係ないとも言い切れないんじゃないか?」って言ってきて……なんかもう、何を言ってもモヤモヤしそうな気がしたし、結局あたしは「和幸先生の子供」としか見てもらえないんだって思ったらすごく悔しくて……その気持ちをごまかしたくて教授に怒鳴ってみたりもしたけど……教授に怒鳴ったってどうにもならないのに、って思ってばつ悪くなって廊下に出たら、あなたたちが来てたってわけ。……それでも、釧介教授は他の先生みたいにあたしに媚びるような感じがないから、いい先生だと思ってるんだけど……」

 一通り話し終わって、理寧は話の途中で帯びてきた熱がまた落ち着いたらしい。

 「そっか……」

 どこか寂しそうに一言そう漏らし、秀太は理寧の顔を見る。

 「その様子だと、やっぱり和幸さんは獣医にはなっても両親の病院を継ぐ気はないの?」

 「もちろんよ! 父さんの病院なんか絶対継がないんだから!」

 「……院長先生の娘さんだって立場が辛いから?」

 「……どうだろう。まあ、そうなるのかな……なんて言うか、楽して大病院のトップに立てる人間なんだって……ただ獣医学科で勉強さえすれば、なんの苦労もしないで済む人間なんだって、そう思われるのが嫌なの。今までだって、何をしたって「すごい人の子供なんだから、できて当たり前」ってそんなことばっか言われ続けてきてうんざり。……あたしの努力ってなんなの? 父さんや母さんの努力は認められて、あたしの努力は認められないの? なによそれ……」

 段々と声が泣きそうに震えてきている。秀太はそのことに気付く。

 「……まあ、獣医学科にいたら特にそう言われやすいってのはあるだろうね」

 「……」

 何も答えない理寧に、秀太は一息置いてから優しく

 「それでも、ここの――獣医学部じゃない農学部の獣医学科で勉強してるってことは、何か意味とか目標があるんだよね? 」

 「……うん」

 「それって、聞いてもよかったりする?」

 その問いに、理寧はしばらく黙っていたがふいに口を開く。

 「……あたし、父さんの力も母さんの力も関係なく、自分の力で獣医になって開業することが夢なの。総合病院じゃなくてもいい。小さな病院でも、それでもちゃんと患畜1匹1匹、飼い主さん1人1人と向き合える、そんな獣医になりたいの。そのためには、私立(わたくしりつ)の、病院の跡取りが通うような学校は避けたくて。それに農学部だったら、犬猫の治療しか習わないような獣医学部に比べて、酪農関係の動物の治療も習えるし、この大学は農学部の獣医学科だけどペットも見るような附属病院もあるし、そう言う意味でもちゃんとここを選んだ意味はあるのよ?」

 理寧の夢を聞き、秀太は小さくも安堵の色を浮かべる。

 「……そっか。それはいい夢だし、ちゃんと理由を持って大学を選んできたなんてすごいよ。僕は動物病院のこととかはよくわからないけど……でもやっぱり、みんなより楽ができる立場でもそれに甘えないなんて、なかなかできないと思うな」

 素直にそう言う秀太に、理寧はどこか苦笑気味に、しかしそれでも嬉しそうに小さく笑う。

 「……ありがと」

 そう言って、理寧は浮かない顔をする。

 「でも、みんなあたしのこと、影でワガママだって言うんだ。親の病院を継ぐ気がないなんて、どんなに頑張ったって就職先が無くて獣医になれない人もいるのに、そんな人たちをバカにしてるのか? って。その癖、みんな父さんの病院で働きたいからって、表面上だけはあたしと仲良くしようとしてくるし、それ以外でも、自慢じゃないけどうちってその……仮にも総合病院の院長夫婦の家庭だから、どっちかっていったらお金がある方だからさ、そういう面で近寄ってくる人もいっぱいいるし……一人は嫌だから一応あたしも仲良くはするけど、誰もかれも下心見え見えでホントやんなっちゃう」

 その言葉に、秀太は話しに出てきた相手を少しだけ呆れるように、しかし優しく言う。

 「……それは、確かにワガママだね」

 意外な秀太の言葉に、理寧は驚いたような悲しそうな、そんな表情で静かに俯いてしまう。

 「……やっぱそうよね、あたしがワガママなだけ――」

 「どうして、こんなに頑張ってる人の周りに、自分のことしか考えられない、ワガママな人たちが集まっちゃうんだろうね……ホント、みんなワガママだ」

 理寧の言葉を遮るように、悲しそうにそう言う秀太に、理寧はまた驚いて秀太の顔を見る。

 「え……?」

 「人ってどうしても嫉妬しちゃうもんだから、そりゃみんな、お金持ちだったり、勉強さえすれば大病院のトップに立てるって立場の和幸さんが羨ましくなっちゃうさ。でも、それは和幸さんがそんな人たちに疲れちゃってることも、獣医の卵として立派な夢を持って、その夢のために甘えを捨ててるってことも知らないから……なんじゃないかな?」

 そう言って、秀太は励ますように理寧に笑いかける。

 「会ったばかりの、しかも工学部の人間にこんなこと言われても嬉しくないかもしれないけど……でも、僕は和幸さんの考え方がワガママだなんて思わないからさ。自分のことしか考えられない人の言葉とか、見え見えの下心とか、そんなもの気にしないでもっと自信持ちなよ。こんなに頑張ってる人が余計なことのせいで自信を持てないなんてもったいないって」

 そこまで話してから、秀太は思いついたように、

 「あ、そうだ。嫌じゃなかったら名前で呼んでもいい?」

 と、急に話題を変えた。

 「えっと……別にいいけど……」

 理寧は最初戸惑ってそう言うも、

 「っていうか、いいなら逆に苗字で呼ばれない方があたしも嬉しいわ」

 と話す。

 「ありがとう」

 と、秀太が名前で呼んでもいいと言われて礼を言ったその時。廊下の向こうの方から小走りな足音が聞こえてくる。龍望だった。

 「よお、話は聞いてあげれたのか?」

 二人のもとに着くや否や、龍望は秀太にそう訊いた。

 「あ、うん聞けたよ。……そっちは?」

 「え゛?! ……いや、えっと……それなんだけど、さ……」

 そう言いながら秀太から目線を逸らそうとする龍望。その過程で、理寧とバッチリ目が合う。

 「あ、あの初めまして」

 「あ、こちらこそ……! ……えっとあなた、さっき武見里くんと一緒にいた……」

 「天利龍望です。そいつの友達っつうか……あー、機械工学科の二年なんですけどね。……そっちは和幸さんであってますよね? 釧介教授からお話し聞きましたよ」

 「教授から……?」

 そう答えて、理寧はふと思い出したかのように秀太の方を見る。

 「あ、そういえばあなたたち、工学部なのに釧介教授に何の用があったの?」

 「まあ、大したことじゃないんだけど――」

 「大したことじゃなくない!! 死活問題だよ!! ……なのにお前が俺に全部押し付けたりするからその相談もできずに昼休み終わっちまうよ!!」

 まくしたてるような龍望の言葉の一言一句を聞き逃さず、秀太はじと~っとした嫌な目つきで龍望を見る。

 「相談もできず……?」

 「え゛……あー……えっとぉ……」

 「あれ、今そう言ったよね?」

 さっきの目つきはどこへやら、今度はさらっとそう訊く秀太に、龍望は秀太から目線を逸らして何かを言い返そうとするも、言葉が見つからない様子で、遂に噛みつくようにバッと秀太と目を合わせる。

 「……そうだよ! 相談しようと思ってはいたけど、和幸さんのことが気になってその話聞いてたらこんな時間になっちまったの! 相談して来れなくて悪かったな!!」

 「悪くはないから落ち着きなって」

 なだめるような優しいその口調に、龍望はハッとして少し恥ずかしそうにまた秀太から目線を逸らす。

 「……ごめん」

 「それよりもさ、そろそろ工学部の方に行かないと講義始まっちゃうよ? タツ、今日は午後からの講義も取ってる曜日だよね?」

 「あ、そうだった――」

 まるでタイミングを計ったかのように、昼休み終了のチャイムが農学部キャンパスに響き渡る。

 「やべ……とりあえず、俺講義出てくる!」

 「行ってらっしゃい。……教授のとこにはまた放課後尋ねようか」

 「そうだなぁ……うん、そうしよう。……そんじゃ、みなキャンの方よろしくな」

 「うん」

 そんなやりとりを終えて龍望は慌てて農学部キャンパスの出口へと走って行った。

 「みなキャン……? それに死活問題とかってなんのこと?」

 「あー……」

 説明するのが面倒くさいのか、そう漏らしてから秀太はふっと理寧の顔を見る。

 「午後から時間あったら……の話だけど、ちょっと見てみる?」

 「……?」

 説明不足な秀太の話に、理寧は不思議そうに首をかしげていた。

 

 

5――秀太とみなしごキャンパス

 

 特に説明もないまま、理寧が秀太に案内されたのはみなしごキャンパスの建物だった。

 「ここって……みなしごキャンパスじゃないの?」

 「そうだよ。やっぱ農学部の学生さんなら知ってたかな」

 「ええ、農学部の所有施設だからね。……でも、こんなとこに来てどうしたの?」

 その言葉に、秀太は言いにくそうに苦笑する。

 「ま、とりあえず入ろっか。立ち話もなんだし」

 そう言ってみなしごキャンパスの玄関の鍵を開ける秀太に、理寧は戸惑いながらもついて中に入る。秀太がみなしごキャンパスに入るだけで、リジチョーたちが嬉しそうに秀太に駆け寄る。

 「ハイみんなただいま~」

 飛び掛かってくるリジチョーをなだめながら室内の動物たちにそう言う秀太。そんな彼を見て、理寧は徐々に秀太がこの施設に来た意味を理解し始めて驚き始める。

 「ただいま、って……え、ちょっと待って? 鍵も持ってたみたいだけど……えっと……武見里くんって、工学部の学生なのよね……?」

 混乱している様子の理寧に、秀太はリジチョーを撫でながら言う。

 「一ヶ月前から、タツと住み込みでここの管理をしてるんだ。みなキャンの方よろしくってのは、動物のお世話を頼むってこと。僕、今日は午前中の講義しか取ってないからさ」

 「そうだったんだ……でも、ここの動物ってみんな訳ありで人間不信だって聞いてるけど、そんな子たちの世話なんて大丈夫なの?」

 不思議がる理寧に、秀太はあっさりと言う。

 「自慢じゃないけど、動物にはそんなに嫌われない体質みたいだし、それにリジチョーがいてくれるからね。お世話の方は問題なくできてるよ」

 そんな話の最中、リジチョーが興味津々で近づいてくる。

 ――アン!

 「えっと、リジチョーってこの子のこと?」

 「うん。荒俣さんの飼い犬なんだけど、この子も他の子たちと一緒に預かってるんだ。……あ、荒俣さんって前の管理人なんだけどさ、今ちょっと体調崩して入院してるんだ。だから僕たちでここの管理をしてるんだ」

 「そっか、じゃあリジチョーは別に訳ありとかじゃないんだ。……でもさ、この子がいてくれるのと、動物たちの世話がやりやすくなるのとって関係あるの?」

 「荒俣さんも言ってたんだけど、リジチョーは人とも動物ともすぐに仲良くなれる子だから、まあ……いわゆる橋渡しをしてくれてて。それで、えっと……なんて言ったらいいかな……」

 「……この子が仲良くしている人間はいい人だって、みんな思ってくれるってこと?」

 「そうだね。……うん、そんな感じ。だからリジチョーのおかげで、気難しい動物相手でもお世話に困ることはないんだ」

 「なるほどね……あ、そう言えばさっき「お世話の方は大丈夫」って言ってたけど、あれってもしかして大丈夫じゃないこともあるってこと?」

 その言葉に、秀太は痛いところを突かれたのか、表情を曇らせる。

 「あー……うん……今、ちょっと問題があってね。……困ってるんだ」

 「天利くんが言ってた死活問題ってヤツ?」

 「そう、それ……。……あ、ちょっとごめんね」

 そう言って、秀太は裏口に向かって歩き出す。

 「どうしたの?」

 「そろそろ、運動場にみんなを出してあげようと思って。モーターの放牧だけに使ってちゃもったいないからね、天気が良くて誰か一人でもここにいる時は、みんな外で遊ばせるようにしてるんだ」

 「そうね、確かに外で遊ばせた方がストレスとかは少なくなるだろうけど……その、モーターって?」

 「ああ、あの子――あの白い馬の名前だよ」

 秀太が裏口のドアを開けると、のんびりと草を食べているモーターがいた。

 「ここ、馬もいるの……?」

 さすがに、馬の飼育には理寧も驚きを隠せない。

 「いるよ。ここには荒俣さんと縁があればどんな動物だって来るから」

 その時、モーターも遠くからではあったが秀太の姿が見えて、嬉しそうに一鳴きしてから駆け寄ってくる。

 「ん、どうしたのモーター? ……ほら、みんなもこれから外に出るんだから遊んでおいでよ」

 そう言われて、モーターはまた嬉しそうに一鳴きして、まるで室内の動物たちが来るのを楽しみにしているかのように、運動場の中ほどまで戻って行く。

 「顔を見てわざわざ近寄って来るなんて、あの子、武見里くんのことを信頼してるのね」

 「そうだね、自分で言うのもなんだけど、モーターが自分から近寄ってくれるのって僕ぐらいだから。なんか嬉しいよね」

 「そうね。嬉しいし、それってすごいことよ」

 理寧がそう話した時には、運動場に出る時間を察したのか、室内の動物たちはみな秀太の足元に集まっていた。

 「あ、みんなも来たわ」

 「室内でも遊べるけど、やっぱり外で遊ぶ方が好きみたいだから、裏口を開けると呼ばなくても来てくれるんだ。……楽しみなことに貪欲なのは、この子たちにとってはいいことなんだろうね」

 理寧にそう言ってから、秀太は動物たちに先ほどの困った表情をすぐに隠し、いつもの優しい笑顔で言う。

 「ほら、僕もう今日は出掛けないから、日が暮れるか飽きるまで遊んでおいで」

 その言葉に応えるように、動物たちは各々に運動場に飛び出していく。

 「……あなたと一緒にいるところだけ見たら、人間不信なんて嘘みたい」

 「……そうだったらいいんだけどさ」

 理寧の言葉に、秀太は優しくも不安げにそう言った。

 

 

6――当たり前の覚悟と、世の中の無責任

 

 動物たちを運動場に出して、来客があってもわかるように裏口を開けたままに二人は運動場で動物たちを見守っていた。その間、秀太は理寧に一匹一頭一羽ずつ、どうしてここの動物たちが人間不信になったのか、どうしてみなしごキャンパスと縁があったのかを話し、理寧も獣医の卵として秀太の話に真摯に耳を傾けていた。

 「そんなことがあったら、人が怖くもなるわね……」

 「……それでも、みんな一生懸命生きてるのは本当にすごいと思う。カストルたちを見てたら、なんだか生きてく意味について考えさせられるんだ」

 「そうね……ここのみんなは、ただ単純に毎日生きてるわけじゃなさそうだもんね……」

 「意味が無く生まれてきた命も、意味が無く生きていく命も無いんだ、って……前は友達として。今は管理人……というより、家族としてかな?  この子たちと一緒に過ごしていると思い知らされるよ。あー……「思い知らされる」ってのは言葉が悪いかな……?」

 「いいんじゃない? 悪気が無いのなら、日本語の使い方なんかでこの子たちは傷ついたりしないでしょうし」

 「そっか。……それもそうだね」

 理寧の話に安心したように小さく笑う秀太に、理寧も返すように微笑む。それから二人は、改めて尊敬するように運動場で遊んでいる動物たちを見る。そしてしばらく動物たちを見ていた後、理寧が思い出したかのように秀太の方へ向き直る。

 「あ、そうだ。……それでさ、話が途中になってたんだけど、ここの管理の死活問題ってどういうことなの?」

 「あ、忘れてた。まあ、その……早い話が金欠なんだ」

 「金欠って……お金が無いってこと?」

 あっけらかんと訊いてくる理寧。

 「そ。……寮からここに移って寮費を浮かせて、それとバイト代を合わせて管理費にあてようと思ったんだけど、狙ったようなタイミングでバイト先のお店が休業しちゃって……それでどうしたらいいか、釧介教授に相談しようと思ってね」

 「ああ、だから農学部の構内に来てたのね。……ってことは、みんなのご飯とか買えなくなっちゃったってこと?」

 「いや、それは寮費分と農学部からもらってる費用と、あと最後にもらえたバイト代の方でギリギリ大丈夫。……って言っても、今週でみんなの分のお金もなくなっちゃいそうだけど……」

 「今週でかぁ……確かにそれは死活問題ね……」

 「僕らの食費も削ってはいるんだけど、これ以上削ったら冗談抜きで死ぬかもしれないし……」

 「死ぬかもしれないって……それは大げさでしょ」

 「まあ……学校の水道でタダで水は飲めるわけだし……一日一回はちゃんと食べてるんだから、死ぬかもってのはさすがに大げさか」

 冗談だと思って軽めにそう言う理寧に苦笑する秀太。その様子を見て、理寧はハッと気付いたように驚く。

 「え……ちょっと……! 一日一回って、あなたずっとそんな生活してるの?!」

 「う~ん……ずっと、ではないけど、ここ一週間くらいは朝食しか取ってないよ。それだけでだいぶ食費は浮くからね」

 あっさりと答える秀太に、理寧は驚きを隠せない。

 「ありえないって……普通そこまでしないわよ……」

 驚いた勢いで思わずそんなことを言ってしまう理寧に、秀太はどこか真剣みを帯びた顔つきになる。

 「普通とか、そんなことじゃなくってさ……ここの管理をするって決めたのは僕なんだ。なのに自分の生活費を優先させるなんて無責任だから。タツまで巻き込んで、しかも釧介教授に頼ろうとしている時点で何言ってるんだ? って話にもなっちゃうけど……」

 秀太の話を聞いて、理寧はふと悲しげに何かを思い出し始めたようだった。

 

 ――「捨てた?! なんで?!」

 理寧が高校生だった時、数か月前に犬を飼いはじめたという友人から「犬を捨てた」と聞いて、理寧は驚きを隠せなかった。

 「だってさあ、仔犬の時はあんなにかわいかったのに、でっかくなったら急に大食いになるしかわいくなくなったんだもん。あたしの小遣いで世話してるから、餌代もバカになんないし! ……大丈夫だよ、あの公園、それなりに人も来るからきっといい人に拾われるって!」

 「そういう問題じゃなくって! ……動物を飼うって決めたなら、最後まで世話するのが常識でしょ?!」

 「知らないよ、そんなの。捨てられててかわいそうだから拾ってやったのにさぁ……あいつのせいで欲しい物が何にも買えなくなるとかマジないし……あーそっか、理寧ちゃんの親って二人とも偉い獣医さんだもんねぇ。やっぱ動物に対してはうるさいんだ」

 「親とかは関係ないって! 動物を大事にするのは誰だって当たり前じゃない!」

 「そんなこと言ってもさ、理寧ちゃんだって買いたい物とか買えないのツラいでしょ?」

 そう言って、友人は何かを思い出してから嫌悪を含んだような顔をする。

 「あ……それはないか。理寧ちゃん家はお金持ちだもんねぇ。いいなあ、欲しいものとかなんでも買ってもらえてさぁ」

 悪気もなくそう言う友人に、理寧は何も言わずとも怒りと悲しさを覚え、逃げるようにその場を去って行った。

 「あ、ちょっと理寧ちゃん? ……何、あの子? 変なの」――

 

 ――あの子だけじゃない。あたしの周りで動物を飼っていた人たちは、全員とは言わなくても自分の時間やお金を優先して動物をないがしろにする人たちばっかだったのに……この人……

 理寧の思いを知る由もなく、秀太は急に黙った理寧を心配して、

 「……どうかした? ……急に黙っちゃったけど」

 と、顔を覗き込んで声をかけた。

 「どうもしないけど……ちょっと……嫌なことを思い出しちゃって」

 「もしかして、僕のせいだったりするかな?」

 「……ううん、それはないから気にしないで」

 そう言って、理寧はふと時計を見る。

 「……あたしそろそろ帰るかな。今日はホントありがとね。話を聞いてもらったり、愚痴まで聞いてもらっちゃったし、動物のために頑張れる人がいるってわかって、獣医学生としては嬉しかったわ」

 「話を聞くのもここの管理も、全部好きでやってるからね。そう言ってくれると僕も嬉しいよ。……お互い様だね」

 「そうね。……いいわね、こういうお互い様」

 どこかくすぐったそうな理寧の笑顔に、秀太も安心したように微笑む。そんな秀太の笑顔を見て、理寧はあることをどうしても秀太に伝えたくなった。

 「あ、あのさ……!」

 「ん? なに?」

 言葉の続きが喉まで来るが、理寧はそれを押し戻すように一呼吸置く。

 「その……教授に相談して、なんとかなればいいわね」

 「まあ……きっと、うまくやれるよ。大丈夫。……それじゃあ、もう薄暗いから帰り道気を付けてね」

 根拠もないその言葉……秀太の口癖に、理寧は不思議と本当に、この男ならなんとかしてしまうのではないかという確信を覚えた。みなしごキャンパスの金銭危機も、誰に打ち明けたことのない、理寧自身が抱える気持ちの靄ですらも……

 「ありがと。……それじゃ、お邪魔しました」

 挨拶をして、理寧はみなしごキャンパスを出た。そして、ガラス戸を通しても中からは見えない場所まで歩いて、後悔の色を見せた。

 ――お金はある……けど、いきなりそんなこと言ったって困らせちゃうだけだろうな……あたし、意気地なしだ……

 やるせないため息を一つ吐き、自分を卑下するようにそう自分に言い聞かせてから理寧は自宅のマンションへと歩き出した。

 ――でも、人のために何かしてあげたいなんて……初めてかも……

 そんな思いが、理寧の中に確かに存在していた。

 

 

7――いざ、二度目の出陣……?

 

 理寧が帰ってから少ししてAAEのすべての講義が終わった頃に、秀太と龍望は再び農学部キャンパスの中にある、「応用臨床学講座 教授室」の前にいた。

 「嫌だ……ああー嫌だ! あの人と話すのやっぱ嫌だぁ! 荒俣さん倒れた時みたいに、またあーだこーだ言われるの嫌だぁ……!」

 「あのさ……そんなこと言ってたってどうにもならないって……」

 龍望と長い付き合いの秀太も、どうにもならないことで駄々をこねられて少し呆れているようだった。

 「そりゃそーだけど……」

 「それにほら、嫌なことは早く終わらせた方が――」

 そこまで言って、秀太はふと歩いてきた廊下に目をやる。

 「……あれ?」

 「どうした?」

 「いや……なんでもない」

 秀太があまりにもあっさりとそう言うものだから、龍望も特に気にすることはなかった。

 「そっか? ……んじゃ行くかぁ……」

 いかにも気乗りしない口調でそう言い、龍望は教授室のドアに手をかけた。

8――釧介の判断、秀太の決断

 

 「ダメだ」

 応用臨床学講座、教授室。

 秀太と龍望による一通りの説明の後、釧介は考えることもなくあっさりとそう言い放つ。

 「ちょ……即答ですか?!」

 そう言う龍望も即答に近い、ということはここでは誰も気にしない。

 「もとから、大学から出せる金は出しているんだ。それをお前たちのやりくりの都合で、増やせるわけがないだろう」

 その言葉に困り果てる秀太と龍望。そんな二人を不憫に思ってか、仕事をしながら話を聞いていた佐木が三人のもとに歩み寄る。

 「どうにかならないですかね? 無駄遣いをしているわけでもないみたいですし。……ほら、バイト先が潰れて収入がなくなったのだって、二人に非はないじゃないですか」

 「そうですよ、別に無駄遣いなんかしてないし……その、次のバイトが見つかるまででいいんです!」

 ここぞとばかりに訴えかける龍望だったが、釧介は冷ややかに視線を秀太に移し、これ見よがしにため息を吐いた。

 「……もともとあそこの管理をすると言い出したのは武見里、お前だったな?」

 「……そうだよ」

 「なら訊くが、もし新しく人間不信によって飼育が困難な動物がみなしごキャンパスに持ち込まれたら、お前はそれを受け入れるか?」

 「断って、それでその子が処分されるんだったら受け入れる」

 迷いのない即答に、釧介は眉をひそめる。

 「だとすれば、たとえお前たちが次のバイトを見つけるまでの間だけ大学から資金援助ができたとしても……だ。バイトが見つかろうが動物が増えれば、学生が稼げる金などすぐに尽きるぞ?」

 「そんなこと言っても……これから動物が増えるかどうかなんてわからないじゃないですか……」

 「まあ、そうだな。保護動物自体は多い世の中だが、人間不信の保護動物となるとそこまで多くはないだろうが……動物が増えることがないとしても、今いる動物たちだっていずれは病気や老衰で今以上に金がかかるようになる。……どっちにしたって、学生にあの施設の管理は無理だったんだよ。バイト先がなくなったことなんて関係なしにな」

 そう言っておいて、釧介はどこかやるせない表情を見せる。

 「いいか? 世の中には、どんなに頑張っても生きられない命もあるんだ。みなしごキャンパスの動物だけが特別だなんて、そんなバカげた話はない……」

 獣医としての経験だろうか、そう語る釧介の言葉は重く秀太にのしかかる。だが、納得するどころか、秀太の胸中には大きな疑問が浮かび上がる。

 「それってさ……お金がないと、生きてちゃダメなのかな……」

 小さく、消えそうな声でそうつぶやく秀太。

 「え?」

 「……どういうこと?」

 いきなりの疑問に、龍望も佐木も秀太を見る。

 「助けてあげたいって気持ちがあっても……そう思った人間にお金がないってだけで……あの子たちは生きちゃダメなのかな……」

 その場にいる誰もが、秀太の言いたいことに気付いている。が、そんな彼にかける言葉を、誰一人として見つけることができなかった。

 「金がないのに動物の世話をしようとすること自体、無責任なんだ。……ペットを飼うこととは訳が違い、なによりあの気難しい動物たちに懐かれて、そんな状態であいつらを無駄に死なせたくないという気持ちはわかるがな。だが、世の中それだけじゃダメなんだよ」

 「……」

 まるで己の非力さを呪うような、助けてやれない命に申し訳なく思うような、そんな思いが言葉にはならずともこぼれる秀太を、龍望は心配そうに見ることしかできない。

 「ヒデ……」

 「とにかく、これ以上話すこともないだろう。……一ヶ月とは言え、お前たちはよく頑張った。それに、管理人になるという決断だって決して軽い気持ちではないこともわかっている。……だから、あまり気を落とすな」

 やりきれなさそうな調子でそう言う釧介に、秀太も龍望も悔しそうにうつむく。

 しばらくそんな重い空気の中の沈黙が続いたが、その沈黙を破ったのは、静かに、何も言わずにドアの方へと歩き出した秀太の行動だった。

 「お、おい……! まだ話まとまってないのに、何帰ろうとしてんだよ!」

その呼びとめに、秀太は釧介たちに背中を向けたままではあるが歩を止める。

 「教授の言う通りだよ。これ以上話すこともないのに、いつまでもここに居たって迷惑なだけだから。だからもう帰ろう?」

 予想もしない秀太の言葉に、龍望は思わず、

 「なんだよ……お前、うまくやれるなんて言っといて、なのにあいつら見捨てる気なのか?」

 と、明らかに怒っている口調を隠すこともできずにそう言った。

 「……見捨てるつもりはないけど――」

 「じゃあどうするってんだよ?! ……東京に頼れる人間なんていねえ、今の状況をなんとかできる可能性があるとしたら、みなキャンの現状を知っている釧介教授だけだって……だからこうして説得しに来たのに、それ諦めてどうするってんだよ!」

 秀太の言葉を遮ってそう言う龍望の言葉を受けても、秀太は振り向きはしなかった。

 「……。大学を辞めれば、きっとなんとかなる。」

 「……は?」

 秀太の言葉に、その場にいた全員が一瞬、何を言われたか理解できなかった。

 「辞めるって……」

 「大学を辞めて、どうするというんだ?」

 そう訊く佐木や釧介に、秀太は向き直って言う。

 「もしかしたら……って思って、管理を引き受けようと思った時から考えてはいたんだけどさ。今年度の後期分と、来年度分の授業料用に貯めておいたお金を使えば、しばらくはみんなの世話もできると思うし、その間に仕事を探せば、何とかなると思うんだ。……そりゃ、できればそれ以外の方法があればいいなって思って、それで教授に相談しにも来てみたけど……それもまあ、よくよく考えたら甘い考えだったなぁって」

 そう話す秀太は、誰が見ても本気だった。

 「バカを言うな。確かにそれだけのことをすればみなしごキャンパスの動物たちの世話も可能だろうが……だが、大学を辞めるほどのことなのか? 詳しくは聞いちゃいないが……何か目的があって、わざわざ北海道から出てきてまでこの大学に入ったんだろう? それを投げてまで、あそこの管理にこだわる理由なんかあるのか?」

 釧介の話に、秀太は無意識にも強く拳を握っている。

 「あの子たちが生きる場所を、失くすわけにはいかないんだ……」

切実なその想いに、誰も口を出せなかった。

 「そりゃそうだ……一度は助けておいて、なのに金がないなんて情けねぇ理由で居場所を奪うなんてそりゃひどすぎるさ。でも……それはヒデが悪いわけじゃねえだろ? いくらなんでも大学辞めるなんて無茶苦茶だよ!」

 龍望の説得に、秀太は気まずそうな表情のまま何も言わなかった。そして、その場から逃げるようにまた部屋の外へと歩き出す。

 「おい……!」

 「武見里!」

 秀太を呼び止めたのは、釧介だった。

 「……お前がそうしたいというなら止めはしないよ。だけどな、大学を辞めるというのが本気だったとしても今日はもう時間も時間だ、何もできないだろう?」

 感情のこもってない声でそこまで言ったあと、釧介はまるで静かにも説得するかのように言葉に重みを出す。

 「一晩でもいい、とにかく少し頭を冷やせ。……成り行きで任された施設の管理と、わざわざ北海道から出てきてまで学びたいことと、お前の中でどっちが本当に大事なのかを、もう一度冷静になって考えてみろ」

 釧介の言葉に、秀太は何も答えずに部屋を出て行った。

 「……忙しいところ、失礼しました」

 秀太のことを心配してか、気持ちがこもっていないことこの上ない挨拶をして、龍望も秀太を追って教授室を後にした。

 「確かに難しい問題ですけど……でも、何とかしてあげたいですね」

 「してあげたいも何も……してやれることはもうしているんだ」

 キッパリとそう言って、釧介は何か意味ありげに秀太と龍望が出て行ったドアの方に目をやる。

 「まあ……それはあくまで大学側が、という話だが」

 「え?」

 不思議がる佐木に応えるかのように、ドアをノックする音が教授室に響いた。釧介は、わかりきっていたかのようにどこか面倒くさそうに目線を落とした。

 

 

9――やらなきゃいけないこと

 

 みなしごキャンパスに帰って、何も知らずにじゃれてくるカストルやポルを撫でている秀太と、そんな彼を何も言わずに睨むように見据える龍望。そのうち、痺れを切らすように龍望が切り出す。

 「なあ……お前何のためにわざわざ北海道出てさ、東京の大学なんかに来たんだよ?」

 「……」

 龍望の問いに、秀太は目こそ合わせるも何も言ってこない。

 「やりたいこと……やらなきゃいけないこと、あるからだろ?」

 その言葉に、秀太は憂鬱そうにうつむいてしまう。同時に動物たちを撫でていた手が止まったことに、カストルもポルも不思議そうな表情をして秀太を見上げる。

 龍望が言うように、秀太にはやりたいことというには大きすぎる、彼の人生においてやらなければいけないことがあった。やらなければいけないことがあるからこそ、秀太は貧困家庭の出でありながら高卒で働く道ではなく、学費以外の費用を抑えられる地元の公立大学に通うでもなく、公立で授業料が安めだとは言ってもわざわざ東京の大学に通っているのだ。

 ――そんなこと、わかってるよ……

 龍望に言われ、そんなことを思うと共に、秀太は高校生の時のことを思い出す。

 

 ――秀太が高校一年、龍望が中学三年の時のこと。中学と高校、また、お互いの家が近いこともあり、二人は学校が違うこの一年間も、同じ中学に通っていた数年同様、いつも一緒に登下校していた。

 「大学に行く……? マジで言ってんの?」

 下校の際に急に告げられた事実に、龍望は思わずそう聞き返してしまう。

 「え……そんなに信じられない?」

 「いや……学力の方は信じられなくないけどよ、その……大学ってすげぇ学費かかるっていうからさ。さすがにこんな時代だから高校は無理してでも入るべきだろうけど……俺、てっきりお前は高卒で働くもんだと思ってたから」

 「高校に入るまでは僕もそう思ってたんだけど、でもどうしても学びたいことができちゃって。それで、無理を承知でうちで話してみたらさ……費用はなんとかするから、頑張って進学しなさいって……そう言ってくれて……費用の面での話だけど、国立大学だったらギリギリで入れそうだし、入りたい大学の学生寮が下手に賃貸借りるよりもずっと格安みたいだし。それで、受験頑張ってみようと思って」

 そう話す秀太は、少しだけ申し訳なさそうな雰囲気である。

 「ふ~ん……それにしても大学かぁ……で、どこ狙ってんの?」

 「あきる野農工大学」

 「あきる野……農工大学……?」

 「そ、あきる野農工大学」

 「どこ?」

 「東京」

 「東京?! 遠いな、おい!」

 驚く龍望に、秀太は少し苦笑気味になる。

 「まあ……確かに遠いけど授業料がなんとかなる国立の大学だし、さっきも言ったけど学生寮の寮費もすごく安いし。それにさ、そこの工学部出身者の航空機製造の就職率がすごくいいんだって。それが、あきる野農工大学に行きたい一番の理由かな」

 この時点で、まだ高校受験すら受けたことのない中学生である龍望にとって、大学や就職率なんて話はまだ遠い先の話に思えた。

 「就職率……そんなことも考えてんのかよ……てか、そもそも航空機製造って何?」

 「飛行機の部品を造る仕事だよ」

 あっさりとそう言った秀太に、龍望はハッとする。

 「あー……なるほどな……飛行機を造るって、そりゃあヒデにとっちゃ意味がでっかいことだもんな。できるのなら、それはお前のやらなきゃいけねえことだよ」

 この時点で、出会って三年目。秀太が生きていくうえで抱える事情を、龍望は家族のように理解していた。また、この会話の中ではそのようなことはなくとも、逆も然り……秀太もまた、龍望が生きていくうえで抱えている事情をしっかりと理解していた。だからこそ、秀太はこうして、龍望に大学進学の話をしているのだ。

 「……大学に行ったからってその仕事ができるかどうかなんてわからないし、そもそも入試だってまだ受けてないけどさ。とにかくやれるとこまではやってみたいんだ。やっぱり……できるなら、飛行機を造りたい」

 龍望は、秀太が飛行機を造ることにこだわる理由を知っていた。だからこそ、急な話にも納得し、応援することができた。

 「まー、アレだ。うまく言えないけどよ、いい夢っつうか、志っつうか……頑張れよな。ヒデならうまくやれるって」

 龍望が秀太にかけた激励の言葉は、意識して言ったわけではないにもかかわらず、秀太の口癖そのものだった。

 「ありがとう。……そうだね、きっとうまくやれる。やってみせるさ」

 柔らかい口調の中に、力強さが垣間見える「うまくやれる」の言葉。その言葉に、龍望は安心したように笑った――

 

 今大学を辞めれば、秀太はやらなけれないけないこと――航空機製造にかかわることができなくなる。そんなことは、秀太が一番わかっていた。わかっていて、自分のやるべきことと、それと引き換えに救える命があることに、悩み、黙り込む。

 「黙るなよ……なあ……」

 秀太の心境を知っているくせに、龍望はあえて言う。そんな龍望の言葉をも無視しながら、秀太は今の自分に答えが出せないことを承知の上で考えた。

 そんな秀太を、カストルとポルは心配そうに見つめている。さらにはピースやリジチョーまでもが彼の傍に寄ってきては、慰めるように体をこする。

 秀太はふっと力なく笑い、動物たちを静かに優しく、順に撫でながら口を開いた。

 「……秤にかけちゃいけないことって、あるよね」

 「答えになってねえよ。……俺が訊いてんのは、やらなきゃいけないことがあるからここに来たんだろ? って――」

 「ごめん……」

 龍望の言葉を遮って、秀太は少し強めの口調でそう言い放つ。

 「……気持ちは嬉しいけど、自分のやりたいことと、この子たちの居場所を秤になんかかけたくない」

 申し訳なさそうにそう言う秀太。

 「……なんでそうやって、自分の気持ち曲げるんだよ! そーいうのが嫌だから、ヒデが誰かの為にって自分のことをないがしろにするのが嫌だから! だから、少しでも何か手伝えるようにって俺も東京のこの大学に来たってのによ! これじゃ意味ねえじゃん……」

 自分のことのように悔しそうにそう言う龍望に、秀太は優しい表情で顔をあげて龍望を見た。

 「同じ大学を選んでくれたことも、一緒にここの管理するって言ってくれたこともすごく嬉しかったよ。……ありがとう」

 不意を突くようなその言葉に龍望は複雑そうな顔をしてから、まるで表情を隠すようにうつむいた。

 「そうやって……」

 そう切り出した声は震えていた。

 「そうやってまた自分の気持ちないがしろにして……そんなこと続けて、たった一度の人生失敗したって、俺はもう知らないからな!!」

 言いながら立ち上がって秀太を見据える龍望。

 二人は少しの間沈黙の中で互いに目線を逸らさずにいたが、やがて龍望が、寝室として使っているみなしごキャンパスの管理人室へと歩いて行き、秀太に背を向ける形でドアの前で立ち止まった。

 「……おやすみ」

 そうだけ言って、龍望はドアを乱暴に開けて管理人室に入り、少しの間をおいてこれまた乱暴にドアを閉めた。

 「……」

 誰もいなくなった管理人室のドアの前を、秀太は虚しげにしばらくの間見つめていた。

 

 

10――意外なお客様

 

 翌日の土曜日、二人はフリースペースのテーブルを挟んでソファに座り、向き合いこそするも、ただ黙々と、何も話すことなく朝食をとっていた。

 結局のところ、昨夜は秀太が大学を辞めるかどうかの話し合いをすることなく気まずい空気の中、同じ部屋で就寝した秀太と龍望だったが、その気まずさが尾を引いているのか今のこの状況に至るのだ。

 しかし、二人ともこのままでいいとは決して思っていない。だからこそ、普段のような何気ない会話すらもすることができない朝なのだ。

 「……なあ」

 「ん?」

 先に話しかけたのは龍望だった。秀太は驚くこともなく、話を聞こうと顔をあげる。

 「やっぱり……大学辞めるわけ?」

 そう言われ、秀太は少しだけ表情を暗くするだけで、何も答えない。

 「昨日は、その……ムキになったり話の途中で勝手に寝たりして悪かったよ……うん、悪かった……ごめん。でもさ、何も教授の言うこと全部を真に受ける必要なんかないと思うんだ。……動物だってこれから増えるかどうかなんてわからないし、今のままだったら、またバイト見つけたら何とかなると思うんだよ」

 最初はばつ悪そうに、そしてどんどんと無理矢理作ったような明るい口調になっていく龍望。

 「でも、教授が言ったようにここの誰かが病気になったりしたら、結局はバイト代じゃ足りなくなるよね」

 起伏のない、当たり前といった口調で返す秀太。

 「まあ、そうだけど……あーもう! なんだよ、人がせっかく心配してやってんのに! ……そんなに大学辞めたいのかよ!」

 「そうじゃないけど……まとまったお金か安定している収入がないと、遅かれ早かれまたこんな状況になるのは目に見えてる。……一晩ずっと考えたけど……授業料を崩して今から仕事探す以外に、いい方法が見つからないんだよ……」

 珍しくも少しだけムキになってそう言う秀太に、龍望はばつ悪そうな顔をする。

 「けどよ……」

 その時、何の話をしているかもわからずに、カストルが秀太の足元に甘えようとやって来て、撫でてくれと言わんばかりの声で鳴く。

 「カストル……ほら、おいで」

 呼ばれて、カストルは嬉しそうに秀太の膝に乗り、撫でてもらい始める。

 嬉しそうなカストルを、秀太は愛おしそうに、どこか悲しそうに撫でながら言う。

 「大学を辞めたって僕は死んだりしないけど……でも、お金を作れなきゃカストルたちは処分されちゃうんだよ?」

 秀太に撫でてもらいながらご満悦のカストルのもとに、ポルもてこてことやってきて、まるで遊びに誘うかのようにカストルに一鳴きする。すると二匹は秀太から離れて、じゃれ合うように部屋中を駆け回り始めた。

 「勝手な押し付け、エゴだってのはわかってる……けど、この子たちには生きていてほしい。……生きて、今までの辛かったこと以上の楽しいことをたくさん見つけてほしいんだ……」

 その言葉に、遂に龍望は秀太にかける言葉を見つけることができなかった。

 ――♪。

 と、その時。みなしごキャンパスの呼び鈴が響いた。

 「誰だよ、土曜の朝っぱらから……」

 いきなりの訪問者に玄関の方を見る二人。ガラスでできた玄関扉の向こうには、昨日知り合った女子大生――和幸理寧が、どことなく緊張した様子で立っていた。

 「理寧さんだ……!」

 「え……?」

 「和幸理寧さん、ほら……昨日教授室から飛び出した女の子!」

 「あー、あの人か! ……でも、なんでここに?」

 驚きつつも、秀太と龍望は玄関へと歩いて玄関を開けた。

 「あの……おはよう。……急に来たりしてごめんね?」

 話してみて、理寧が緊張していることを秀太ははっきりと感じ取った。

 「いや、それは別にいいんだけど……」

 「一体どうしたんですか?」

 不思議がる二人に、理寧はまだどこか落ち着かなさそうに、

 「その……ちょっと話があるんだけど、時間とか大丈夫かな?」

 と、訊く。

 「今日は講義ないから、時間はあるけど……」

 「そっか、よかった。……じゃあ、ちょっとお邪魔していい?」

 「……いいよ、入って」

 「ありがと」

 それから理寧はフリースペースのソファに案内され、秀太と龍望は自分たちの朝食を片付けて理寧にお茶を入れた。

 

 

11――訪問のわけ

 

 「それで、なんなんですか? 話って……」

 四年生――自分よりも年上の、昨日であったばかりの女性を相手に敬語になる龍望だったが、少なくとも秀太はそんなことは気にしていない。今秀太が気にしているのは、そんな龍望の問いの答えである。

 理寧は、龍望の問いに改まった様子で真剣な表情になった。

 「あのね……」

 切り出してすぐ、理寧は緊張のためかうつむいてしまうが、程なくして真剣な表情のまま、真っ直ぐに秀太と目を合わせる。

 「あたしにもここのお手伝いをさせてほしいな、って……思って……」

 「手伝い……」

 理寧の言葉に、龍望は何のことかわからないといった様子だったが、昨日一通り理寧と話をしていた秀太はなんとなく、何のことかわかったように反応する。

 「それと、まずは謝んなきゃって思って……悪いかなぁとは思ったんだけど、昨日教授にここのお金のことを相談してるの、教授室の外で立ち聞きしちゃったの。それは、その……ごめんなさい……」

 「立ち聞きって――」

 「……やっぱりそっか」

 龍望は理寧の話がまだピンとこないようだったが、秀太は納得するように言う。

 「やっぱりって…………あ!」

 そこまで言って、ふと龍望は昨日のことを思いだす。

 

 ――放課後、釧介にみなしごキャンパスの金銭のやりくりを工面してもらおうと教授室の前に来た秀太と龍望だったが、龍望が釧介に会うことを渋りだした時のこと。

 「それにほら、嫌なことは早く終わらせた方が――」

 そこまで言って、秀太はふと歩いてきた廊下に目をやる。

 「……あれ?」

 「どうした?」

 「いや……なんでもない」

 秀太があまりにもあっさりとそう言うものだから、龍望も特に気にすることはなかった。

 「そっか? ……んじゃ行くかぁ……」――

 

 「そういやヒデ、教授室入る前になんか気にしてたもんな。あれ、和幸さんだったんだ……」

 「え、気付いてたの……?」

 少し驚く理寧に、秀太は小さくもうなずく。

 「まあ……」

 「気付いてたなら、なんで声かけたりしなかったんだよ?」

 「向こうも声かけてこなかったから、こっちも声かけない方がいいのかなって……」

 「あー、それもそっか……」

 そんな秀太と龍望のやりとりに、言葉にはせずとも理寧は改めて秀太の人柄に感心するも、どこか言いにくそうに話しだす。

 「それで、その……釧介教授にお金のことを相談しに行くって聞いて気になってはいたんだけど、ついて行ったりしたらおせっかいかなって思って……」

 「結局、こっそりついてきたってことですか……」

 少しばかり、龍望は呆れている様子だった。それに気付いて、

 「ごめんね、やっぱりどうしても気になっちゃって……」

 と、理寧も申し訳なさげである。

 「別に謝ることないよ。誰に迷惑かけたわけでもないし、それに、気にかけてもらえるなんてむしろ嬉しいくらいだし」

 申し訳なさそうな理寧を気遣って、しかしどこにも恩着せがましさはなく秀太は優しく言う。

 「……ありがと」

 小さくも、嬉しそうに礼を言う理寧。それから、一息置いてからまた真剣な表情になる。

 「あ、それでね。昨日、二人が教授室出て行った後に……あたしも教授とここのことを話したの」

 「ここって……みなしごキャンパスのことですか?」

 「うん……」

 うなずき、理寧は昨日の――秀太と龍望が釧介と話し終えた後のことを話し始めた。

 

 

12――事はこうして進んでいた

 

 昨日、秀太と龍望が教授室を後にしてからのことである。佐木はどうにも秀太たちのことが気になっているようである。

 「確かに難しい問題ですけど……でも、何とかしてあげたいですね」

 「してあげたいも何も……してやれることはもうしているんだ。まあ……それはあくまで大学側が、という話だが」

 「え?」

 不思議がる佐木に応えるかのように、ドアをノックする音が教授室に響いた。釧介は、わかりきっていたかのようにどこか面倒くさそうに目線を落とした。

 「……開いてるぞ」

 釧介がドアの向こうに向かってそう言うと、静かにドアが開いた。

 「失礼します……」

 釧介の予想通り、教授室に入ってきたのは理寧だった。

 「和幸さん……こんな時間にどうしたの?」

 「釧介教授にお話があって……あの、みなしごキャンパスの管理人の荒俣さんが入院された時に、みなしごキャンパス存続の話を大学側に通したのは教授なんですよね?」

 そう言って釧介を見据える理寧に、釧介は話を聞かずともわかっていたかのように言う。

 「そうだ。……話があると言っていたが、あそこの管理費のことか?」

 理寧も、相談したいことをわかっていた釧介に驚くことはなかった。

 「……さっき武見里くんから直接話は聞きましたし、その……立ち聞きなんて悪いことなのはわかってますけど、今の話も廊下で聞いてました」

 立ち聞きしていた後ろめたさからばつ悪そうな理寧だったが、少し間を置いた後、何かを決意したように強気になる。

 「……私、みなしごキャンパスに資金援助をしようと思うんです。そのお話をするのに、お時間をいただきたくて……!」

 その提案にも、少し驚く佐木とは反対に釧介はわかっていたかのように驚かない。

 「……なぜそんなことを報告しに来る? 私は君の親じゃないんだぞ?」

 釧介はわかっている。他学部ゆえにみなしごキャンパスのこととなると自分を頼るしかない秀太たちと理由は違えど、理寧もまた、大学や獣医界に置いて頼れる人間が限られてることを。

 「……みなしごキャンパスの管理に関わることは、教授に話を通した方がいいと思って」

 少し間をおいて理寧が伝えた理由は、釧介の予想とは少しずれたものだった。しかし、

 ――それに……親に相談したってきっと「好きにしろ」しか言わないし……あたしの知る人の中では教授が一番、適切な判断をしてくれる気がする……

 そんなことを、理寧は言葉にせずとも思っていた。釧介の思惑は当たっていたのだ。だが、言葉にしてくれなければ気付くこともできない。釧介は自身の思惑が外れたと思いはしても、戸惑うことはなく理寧の言葉に呆れたように小さくため息をついた。

 「あの……」

 釧介の態度に困惑の色を見せる理寧を気遣ってか、佐木が口を開く。

 「……確かに、和幸さんのお家の経済状況ならできそうなことだけど、でも、資金援助って言っても一回限りで済むような話じゃないのよ?」

 「大丈夫です、わかってます」

 「……わかっている、とは言うが、結局君が出そうとしている金は誰が稼いだものだ?」

 釧介のその言い方に、理寧は釧介が何を言いたいのかがなんとなくわかっているようだった。

 「親から出してもらおうなんて思ってません。仕送り……というか、お小遣いなのかな、もともと月に一回親からもらってるお金でなんとかできます。……それだって稼いだのは親ですけど、でもあたしだって子供じゃないんだから与えられた分は好きなように使っていいでしょう?」

 ムキになりかけている理寧に、釧介はまた呆れたように言う。

 「誰も、自分で稼いでいない金は使うなとは言っていないだろう。……そうだ、君が親からもらった金をどう使おうとそれは構わない」

 「じゃあ、何ですか?」

 どこか攻撃的なままの口調だが、それでも、反論されると思った事項を特に気にされていないとわかり、理寧は内心小さく安心していた。

 「私が言いたいのは、自分で稼いだ金じゃないからこそ、責任の持てる使い方をするべきだということだ。武見里とは今日知り合ったばかりのようだが……管理人への信頼がなくては資金援助なんて意味を成さないだろう? ……会ったばかりの人間をどうして信頼できるというんだ?」

 釧介は、自分でそう言っておいて、嘘をついてる気分になる。

 「……人柄を知るのに、知り合ってからの時間なんて関係ないと思います」

 まるで釧介の予想通りの答えだった。

 そんな理寧の出す答えに、釧介は心当たりがあるかのように小さくも反応するが、何も言葉にしなかったからか理寧はそのことには気付かずに、みなしごキャンパスで秀太が言った言葉を思い出す。

 

 ――「……ここの管理をするって決めたのは僕なんだ。なのに自分の生活費を優先させるなんて無責任だから」――

 

 「根拠なんてないけど……でも、みなしごキャンパスに資金援助をすることに……武見里くんを手伝うことには絶対に意味があると思うんです」

 確信を持って、強く、だが穏やかにそう言った後、理寧は釧介に深々と頭を下げた。

 「だから……みなしごキャンパスの手伝いをさせてください! お願いします!」

 迷いのないその頼みに釧介は押され負けたのか、若干困ったような表情で、またどこか呆れたような口調で言う。

 「なんなんだろうな、あの男は……」

 理寧のお願いに対して釧介がつぶやくまでの時間は、とても短かった。釧介は、理寧が教授室に入ってきたその瞬間から、この結末を予想していたのだ。

 「え?」

 釧介の小さなつぶやきに不思議そうな顔をする理寧に、釧介はなぜか、ふっと切なげな表情を浮かべた。

 「君がそこまで、誰かを信頼していることが不思議なんだ……そしてその誰かが、武見里だということがな」

 「どういうことですか?」

 訊くのは佐木である。

 「あの……私も意味がわからないんですけど……」

 理寧も、自分のことを言われていることくらいはわかるも、釧介が言いたいことがわからない。そんな不思議がる二人に、釧介は少し言いづらそうに話しだす。

 「和幸お前、大学に入る前のことは知らないが……少なくても大学に入ってからは、くだらない連中にずいぶんとたかられているんだろう?」

その話に、理寧も思い出したくないことでも思い出したのか、機嫌を悪くしたように表情を暗くする。

 「……そうですね。単純にお金の面で便利だからって友達面するような人は、いつくらいからだろう……小学校の高学年にもなった頃からずっと周りにいましたし、大学に入ってからは特に、就職の関係で上辺だけ仲良くしてくる人も増えましたけど……でも、それがどうしたんですか?」

 自分に集まる人間の本心に傷ついてきたからこそ、上辺だけの付き合いに慣れてしまった。そんな荒んだ事実を実感させるような話に、佐木は悲しそうな顔をしている。

 「辛いわね……そんな人たちに集まられるのは……」

 「もう慣れました。……こっちも上辺だけの付き合いですから、お互い様ですし」

 本当に何とも思っていないような、平淡な声。佐木はまた一段と気まずそうな顔をし、釧介も険しい顔をしている。

 「そんな連中が金の問題や何かで困っている時、助けたいと思ったことはあったか?」

 「そんなことないですよ。見返りを求めちゃいけないのはわかってますけど、助けてあげたってみんなあたしが困った時には助けてくれないから。面倒くさいから、お金を出してほしいとか言われた時はお金を出してあげますけど、それを当たり前だって顔する人たちを本気で助けたいなんて、思えない」

 「だろうな。……そんな上辺だけの付き合いに慣れて、自身もそんな付き合いを続けてきた君が、そんなにも熱心に他人を信頼して助けたいと思う事が不思議なんだ。それも、今日知り合ったばかりの、まるで違う志を持った人間のためにだ」

 そこまで話し、釧介は秀太が不安から暴れるモーターをなだめた時に龍望とした会話を思い出す。

 

 ――荒俣が倒れたことにパニックを起こしていたモーターが、秀太に触れ合って落ち着きを取り戻した様子を目の当たりにする龍望と釧介。

 そんな秀太を不思議がる釧介に、

 「あいつ、底抜けのお人好しだから。とにかく人が良いから、損得勘定なんて関係なしに動ける。本当に相手のことだけを考えて動いてるんだってことは、どんなに心を閉ざした相手にだろうと伝わるから。だから、人も動物も、あいつに自然と惹かれちまうんですよ」

 と、龍望は今までの経験を踏まえて説明をする。

 「だからと言って、人間不信の動物たちがここまで懐くなんてバカな話があるわけ――」

 「あるんだよ。……俺だって未だに信じがたいって思う時もあるけど」――

 

 秀太のことを〝お人好し〟と話す龍望の話を思い出し、釧介は「参ったな」とでも言いたげな苦笑を浮かべる。

 「私もな、武見里がみなしごキャンパスの管理をすると言い出した時、会ったばかりの、動物とは関係ない学部に所属する学生のあいつを、なぜか信じてみたくなった。それはおそらく、私も君同様に出会ってからの時間の短さなど関係なく、奴に信頼を寄せたということだと思うんだよ。それに武見里のお人好しをよく知っている天利の奴も、まるで武見里のお人好しに心を開いた経験があるような、そんな話し方をしていたし、あそこまでひどい人間不信に陥った動物たちがみんな懐いている時点でも十分不思議な話……そして今度は、人との深い付き合いを避けてきた君まであいつを信頼しているときた。……考えれば考える程、武見里というのは不思議な男だと思わざるを得ないだろう?」

 釧介の話を聞きながら、佐木は釧介の言いたいことがわかったようである。

 「本当、不思議な人なんですね……」

 優しくそう言う佐木に、釧介は苦笑気味に小さく笑ってから理寧を見た。

 「すまない、話が逸れていたな。……それで、みなしごキャンパスへの資金援助の話だが……本気で手伝いたいと思うのなら、大学側には私が話をちゃんと通しておく。だからできる限りでいいから手伝ってやりなさい。武見里なら君の気持ちを無駄にすることはないだろうし、それにあそこは動物の世話をしている施設だ、手伝いをすることで君も何か得る物があるかもしれない」

 釧介の言葉に、理寧はとても明るい表情を見せた。

 「……ありがとうございます!」

 「私だって獣医だ、動物たちの処分をしてほしいなんて、そんなことは思っていない。冷静に考えた場合にも合理的な解決ができるのなら、それに越したことはないからな。礼を言うべきなのは私の方だよ、ありがとうな」

 「いえ……」

 それから、釧介はふっと理寧から目線を落す。

 「もしかしたら……君のことを誰の子供だなんだと言わずに一人の人間として見てくれる武見里を、君が助けることができるのは……偶然ではないのかもしれないな」 

 「え?」

 どこか安心しているような声で独り言のようにそうつぶやく釧介だったが、理寧は聞こえてはいたものの意味がわからず聞き返す。……が、釧介はまるでその声に気付いていないかのようにゆっくりと立ち上がる。

 「すまないが……今から付属病院の入院患畜の様子を見に行かなければいけないから、この話は終わらせてもいいかい?」

 「あ、はい! ……お忙しいところ、失礼しました!」

 少し慌てて返事をした後、丁寧に礼をする理寧。

 「今日話しに行くのはさすがに急すぎるだろうが、早くしないと武見里の奴、本当に大学を辞めかねないからな……明日にでもみなしごキャンパスに話しに行きなさい」

 「そうですね……わかりました。明日、みなしごキャンパスに行ってみます」――

 

 秀太と龍望が、みなしごキャンパスで気まずい話し合いをしていた頃、応用臨床学講座、教授室ではこのように事が進んでいたのだった。

 

 

13――同じ想いを持つ仲間

 

 理寧は、昨夜の出来事を一通り二人に話し終え、

 「それで、ここの金銭的なお手伝いをすることに関して、釧介教授に許可をもらえたの。だから動物のお世話にかかるお金とか、それこそ管理人にあたる二人の生活費とか……とにかくここのお金のことはあたしがなんとかするから! だからさ……やりたいことも諦めないでよ。武見里くん、こんなに一生懸命なんだから……だからやりたいことを頑張ったっていいはずだもの。……詳しくは知らないけど、この大学に来た目的、ちゃんとあるんでしょ?」

 AAEが、試験さえ受ければ入れるような私立ではない――努力を伴わないと入れない大学だからかもしれない。もしくは、秀太自身、彼が持つ〝やらなければいけないこと〟を感じさせる雰囲気を持っているのかもしれない。

 ともかく、航空機製造の仕事に就きたいという話をしていない理寧でさえ、秀太がAAEに入学した理由に感づいていたのだった。

 そう、切実に話す理寧に、秀太は嬉しそうな、しかし申し訳なさそうな顔をしている。

 「いや、すげえありがたい話ではあるけど……いくらなんでも、知り合って一日二日でそれはさすがに……」

 そう切り出すのは龍望だった。その言葉に、理寧は寂しそうな顔になる。

 「……もしかして、迷惑かな?」

 「い、いや……! 別に迷惑とかじゃないですけど! その――」

 「お願いしていいかな?」

 龍望の言葉を遮った秀太の言葉に、

 「え……?」

 龍望も理寧も、同時にそんな声を出す。

 「お金……出してくれるなら、お願いしてもいいかな? って思って」

 それは裏も表もない、秀太らしい素直な気持ちの頼み事だった。

 「も、もちろんよ! そのつもりで来たんだもの!」

 少し慌て気味に、しかし嬉しそうにそう言う理寧に秀太は優しく笑う。

 「……ありがとう。すごく助かるよ」

 「いやあの……「助かるよ」って……まあ確かに助かるは助かるけどよ、なんでそんなあっさり受け入れられんの? 大金が絡む話なんだぞ?!」

 勘違いしてはいけないのは、この秀太と龍望という男たち、貧困家庭の出でありながら、金にたかることを知らない。秀太がそうであることを、龍望がそうであることを、お互いがお互いに理解しているからこそ、あっさりと理寧の申し出を受け入れる秀太に龍望は驚かざるを得なかった。

 「じゃあ、僕が大学辞めた方がよかった?」

 「そうじゃねえけど! そりゃ、俺だってヒデに大学辞めてほしいとか、カストルたちが処分されたらいいとか、そんなことは思っちゃいないけどさ! なんつーか……あんなに悩んで、それで大学辞めるとかって話になって、昨日なんかすげぇ気まずくなったってのに……あっさり過ぎるっつうか……」

 「お金を作る方法がそれしか無いと思ったから大学を辞めようと思っただけで、それ以外の最善策があるならそっちを取りたいに決まってるじゃん。それに理寧さんには昨日ここの話をしてるから、カストルたちの理解もちゃんとあるだろうしさ」

 その話を聞いて、ふっと理寧が思い出したように言う。

 「そう言えば……昨日ここで、うちがその……裕福な方の家庭だって話はしたよね……? その時にお金出してもらおうとかって思わなかったの?」

 「いやぁ……お金持ちだからって頼るのは良くないと思って。……お金とか就職先が目当ての人たちに疲れてるって話も聞いてるんだからなおさらさ」

 その言葉に、理寧は小さくも驚きを覚えたようだった。それは、嬉しさゆえの驚きだった。

 「だったら、なんで今は頼ろうとしてるんだよ? 和幸さんに頼るのが悪いと思ったから、大学辞めようとか言い出したんだろ? なんつうか、これじゃあ俺らも和幸さんにたかる連中と同じになっちまうんじゃねえの? その心変わりの早さはなんなんだよ?」

 不思議そうにそう言う龍望に、秀太はあっさりと、しかししっかりと説得力のある口調で言う。

 「それは、理寧さんがお金持ちだからって頼るんじゃなくって……理寧さんの、「みなしごキャンパスを手伝いたい」って気持ちが素直に嬉しいと思ったからでさ。だからその嬉しい気持ちに素直に、ここのことをお願いしたいと思って。……そっちから言い出してもらうのを持ってたみたいで、僕もずるかったかもしれないけど」

 秀太の話に、理寧は初めて感じる感情を抱いた。

 ――こんな人……ずっと会いたいと思ってた。こんな好(い)い人……本当にいたんだ……

 そんな感情と共に、そんな相手の支えになれることに、まるで憧れの芸能人と出会った時のような、そんなふわふわとしつつもどうしようもない感情の高ぶりを覚える。 

 「全然ずるくなんかないよ。……武見里くんはもっと図々しくてもいいと思うし」

 とにかく、理寧は秀太の行動、感情を肯定したくてたまらなかった。

 「そうかな?」

 「ええ。それで話を戻すけど……あたしも、ここのお手伝いをさせてもらってもいいかな……?」

 その問いの答えに、時間はかからなかった。

 「もちろん。……理寧さんもさ、その……何ができるか? って言われたら全然わかんないけど、それでも僕らで力になれるようなことで困ったりしたら、その時は遠慮なく言ってよ。頼りっぱなしは悪いからね」

 「……ありがと」

 秀太の、優しい口調の中にある強い安心感に、理寧は生まれて初めての嬉しさから涙が出そうな感覚を覚え、一息置いてから本心からの礼を言う。それに答えるように、秀太は立ち上がってから理寧にニコリと微笑みかけた。

 「それじゃあ、その……改めて、みなしごキャンパスの新しい管理人の武見里秀太です。……お金もないし動物の知識とかも何にもないけど、よろしくお願いします」

 改まって、ややよそよそしくも「管理人」としての自己紹介をする秀太を見て、龍望も慌てて立ち上がる。

 「あ……っと、俺は管理人かどうかわかんないけど……その、ここの管理を手伝ってる天利龍望です! 改めてよろしくお願いします!」

 改まった秀太と落ち着かない龍望の温度差のある自己紹介に、理寧はおかしそうに小さく笑い、二人の顔を交互に見る。

 「……新しくここのお手伝いをさせてもらいます、和幸理寧です。こちらこそ、よろしく!」

 一生懸命に生きる命たちが生きる場所を守りたい――そんな想いを共有する新しい仲間ができたことに、三人はそれ以上は言葉を交わさずとも、喜びを分かち合ったようだった。

 そんな中、気まぐれなのか場がまとまったのがわかったのかは本人……本犬しか知らないことだが、まるで挨拶をしに来たかのように、先ほどまで犬用のガムを噛んで遊んでいたリジチョーが理寧の足元まで走ってきた。

 「あら……リジチョーもよろしくね」

 そう言ってリジチョーの喉元を撫でる理寧に、リジチョーは嬉しそうに大きく尻尾を振っている。

 「この子はともかく、他のみんなと仲良くなるのは時間がかかりそうだけど……管理に関わる以上は少しでも気を許してほしいわね……」

 近寄ってきてくれるリジチョーと、まったくもって理寧に興味を示さない他の動物たちとの温度差に、理寧は改めてそんな想いを抱く。

 「ですねぇ……そこは俺もだけど、気長に……頑張りましょ……?」

 そう言う龍望は、切実だった。

 「そうね……」

 と、二人がその方面の問題に向き合おうとするそんな中、

 「それじゃあ早速で悪いんだけど、そろそろストック切れちゃいそうだからみんなのご飯とかの買い出しに行きたいなぁ、って……いいかな?」

 秀太が、先ほどとは変わって遠慮がち、申し訳なさそうにも理寧に向かってそう提案する。

 「あ、そうよね! それは早く買いに行かないと!」

 「あー……それとさ……僕らの食べるものも買ってもらえたら嬉しいなぁ、とか思ったり……」

 「おい、確かに余裕ができるなら俺も一日三食ちゃんと食べたいけどさ……でもまずは動物の飯の方が大事だろ? っつうか少しは遠慮しろよ……」

 秀太の遠慮全開の口調と、相反してまったく遠慮のないさらなる提案内容に龍望は呆れているが、提案される理寧は嬉しそうな笑顔で、

 「いいのいいの! 変に遠慮されない方があたしも気が楽だし! ほら、そうと決まれば早く行こう? ね!」

 と、玄関扉の方へと向き直っている

 「あー、僕から言い出しといて悪いんだけど……僕たちの朝ご飯を片付けてからじゃないと……出掛けてる間にリジチョーたちに散らかされても困るから……」

 「だなぁ……すぐ終わるんで、ちょっとだけ待っててくれますか……?」

 予想もしていない急な事の進展に、秀太も少しばかりついていけていないのである。言いだす物事の順序など、少しチグハグしてしまっている。そしてそのことに気付いてか気付かずか、龍望も散らかっている……とまではいかずとも、留守にした瞬間に動物たちに散らかされてしまいそうなテーブルの上を見て理寧にそうお願いをする。 

 「わかった! それじゃ、先に外に出てるね!」

 そう言って外へと出ていく理寧の後ろ姿は、足取り軽くとても嬉しそうであった。

 重たい現実が覆ったことで緊張の糸が切れたのか、それとも「たかる」のではなく「頼ってくれる」、そして自分からも「頼れる」と思う友達ができたことが嬉しかったのか……そのどちらにしても、理寧は自分でも不思議なほどに気分が晴れていた。

 そしてそんな理寧を見て、秀太は昨日話を聞いた限りではきっと見ることがないと思っていた理寧の自然な笑顔に安堵し、また、これからは三人でみなしごキャンパスの動物たち――「家族」を守っていけるということに、安心感を覚えたようだった。

 「よかったなぁ、大学辞めずにここの管理も続けられて」

 朝食の後片付けを始めながら、そんなことを言う龍望。

 「本当に。……せっかくこれからもここで頑張っていけることになったんだから、僕らも頑張らないとね」

 「おうよ」

 そうして、二人は嬉しそうに笑い合う。

 

 ――こうして、みなしごキャンパスは新しい管理人――動物たちを守りたいという、僕らと同じ想いを持った仲間の理寧さんを迎えて、これからも存続していけることが決まった。……やりたいことを両方とも諦めないで、それでいて人に頼るなんて調子のいい話だとは思うけど……もしかしたら、理寧さんと出会ったことには意味があるんじゃないか? 僕が理寧さんの力になれることもあるんじゃないか? そんな気もしたから、理寧さんにここを手伝ってもらおうと思えた。僕ら三人が目指すもの、それから、僕ら三人が抱えているものはまったく違っているけれど……それでも、この先この三人で、このみなしごキャンパスでうまくやっていけるっていうのは、ここだけの話――

 

 理寧の、生まれて初めての意味ある交友関係は、こうして始まった。

 

 

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