top of page

「みなしごキャンパス」

第3話「言葉を超える、孤児の親心」

 

 

1――動物たちのお楽しみ

 

 東京はあきる野市にある、日本で数少ない国立農工大学である「あきる野農工大学」、略して「AAE」。その敷地内に、農学部の研究棟を改装したとある施設があった。

 みなしごキャンパス――様々な理由から人間不信に陥り、一般の飼い主には飼育が困難となった動物たちの世話をするための施設である。

 このみなしごキャンパス、某年の春に二度も危機に陥る。

 一度目は、管理人の荒俣勇志郎(あらまたゆうしろう)の入院に伴う施設の存続危機。これは荒俣と仲の良い工学部の学生武見里秀太(たけみざとひでた)が一学年年下の友人天利龍望(あまりたつみ)と共に管理人代理を申し出たことによって解消されたのだが、この二人の財力不足によって、みなしごキャンパスは二度目の存続危機を迎えてしまう。

 では、某年八月の今もしっかりと機能していることからわかるように、その危機はどうやって逃れたのか? ――農学部獣医学科四年生の学生にして、獣医学会において非常に強い影響力を持った獣医を両親に持つ和幸理寧(わこうことね)の経済援助である。

 ひょんなことから秀太たちと出会い、彼らの抱える経済的危機を知った理寧は、動物たちのため、そして大学生活を捨ててまで動物たちを助けようとした秀太のため、自身の持つ人並み以上の財力を使いたいと思い、彼らのみなしごキャンパス管理に仲間入りしたのだ。

 そんな出来事から数ヶ月が経ち、気付けば、理寧は時間があれば秀太と龍望が寝泊まりしているみなしごキャンパスに遊びに来るようになっていた。

 

 今は八月。大学が夏休みに入っていることもあり、今日は日曜日ゆえにどの学部、学科も夏期講習がないために、理寧はいつもより早めにみなしごキャンパスに向かっていた。そんな理寧が大学の敷地に入り、みなしごキャンパスに近付いた時だった。

 ――♪。

 音楽が聞こえてくるのだ。思わず立ち止まり、耳を澄ませる理寧。

 ――ギターと……ハーモニカ……?

 聞こえてくる音にそんな推測を立てて、理寧はみなしごキャンパスの玄関前までやってきた。

 そう、理寧の耳に入ってくるその音たちは、やや尖り気味にも心地よく落ち着いたギターの音と、それに身を任せる、優しく、暖かく、懐かしみのあるハーモニカの音色だった。

 ――中……じゃないわね、音がこもってないものね。

 みなしごキャンパスの屋外と言えば、平屋であるみなしごキャンパスの屋上か、その屋上に迎える外階段がある運動場である。推測をさらに立てた理寧は、あえて玄関から中に入ったりはせず、ぐるりと建物の外を回って金網越しに運動場を覗いて見ようと歩き出す。

 理寧の推測は当たっているようで、どんどんと音が近くなっていく。

 ――あ……

 金網越しに運動場の中を見て、理寧は思わず目に飛び込んだ光景に見惚れてしまう――金網の向こうで、建物に隣接して設置してあるベンチに座った秀太と龍望。秀太はハーモニカを、龍望はギターを奏で、普段は秀太だけに懐き龍望を毛嫌いする動物たちが、大人しく気持ちよさそうに二人のそばに集まっていた。そんな光景に、理寧は玄関から裏口を通って運動場に入るという考えも飛んでしまい、誘われるように金網に軽く手をかけた。

 ――!!

 理寧の立てた小さな音に、先ほどまで秀太たちの音楽に聴き入っていた動物たちが慌てて運動場に散った。……理寧を見て嬉しそうに彼女のもとに走り寄るリジチョーを除いては。

 「あ、いらっしゃい」

 動物たちの反応を見て秀太と龍望も理寧の訪問に気付き、秀太がハーモニカを口から話してそう挨拶をする。

 「あ、あの……ごめんね、せっかく演奏聴かせてたのに、みんな驚かせちゃったみたい……」

 「別に大丈夫だよ。また聴きたがった時に聴かせればそれでいいから」

 快くそう言うのは、龍望である。

 出会いたての頃こそ、年上で他学部の理寧に恐縮気味で敬語混じりな龍望だったが、数ヶ月も交友を続ければ自然とため口で話す仲となっていた。

 「だったら良かったけど……音楽、いつも聴かせてあげてるの?」

 「うん。時間がある日の午前中にはいつも聴かせてあげてるんだ。……あ、そっか。そういえばコトさん、昼前に遊びに来てくれるの初めてだもんね」

 秀太もまた、もともと敬語を使っていたわけではなかったのだが、数ヶ月の交友を経て理寧のことを「コトさん」と呼ぶようになっていた。それにつられてか、龍望も気付けば同じように理寧を呼ぶようになり、理寧も秀太と龍望のことを、彼らがお互いを呼ぶ「ヒデ」「タツ」に気持ちばかりの「くん」をつけたあだ名で呼ぶようになっていた。

 「家にいてもやることないし、二人とも夏休みもここにいるって言ってたから、今日は早めに来ちゃった」

 「実家に帰る金もないし、あったとしてもこいつら放っておくわけにもいかないからなぁ……そんじゃ、せっかくコトさん来てくれたんだし、俺らもいったん中に戻るか。……今更だけど直射日光暑いしよ」

 そう言って秀太の方を向く龍望に、秀太は呆れながらもうなずく。

 「そうだねぇ。それにしても、タツはホント暑がりだね。まだ午前中なんだし、そこまで暑くないじゃん」

 「暑くないぃ~? 何言ってんだよ、暑いだろ? お前がおかしいんだよ、なんで北海道の人間がそんなに暑さに強いんだよ?」

 「んー……あー、ほら、適応力? 僕、タツより一年早く東京に出てるし」

 「そんな一年の差なんて関係あるかぁ?」

 と、そこまで言い合って、二人はふっと理寧を見る。理寧は面白そうにくすくすと二人を見て笑っていた。

 「おっとぉ、タツがあまりにも暑がりだから笑われたよ?」

 「お前が適応力とかわけわかんないこと言うからだろ?」

 その言い合いが、理寧をもっと笑わせようとしているかのようにふざけている。

 「二人とも、ホントに仲いいわよねぇ……!」

 笑いをこらえながらそう言う理寧を、秀太も龍望も嬉しそうに見ている。

それから理寧の方を見る秀太。

 「まあ、付き合い長いからね」

 しみじみと、短くもそう答える秀太に、理寧はふっとあることが気になった。

 「……どれくらい長いの?」

 わかりづらくも、少し憂鬱を含んだ物言い。それに気付けるのはやはり秀太だけであり、

 「んっと……今年で……えっと……」

 龍望は理寧の憂鬱に気付くことなく、彼女の質問について考え始めている。

 「一、二、三、一、二、三、一、二、……」

 龍望はそう言いつつ、指だけはおかしな繰り返しをすることなく順番に折っている。口にしているのは、秀太と出会った中学一年生の時の学年から、大学二年生である今の学年の数字なのである。今、龍望は右手の指をすべて折って、左手は親指、人差し指、中指が折られている。

 「早いねー、今年でもう八年目になるんだ」

 龍望の手を見て、秀太が答えた。あえて、今は理寧の言葉から感じた憂鬱には触れないでおこうと思っているのだろう。続けて、

 「まあ、僕が先に上京した一年は手紙のやりとりぐらいしかできてなかったから、実質七年目って感じか」

 と、詳細を伝えた。

 「それにしても、本当に付き合い長いのね……」

 そう言った理寧の顔には、はっきりと寂しそうな色がうかがえた。

 理寧は今年で二十二歳になるが、家庭の事情ゆえに友達と呼べる友達は今までできたことがなく、秀太と龍望が実質初めてできた友達と言える。そんな二人と仲良くできることを嬉しく思うと同時に、あまりに仲のいいこの二人の仲に、つい最近知り合ったばかりの自分が加わってもいいのかと、どこか遠慮と寂しさの混じった思いも抱いていたのだ。

 理寧の寂しそうな顔を見て、龍望もやっと彼女の憂鬱に気付いたが、一歩遅かった。

 「ま、確かに僕たち親友同士だけど、友達の仲の良さに時間とかって関係ないからさ。勝手にコトさんとも親友のつもりでいたんだけど……もしかして迷惑だったり?」

 秀太が優しくそう理寧に伝えると、ふっと理寧の顔色から憂鬱が消え去った。その様子に龍望も気付き、何も言わずとも「してやられた」とでも言いたげに苦笑いをして秀太と理寧を交互に見た。

 「……なに? 知り合った日もそうだったし、あたしってそんなに顔に出るタイプかしら?」

 知り合った日に、釧介(せんかい)ですら気付かなかった理寧の心境に気付いた秀太のことを、理寧は皮肉を込めつつも、今回もまた自分の気持ちに気付いてもらえたことへの感謝をこめてそう言う。

 「違う、違う。お人好しだから勘がいいだけさ」

 そう答えたのは龍望である。こちらはこちらで、長い付き合いゆえに生まれる友好の意味の皮肉たっぷりである。

 「あー、なるほどね!」

 「そーゆーこと!」

 そう言って笑いあう理寧と龍望。そんな二人を微笑ましくも見ていた秀太だったが、

 「じゃ、そろそろ中に入ろうか。……金網越しって、なんか変な感じしない?」

 と苦笑して提案すると、二人も

 「そ、そうね……」

 「つうか……それ以前にマジで暑いしな……」

 と、ついさっきまで中に入ろうと言っていたことを思いだして、それぞれ裏口と玄関からみなしごキャンパスの建物の中に入った。

 

 

2――新入りさん……?

 

 みなしごキャンパスの応接間、龍望と理寧はソファに座っていて、秀太は台所に立っている。

 「今コーヒーでも入れるから、ちょっと待っててね。……あったかいのと冷たいの、どっちがいい?」

 「こんな真夏にホットなんか飲めるかよ」

 答えたのは、うちわで怠そうに自身をあおいでいる龍望である。

 「いや、コトさんに聞いたんだけど……」

 そう言ってくる秀太だったが、龍望は微塵も態度を変えず、

 「なんだよ、俺には淹れてくれねえのかよ?」

 と、怠そうなままに秀太にちょっかいを出す。

 「わかったわかった、ちょっと待って。で、コトさんはどっちがいい?」

 「じゃあ、アイスコーヒーお願いしようかな」

 「冷たいのね、わかったよ」

 「俺もー」

 「わかってるー」

 それから、秀太は三人分のアイスコーヒーを淹れ始める。

 「でもいいの? なんか、遊びに来るたびに気を遣わせてる気がするんだけど……」

 「全然いいよ、ここのコーヒーメーカー一式も豆もミルクもガムシロもなんでも、コトさんが買ってくれた物だし。ほら、還元、還元!」

 「食べ物飲み物じゃなくても、テレビやらエアコンやらここの管理に関係ない物までいろいろ買い揃えてくれたり、光熱費とかガソリン代とかまで払ってもらってるんだから、コーヒーくらいじゃ還元なんて到底できないだろうけどさ、まあ……そこは気持ちで勘弁してよ」

 龍望に続き、秀太もコーヒーを淹れながらそんなことを言う。

 二人が言う通り、「管理人たちの人らしい生活の確保」と銘打って、世間一般の大学生が普通に持っているような物で、貧困ゆえに秀太たちが持っていなかった物を、理寧は多く買い揃えてくれたのだ。

 「もう……勘弁も何も、あたしが出したくてお金出してるんだから気にしないでよ。ヒデくんもタツくんも、もっと贅沢してもいいくらいに今まで頑張ってきてるんだから、他にも欲しい物とか必要な物があったらちゃんと我慢しないで言ってね」

 「ホント? いやぁ、それはありがたいね」

 真剣に話す理寧に、秀太は先ほどよりは気が楽そうにそう言う。そんな言葉を受けて、理寧もさっきの真剣な口調とは一転して嬉しそうに言う。

 「……ま、あたしが遠慮するのもそれはそれで気を遣わせちゃうみたいだから、だったらこれからも遊びに来るたびにおもてなししてもらうけど!」

 ――ぷい!

 その時、理寧は足元で何かが鳴き、自身の足に体をこする小さな影に気付いた。

 「……? え……この子、猪の子供じゃない! かわいー!」

 そう言って理寧が頭を撫でたのは、猪の子供――俗に言うウリ坊だった。

 ――ぷいぃ~♪

 「あー、その子ね。かわいいっしょ? 今朝来たばっかなんだ」

 コーヒーを淹れながら、秀太があっけらかんと答える。

 「そうなんだー。……え、でも待って? ここって人に飼われてて人間不信になった動物を保護する場所よね? 猪なんてペットになるような動物じゃないと思うんだけど……」

 「そいつ、野生らしいんだよ……」

 龍望が、なぜか声を潜めた。

 「ちょっと……! 野生動物を連れ込んだなんて釧介教授にバレたら大変よ? 獣医の立場上、その辺の問題にはすごく厳しい人だから……」

 「……怪我が治ったらすぐ逃がすよ。それまでに教授が来なけりゃいいって話」

 慌てる理寧の反応を予想していたといった様子で、どこか面倒くさそうにそう言う龍望。

 「怪我? ……あ、もしかして包帯を巻いてる前脚のこと?」

 確かに、ウリ坊の左前脚には血の滲んだ包帯が巻かれていた。

 「そ。とりあえずここにあった包帯を巻いてみたんだけど、それでいいかわかんないから後で診てもらってもいいかな? ……ほら、教授に診てもらうわけにもいかないから、頼れるのは獣医学科のコトさんくらいしかいなくて……」

 トレイにアイスコーヒーとミルク、ガムシロップを三人分乗せて二人のもとに歩いてきた秀太が、理寧にそう頼む。

 「それはいいけど……でもこの子どこから連れて来たの? それとも、ちょっと考えづらいけど……勝手についてきたとか?」

 直球で疑問をぶつける理寧に、秀太は痛いところを突かれたように表情を曇らせる。

 「それがさ、今朝、モーターのお世話をしてたら工学部の友達が来たんだけど……」

 そう言って少しだけ困ったような表情になり、秀太は理寧が遊びに来るよりも前にあった出来事を話し出した。

 

 

3――迷惑なお客様

 

 秀太の話は、同日朝の六時半頃まで遡る。

 馬小屋でモーターを放牧する準備をしていた秀太と龍望は、室内に居るリジチョーが吠えだしたことに気付いた。

 「ん……リジチョーの奴、やけに吠えてんな」

 「なんか嬉しそうに鳴いてるし、誰か来たかもしれないね」

 「嬉しそお~? よくそんなのわかるな。てか、だとしてもこんな時間に誰だよ……」

 「とりあえず一回戻ろうか。……ちょっと待っててね、モーター」

 少し申し訳なさそうな秀太に、モーターは了承するかのように小さくブルルと鳴く。

 裏口を開けると、今の今まで玄関扉に向かって尻尾を振りながら吠えていたリジチョーが、秀太たちが戻ってきた気配に気づいてか、今度は勢いそのままで秀太に駆け寄ってくる。

 ――アンアンアン!!

 「――っと、お前はそうやってすぐ飛び掛かってきて。……ね、さっきまで誰に吠えてたの?」

 とは言いつつ、嬉しそうにリジチョーを撫でてやる秀太だったが、龍望は玄関の方を見てリジチョーが吠えてた理由に気付く。

 「あー、飛鳥(あすか)さんと信(まこと)だ」

 「あー、ホントだ」

 言われて秀太も玄関の方を見る。それから二人が玄関を開けると、工学部の友人である修堂飛鳥(しゅうどうあすか)と響鬼信(ひびきまこと)が立っていたのだが、信は両手で小さめの段ボールを抱えていた。

 「えっとぉ……おはよー……」

 いつも、過ぎるほどに明るく元気な信が、どこか遠慮気味に挨拶をする。

 「……こんな時間に悪いな」

 続く飛鳥も、信同様にどこか気まずそうだ。

 「それは別にいいけど、それこそこんな時間にどうかしたの? 段ボールなんて持ってきて……」

 「いやぁ……ちょおっと相談っていうか、お願いっていうか――」

 ――ぷぎ!

 と、その時。信の抱えていた段ボールの中からそんな鳴き声が聞こえ、飛鳥と信はばつ悪そうに顔を少し引きつらせ、秀太は不思議そうな顔をし、龍望は怪訝そうな顔をする。

 「おい、今のは何だ? ……この中から聞こえた気がするんだけどよぉ。つーか、このいかにも怪しげなダンボールこそ何なんだ? ええ?」

 朝は特に機嫌が悪くなりやすい龍望である、その凄味の利いた問いに、

 「いや……! その、ね……!」

 信は身の危険でも感じたのか、慌てるがゆえに言葉が出ない。

 「ん~?」

 本人にそんなつもりこそなくとも、相変わらずの凄味の利いた声で追い打ちをかけてくる龍望。そんな龍望にびびり、困り果てる信を見て、飛鳥が助け舟を出す。

 「とにかくさ、まあ……まずは落ち着いてこの中を見てほしいんだけどよ……」

そう言って飛鳥が段ボールの蓋を開けると、そこには小さなウリ坊がいた。

 ――ぷう!

 箱の中を覗く四つもの顔に、ウリ坊は臆することなく嬉しそうに鳴く。

 「なんだこいつ……」

 「いや、「なんだ」って……誰がどう見ても猪でしょ……?」

 「いや、そりゃわかるけど!」

 「あー、そう……猪の坊や」

 言い合う龍望と秀太に、信が気まずそうに目線を誰もいない空中に逸らしながらそう言う。

 「坊やっつーか……オスかメスかはわからないんだけどよ。まあ……猪の子供……ウリ坊だ、誰がどう見ても」

 飛鳥もまた、目線を逸らしはしないが相変わらずばつが悪そうにそう説明する。

 「……で?」

 「こいつがなんなんだよ?」

 別に嫌味でもなんでもなく、説明を求める秀太の一言に飛鳥も信も困り果てるが、そんなこともおかまいなしに龍望は不機嫌そうに追い打ちをかける。

 「その……な、こいつを預かってくれねえかなぁ……って思ってよ」

 なんとなく予想できていた言葉に、秀太も龍望もうんざりしたようである。

 「預かるぅ? ……あのな、俺たちは慈善事業で動物の世話をしてるわけじゃねえんだぞ?」

 すかさず飛んでくる、凄味の利いた不機嫌丸出しの龍望の反論。

 「いや、それはわかってるけどよ……」

 言いよどむ飛鳥を見て、秀太は野生動物の保護以外の問題に気づいたようである。

 「でもさぁ……慈善事業云々以前に、猪ってことはこの子、野生動物だよね?」

 「うん……たぶん、いやほぼ確実に……」

 やっと秀太と龍望に目線を戻せた信が、どんどんと消え入りそうになっていく声で言う。

 「ほら、何日か前に大学の近くで、犬かなんかの動物に噛み殺された猪の親子の死骸が見つかったって噂になってたろ?」

 気まずそうな信に代わって話を進めてくれるのは、やはり飛鳥である。

 「え、そうなんだ。初めて聞いた」

 「あ、そう……」 

 あっけらかんと言う秀太に、面食らう飛鳥。

 「それでまあ、そんなことがあったらしいんだけどよ、たぶんこいつ、その猪の子供の生き残りだと思うんだよ。ほら、前脚見てみろよ……」

 そう言って、飛鳥がウリ坊の脇を抱えて前脚を秀太たちに見せると、ウリ坊は暴れることはなくとも少し嫌そうに鳴いてみせる。確かに、左前脚には噛みつかれて膿んでしまったような跡があった。

 「うわ、ひでえ……グチャグチャじゃん……」

 龍望は若干血が苦手なのか、状況を確認するや否やウリ坊から目を逸らしてそう言う。

 「この怪我、どう見たって犬かなんかに噛まれた痕だろ?」

 「あー、そっか。死んでた猪の親子も噛み殺されてたって、さっき言ってたもんね」

 「そうなんだよー。それでこの子、さっき飛鳥と一緒に寮のごみ出しに行くのに構内を歩いてたら、気付いたらボクたちの後ろをついて来てたんだけど……ほら、死んでた猪親子がいたのも大学の近くだっていうし……ね? この子、絶対その親子の生き残りだと思うんだー」

 「親がいなくなってよっぽど寂しいのかさ、まったく警戒もしないでオレらの後をついてくるんだぜ? でも、学生寮もあさってから夏期休暇で閉まる関係でオレらも帰省しなきゃいけないから世話なんかできねえし、だからって放っておいたら、この怪我だからカラスなんかに襲われても逃げれねえだろうし……」

 「だったら農学部の先生に相談すればいいじゃねえか。獣医学科の先生とか畜産学科の先生とか、その辺は野生動物に関しちゃ専門家だろうし」

 事情を説明する信や飛鳥に、龍望は無情にも呆れた様子でそう言い放つ。

 「そうは言ってもよ……農学部の先生なんてオレら誰も知らねえし、それに親子で市街地に出てきた猪だぜ? そーいう専門家に見せたりしたら、下手すりゃ駆除とか言って処分されるかもしれねえじゃんか」

 「で、頼れるのは寮の休暇に関係なく大学にいてくれて、それでいて動物のお世話にも慣れてるヒデさんたちくらいしかいないよね……って結論になって、今に至るワケ。……ね、お願い! 怪我が治るまででいいから、この子のお世話をしてくれない?」

 秀太と龍望に向かって手を合わせて軽く頭を下げ、必死に頼む信だったが、龍望は不機嫌そうに頭をかきながら、

 「だからってなぁ……さすがに野生動物はマズイって。なあ?」

と、秀太の顔を見る。

 「だけど、断ったら飛鳥と信くんは困るんだよね……」

 「だろうな」

 龍望は、この時点で嫌な予感を感じていた。

 「それにこの子も、みなキャンで預かってあげないとどんな形にせよ死んじゃうかもしれないし……」

 「……預かるのか? 最初に野生動物だからウンタラカンタラ抜かしたのはお前だぞ?」

 答えがわかっているような様子でそうきく龍望に、秀太は小さくも申し訳なさそうに言う。

 「怪我が治るまで。……最低限のことだけをしてあげれば、人に懐く前に外に放せるよ。だったら問題ないと思わない? ……この子を生かすためにもさ」

 龍望は、少しの間を置いてからわざとらしい大きなため息をついて、

 「……どうなったって俺ぁ知らんぞ」

 と、ウリ坊を預かるということに折れた。そんな二人の反応に、飛鳥も信も安心したような顔をする。

 「そんじゃあ、こいつのこと頼んでもいいんだな?」

 「ありがとー! ボクらもちょくちょく様子見に来るから――」

 「いいよ、来なくて」

 「えー……」

 信相手だからかざくっと言い放つ龍望に落ち込む信だったが、秀太がなだめるように言う。

 「あー……ほら、何かあったらちゃんと連絡するからさ。あとは……まあ、僕たちでうまくやってみるよ」

 「ああ……悪いけどよろしくな」

 こうして、秀太はみなしごキャンパスでウリ坊を預かることになったのだった――

 

 「ということで、怪我が治るまでここでこの子を預かることになったんだ」

 と、理寧に今朝の出来事を話し終える秀太。気付けば、開けっ放しの裏口から、外で遊んでいた動物たちもぼちぼちと室内に戻ってきていた。

 「そっかぁ、なるほどね。大学の近くで猪の親子が死んでたって

話はあたしも聞いたけど……確かに、その生き残りで間違いなさそうね……」

 「やっぱりそうなんだ……でもさ、野生の動物ってこんなに懐っこいものなのかな? そこがちょっと不思議でさ」

 「う~ん……赤ちゃんって言ってもここまで育ってたら、普通はそんなことないと思うんだけどな……でも、いずれは野生に戻すんだから、できれば人は怖い生き物なんだ、って思わせた方がいいとは思うけど……」

 そんな話しをしながら、秀太も理寧もコーヒーを飲む。

 ――ぷいい!

 理寧の足元に居たウリ坊は、やはり秀太のことが好きなようで今度は彼の足もとに嬉しそうに歩いていく。

 「って、言ってるそばからこいつ……」

 無邪気なウリ坊に、呆れ全開で言い放つ龍望。

 「ヒデくんって本当に動物に懐かれやすいのね……」

 「まぁ、お人好しだからねぇ。……ほら、おいで」

 他人事のようにそう言いながら、ウリ坊を抱き上げて膝に乗せる秀太。

 ――ぷいぃ~。

 ウリ坊は、嫌がるどころか気持ちよさそうな声を出して、ちょこんと秀太の膝に収まる。

 「……ちょっとヒデくん、そうやって優しくしてたら、もっと懐いちゃうわよ。懐かせないで外に放したいんでしょ?」

 「それはそうだけど・……でも、まだ赤ちゃんなんだから優しくしてあげないと……」

 そんな秀太の意見に反対するように、龍望はいぶかしげに腕を組んで、

 「あのなぁ……動物だろうが人間だろうが、親がいなけりゃ一人で強く生きてく他ないだろうが。それは誰よりも、ヒデが一番わかってんじゃねえのか?」

 「ん~……どうだろうね」

 他人事のような、しかしなぜか、少しだけ悲しそうな一言。そんな二人のやりとりを聞きながら、理寧はふっと不思議に思う。

 ――ヒデくんがよくわかってるって……どういうことだろう……

 しかし、やはり出会ってからの時間の短さが邪魔をする。理寧はその疑問を、今秀太や龍望にぶつけることができなかった。

 「ったく……で? いつまでそうやって膝に乗せてるつもりなんだよ。そいつだけ贔屓して、みんなに焼きもち妬かれたって知らないからな」

 そんな龍望の嫌味に答えるように他の動物たちがわらわらと秀太の周りに集まってきては、我も我もと鳴いたり手をかけたり自己主張をし始める。室内に入れない馬のモーターでさえ、運動場から構ってほしそうな視線を秀太に投げかけている。

 「あら、さっきまでみんな外にいたのに……いつの間に中に戻ってきたのかしら」

 「あー、わかったわかった、みんなとも遊ぶから待っててって……」

 ウリ坊を膝に乗せたままの秀太に順々に撫でられる動物たちを見て、龍望は、面倒くさそうに言う。

 「ほーら、言わんこっちゃない。……なんだかなぁ。また大変なことになりそうな気がするんだけどよぉ」

 「ま、そうなったらなったで、うまくやってみるさ」

 動物たちと遊びながらそんなことを言う秀太の言葉には、行動や言葉の軽さとは裏腹に説得力があるように思えるから不思議なものである。

 うまくやれる――秀太のこの口癖は、彼と親しい人間なら誰でも秀太の口癖だと知っている。だが、この言葉を放つ秀太が発揮するお人好しゆえの行動力を知っているのは、付き合いの長い龍望と、秀太をもっと知りたいと願ってやまない理寧くらいであった。

 

 

4――武見里家と、天利家

 

 数時間後、場所は変わって秀太たち行きつけのスーパーと大学を結ぶ道。動物たちの面倒を見るために留守番をしている秀太をみなしごキャンパスに残し、龍望と理寧は買い出しに出かけていたのだが、今はその帰り道であり、二人とも買い物袋を持ちながら大学――みなしごキャンパスに向かっていた。

 「なんつうか……」

 「え?」

 話す話題もなかったのか、しばらく黙って歩いていた二人だったのだが、ふっと龍望が漏らした言葉に、理寧は反応する。

 「あー、いや……なんかウリ坊と一緒にいたがってたからみなキャンに残してきたけど、ヒデ、大丈夫かなぁって」

 「大丈夫、って……どうゆうこと?」

 「ほら、なんかあのウリ坊にすごい入れ込んでるっていうか……」

 「ああ、そのこと……そうね、野生動物のお世話なんて難しいもんね」

 「いや、そうじゃなくて……」

 「え、違うの?」

 龍望が、ふいに表情を曇らせる。

 「……自分を重ねれば重ねた分だけ、情が湧いちゃうじゃんか。それで外に放せなくなるんじゃないかなって……それが心配なんだよ」

 

 ――「あのなぁ……動物だろうが人間だろうが、親がいなけりゃ一人で強く生きてく他ないだろうが。それは誰よりも、ヒデが一番わかってんじゃねえのか?」――

 

 龍望の言葉が理寧に思い出させたもの、それはウリ坊の話をしながら龍望が秀太に投げかけたこの言葉である。

 「あ……」

 龍望の話を聞きながら、買い物に出る前から何か引っかかっていたものが、より強く引っかかることを実感する理寧。

 「ねえ……」

 「ん?」

 「今、自分を重ねれば……って言ったよね?」

 「……言ったよ」

 「さっきも、親がいなくても生きて行かなきゃいけないって、それはヒデくんが誰よりもわかってるんじゃないのか? って言ってたけど……その……今更なんだけどさ、あたし、二人のことってあんまり……よく知らないのよね……」

 そう切り出されて、龍望はなんとなく理寧が訊きたいことがわかった気がした。

 「俺らのことってぇと、親のこと……みたいな話だよな、この流れは……」

 「う、うん……二人が家族の話してるとことかって、聞いたことないから。ちょっと気になって……」

 理寧がそう言って龍望を見ると、龍望は少しばつが悪そうな顔になる。

 「話すようなことじゃないと思ってたし、きかれもしないから、別にいいかなって思ってたけど……そうだよな、やっぱ……気になるよな?」

 「あ、その……! 言いにくいことだったら無理して話さなくてもいいんだけど!」

 慌てる理寧に、龍望は小さく悩みだす。

 「いや……俺は別にいいんだけど……人の家のことを勝手に話してもいいのかなぁって……」

 それから少し考え込んでから

 「ま、いっか。あの人、別にあのことを自分から話さないだけで、隠したがってるわけじゃないし……」

 そう、一人で納得し、理寧の顔を見る龍望。

 「コトさんだけが家の事情を教えてくれてるってのも、なんか不公平だしな」

 「それは、なんていうかあたしから勝手に話した感じだから不公平ってことはないけど……本当に訊いても大丈夫なの?」

 話してくれるとは言っても、それでも訊いてもいいものか戸惑う理寧の心境を察してか、龍望は小さく笑って見せる。

 「大丈夫だよ。俺は普通に話せるし、ヒデだって、さっきも言ったけど自分から家のことを話さないだけで、今までも家庭のことを訊かれた時には普通に話してるし」

 その言葉に、先ほどよりも表情が和らぐ理寧を見て、龍望は反対に少し表情を曇らせる。

 「ただ……なんとなく察してるかもしれないけど、俺たちの家庭事情って、お互いそんな明るい話じゃあないんだけどさ……」

 それから龍望は、少しだけ黙り込んだ。

 「なんて言うかなぁ……俺たち、親に恵まれなかったっていうのかな」

 なんとなく予想のできていた答えだったのか、理寧は驚くよりも悲しそうな表情を浮かべる。

 「まあ……うちの場合、いないのは父親だけだし、理由も死別とかじゃねえからそこまで大したことじゃないかもしれねえけど……でもヒデは……父親も母親もいないんだ。小学校に入る前にはもう父方の祖父母に面倒見てもらってたって……」

 「小学校に入る前って……そんなに小さいころから……?」

 その問いに龍望は小さくうなづく。

 「一歳だか、一歳にもなってない頃だったか、母親は物心つく前に病気で亡くなった。父親の方もヒデが小学校に入る前、五歳っつったっけな……それくらいの時に仕事で海外に行った帰りの飛行機が落ちて、それでって……でも、たった数年間しか一緒に過ごせなかったのに、親父さんのことが大好きだったって。そんな親父さんが大好きだった人だから、記憶にはないけどお袋さんのことも大好きだって。前に、そう話してくれたことがあるんだ……だからさ、親がいなくても生きていかなきゃいけないってことをあいつがよく知っているって……そういうことなんだよ」

 そこまで話して、龍望は寂しそうな、しかしどこか尊敬するようなまなざしで空を仰ぐ。

 「考えたらすごいよな。普通、子供の性格って親とか家庭の影響が強いって言うだろ。そりゃ、生まれつき持ってるものとかもあるんだろうけど……でもヒデには、愛情をくれるべき両親が早い段階でいなかった。大好きで、お互いに傍にいたいと思い合っていた相手がいなかった……なのにあんなに優しい人間に育つなんて、ホントすごいよ。誰も恨まないで、前向いて、常に人に与えることを惜しまないで……」

 そこまで話して、龍望は自嘲するように小さく苦笑いする。

 「少なくとも俺はそんな生き方できなかったから、なおさらそう思うのかもしれねえ……家族を捨てやがった親父のことは今でも許せないし、お袋はパートの掛け持ちでいつも疲れてて、家で顔合わせる度にケンカばっかしちまってた。そんなんで、自分のことで精いっぱいだったから弟ともうまくやれなくてさ……中学に入った頃なんて家でも学校でも荒れまくって、むかつく奴ら殴りまくってたら不良なんて呼ばれるし、当たり前だけどそんなこと繰り返すから誰も寄りつかなかったし。……今思い返しても、ひどい生き方してたなぁって恥ずかしくなるよ」

 「そんなことがあったんだ……」

 別に軽蔑するわけでもなく、本心からその辛さを感じて思わずそう言う理寧に、龍望は少しだけ表情の曇りが取れたような顔で続ける。

 「それでも、中一の夏にお人好しで物好きなセンパイに目ぇつけられて、そんでまあ~いろいろあって秋の終わり頃に仲良くなってからは、自分でも驚くくらいに心持が変わっていった気がしてな。……そのセンパイ、誰だかわかるか?」

 いたずらっぽく笑って理寧を見る龍望に、理寧も小さく笑って見せる。

 「たで始まって終わる人でしょ?」

 「あー……マジだ! あいつ、最初も最後もたじゃねえか!」

 今更になって気付いたのか、龍望はそんなことを言って笑っていたが、笑い声が落ち着いた頃には、優しい顔つきになっていた。

 「とにかくさ、ヒデと知り合って……てか……最初は俺、あいつのこと邪険にしてたから、知り合ってからってのは語弊があるな……そう、ヒデと仲良くなってからはなんとか……それこそ、調子はずれでもうまくやれてるなって感じに思えるようになったんだ。そうやって気持ちに余裕ができてから、不思議と母さんとも弟ともうまくやれるようになってってさ……本人の前じゃあ恥ずかしくて言えねえけど、本当、ヒデと出会えてよかったなって……な、コトさんもそう思ってんじゃねえの?」

 「そうね……あたしはまだ、ヒデくんと知り合ってから一年だって経ってないけど……でも、あたしもヒデくんと友達になれて本当によかったって思うわ。親とか関係なくあたしはあたしだって見てくれるし……確かに資金援助はしてるけど、お金だけが目的で親しくしてくれるってわけでもないし。そういう人……一緒にいると安心できる人と知り合えたのって、もしかしたら初めてかもしれないから……」

 その話を聞いて、龍望は親友をよく言われたからか、どこかくすぐったそうな顔になる。

 「……俺もコトさんも、カストルたち、みなキャンの動物たちも……そんであのウリ坊だって……きっと出逢うべくしてヒデと出逢ったのかも知れねえな……」

 「出逢うべくして……?」

 「寂しくて辛くて、そんな思いをしている奴らを自然と惹きつける力があの人にはあるんじゃないかって、そんな気がするんだ。俺もあのウリ坊も親のことで寂しかった気持ちをヒデに埋めてもらってるし……コトさんだって、親の関係で金とか就職先目当てのひでえ友達ばっか集まって寂しいというか、辛い思いとかしてきたんだろうけど、ヒデはそんなことなんて気にしないで人付き合いできるから、今はそのことで苦労はしてないだろ?」

 「そうだけど……でもあたしは……」

 なぜか沈んだトーンの理寧。それ以上の言葉を、口にすることができない。

 「……もしかして、俺、なんか変なこと言ったか?」

 若干、龍望は静かにも慌ててしまう。

 「あ、違うの! 変なこととかじゃなくて……本当、なんでもないから気にしないで」

 「そうか……?」

 それから、理寧は少しだけ笑顔になって言う。

 「その……ありがとね、家庭のこととか話してくれて……辛かったことなんて話したくなかったでしょ?」

 「いや、さっきも言ったけど今は家族ともうまくやれてるし、それにコトさんだって複雑なのに家庭のこと話してくれてるんだから、これでおあいこだよ」

 「……そうね」

 それから二人は、また他愛もない話をしつつみなしごキャンパスへと歩いて行く。

 ……しかし、理寧の胸の内は決して晴れてはいなかった。

 秀太に支えてもらっているという事実は、理寧も、龍望と同じである。だが、そこには決定的な違いがあった。

 ――あたしには、両親がいる。それも、人よりもいい暮らしをさせてくれるほどの経済力を持った……

 今まで、何をやっても「あの両親の娘なら、できて当たり前」と言われ続け、いつだって金や就職先の関係で心無い人間にたかられてきた理寧は、両親の存在を疎んでいた。だが、龍望の話を聞いて、思ってしまった。

 ――両親がいてくれるって……当たり前じゃないんだ……

 そう思うと、自分の両親に対する感情がひどい傲りに思えていたたまれなくなる。そして、両親と共に過ごせなかった秀太、父親に捨てられた龍望、そんな二人の前で何も考えずに、両親がいるから辛いんだと言い放っていた自分に、ひどい嫌悪感を覚えてしまった。

 ――あたし、二人と一緒にいて……仲良くしてて、いいのかな……

 そんな思いが、みなしごキャンパスに戻る道のり、理寧の胸の内を押しつぶしていた。

 

 

5――ハーモニカの記憶

 

 龍望と理寧が買い物を終えて帰路についている頃、みなしごキャンパスに残った秀太は運動場のベンチに座って、みなしごキャンパスの動物たちと遊ぶウリ坊を見守りながら、手持無沙汰になってか一人でハーモニカを吹いていた。

 ――♪。

 午前中、龍望と共に奏でていたメロディである。

 秀太のハーモニカだけでも動物たちにとっては十分楽しみなようで、自然と遊ぶのをやめてまで彼の周りに集まってくる。そのことに気付きながらも、夏の日差しにぼうっとしながら、秀太は自らが奏でる音色に遠い記憶を呼び起こしていく。

 

 ――♪。

 ハーモニカの音が優しく響く。秀太が奏でるメロディと同じであり、しかしどこか違う音色である。

 幼かった頃の秀太は、寂しくて眠れない夜などによく、母が好きだったという曲を吹いて聴かせてもらっていた。

 「どうだい、ひで。眠れそうかい?」

 風の音が吹き付ける夜、秀太の父親はハーモニカを吹いて幼い秀太を寝かしつけようとしていた。

 「うん、だいじょうぶ……」

 そう答える秀太の口調は、今にも寝てしまいそうだった。その声に、父は安心したような顔をする。

 「そっか。また怖かったり、寂しくなったりして眠れなさそうだったら、我慢しないでちゃんと言うんだよ? お父さん、ひでが寂しくならないようにお母さんの分も頑張るからね」

 「おとうさんがいたら、さみしくないよ」

 眠そうな口調のまま、しかし父への感謝を幼心にしっかりと込めてそう言う秀太に、父はどこか照れくさそうな顔をして、我が子の頭をくしゃくしゃと撫でてやる。

 「ありがとう……お父さんも、ひでがいてくれたら寂しくないんだ。……ひでが大きくなって、お父さんみたいにいろんなことが一人でできるようになるまで、ずっと傍にいるから、だから一緒に頑張ろうね」

 「うん……」

 嬉しそうな、しかし眠そうな声でそう答え、秀太は父の手のぬくもりを感じながらその日は眠りについた。安心しきって眠る我が子の寝顔を、父は片手に、秀太が将来愛用するであろうハーモニカを握りしめ、ただただ愛おしそうに見守っていた――

 

 ――♪。

 父のぬくもりと、自ら奏でる音色が入り混じる中、秀太はふっと考える。

 ――そう言えば……寂しくなった時はいつも、お父さんにこのハーモニカ吹いてもらってたな……

 父のことを思いだし、切なくなってしまう秀太。その感情のやるせなさを拭おうと、演奏を止めようとした時だった。

 「ん……?」

 ふと足もとに違和感を覚え、やるせなさがなかろうとも演奏を止めてみる。

 ――ぷい~……

 ウリ坊が、まるで甘えるように秀太の足に小さな体をこすっている。その姿を見て、秀太は少し躊躇するも、遂にウリ坊を抱きかかえて膝の上に乗せる。

 ――ぷ。

 ウリ坊は、嬉しそうな声を出した。

 「こんなに小さいのに親がいないんだ、そりゃ寂しいよね……」

 ――ぷぅ~。

 その声は、秀太の言葉の意味など知るはずもなく、ただ秀太に抱かれて嬉しいとでも言いたげな鳴き声だった。

 「でもさ、それでも生きていかなきゃいけないんだ。僕だって、親はいないけどいろんな人に助けてもらいながらこうして生きてきてるんだし……だからさ、野生動物を相手に、そんなに多くのことはしてあげれないけど、それでも頑張ろう?」

 やるせなさそうにそう言って、秀太はウリ坊の頭を愛おしそうに撫でてやる。

 ――ぷい……

 その優しい手のひらに、ウリ坊は気付けば安心感に包まれて眠り始めていた。その寝顔を、秀太はなぜか、泣きそうな顔をして見守っていた。

 「本当に……君が野生動物じゃなかったら、最後まで面倒を見てあげれるのにね……」

 

 

6――涙の痕

 

 出かけてから一時間ほど経って、龍望と理寧は買い物から帰ってきたのだが、二人は玄関扉の前でガラス戸から室内を見て不思議がる。

 「あれ……ヒデの奴いねえな……」

 「ホントだ。玄関がガラス戸だと、外からでも中の様子がまるわかりよね……」

 「ここ、住居じゃなくて施設だからなぁ……荒俣さんが言うには、この方が管理人の不在とかがわかりやすいし、中からも来客とかがわかりやすいからって、それで研究棟から改装する時に玄関をガラス戸にしたんだと。動物たちも、それぞれ来客に対して反応できるし、リジチョーなんて、誰か来るたびに飛び掛かる準備しちゃってさ。ほら……」

 龍望はそう言ってみるも、今日に限ってリジチョーの姿は見えない。呆れるように龍望を見る理寧に、龍望も気まずそうである。

 「……ねえ、リジチョー来ないけど」

 「……っかしいなぁ? いつもなら人が近づきゃあすぐに玄関の前に来てるのに……」

 そう言いながら中に入るが、やはり誰もいないしリジチョーも来る気配がない。

 「あら、動物も誰もいない……」

 「ホントだ……」

 考え込む龍望に、理寧は空きっ放しの裏口を見て言う。

 「ねえ見て。裏口開きっ放しだし、みんなで運動場にいるんじゃないの?」

 「あー、そうかもな。……じゃあちょっと運動場の方も見てみるか」

 「うん」

 それから二人は荷物をテーブルに置いてから運動場に出て、建物に背もたれを合わせて設置してあるベンチを見る。

 「あ、ほらやっぱりここにいた。……って、ヒデくん寝てる……」

 そこには、理寧が言った通りに秀太が座っていたのだが、抱いているウリ坊も秀太本人も、夏の陽射しの中で眠っていた。と、そんな秀太の傍で彼を見守るように伏せていたリジチョーが、立ちあがって嬉しそうに理寧のもとに歩み寄る。

 ――……! アン!

 「リジチョー! なあに、ヒデくんの傍にいてあげてたの?」

 ――アン!

 まるで返事をするように一鳴きするリジチョーを撫でながら、ベンチで寝ている秀太に目をやる理寧。

 「寝てたんじゃあ、あたしたちが帰ってきても気付かないわよねぇ……」

 「つーか、あんなに懐かせたらヤバいって言ったのに、なんでウリ坊抱えながら寝てんだよ、こいつはよ……」

 そう悪態を尽きつつ見た秀太の寝顔には、どこか寂しげな雰囲気がうかがえたが、龍望にはその理由がなんとなくわかっていた。

 「……おい起きろよ、座りながら寝てたら首とか痛めるし、こんなに天気良いんだから熱中症にもなっちまうぞ?」

 そう言って優しく肩をゆすると、秀太は若干眠そうな表情で目を覚ます。

 「ん……あ~、おかえり」

 「……ただいま。そんでおはよう」

 少し嫌味っぽく付け加える龍望に苦笑して、ふと理寧は秀太の顔に涙の痕がついているに気付く。寂しげな雰囲気の原因はこれだった。

 「あれ……ヒデくん、もしかして泣いてた? 目の下に涙みたいな痕ついてるけど……」

 「え?」

 不思議そうな声を漏らし、目の下をこすってみる秀太。すでに乾いてはいるものの、かさついた痕が一筋残っていた。

 「ああ、うん……たぶん泣いたんじゃないかな……」

 「たぶんって……」

 自分のことでありながら曖昧なその態度に理寧は不思議そうな顔をするが、龍望は少しだけ呆れたように、しかしどこか心配するようにきく。

 「また、親父さんの夢でも見たのか?」

 その言葉に、秀太は自嘲するように言う。

 「まいっちゃうよ。こんな昼寝でも見ちゃうなんてさ……」

 「最近はそんなに見てなかったって言ってたのにな……」

 「寝落ちちゃう前に、ちょっとだけお父さんのことを思い出しちゃって……だからかもしれない……」

 それ以上は何も話さない二人。理寧もしばらく口を挟めなかったが、ふっと独り言のように、

 「そんなに昔のことも覚えてるんだ……」

 と、小さくつぶやく。

 「え……」

 遠慮がちな声で言う理寧に、秀太は不思議そうな顔をする。

 「昔のことって……理寧さんにお父さんの話ってしたことあったっけ?」

そんな二人を見て、龍望はばつ悪そうに少し悩んだ後、秀太に申し訳なさそうに言う。

 「あー……その、ごめんな。買い物の帰り道で俺らの家庭のこと、お前に許可とったわけでもねえのに勝手に話しちまってさ……俺らだけコトさんの家庭のこと知ってて自分たちのことは話さないなんてなんか悪い気もしたし、コトさんになら話してもいいかなぁとか思って……」

 勝手に家庭のことを話してしまったことを詫びる龍望に、秀太は優しく笑いかける。

 「そっか。うん、別にいいよ。……じゃあ、コトさんも僕の両親がいないこととか、タツの家が母子家庭だってこととかはもう知ってるんだ」

 「ええ……」

 複雑そうにそう答える理寧に、秀太は乾ききっている涙の痕を消すようにこすってから話しだす。

 「自分でも不思議だけど……もう十年以上も会ってないのに……なのに、今でもお父さんと一緒にいた頃のことはよく覚えてるし、たまに夢に見たりもするんだ。……そんな夢を見た日の朝は決まって、顔に泣いたような痕がついてるんだって、一緒に寝泊まりしてる人にいつも言われるんだ。……寝ながら泣いてる自覚なんてないけどさ」

 「そっか、「たぶん泣いたかも」ってそういうことだったんだ……」

 「夢で会えるのは嬉しいけど、でも起きたらいなくなっちゃうんだからさ、だったらそんな夢なんて見たくないんだけどね……」

 そう話す秀太の寂しそうな表情に、理寧は察する。

 「お父さんのこと、本当に大好きだったのね……」

 「……この歳でこんなこと思うのは変かもしれないけど、でも、そうなんだ。今でもお父さんのことは大好きだよ……穏やかで、優しくてそれでいて頼りがいがあって、こんな大人になりたいなって……子供心にずっとそう思って、ずっと目標にしてきた人だから」

 そう話す秀太に、龍望は不機嫌そうにそっぽを向く。

 「目標か……いいな、俺もそんな目標にできるような親が欲しかったな……」

 傍にいてほしい両親ともう会うことのできない秀太。父親に捨てられたことで傷ついた龍望。そんな二人を見て、理寧はなぜか申し訳なさそうにうつむく。

 「なんか……ごめんなさい……」

 「え……?」

 「ごめん、って……なんで?」

 龍望も秀太も、いきなりの謝罪にわけもわからず驚いてしまう。

 「だって、あたしにはちゃんと両親がいるし、その稼ぎでいい生活をさせてもらってるのに、そんな人たちの子供だから辛いだなんて言い張って……二人は親がいなくて辛い思いをしてきてるのに……あたしなんかよりももっと大変だったのに……こんなのばち当たりだよ……」

 「いや……別にそんなことは……」

 気を落とす理寧に、龍望はそれ以上何も言ってやれなかった。が、秀太は先ほどの寂しそうな表情を残しつつも、

 「何が辛くて、誰が誰をどう思うかなんて……そんなの、人それぞれ違って当たり前なんだから、比べたりしちゃだめだよ」

 と、励ますように優しく言う。

 「え……?」

 「僕が、もう会えないってわかりきってる両親の影を追ってしまうのも、タツが、家庭のストレスで一時期だけでも荒れちゃったことも、コトさんが、親が偉い人だからこそ辛い思いをしていることも……全部事実で、みんなその事実と向き合って、苦労しながらも頑張ってるんだ」

 そう言って、秀太はニコリと笑った。

 「そうやってさ、大変な中で頑張りながら僕たちのこと……ざっくり言っちゃえば他人のことも気遣えるなんてすごいことだし、そんな人にばちが当たるなんてバカな話だと思わない?」

 「……そう、かな?」

 「そうだよ」

 優しくも、当たり前といったような力強い一言に、理寧は照れくさそうな顔をする。

 「……ありがと」

 恥かしそうにも嬉しそうに礼を言う理寧に、秀太も龍望も安心したようだった。

 ――ぷき……ぷぅ!

 と、そんな話の最中、秀太の膝の上で寝ていたウリ坊も目を覚まし、嬉しそうに秀太を見上げてその体に怪我をしていない方の前足をかける。

 「あ、おはよう……」

 ――ぷきぃぷきぃ!

 起きて早々に遊んでもらいたがるウリ坊に三人とも困ったように苦笑する。

 「こいつ……ヒデを本気で親だと思ってんじゃねえの?」

 「だったら素敵な気もするけど……でも、いずれは野生に返さなきゃいけないんだから、それはそれで複雑ね……」

 そんな心配をする二人の話を聞きながら、秀太は寂しそうに膝の上のウリ坊を見つめる。

 「そうだよね……やっぱり、だめだよなぁ……」

 「え?」

 ふいにそんなことを言う秀太を、理寧も龍望も不思議そうに見る。

 「だめって、何がだよ?」

 「僕もこの子も同じ孤児(みなしご)だけど、この子にはあんな寂しい想いなんてさせたくないから……できるなら、求められただけ優しくしてあげたいんだ。でも、そんなことして人は怖くないんだって勘違いさせちゃったら野生に戻せなくなっちゃうじゃん……だからって、猪を大人になるまで飼うなんて、他の動物も一緒に生活しているここじゃあできないだろうし……やっぱり、人間が野生動物の親代わりになんかなっちゃだめだよなぁって思ってさ……」

 ――ぷう?

 何の話をしているのかなどわからずに、秀太の寂しそうな口調を心配してか、ウリ坊は小さく鳴いた。

 「だめってこたぁねえだろうけど……でも、どうなんだろうな……」

 秀太の気持ちを考え、しかしこの問題の答えも見つけられずにしんみりしてしまう龍望と理寧。

 ――ぷき! ぷう~! ……ぷう?

 人間の言葉がわからないのだから当たり前ではあるが、空気の重さなどには気付かずに秀太に構ってもらおうと、怪我をしていない前足を必死に秀太にかけようとするウリ坊。それでも秀太は困ったように笑うだけで、今までのように撫でたり抱きかかえてくれたりはしない。

 「なんだかな……話を聞いたら放っておけなくなって、つい引き受けちゃったけど……初日から距離の取り方がわからなくなるなんて、こんなの無責任だよ……」

 ――クウン……

 もとから秀太の傍にいたリジチョーはもちろん、悩んで、沈んだ秀太を心配して、龍望や理寧から距離をとっていた動物たちも次々と秀太の周りに集まってきて、それぞれが心配そうに鳴いてみたり、励ますように体をこすりつけたりしている。

 「あー……大丈夫……大丈夫だよ。そんなに心配しなくても大丈夫だから」

 強がるわけでもなく、ただ心配をかけたくないという思いからか、いたって平常なトーンでそう言う秀太だったが、そんな言葉を聞いて、

 ――……クウン。……アン!

 と、リジチョーは心配そうに鳴く。それに続くかのように、他の動物たちもまた鳴きはじめる。

 「この子たち相手に、気持ちのごまかしなんて通じないんじゃない?」

 「人の言葉の意味なんてわかんねえだろうから、余計に気持ちには敏感だろうからな」

 二人の言葉を肯定するように、なおさらに秀太に身を寄せる動物たち。

 ――ぷう……

 野生動物ながらにも、親の代わりになろうとしてくれている秀太の心境が伝わってしまったのか、ウリ坊までもが心配そうな声をあげた。

 「……本当、こういう時ってどうしたらいいんだろうね」

 困ったような口調でそう言う秀太に、龍望も理寧も何も言葉をかけることができない。

 「ペットの親代わりの存在がその飼い主だって考えたら、親がいないってところはカストルたちと同じなのに……この子にはカストルたちと同じように接してあげられないなんて、なんだかなぁ……」

 それから少しの沈黙が訪れる。

 …… …… ……

 「荒俣さん……」

 「え?」

 長い沈黙から生まれた重苦しい空気を変えたのは、理寧のつぶやきだった。そんな一言に、龍望は思わず理寧を見る。

 「ねえ、荒俣さんに相談してみたらどうかしら? ……あたしは会ったことはないけど、でも、もともとここでいろんな動物のお世話をしていた人なんでしょ? だったら、何かアドバイスとかもらえるんじゃないかなって」

 「荒俣さんに……」

 その考えはなかったのか、秀太は理寧の提案に少し驚き気味に反応する。

 「……いいんじゃないか、それ? なあ、そうしようよ! 荒俣さんに相談しよう? 最近はそれなりに元気みたいだし、病室で退屈してるだろうから向こうにもいい刺激になるだろうしよ」

 理寧の提案を前向きに秀太に勧める龍望に、秀太は少し考えた後に小さくうなずく。

 「……そうだね、荒俣さんなら何かいいアドバイスとかくれるかもしれないし。……うん、そうしてみる」

 龍望にそう言って、秀太は理寧の方を向く。

 「ありがとコトさん、その発想はなかったよ」

 礼を言う秀太に、理寧は嬉しそうな笑顔を見せる。

 「いいえ。いい案が出せてよかったわ。……今すぐ病院に行ったりするの?」

 「あー、そうだね。できるだけ早い方が気持ち的に楽だし、夕方過ぎたら面会時間も終わっちゃうし……うん、今から行こうかな。……ねえタツ、今から車出してもらっていい?」

 「ああ、いいよ。そんじゃ、みんな中に入れてさっさと行くか」

 龍望がそう言って、秀太の周りに集まった動物たちを見回した時だった。

 「あ、あたしも行っていい? 荒俣さんってもともとこの施設を作った人なんでしょ? まだ挨拶とかしてないし、せっかくだから会ってみたいなぁって」

 理寧が、慌て気味にもしみじみとそう申し出る。

 「うん、もちろんいいよ。それじゃあ三人で行こうか。人数多い方が荒俣さんもきっと喜ぶだろうし」

 ――アン!

 主人の名が何度も会話に出てきて、リジチョーが嬉しそうに秀太に吠える。

 「あー……ごめんね、病院だからリジチョーは行けないんだ……」

 ――クウン……

 秀太の表情特徴から事情を察したのか、落ち込み気味のリジチョーを優しく撫でる秀太。

 「悪いけど留守番頼むよ。それと、この子の面倒も見ててくれると嬉しいな。……帰ってきたらまた遊んであげるからね」

 ――アン!

 頭を撫でてくれた秀太にリジチョーが元気に吠えた時、まるで焼きもちを妬くように他の動物たちもこぞって秀太に対して構ってほしそうに鳴きだす。

 「みんなも遊んでほしいとよ……」

 「人気者は大変ね……」

 「ま、まあね……」

 そんなことを言いながら、秀太を慕う動物たちを見ながら三人はしばらく苦笑していた。

ハーモニカとギター -
00:0000:00
秀太の音色と思い出の音色 -
00:0000:00

7――アドバイス

 

 それから三人は、龍望の運転で荒俣が入院している病院へとやってきて、病室を訪ねていた。

 「失礼しまーす」

 みなしごキャンパスで龍望が言っていたように、病状がだいぶ良くなっていた荒俣は、今は四人部屋に入っている。他の患者の迷惑にならないようにと声を潜めつつ、その中にもいつものような明るさを含んだ挨拶を、病室に入りながら秀太がすると、

 「ん? ……おお、ヒデじゃねえか! んで、タツと……その女の子はお前らの友達か?」

 と、荒俣はすぐに秀太たちに気付いた。

 「理寧さんですよ、ほら、前にお見舞いに来た時に話したじゃないですか」

 秀太も龍望も、荒俣の入院後は時間と荒俣の病状を見て、ちょくちょく見舞いには来ていたのだが、それでも学業と動物の世話とで忙しく、今の今まで理寧を誘うには至らなかったのだ。

 「あの、初めまして……獣医学科四年の和幸理寧です」

 「おお、そっか、初めまして! みなしごキャンパスの管理をしてた荒俣だ! 話は聞いてるよ。ヒデたちの手伝いをしてくれてるんだよな?」

 「手伝いって言っても、大したことじゃないんですけど……」

 「何言ってる、あんたがいないとあそこの管理はできなかったって言うじゃねえか。なあ?」

 「ホント、金の問題は俺らじゃどうにもできませんからねぇ」

 「お金だけじゃなくても、みなキャンに理解のある友達が増えたってだけでも嬉しいしね」

 「そうだなぁ、お前らはいっつも何やるにしたって二人きりだったからな、俺としてもお前らに新しい友達ができたってぇのは嬉しいね」

 荒俣にとって、歳の離れすぎた友人である秀太や、その友人の龍望は息子のようなものである。ゆえに、まるで父親のように嬉しそうだった。

 そんな荒俣の様子に秀太たち三人もほっこりと嬉しそうな表情を浮かべるが、それから少しして、秀太は少し言いづらそうに話を切り出す。

 「あの、それでさ……もちろんこうして話とかもしたいなって思ったからお見舞いに来たのもあるんだけど、実はちょっと相談したいこともあって……」

 「……そんなこったろうと思ったよ、どことなく浮かねえ顔しやがって、お前は本当にわかりやすい奴だな、おい」 

 歯に衣着せぬ物言いだが、その口調は明らかに優しかった。

 「えー、そんなに浮かない顔してるかなぁ……」

 苦笑しながらそう言う秀太に、荒俣はあっさりと言う。

 「「悩んでいます、なんとかしてください」って顔に書いてんぞ? ……てなぁ冗談だがよ、元気ねえな、って思ったのは本当よ。……で、相談ってなんだ? 言ってみろ」

 親身になってそう言ってくれる荒俣に、秀太はどこかホッとした様子で口を開く。

 「実はさ、友達が怪我した野生のウリ坊を見つけて、それで、その怪我が治るまでみなキャンで面倒を見ようってことになったんだ」

 「ウリ坊……ったら、猪の赤ん坊だろ? ……んなことしたら親が黙ってねえんじゃねえか?」

 「友達がそのウリ坊を見つけたのが大学の構内で、そんで、何日か前に大学の近くで、猪の親子が犬か何かに噛み殺されて死んでたんだって。ウリ坊の近くに親がいなかったこととか、場所的に考えたら、その死んでた親子の生き残りじゃないかって話で」

 龍望が、飛鳥や信から聞いた話を詳しく説明する。

 「なるほどなぁ……しっかし野生のウリ坊たあ、そいつはまた面倒くせえもん引き受けちまったな」

 「面倒くさいとは思わないけど、まだ預かって一日目なのに、なんか…………なんて言うか、どうしてあげたらいいのかがわかんなくて……」

 そう言う秀太は、明らかに困っている顔をしていた。

 「どうしたら、ってぇと……野生動物の面倒はどこまで見ていいかわからない、ってことか?」

 「うん……まあ、そんなとこ。まだ小さいからか、凄く人懐っこい子なんだ。放っておいても向こうから近寄ってくるからつい構ってあげたくなるんだけど……でも、怪我が治ったら外に放さなきゃいけないじゃん、だから遊んだり構ったりして人に懐かせちゃだめだと思うんだ……」

 「そらそうだ」

 きっぱりと言い放つ荒俣に、三人ともどこか落胆した様子を見せる。

 「……だよね」

 「おい、あっさり納得すんなよ……荒俣さんも! そんなきっぱり言わないでくださいよ!」

 「んなこと言っても、実際そうだろ?」

 「まあ……そうだけど……」

 最初勢いのあった龍望も、荒俣の一言に返す言葉をなくして勢いを失くしてしまう。

 そんなやりとりのせいで少し気まずくなって間が生まれたが、その中で口を開いたのは荒俣である。

 「あー……そんでよヒデ、要するにお前はどこまで面倒を見ていいかがわからないんじゃなくて、自分の気持ちが整理できなくて俺に相談に来たんだな?」

 「いや、そんなことは言ってないんだけど……」

 苦笑する秀太だったが、龍望も理寧もどこか呆れたような顔をしている。

 「……そうだな、言ってはいないな」

 「でも、思ってはいるんでしょ?」

 そんな二人の言葉に、秀太は乗り気じゃなさそうにも認める。

 「まあ……」

 「ったく、回りくどい奴だなお前はよぉ」

 呆れた様子の荒俣、龍望、理寧の三人に、秀太は面目なさそうな顔をしている。と、その様子に気付いた荒俣がふいに、納得するような優しい表情を見せる。

 「……ま、回りくどいのはいただけねえが、そうやって悩んじまうのは仕方ねえさ。お前の生い立ちを考えりゃ、親がいないってやつに寄り添いたくなるのは無理ねえことだからな。でもよ、それで悩むのはちっとも悪いことじゃねえ。だからそこは気にすんな」

 「……そっか。じゃあ、気にしない」

 そう言う秀太は、先ほどよりも若干気持ちが軽そうである。

 「おうよ、それでいいんだよ」

 そう言う荒俣も、小さくホッとした顔をしている。

 「で、話を戻すが、ウリ坊の奴は人懐っこいっつってたよな? そんでその困り具合から察するに、ウリ坊の奴はもう、ヒデに懐いてるってことなのか?」

 「うん、たぶん……懐いてないとあんなに近寄ってきたりしないだろうし。……きっと、あんなに小さいのに急に一人になっちゃって寂しいんだろうなって……」

 「そう思うんだったら、悩んだりしねえで面倒見てやればいいじゃねえか」

 平然と、あっけなくそう言い放つ荒俣。

 「いやだから! それがだめだからどうすればいいか相談に来たんですよ! なあ?」

 「そうだよ! それじゃ何の解決にもならないって……!」

 あっけない荒俣の答えに、二人は呆れたのか食ってかかる言葉に勢いがある。……が、荒俣は引けを取ることなく、しかし困ったように返す。

 「んなこと言ってもよ、相手は野生動物とは言え赤ん坊だぞ? まだ一人じゃなんにもできねえような赤ん坊に親として存在を求められて、それを放っておいて気持ち良いか? ……良くねえだろ?」

 「そりゃそうだけど……」

 「だろ? だったら面倒見てやれよ。ウリ坊が安心できるように、時間が許す限りは、親になったつもりでそばにいてやりゃいいじゃねえか」

 「でも荒俣さん、お言葉を返すようですけど相手は野生動物なんですよ? だからこそそんな人間の子供に対するような対応じゃ――」

 「人間も動物も一緒だろ。赤ん坊が親、もしくは親代わりの存在を求める気持ちってぇのはよ」

 荒俣の話に、獣医学生として違和感を感じた理寧は思わず意見をしてしまうが、荒俣はその言葉を遮ってまで、そう伝えた。

 「……」

 当たり前、と言った口調でそう言い放つ荒俣に、三人は反論することもなく、それぞれに何かに気付かされた……そんな顔をしていた。そんな様子を見て荒俣は続ける。

 「全ての出逢いには意味がある、なんてロマンチックなことは言わねえけどな。……だが、人間も動物も、とにかくヒデの周りに集まる奴らってぇのはきっと意味があってヒデと巡り合ってんじゃねえかって俺ぁ思うんだ。ヒデならそのウリ坊の面倒をちゃんと見てやって、なおかつしっかりと野生に返してやれる。だから巡り合ったんだって、お前らもそう思わねえか?」

 そう言って三人を見回す荒俣に、理寧は小さく笑って言う。

 「すごい…… 荒俣さん、タツくんと同じようなこと言ってる」

 「お、ホントか? おいタツ、お前理寧ちゃんにどんなこと話したんだよ?」

 「どんなことって……その……ヒデと出逢う奴ってのは、出逢うべくして出逢ってるんじゃないかって話ですよ」

 自分の発言と荒俣の発言があまりに時間が開いていなかったからか、龍望はやや苦笑気味だったが、それを聞いた荒俣は嬉しそうに笑う。

 「そら見ろ! ヒデと親しい俺やタツが同じことを思ってるなんてよ、やっぱりヒデと巡り合うことにゃあ意味があるんだよ、そうに違げぇねえ!」

 高らかにそう言ってから、荒俣は力強く優しく秀太を見据える。

 「……なあヒデ、お前が俺の話に納得したならって話になるがな、自分のやりたいこと、自分の判断にもっと自信を持て。やりたいようにやって、それでうまくやれる力がお前にゃあるんだからよ」

 「……ありがとう」

 どこかくすぐったそうにそう言って、秀太はほっとした顔つきになる。

 「なんか、上手くは言えないけどやっぱり荒俣さんに相談して良かったよ」

 「そうか?」

 「うん。あの子の野生動物としての力と、あの子がみなキャンに来たことの意味の両方を信じてさ、思ったようにやってみる」

 それから、秀太は力強く荒俣を見た。

 「大丈夫……きっとうまくやれるよ」

 「よし、その意気だ! 頑張れよ、みなキャン管理人!」

いつもの、不思議な説得力のこもった秀太の口癖に、三人とも安心したような表情をしていた。

 

 

8――友達の時間

 

 病院から大学に帰る車の中の空気は、来る時には考えられない程軽いものだった。

 「にしても……荒俣さんに会いに行ってよかったなぁ。元気そうで安心したし、思った以上のアドバイスももらえたし! な、よかったよな?」

 「うん。ホント、会いに行ってみてよかった。……荒俣さんとタツが同じようなことを思ってたってのは驚いたけどね」

 「それほど、みんなヒデくんと出逢えてよかったって思ってるんだから、それってすごいことよね」

 一人、後部座席に座っている理寧は、そう言ってから運転席の龍望、助手席の秀太には見えずとも、ふっと複雑そうな顔になる。

 「……それってさ、あたしがこうしてヒデくんと友達になれたってことにも、ちゃんと意味はあるって思ってもいいことなのかな……?」

 どこか悩んでいるようにも聞こえる口調のその問いに、秀太は少しの間考えた後、

 「……あるよ」

 と、あっさりとそう言う。

 「まだ、知り合って一年も経ってないのに?」

 「朝も言ったけど、知り合ってからの時間の長さ短さなんて関係ないよ。なんて言うか……荒俣さんの話を聞いてたら、自分で言うのもちょっと恥ずかしいけど・……本当に僕が誰かと出逢うことすべてに意味があるように思えてきてさ」

 そして、助手席と運転席の間から、優しく笑って後部座席の理寧と目を合わせる秀太。

 「だから、コトさんが僕たちを助けてくれてることも、コトさんと僕たちがこうして友達になれことにも、意味があるんだよ、きっと」

 こういう話において、秀太は無意識に「きっと」の言葉をよく使う。それは、「絶対」という言葉に自信が持てないわけではなく、相手の意見を尊重しようとする秀太の優しさが言わせる「きっと」なのだ。

 「そう……だったらいいけどな」

 少し他人事のようにも聞こえる口調の理寧に、やれやれと言ったように苦笑してから、秀太は前に向きなおす。

 「ま、出逢った意味なんて後から気付くものなんだろうし……そんなに気にしなくてもいいんじゃない?」

 「そうだよ。そーいうの気にしないで、もっと気楽に人付き合いしようぜ? ヒデとカストルたちみたいにさ」

 「気楽って……ひどいなぁ。確かにやることっていったら身の回りのお世話と遊んであげるくらいだけど、それでもちゃんとみなキャンのみんなとは真剣に向き合ってるよ」

 「そんなこたぁ知ってるよ」

 「なら、そーいうこと言わなくていいじゃん」

 「言わなくてもいいけど、言ってもいいだろ?」

 「なに、その理屈……」

 「俺もわかんない……」

 「……。なんかさ……タツ最近、言動が荒俣さんに似てきてるね」

 「冗談! 俺、あそこまで雑じゃねえし」

 「……今度お見舞い行った時にでも、タツが荒俣さんのことを雑だって言ってたって教えてやろうか?」

 「やめろよ、そーいう陰口みたいなの」

 「いや、タツの目の前で言う予定だから影口ではないんじゃない?」

 「うわぁ、陰湿だなおい……」

 そんな、まだまだ続いている秀太と龍望のやりとりを聞きながら、理寧がホッとしたような安堵の色を浮かべていたのを、前の席の二人は知らない――

 秀太が荒俣の言葉に救われたように、理寧もまた、そんな秀太にかけてもらった「知り合ってからの時間の長さ短さは関係ない」「自分たちが出逢ったことにも意味がある」という言葉に大いに救われていた。

 それだけでも、秀太と理寧が出逢ったことの意味というには、十分だった。

 

 

9――ふっきれた父親

 

 ウリ坊の保護をした日の夕方。荒俣の見舞いを済ませた三人はみなしごキャンパスに戻ってきた。

 「ただいま~」

 そう言いながらガラス戸を開けても、いつものようにリジチョーが飛び掛かってくることはなく、カストル、ポル、ピースがのっそりと動き出して秀太に寄ってくるだけだった。

 「留守番ありがとうね~」

 秀太にだけではあっても嬉しそうに近寄ってくる動物たちに、秀太は留守番の礼を言う。

それから、龍望がいぶかしげに室内を見渡す。

 「にしても、リジチョーの奴ずいぶん大人しいけど……今日はどうしちまったんだ?」

 「あー、そう言えば……外から帰って来たのに飛び掛かってこないね」

 「買い物から帰ってきた時もなのよ? その時は、ヒデくん寝てたから知らないだろうけど……ずっとヒデくんの傍にいたからみたい」

 「あー、そうだったんだ」

 意外そうにそう言って、秀太も室内を見渡してみる。

 「だったら、また誰かの傍にいてあげてるのかもしれないね……あ、ほらいた」

 小さくそう言って、ソファの陰を見る秀太。

 「いたって、どこに?」

 龍望はリジチョーを探そうともせずに、人任せにそんなことを言う。

 「ほら、ソファの後ろから尻尾が見える」

 「本当……」

 秀太がソファを指差すと、理寧もリジチョーの尻尾を見つけることができた。

 秀太はゆっくりとソファに近づき、その陰を覗き込む。

 ――ぷぅ……ぷぃ……

 そこには眠っているウリ坊と、昼間の秀太にそうしていたように、それを見守っているリジチョーがいた。

 龍望と理寧も秀太について行ってその光景を目にし、思わず声が小さくなる。

 「あ、寝てる……」

 「買い物帰ってきた時も寝てたし、赤ん坊はよく寝るなぁ……」

 犬ゆえに帰ってきたことにはとっくに気付いていたのか、三人に急に覗かれてもリジチョーは驚くこともなく、ウリ坊に向けていた目線を三人に向けて控えめな声で、

 ――クウン

 と鳴いた。

 「……ただいま、リジチョー。ちゃんとその子のこと、見ててくれたんだね」

 秀太を見てリジチョーは嬉しそうな顔をして、ハッハッと吠えないように小さく声を出しながら尻尾を振っている。

 「ありがとう。あとは僕がお世話するからもう大丈夫だよ。みんなと遊んでおいで」

 ――クウン!

 秀太が礼を言いながらリジチョーの喉元に手を伸ばすと、リジチョーはとても気持ちよさそうにそこを撫でてもらい、その手が止まったのを確認して、カストルたちと遊ぼうとソファの陰から飛び出した。

 「さて……」

 そう一言言って、秀太は寝ているウリ坊を抱きあげる。

 「この子をちゃんと独り立ちさせてあげられるように、怪我が治るまでは親代わりとして頑張るぞ」

 迷いのないその口調に、龍望も理寧も安心したような顔をする。

 「気持ちの整理もついたことだし、お前なら大丈夫だ」

 「怪我の手当てとか餌のこととか、手伝えることはあたしも手伝うから、絶対に一人で無理はしないでね」

 二人の後押しに、秀太もどこか心強そうである。

 「うん、ありがとう」

 自分の身を案じてくれる「親」たちの愛情の中で、ウリ坊は小さな寝息を立て続けていた。

 

 

10――親離れ

 

 みなしごキャンパスに親を亡くしたウリ坊がやって来て早くも二週間が経った。

 その間、秀太は必要以上にウリ坊に構うことを控え、ウリ坊が自分を求めてくる時には親代わりとして応えてやっていた。また、運動場に餌を埋めてウリ坊に探させるなど、微力ながらにも野生に還すための訓練も重ねた。

 秀太だけではなく、秀太がウリ坊の世話に時間を割かれる分、龍望は秀太の分も他の動物の世話や自分たちの身の回りの家事を頑張り、理寧も遊びに来るたびに野生動物の自然回帰に関する知識を新しく持ってくる他、ウリ坊の前脚の治療にも精を出し、今ではウリ坊は傷痕こそまだあっても元気に走り回れるほどに怪我も治っていた。

 

 夏休みとは言っても学科や講座によっては夏期講習や実習があるところもあり、理寧が所属し釧介が担当している農学部獣医学科の応用臨床学講座も、この日は希望者による附属病院での実習があり、理寧がみなしごキャンパスに遊びに行こうとした時にはすでに夕方になっていた。

 農学部キャンパスからマンションに帰ることもなく、理寧は真っ直ぐにみなしごキャンパスに向かう。……と、みなしごキャンパスの近くまで来て理寧は急いでいたはずの足を止めた。

 ――あれ、この音……

 いつか、初めて午前中にみなしごキャンパスに遊びに行った日にも聞いた、優しいメロディ――かつて秀太の父が秀太によく聴かせていた曲が、理寧の足を止めたのだった。

 ――やっぱり、運動場の方……

 前の経験から容易に音の出どころがわかった理寧は、念のためガラス戸の玄関の外から室内の様子を見まわし、誰もいないことを確認してから建物の外伝い、金網越しに運動場へ向かった。

 そこには、理寧の思惑、耳の感じたとおりにメロディの奏で主たち――ハーモニカを吹く秀太とギターを弾く龍望がベンチに座っていた。

 二人、そして二人の周りで音楽に聴き惚れる動物たちを確認した理寧は、先日の失敗を気にして金網から少し離れたところでその演奏を聴いていた。

 一通り曲を吹き終わり、秀太は目線を金網の向こうへと移す。それにつられるように、同じように龍望も金網の向こうを見た。

 「いらっしゃい。玄関空いてるよ」

 「俺らもそろそろ中に戻るから、コトさん先に入ってなよ」

 秀太も龍望も、理寧の訪問、そして理寧の気遣いに気付いていた。

 「あ、うん……」

 それから、理寧は玄関から、秀太と龍望は裏口から室内に入った。そして動物たちも、馬のモーターを除いてみんなが秀太についてくるように室内に戻っていった。

 

 みなしごキャンパスのフリースペースにあるソファに座り、秀太たちは一息ついていた。

 「それにしても珍しいね、こんな時間に演奏聞かせてあげてるなんて」

 今まで、理寧が夕方に遊びに来た日には一度として秀太と龍望が動物たちに演奏をしていることはなかった。率直な疑問である。

 「それがさぁ、なんでか今日はウリ坊の奴がヒデに構って構って~ってすごくってよ。それで、落ち着かせるのに聞かせるかぁってなったんだよ」

 「今までも甘えてくることはよくあったんだけど、今日は特に甘えてくるって言うか……普通じゃない感じなんだよね――」

 ――ぷぅ~!

 話している最中も、ウリ坊は秀太の足元をうろうろしては構ってくれとでも言いたげに鳴いている。

 「なに、遊びたいの? ……今日は随分元気だね?」

 ――ぷうー! ぷぃー!

 しゃがみ込んでウリ坊を撫でてやる秀太に、ウリ坊はなお何か言いたげに鳴いている。

 「本当、今日に限ってどうしたのかしらね?」

 「そろそろ怪我も治るころだし、あんまり構ってあげるのもどうかなって思うんだけどさ――」

 「でも、構ってあげたいんだろ?」

 秀太との長い付き合いが、本音を鋭く言い当てる。

 「そりゃあ……」

 龍望が言う通り、秀太はこの二週間から今にかけて、本当はウリ坊に構ってやりたい気持ちでいっぱいだった。しかし、ウリ坊のことを考え、荒俣の言葉の意味を考え、我慢をしていたのだ。

 秀太のこの一言は、その緊張の糸が、付き合いの長い龍望の言葉で少し緩んでしまったからのようである。

 ――ぷぅ~

 秀太の気持ちに追い打ちをかけるように、甘えた声を出すウリ坊だったが、そんなウリ坊と目線を合わせるように、今度は理寧がしゃがみこむ。

 「とにかく。遊ぶにしても遊ばないにしても、まずは怪我の具合を診てみないと。ほら、脚見せて?」

 ――ぷぃ~……

 理寧に前脚を持たれて、ウリ坊は秀太に対するものとはうって変わった嫌そうな声をあげる。

 「おい、嫌そうに鳴くなよ……コトさんはお前の怪我を治してくれてるんだぞ?」

 「いいんじゃない? ヒデくんは親代わりだからいいとしても、他の人間に対して嫌悪感を持ち始めたってのは、野生動物としては大事なことだから」

 「あー、それもそっか」

 そんな話をしている最中に理寧はウリ坊の前脚の包帯を取り終え、怪我の部分を指で軽く押してみる。

 ――ぷっ?

 ウリ坊の反応は、痛みによるものではなく、ただ脚を押されたことに驚いただけのようだった。

 「うん、まだ痕は残ってるけど……触っても痛がらないってことはそろそろ完治するんじゃないかしら」

 「そっか、よかった……」

 秀太のその言葉には、安堵と共にどこか寂しさも感じられた。その様子に、理寧はなんとなく気付いたようである。

 「……なんだか寂しそうね」

 「そりゃ……怪我が治ったら、外に放さなきゃいけないからね」

 「あー……でもよ、まだ! まだいいんじゃねえか? ほら、傷痕も残ってるんだしさ! ……その、もうちょっとは一緒にいられるよ。だからほら、そんな寂しがるなって! な? 元気出そうぜ?」

 先ほどの言葉よりもはっきりとわかる秀太の寂しい感情を気遣い、龍望はわざと明るい口調でそう言うが、その言葉に秀太は小さく苦笑する。

 「ありがとう。でも……」

 それから、秀太は理寧の方を向く。

 「そうも言ってられないんだよね、きっと……」

 「それは……まあ……そろそろ外に放さないといけない時期になっちゃうだろうけど……」

 そう言って、理寧はウリ坊を見る。

 ――ぷう?

 理寧が何を思っているかなど、動物であるウリ坊にわかるはずもない。ウリ坊はただ、じっと見られて不思議がっているだけである。

 「でも、もうちょっとだけでいいから……ヒデくんとこの子と、一緒にいてほしいって……あたしもそう思う……今野生に還して、急に一人になっちゃったらこの子だって寂しがっちゃうじゃない。それはかわいそうって言うか……」

 切実なその言葉に、秀太は迷いの色を顔に浮かべはじめる。

 「今野生に還すのと、もう少し一緒にいてあげるのと、どっちがこの子の為になるのかな……?」

 「……」

悩み始める秀太に、龍望も理寧もかける言葉を見つけることができないでいる。

 「正直言うとさ、やっぱりまだ一緒にいたいけど……それがこの子のためにならないなら、早く外に放してあげたいって気もして……でもやっぱり……まだ離れたくないよ……」

 すると、ウリ坊が急に甘えたような寂しそうな、そんな声で鳴きながら秀太に体をこすり始めた。

 ――ぷう~……ぷうぷぃ~!

 「どうしたの……ホント、今日は随分甘えんぼだなぁ」

 ウリ坊の姿に少しだけ気が紛れたのか、そう言う秀太に先ほどのような悩みの様子は感じられない。

 ――♪。

 と、その時。みなしごキャンパスのチャイムが鳴った。

 「あ……釧介教授だ……」

 ガラス戸越しに見える訪問者の姿に思わずそんなことを漏らす龍望。理寧も秀太も、ガラス戸の向こうの釧介の姿を見て気まずそうな顔をしている。

 「どうしよう……こんな急に来られたら隠しようがないじゃない……」

 そんな中、秀太は険しい顔をしながら何も言わずに立ち上がり、ガラス戸の方へと歩きだす。

 「ちょっと……ヒデくん?」

 心配する理寧の方へ向き直ることもなく、ガラス戸を開けた。

 「……予定もなしに来るなんて珍しいね。何かあった?」

 至って平然とした口調である。

 「……。ああ、来月の支給金のことでちょっと話があってな、そう長くなる話でもないと思って連絡しなかったんだが、急に来てはやはり迷惑だったか?」

 釧介も、秀太の足元をちょこちょことついて歩くウリ坊が見えているはずなのに、特に話題に触れようとしてこない。しかし、明らかに何かを思っていることは、最初に言葉を詰まらせたことで明らかだった。

 ――ぷぅ~……

 保護した時よりも二週間とは言え成長したからか、ウリ坊は見慣れない人間である釧介を警戒するように秀太の陰に隠れ、威嚇なのか低い声でそう鳴いて様子を見ている。

 「バカ、鳴くなって……!」

 ――ぷぃー……!

 龍望の声が刺激になってしまったのか、ウリ坊はなお不安そうな低い声で鳴く。

 「バカではないんじゃないか? 見慣れない人間に対して警戒するのはいいことだ。……その猪、野生動物なんだろう?」

 他人事のような、どこか呆れたような口調。その言葉に、三人とも気まずそうな顔を見せるだけで、何も言おうとしない。

 ……。

 「あのなぁ……黙っていれば私が帰るとでも思うのか?」

 さらに呆れた口調で沈黙を破る釧介。

 「いや、別にそういうことじゃないけど……なんか、気まずいっつうか……」

 素直に、苦笑しながら話す秀太。

 「そりゃ気まずいだろうな。ここで預かる動物の増減は、みなしごキャンパスの大学側での責任者である私に報告しなければならないはずだが、そんな猪を預かっているなんて一言も聞いていないんだからな。……それ以前に、野生動物の保護をする場合には自治体への届け出が必要なんだが……そんなこと、していないんだろう?」

 それから、釧介は黙って釧介の話を聞いている秀太を見る。

 「……どういう経緯で預かった?」

 「二週間くらい前に友達が大学の構内でこの子を見つけて、怪我が治るまで面倒を見てほしいって言われて預かったんだ」

 「二週間前と言うと……この近くで野犬か何かにやられた親子の残りか」

 「たぶんそうだと思う。今はもう治りかけてるけど、前脚が噛まれたみたいにグチャグチャだったから」

 それから、釧介は何も言わずにウリ坊を見る。

 「前脚か……確かにその小ささで、そんな場所を怪我していれば、保護なしでは生き残れないだろうな」

 「あ、あの、教授……野生動物の保護なんて勝手にしてはいけないことだってわかってますけど……」

 理寧はなんとか釧介を説得しようとするが、釧介は呆れたようにため息をつき、

 「……わかっているのなら、なんでこそこそと世話をしていたんだ? その様子だと、和幸も手伝っていたんだろう?」

 と、確かめるように訊いてくる。

 「……だって、放っておけないじゃないですか。この子、怪我したまま放っておいたら死んでいたかもしれないし……それに、ヒデくんのことを本当に親だと思ってるみたいで、それを引き離したくもなかったから……」

 必死に説明する理寧に難しい顔を見せてから、釧介は

 「……命を粗末に考えるよりはよほどマシな考えだがな、野生動物相手にそんな私情は挟むものじゃないぞ。動物と関わる仕事に就きたいと思っているのならなおさらな」

 と、複雑そうにそう言う。それからしゃがみこんで秀太の後ろに隠れているウリ坊の前脚を掴んで診る。

 ――ぷう~……

 理寧に診てもらった時よりも、いっそう嫌そうな声だった。

 「どれ……傷口は綺麗に塞がっているな。経過は順調そうじゃないか」

 「コトさんが手当てしてくれたし、ちょくちょく様子を見に来てもくれたからね」

 「そうか。で、餌はどうやってあげていた?」

 「運動場に埋めて自分で見つけさせた。直接あげちゃうと、餌を探さなくなりそうだから」

 「いい判断じゃないか。つまりこいつは、怪我もほとんど治って、餌も      自分で探せるんだな」

 そう言う釧介が実のところは何を言いたいか、全員がわかっている。

 「で、でも……! ほら、こいつまだ縞模様だって消えきってない赤ん坊なんだし、もう少しだけだったら親の代わりになる奴が傍にいてやった方がいいんじゃないかな、って……」

 否定されるとわかっていても言わずにはいられない龍望だったが、説得力の無さは自身が一番自覚している。そのため、次第に言葉の勢いが落ちていく。

 「やっぱ……ダメですかね?」

 釧介は何も言わなかったが、ふいに、秀太が意を決したように真剣な面持ちで

 「あのさ教授……今外に放すのと、もう少し待って怪我が完全に治ってから放すのと……どっちがいいんだろう?」

 と、釧介に問いかける。

 「これだけ怪我が治っていれば、今すぐ放しても問題ないだろう。残る問題と言えば、天敵を天敵だと判断できるか、環境が変わっても自力で餌を探せるか、そのあたりだが……こればっかりは、お前たちがこれ以上どうこうできるものでもない」

 秀太の私情を捨てたその言葉を受けて、釧介も真面目に答える。

 「……そっか」

 先ほど理寧と話していた時と同じように、寂しそうでもあり、ホッとしたようでもある、複雑な心境を思わせる一言。

 「どちらにせよ、ここで野生動物の世話をこれ以上続けることを黙認なんてできないぞ。ここは動物園じゃあない。猪の性質を考えれば、死ぬまで飼い続けることも難しいからな」

 「……わかってるよ」

 どうしようもなさそうに、しかし納得もしているような口調でそう言う秀太。

 それから、少しの間みんな黙っていたが、

 「あのさ……今からこの子を外に放しに行くことって、できるかな?」

 ふいに、秀太が意を決したようにそう言った。

 「……。猪だったら、ここから車で一時間くらいで行ける奥多摩の自然公園に野生のものが生息しているはずだから、話を通せばそこで放せるだろう。……公園の管理人に連絡を取ってきてやるから、出かける支度をしておけ」

 そう言って、釧介はさっさと出入り口まで歩いていく。が、その手前で立ち止まり、

 「いいか、どんなに自然に近くした環境で世話をしたとしても……二週間も人間と過ごしてしまった以上、その猪が野生で生きて行ける確率は低いと思っておけ」

 と、振り返ることもなくそう言って、みなしごキャンパスを出ていってしまった。それを見計らって、龍望も理寧も心配そうに秀太の顔色をうかがう。

 「なあ……確かにこれ以上は見逃してもらえなさそうだったけどさ……でもお前、まだ一緒にいたいって言ってたじゃねえか。本当にこれでいいのかよ?」

 「……いいよ。別にこの子をペットとして飼いたいってわけじゃないんだし、それに……もっと一緒にいたいだなんて、そんなの、ただのワガママだから……」

 「でも、それでも急すぎるよ……もうちょっとだけでも――」

 「ダメだよ……そのちょっとだけで、取り返しがつかなくなるかもしれないし……きっと教授は、ここにこの子がいるって知ってたんだよ」

 理寧に対してそう言う秀太に、二人とも驚きを隠せない。

 「知ってたって……だったらもっと早く忠告しに来てたんじゃねえの……?」

 「そうよ、あたしだって何回も夏期講習とか実習で教授とは会ってたけど、この子のことは何も……」

 秀太の言葉を聞くまではそんなことは微塵も思っていなかった龍望と理寧。しかし、秀太の「教授は知っていたのではないか」という言葉から感じていることと、今自分たちが放った言葉が矛盾していることは気付いていた。

 「……さっき。包帯を取っててパッと見じゃあ怪我なんかわからない状態で、それで噛まれたのは前脚ってしか僕言ってないのに……教授、わかってたように左脚を診てた。きっと、運動場に出してる時にこの子を見かけて、知ってたんだ。知ってて、きっとギリギリまで待っててくれたんだよ……」

 説得力と哀愁のある秀太の話に、龍望も理寧もついに何も言い返せなかった。

 「これ以上は、この子のためにならない……だったら、自分の気持ちを押し通してまで、この子を殺したくない……」

 声が震えていた。

 幼くして孤児になりながらも一匹の孤児の親として尽くしてきたこの男は今、複雑に混ざり合いこみ上げてくる感情に泣かされそうになりながら、それを必死にこらえていた。

 ――ぷぅ……

 状況こそよくわかっていなくても、秀太が落ち込んでいるんだということはわかるウリ坊。心配そうに、寂しそうに、秀太を見上げている。そんなウリ坊に、秀太は寂しそうにも笑顔を作り、しゃがみこんでその小さな体を抱きかかえてやる。

 ――ぷ?

 「ありがとね……僕のこと、親として必要としてくれて……」

 ――ぷう……

 ウリ坊も、言葉こそ解らずとも秀太の気持ちは伝わったのか、寂しげな、そして甘えるような鳴き声でそう答える。

 「大丈夫だよ……君ならきっと、野生にかえってもうまくやれるから……だから、一人でもちゃんと生きていくんだ……できるよね」

 ――ぷぅ~……

 まるで約束をするかのような、そんな小さくも切実な咆哮だった。

 秀太は、それから釧介が戻ってくるまでの間、わずかな時間を惜しむようにウリ坊を抱きかかえたままでいた。ウリ坊もまた、そんな秀太に身を任せたままでいて、龍望と理寧も、ただ邪魔をしないようにとずっとその場に立ち尽くすだけだった。

 

 

11――独り立ちの時

 

 ウリ坊を外に放すと話が進んだ後、釧介は自然公園の管理人と電話で連絡を取り、秀太、龍望、理寧を連れて奥多摩にある自然公園に車でやってきた。

 「この辺でよく猪が目撃されているようだから、放すならここがいい」

 そう言って、釧介は秀太を見る。ウリ坊は秀太の足元でしきりに初めての環境に戸惑っていた。

 「だが……ただ放そうとしたって、慣れない場所に連れて来られた不安から、きっと武見里の傍から離れようとはしないだろう。だからと言って武見里の方から離れたところで必死についてくるのは目に見えている」

 「じゃあ、どうしたらいいんですか?」

 理寧が訊く。

 「その猪が自分から、武見里から離れてくれればそれでいいんだが――」

 そう言って、釧介は秀太の方をちらりと見た。気付いているのかいないのか、秀太は何も反応を見せない。

 「まあ、それはほぼありえないだろうな」

 皮肉にも、釧介の言葉を実証するようにウリ坊は秀太の傍から離れようとせず、あろうことか甘えるように自身の体を秀太の足にこすり始めた。

 「それじゃあ、どうすりゃいいんだよ……」

 龍望が困ったようにそう言ったその時、ドンッ! と、思い切り地面に足を踏み下ろす音が聞こえた。

 ……秀太だった。

 ――ぷっ……!

 龍望たちも驚いたが、秀太の足元にいたウリ坊は彼ら以上にひどく驚き、秀太から咄嗟に離れる。

 「ヒデくん……?」

 「いきなりどうしたんだよ……?」

 思わずそう訊いてしまう二人だったが、釧介だけは秀太の心境を理解しているようで、何も言わない。

 「いつまでも傍にいられたって困るんだ。早く行ってよ……」

 ウリ坊に向けた、感情のこもらない無機質な言葉だった。

 ――ぷう……――!

 わけも分からず一度は離れたものの、もう一度秀太に近寄ろうとしたウリ坊だったが、それをさせまいと秀太はもう一度思い切り足を踏み下ろす。

 「これ以上は一緒にいてあげられないんだ……わかってよ、これ以上求められたら、踏ん切り付かなくなっちゃうよ……」

 寂しさを押し殺したような、切実な想いだった。

 ――ぷう……

 その場に止まり、迷うように鳴くウリ坊。

 「頼むから……頼むから早く行ってよ!!」

 震える声で秀太が言う。

 ウリ坊はただじっと秀太を見つめていたが、秀太は決して目を合わせようとはせずにうつむいていた。

 やがて、

 ――ぷ……

 と、短く小さく鳴いた後、ウリ坊は逃げるように走りだす。

 「あ……」

 理寧が思わずそう漏らした時には、もうウリ坊の姿は見えなくなっていた。

 「行っちゃった……」

 「なんだよ、ヒデにあんなに懐いてたくせに、ちょっと脅かされたくらいで逃げていきやがって……」

 不服そうにそうぼやいて、龍望は窺うように秀太の顔を見た。

 わかっていた。龍望も理寧もわかっていた。

 ……秀太は静かに泣いていた。

 「なあ……あんな別れ方で、お前本当によかったのか?」

 「……」

 龍望の問いに秀太は答えなかった。複雑な感情を抑えるので必死だったのだろう。

 「よかったじゃないか。多少無理矢理ではあったが、今までと態度を裏返したからか、武見里のことすら怖がっていたように見えた。これで人間に不用意に近づくことはなくなると思うぞ」

 「そうだね……」

 秀太の心境を無視した釧介の話に、気のない秀太の返事。釧介は特に何も言わない。

 「まあ……たとえお前の思いに反して、うまく餌が取れずに死んでしまったり、人を恐れずに人里に下りて駆除されてしまったとしてもだ……それはお前の責任云々と言ったことではない。どうせしばらくすれば向こうも人に世話されたことなぞ忘れる。だから、お前もあの猪のことはきっぱりと忘れろ。……いいな?」

 そう言われて、秀太はうつむいたままで自然公園の駐車場のある方へと向き直り、そして黙って歩きだす。

 「おい……」

 龍望に声をかけられ、秀太は立ち止まりはするも振り向きはしない。

 「わかってはいたけど、やっぱり辛いや」

 秀太の言葉には、未だ感情がこもらない。

 「ヒデ……」

 「辛いし、結局は生き残れる可能性を削っただけだなんてさ……だったら最初から関わらなきゃよかったのかな……自分と同じ孤児だから、だからこそ寂しい想いはさせたくないなんて、そんなの……僕の勝手なエゴだったんだよ……人が野生動物の親代わりになんかなれるはずないのに……」

 秀太の言葉に、やっと感情がこもった。寂しさ、後悔、自分に対する憤怒……それらの感情を押さえようとした、震える声でそう言って、秀太は一人でさっさと駐車場へと歩いていく。

 「自分と同じ……武見里の奴、孤児と言うと……両親がいないのか?」

 釧介は、初めて耳にしたその情報を確かめるべく龍望にそう訊く。

 「あんまり他人から話すことじゃないでしょうけど……そうですよ。生まれてすぐに母親と死別して、小学校に入る前には父親が事故で行方不明。それで子供のうちに両親が二人ともいなくなったから、あいつはずっと祖父母に面倒を見てもらってたんです……」

 「猪の保護なんて、あいつにしたら随分と無責任なことを引き受けたと思ったが、そうか……」

 事情を知って、釧介も秀太の心境を思ってか少しばかり辛そうな表情を見せる。

 釧介はつくづく損な男である。相手を思うがゆえに、冷静かつ冷淡な態度ばかりが表に出てきてしまうことが多く誤解されがちだが、人間関係に悩む理寧を密かに気にかけてきているように、その根は面倒見がいい男なのだ。

 ゆえに、事情を知る前から薄々感じていた秀太への心配が、龍望の話によって確かに膨らんでいることを感じていた。

 「せめて……あの子が生き残ってくれて、それがわかるのなら少しはヒデくんも安心できるかもしれないけど……」

 「あとはあの猪の生存能力次第……そればっかりはどうにもできんよ……」

 「ですよね……」

 そう言って、龍望は秀太が歩いて行った駐車場のある方を向く。すでに秀太はいない。

 「ヒデ、立ち直れるといいけどな……」

 秀太を案じつつ、三人は先に車まで歩いて行った秀太の後を追いかけるしかできなかった。

 こうして、秀太はウリ坊と別れた。たった二週間だけ存在した親子の絆は、奥多摩の山の中に消えていった。

 

 

12――普通に過ごす理由

 

 みなしごキャンパスで世話をしていたウリ坊を奥多摩の自然公園に放してからおよそ一ヶ月が経った九月。

 不思議なことにこの一ヶ月、あれほどウリ坊に入れ込んでいた秀太は落ち込む様子もなく、誰にもウリ坊の話を切り出す様子も見せていなかった。それは釧介の言った通りにウリ坊のことを忘れることができたからなのか――

 そんなはずがないことは、彼とウリ坊のことを知る誰もがわかっていた。そして、彼が必死に普通を装っていることにも気付いていて、誰もそのことを指摘できずにただただ心配しながらも普通に接するだけの日々を送っていた。

 

 その日、理寧はいつものように講義が終わった後、みなしごキャンパスに遊びに来ていた。

 「あれ、ヒデくんは?」

 玄関から中に入るや否や、動物たちのエサ皿を一人で洗っている龍望にそう訊く理寧。

 「ヒデなら今日は五限まで取ってるから、まだ学校だよ」

 「そうなんだ。じゃあ、まだ帰ってこないよね」

 そう言った後、理寧は少し考え込んだ後に、

 「ねえ……ヒデくん、あの子のことで何か話したりしてる?」

 と、本人がいないとわかっていてもどこか遠慮がちに龍望に訊いてみる。龍望は、思わずエサ皿を洗う手を止めた。

 「……あの子って、外に放したウリ坊?」

 「うん……」

 「あの子」が何かを確認し、龍望は困ったように顔を見せる。

 「なんか……たぶん思い出したくないだけだとは思うけど、まるでウリ坊の保護なんて引き受けてなかったみたいに、そのことは何にも話さないで普通過ぎるくらい普通に過ごしてる。だからって、本当にウリ坊のことを忘れてるわけはないだろうけど」

 「そうでしょうね……」

 「やっぱり、あいつの言うエゴのせいで野生で生きていけなかったらって思うと、相当辛いんだろうなぁ……」

 「なんで、辛いのにそんな無理するんだろう……」

 「……そりゃあ、俺らに気ぃ遣わせねえためだよ。つっても、本人は落ち込んでる様子とか隠してるつもりかも知んねえけど、逆に隠すのがうますぎて……気持ち悪いくらいに普通すぎて、落ち込んでるってバレバレで、逆に心配だってのに……」

 本人から普通を装う理由を聞いたわけではない。しかし龍望にはその理由がわかる。そして、理寧にもその理由――今更だが秀太と龍望がいかに長く親しく人生を歩んできているかがわかる。

 以前なら秀太と龍望、秀太と理寧の距離の違いを知る度に落ち込んでいた理寧も、このことで落ち込むことはなかったが、今はとかく秀太のことが心配でたまらなかった――

 

 これは数日前の話である。

 理寧は附属病院での実習中、診察台を拭きながらふと、みなしごキャンパスに遊びに行った時に龍望とした会話をを思い出していたのだった。

 「和幸。……おい、和幸!」

 「あ、はい!」

 「診察台の同じところだけ何度も何度も拭いたって意味ないだろう」

 釧介は呆れているというよりは、理寧を心配しているようだった。

 「あ、すいません! その……ぼうっとしてました……」

 「四六時中気を張っていろとは言わないが、実習中くらいは集中した方がいいんじゃないか? これが治療中だったらシャレにならんぞ」

 「すいません……」

 気まずそうに謝って、理寧は次の作業に移る。

 「……武見里は元気か?」

 ふいに釧介が理寧に訊く。

 「え、急にどうしたんですか?」

 「いや、どうしたということはないが……お前、頻繁にみなしごキャンパスに遊びに行ってるんだろう?」

 「ええ、忙しい日でもできるだけ顔だけは出してますよ」

 「で、武見里は元気なのか?」

 「……見た感じはいつも通りですよ。……ただ――」

 そう言って、理寧は龍望から聞いた話を思い出して表情を曇らせる。

 「ただ?」

 「タツくんは、ヒデくんはあたしたちに気を遣って、落ち込んでるのを隠してるから元気なんだって言ってて……やっぱり、あの子のことが気になってるんじゃないかって」

 「まあ、そうだろうな……」

 理寧の話を聞いて、釧介はどこか予想がついていたかのように、納得しているような顔をする。それから、少し考え込んだ後に、

 「……今日もあそこに行くなら、ついでに武見里に週末の予定を聞いておいてくれ。正直言うと、用事もなくあいつと顔を合わせるのはまだ気まずくてな」

 と、起伏の少ない声でそう言う。

 「え、聞くのはいいですけど……週末の予定なんか聞いてどうするんですか?」

 「たまには気晴らしでもさせてやろうと思ってな。そういうことだから、とにかく頼んだよ」

 「はぁ……」

 詳しく話そうとしない釧介に、理寧もそれ以上は理由など聞けそうもないと思って、とりあえずはそんな返事をしたのだった。

 

 

13――言葉を超える、孤児の親心

 

 理寧が釧介に妙な頼まれごとをした週の週末。秀太、龍望、理寧の三人は、釧介が運転する車に乗ってどこかへと向かっていた。というのも、理寧の計らいによってこの日の予定を開けておいた秀太だけでなく、龍望と理寧もまた、釧介の言う「気晴らし」に誘われたのだ。

 とにかく、釧介は出掛ける気満々と言わんばかりになんの話もなしにみなしごキャンパスに車を運んでやってきて、三人を乗せて目的地を告げずに走り出したのだ。

 しかし、二十分も走った辺りで、三人が三人とも釧介が向かっている場所の見当がついていた――この四人は、一ヶ月前にも今釧介が車を走らせている道を、同じく釧介が運転する車で通っていたのだ。

 みなしごキャンパスを出てからおよそ一時間。車は、三人の予想通りの場所にたどり着いた。

 「ねえ教授……なんでまた自然公園なんかに?」

 釧介が秀太たちを連れてきたのは、ウリ坊を放した自然公園だった。

 駐車場で車を降りた秀太のその問いは、この一か月間の秀太とはうって変わって、明らかに気分が落ちているようだった。

 「だから、気晴らしだよ」

 釧介の答えは、いつものように素っ気なかった。それを受けて、理寧は探るように、

 「あの、お言葉ですけど……気晴らしに連れて来るような場所じゃないんじゃないですか?」

 と、釧介に訊く。

 「なんでだ?」

 「だって……ヒデくんがあの子のことを思い出さないようにしてるって、この前話したんだから教授だって知ってるじゃないですか!」

 相変わらず素っ気ない釧介に対して思わず口調が強くなった理寧の話を聞いて、龍望も怒ったように釧介を見て、

 「はあ?! 知っててこんなとこ連れ出したのかよ!」

 と、思わず怒鳴り散らす。秀太こそ何か考え込んでいる様子だが、感情的になる二人に立て続けに怒鳴られて、釧介は呆れたような顔をする。

 「あのなぁ……お前たちは、私が武見里を落ち込ませようとこんなところに連れてきたとでも思うのか?」

 「だって、ヒデがウリ坊のことで落ち込んでるの知っててここに連れて来るなんて、どう考えても嫌がらせしか考えらんねえでしょ?!」

 「そうですよ! 思い出したら辛くなると思ってあたしたちもできるだけあの子のことを話したりはしてこなかったのに……」

 釧介にそう訴える二人の話を聞いて、秀太が申し訳なさそうな苦笑をしている。

 「あー……やっぱ気ぃ遣わせてたよね、ゴメン……」

 「あ、いや……その……別に気を遣ってたわけじゃなくて――」

 「当たり前だろ!? あんなにあからさまに普段通りに振る舞われたら誰だって心配して気も遣うよ! ったく、何が気晴らしだっての!」

 「あー、あのさ……」

 怒鳴り散らす龍望に、秀太が少し困りながらそう声をかける。

 「ああ? なんだよ?」

 「その……気を遣わせたのはホント、申し訳なかったよ。ごめん……」

 秀太が本心から謝罪をしていることは、龍望もわかっている。そして、秀太が謝罪の他に何かをまだ伝えたがっていることも、その何かこそわからずとも龍望は気付いている。気付いていて、黙って秀太を見て、続きを促した。

 秀太は、龍望が何も言い返してこないことに彼の気遣いを察し、

 「……でもさ、きっと嫌がらせじゃないんだよ。……だよね教授?」

 と、伝え足りなかった言葉を口にした。

 問われ、釧介は無表情に秀太を見る。

 「嫌がらせをしたいんなら、場所なんて関係なくあの猪の話をすればいいことだろうしな」

 そんな秀太と釧介のやりとりを聞いて、龍望も理寧も少し冷静になる。

 「言われてみれば、それもそうよね……」

 「じゃあ、ここに来たことになんか意味があるっていうのか……?」

 「……軽はずみで野生動物を保護する人間の心理としては、かわいそうだから、と言うものが多いが、武見里の場合は違うそうじゃないか」

 釧介が目線を送って質問を投げかけているのは、龍望だ。

 「……そりゃあ。ヒデの場合は、自分とウリ坊を重ねちゃった部分がありますからね。だから、親がいないってことでウリ坊には寂しい思いさせたくないって、そう思って……だから、偽善とか軽はずみとか、そんなんじゃなくて……」

 龍望の話を聞いて、釧介は小さくも確信を持ったような顔をする。

 「わかっている。だから、武見里には、あの猪の親代わりとして知っておいた方が……見ておいた方がいいことがあると思ったんだ」

 そう言って、険しい自然が生い茂る方へと目をやる釧介。

 「とは言っても、必ず見せてやれるという保証があるわけではないがな……」

 「それじゃあ……もしかしてあの子……」

 釧介の目線と話の内容から、三人とも釧介が秀太を自然公園に連れ出した意味に気付いたようだった。

 「武見里も随分とこのことについて気を病んでいたみたいだが、私もあのイ猪が生き残っているかどうかが気になっていてな。あの猪を見かけたら連絡してほしいと管理人に伝えておいたんだが、そうしたら何日か前に、一匹で行動している若い猪を見たと連絡をもらったんだよ。前脚に治りかけの傷跡があったと言っていたから、あの猪で間違いないだろうと思って連絡をくれたと、管理人は言っていた」

 釧介の話を聞いて、秀太は悩ましげに釧介の顔を見る。

 「でも……いいのかな、こっちから会おうとしても……今度会ったりしたら、それこそ人里に降りるようになっちゃうんじゃないかな……そしたら、今度こそ駆除されたりなんか――」

 「大丈夫だと思ったから連れて来たんだ。それに、いつまでも落ち込まれていてはこっちもかなわんからな、一匹でもしっかりと生きている姿が見れれば、お前も安心できるだろう? ……まあ、今日お前がここに来たからと言って、必ず会えるとも限らんが……」

 会えない可能性を考えて、皆少し落ち込んだ様子を見せた。

 「名前でも付けていれば、呼べば来るかもしないんだがな……情が湧かないようにと名前を付けなかったのがここで裏目に出るか……」

 「……」

 悲しげに、しかしどこか諦めのついたような顔で、秀太は無意識に着ているプルオーバーのポケットに両手を突っ込んだ。どうしようもない気持ちを誤魔化したい時の、彼の些細な癖である。

 だが、その癖が秀太にあることを思い出させた。秀太のプルオーバーのポケットにはいつも、父親の大事にしていたハーモニカが収まっていた。

 秀太は、ふいにポケットからハーモニカを取り出して、静かに、どこか緊張気味にそれを口元に運ぶ。

 山の方を気にしていた三人が秀太の行動に気付いたのは、

 ――♪。

 その音を耳にした時だった。

 どこか懐かしみのある癖があり、暖かく、優しい……秀太が奏でるハーモニカの音色。みなしごキャンパスにウリ坊がいた頃に聴かせてやっていた曲。

 静かに、切実に曲を奏でる秀太の心境を、龍望と理寧はなんとなく悟っているが、釧介は少し驚いている。

 「武見里のやつ……ハーモニカなんか急に吹いて、どうしたんだ……?」

 「……暇な時とか、よくみなキャンの動物たちにヒデのハーモニカと俺のギターと合わせて聞かせてやってるんですけど、あのウリ坊にも何回か聞かせてあげてたから……だから、じゃないですかね」

 「あの子も、ヒデくんのハーモニカの音が大好きだったもんね……」

 「そういうことか……」

 釧介は、二人の話に納得するように、何かを感じてか小さくも優しく笑う。

 釧介たちが見守る中、秀太は遂に一曲吹き終わる。

 ……そこには、何も現れなかった。

 「来ないな……やっぱり、こんなに広かったら聞えねえか……」

 「ねえ、もう一回吹いてみたら? そうしたら今度は――」

 「いや、やめとくよ。……吹いておいてなんだけど、楽器の音なんて野生動物の生息域で鳴らすようなものじゃないし、会えなくてもさっきの話が聞けて、ちゃんと一人でも生きてるんだなってわかっただけでもよかったから――」

 そこまで秀太が言いかけたその時だった。

 ――ぶぅ……

 恐る恐るといった足取りで、一頭の小さ目な若い猪が木の陰から姿を現した。

 「あ……」

 思わず、そんな声を出してしまう秀太。猪は秀太をじっと見るだけで動こうとしない。

 「見て、あの猪……」

 「あいつ……だいぶデカい気もするけど、でも……もしかしてあのウリ坊なのか?」

 「きっとそうよ……ほとんど消えてるけど、でもまだ薄く縞模様があるし、左の前脚に傷の痕もある……」

 現れた猪と、世話をしていた猪が同じ個体であると確信する理寧と龍望。そして、その会話に参加こそせずともその事実を一番に感じているのはやはり、親として誰よりも猪に愛情を与え続けていた秀太だった。

 「一ヶ月も経ってるのに、覚えててくれたんだ……」

 「……なあ、もうちょっと近くに行ったらどうだ? お前のことじっと見てるし、あいつで間違いないんだろ?」

 そう提案する龍望だったが、秀太は小さく首を横に振る。

 「いや……間違いはないと思うけど、ここでいい」

 「どうして……? せっかく会えたのにそれでいいの……?」

 「うん……会えただけでも、覚えててくれただけでも十分だよ」

 ――ぶぅ……ぶう!

 一緒にいた頃よりもずっと低く、獣らしくなった鳴き声で、その場にとどまって鳴く猪。

 秀太と過ごした時間の倍の時間――秀太と別れて一ヶ月の時間の中を生き抜いた事実こそ、目の前にいる決して赤ん坊とは呼べない猪の姿の獣らしさの所以なのだろう。

 秀太は、思わず一歩踏み出すも、一歩だけで踏みとどまる。

 「来てくれてありがとう。元気そうで、ちゃんと一人でも頑張ってるってわかって安心した。……もう立派な、一人前の猪だね」

 そこまで言って、秀太は寂しさと誇らしさが混じったような感情を覚え、思わず言葉を呑みこむ。そして、少し震えた泣きそうな声で、

 「もう、親代わりの存在なんて必要ないね……」

 そう言って、目にたまった涙をぬぐってから、一息つく。

 「もう、心配しないことにするよ……だから、さよなら……」

 寂しさをこらえた別れの言葉だった。

 ――……ぶ!

 猪は、まるで秀太の言葉に答えるように短く、力強く一鳴きした。しかし、人の言葉の意味を猪は理解しないことを、秀太はわかっている。わかっていているからこそ、秀太は一ヶ月前と同じように、しかし一ヶ月前とは違う意味を持って大きく地面を踏み鳴らした。

 猪は、驚いた様子もなく、そしてためらうこともなく、秀太の一歩を合図にして自然の中へと消えていった。

 その場にいた全員が、しばらくの間猪が消えて行った方向を見続け、そして何も言わずに立ち尽くしていた。

 「……なあ、武見里。お前、今でもあの猪と関わらなければよかったなんて思えるのか?」

 ふいに口を開いたのは、釧介だった。

 「まさか……今はあの子のお世話ができて良かったって思える、かな……うん、思えるよ」

 「そうか」

 秀太の、本心からの言葉に釧介は内心安堵していた。安堵していて、表に見せる顔にはやれやれと言ったような、素直じゃない色が見えている。

 しかし、秀太を見習い少しは素直になろうと思ったのか、釧介は秀太に優しい笑顔を見せ、

 「……動物相手とはいえ、自分と同じ立場の子供の世話をするのは気持ちの面でも大変だっただろう。あの猪の親として……よく頑張ったな」

 と、秀太をねぎらった。

 「……ありがとう」

 釧介の言葉に、秀太も小さく笑った。その笑顔を見て、龍望も理寧も、この一ヶ月抱え続けていた肩の荷が下りたようで、心底安心したようだ。

 「……さあ、そろそろ帰るぞ。あまり長く留守にしているとみなしごキャンパスの動物たちが寂しがるだろう?」

 「う~ん……寂しがってるかはともかく、運動場に出してあげないと退屈はしてるかもしれないなぁ……」

 「だなぁ……ま、そーいうことなんで。帰りはできるだけ早くお願いしますね教授」

 「だったら天利、お前が運転するか? 免許証持ってきてるんだろ?」

 「は? 冗談! 人の車とか運転したくねーし!」

 「お前らが使ってる車だって、荒俣の私物だろうが……」

 「それ以前にタツの運転だと結構時間かかるから、やっぱり帰りも教授が運転してよ」

 「悪かったな、運転とろくて! つうか、無免許野郎に運転にいちゃもん付けられたくねえよ!」

 「いや、だってホントのことだし。それにいちゃもんじゃなくて、丁寧な運転で安心して乗ってられるよって褒めたつもりなんだけど――」

 「だったらもっとわかりやすく褒めろよ!」

 「あー、ハイハイ。いつも丁寧な運転ありがとーございまーす」

 「おいこらテメ、心こもってねえだろそれ!」

 釧介と龍望が話していたはずだったが、いつの間にか、いつものような秀太と龍望のくだらないやりとりに変わっていた。そんな会話を聞きながら、理寧は先日からの様子と打って変わって本心から元気になった秀太に安心し、安堵の表情を浮かべていた。

 

 ――動物と人間……それ以前に、孤児とその親代わりの存在……今回のウリ坊の保護を通じて、なんだかいろんなことを考えさせられた気がする。

 ヒデくんたちの親の話を聞いて、親がいてくれるのは当たり前なんかじゃなくて幸せなことなんだって思い直せたし、親の立場のせいで嫌な思いをしてきたのは確かだけど……父さんや母さんが仕事を頑張っているから、あたしは不自由ない生活ができてるんだって、大切なことに今更だけど気付くことができた。

 ……両親から、受けて然るべき愛情を受けられなかったのに、その辛さを微塵も感じさせないで人に優しさを向けられる。惜しむことなく、愛情を他に分け与えられる。そんなヒデくんだからこそ、救える存在がきっといる。

 彼を、お金や動物の知識の面だけじゃなくて、気持ちの面でも支えていけたらな、なんて……そんな高望みをし始めてしまったというのは、ここだけの話――

 

 孤児である秀太、母子家庭の出である龍望、そして両親が揃っているからこそ苦労している理寧たち三人の手探りな毎日は、こうして続いていく。

 

 

ハーモニカとギター -
00:0000:00
秀太のハーモニカ -
00:0000:00
bottom of page