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一話 「暁の怪鳥」
一
常世(とこよ)より生まれた神々は、現世(うつしよ)にて存在するためには現世の主、支配者とも言えよう人間の信仰心を不可欠とする。
ところで、転生神(てんせいしん)と呼ばれる神とも人間とも言えぬ存在について、何か知っていることはあるだろうか。
転生神――
人々の信仰心が薄らぎ、しかし常世へ戻ることも叶わずに魂の消滅を余儀なくされた神々が、その魂を現世に留め置くために不完全に人間へと生まれ変わった存在の呼称である。
神が人間に生まれ変わるなど、本来ならばありえない――ありえたとしても、おそらくあってはならないことである。ゆえに現世に存在する転生神は、たった三人、そのたった三つの魂だけに留まっている。
不思議なことに、神であろうと人間であろうと多くの者がその三人の所在を知らぬはずだが、誰が広めたのか、いつ広まったのか。その言葉、その意味は現世にも常世にも、ごく当たり前に居座っているのだ。
それはつまり、彼ら転生神が確かに現世に存在することを意味しているのだろう。
では、彼ら――転生神は今、何処に生き、何をしているのか。
こうして転生神についての説明をしたのも何か、彼らがそう望んだゆえの縁なのかもしれない。ならば、筆の進む限りに転生神たちの生き様を綴るのもいいと思うのだが、さて、まずはどう筆を進めてみようか。
二
時は平安の頃。この当時、日の本と呼ばれる小さな島国があった。雅で怪しく、そして美しく日の出づる島国である。
この平安時代、日の本の都は平安京にあった。その東方に位置する近江国(おうみのくに)の何処か、都から徒歩(かち)で半日ほどの距離の場所に、天を突くほどに高くそびえ立つ鳳凰山(ほうおうざん)と呼ばれる霊山がある。その霊山の麓にある小さな農村に、その男はいた。
朝焼けか夕焼けか、それはどちらでもいい。とにかく昼夜を繋ぐ空を思わせる唐紅の長髪と、紅玉のごとく澄んだ、髪とはどこか違う唐紅色の瞳を持ったその男は、名を紅羽(くれは)といった。
歳の頃は十八だというが、それにしてはやや大人びている印象を人に与える。
麻の小袖と袴を身に纏い、その上に何かの獣の毛衣を重ね着している質素な装いだが、右に青、左に緑と両の耳につけられた羽のような形の装飾が、首の後ろで緩く束ねられた長い赤髪と重なる様は、鮮やかで例えようもなく美しい。
髪や瞳の色を除いて考えたとしても、なんとも、不思議な雰囲気を持った男である。
季節は卯月――四月、新緑薫る初夏の頃。時刻は正午を過ぎた辺りだろうか。
村のはずれに建つ庵の、小川に臨む縁側に座り、紅羽は気持ちよさそうにうとうととしている。
紅羽はとある友人からこの住居を譲り受け、生活の拠点――家としている。
紅羽の生活――
自ら畑仕事などの村人の手伝いをすることもあれば、頼まれてはじめて手伝いに赴く日もある。また、今日のように特に用もなく天気が良い日などには、こうして縁側で陽の光を感じながらうたた寝をすることも好んだ。
「紅羽ぁ!」
ふいに聞こえた元気のいい呼び声と二人分の人の気配に、今まさに夢現であった紅羽はゆっくりと顔をあげる。傍には、少年と少女がいた。
この二人、紅羽の同居人である。
少年の名は瑠爪(りゅうそう)。見たところ、歳の頃は十二ほど。海を思わせる青い髪と、瑠璃のごとき深い青色の瞳を持っている。
また、瑠爪と共に紅羽の元にやってきた少女の名は翠角(すいかく)といった。歳の頃は十四ほどだ。草原のような緑の長髪を頭の上方で一つにまとめていて、その瞳は翡翠のように透き通る緑色をしている。
瑠爪も翠角も、紅羽同様に村人を手伝うこともあれば、虫や魚を追って一日中遊んでいることもざらにある。
今日もまた朝早くから二人で遊びに出掛けていたのだが、紅羽とも一緒に遊びたいと思った。その紅羽がうとうとと眠りかけていたものだから、声をかけて起こそうとした――そんなところだろう。
「ああ、瑠爪――」
瑠爪に向かい、どうにもぼんやりとした調子でそう答えて、紅羽はにこりと優しく微笑する。
「今、わたしは寝ていたかな?」
「え?」
いきなりの質問に、瑠爪は思わず戸惑ってそんな声を出してしまう。
「どう見たって寝ていたわ。とても気持ち良さそうにね」
「そうか、寝ていたか」
翠角の言葉に、紅羽はまるで他人事のように軽い口調で返す。
翠角は半ば呆れたような顔で紅羽を見やる。
「ねえ、いきなりそんなわかりきったことを訊いてきたりして、どうかしたの?」
その問いの答えが出るまで、少々の間があった。
「……いやな。ああ眠い、寝てしまおうか。そんなことを考え始めるといつも、今自分がいる場所が、夢か現(うつつ)かわからなくなるんだ。ふわりと体が浮いたような、そんな気分になる。そこに瑠爪の声が聞こえたものでね、夢か現かどちらにいたところを呼びとめられたのか、つい気になってしまってな」
「……変なの」
理解しようともせず、すぐに思ったことを思ったように口にする瑠爪。
「瑠爪も、暇がある時には些細なことを深ぁく考えてごらん。楽しいものだから」
それでも紅羽は気を害した様子もなく、ただただ優しく笑ってそう語る。
その時、一羽の小鳥がどこからか飛んできて、座っている紅羽の隣に舞い降りた。
「お」
小鳥を見るや、小さく声をあげる紅羽。その声は驚いてもいるようだが、どこか嬉しそうにも聞こえる。
「なに、なんて言ってるの?」
瑠爪が急かすようにそう言うも、
「まあ待ちなさい」
紅羽は瑠爪と正反対にのんびりとした口調でそう言う。
「お乗り。何を伝えに来てくれたのかな?」
小鳥に向かって、右手の人差し指を差し出し語りかける紅羽。不思議なことに、小鳥が紅羽の言葉に応えるかのように差し出された指にちょん、と飛び乗ると、紅羽は小鳥の乗った指を顔の横まで持ってきて、少しの間、小鳥の声に耳を傾けていた。
おかしな話である。どうして鳥と人が言葉を交わすことができるのか。ともかくこの紅羽という男は、こうして鳥と意思疎通を図ることができると思ってくれれば、それで間違いはない。
「そうか、わざわざありがとう」
礼を言われて飛び立っていく小鳥を見送り、それから紅羽は二人を見やる。
「彩将(あやまさ)が来るぞ。二刻(ふたとき)ほど前、虹風(にじかぜ)に乗って都を出たらしい」
一刻(いっとき)はおよそ二時間ほどの時間を指す。つまり、二刻はおよそ四時間だ。
では、虹風とは何か? 馬の名である。そう覚えておいてほしい。ともかく小鳥が知らせるには、彩将という紅羽の知人が虹風という馬に乗ってもうじき村にやって来る、ということだ。
「本当?! 彩将来るの?!」
「前に来たのはいつだったかしらね」
子供ら二人の言葉を聞き終え、
「さて――」
紅羽がゆっくりと立ち上がる。
「せっかく来てくれるんだ、菓子でも用意しておこう。……そうだ、木を見てみないことにはわからないが、李子(すもも)など、そろそろ一つくらいは食べごろのものが生っていても良い頃合いじゃあないか? 」
「李子! いいな、おれも食べたい!」
「こら、お客様に出すものをあたしたちが食べちゃだめでしょ」
「えー……」
他愛ない、子供らしいやりとり。
二人はまるで姉弟のような雰囲気であるが、血の繋がりなどはない。無論、それは紅羽にも言えることである。血は繋がっていないが、しかし切り離すことが決してできない縁があって、同じ村、同じ屋根の下で暮らす関係なのである。
「そうさな……実がたくさん生っていたなら、わたしたちも一つ二つもらおう。な、そうしよう、瑠爪」
残念がっている瑠爪を見て、紅羽はそんな提案した。
「うん!」
「よし、では取りに行こうか。虹風は彩将自慢の駿馬だ、のんびりしていたら客人の方が先に来てしまうやもしれん」
そう言ってゆっくりと歩き出す紅羽を、瑠爪が走って追い越す。その瑠爪を、転びやしないかと心配しながら翠角が小走りで追いかける。そんな二人の後ろ姿を見て、紅羽はなぜか先ほどまでとはうって変わった悲しげな表情をその顔に浮かべていた――
その目線の先にいるのは、人ならぬ転生神。
鱗に覆われた尾を重たげに引き摺り、走りながら懸命に、尾を覆うものと同じ鱗に覆われ鋭く大きな爪を生やす手を、前へ後ろへと振る瑠爪。
獣の如く硬い毛が生え、蹄しかない足で地を踏みしめ、額から斜めに天に向かって生えた一本の大きな角が後ろ姿からでもよくわかる翠角。
瑠爪と翠角は異形の姿をしていた――彼らは神でも人間でもない。転生神なのだ。
その理由も、それゆえの苦痛も、紅羽はすべて知っている。知っていて、どうにもできないからこそ、紅羽は完全な人の姿をもって、二人の傍にいる。
――なんと、不条理な裏切りだろう。
二人のことを想えばこそ、紅羽の胸中はいつもそのような自責の念で締め付けられるのだった。
三
紅羽たちが暮らす鳳凰山の麓の村には、いくつもの果実の木がある。それぞれ村の適した場所に根を張り、春には梅子(うめ)や枇杷子(びわ)、夏には李子や梨子(なし)、秋には棗や柿など、四季に合わせて様々な実を結ぶ。本当に、人の手と気持ちが行き届いた豊かな村である。
紅羽の家の傍にも数本の果実の木は生えているが、あいにく、菓子になるような実を結ぶ木ではない。そのため紅羽たち三人は、家からやや離れた場所に生えている李子の木の前までやってきた。
「ああ、まだ早かったか」
彩り始めてはいるものの、まだ薄く緑を残す果実に手を添え、少々残念そうに紅羽が言う。
「ねえ、ちょっと待って」
紅羽の言葉を受け、翠角がじっと木の上方を見つめる。
「ほら、奥の方に赤い実が見える。少し高い場所だけど、紅羽なら手が届くんじゃない?」
自分より背の低い翠角の目線と合わせるように、膝を少し折る紅羽。そうして見てみた翠角が指差す先には、確かに他の実よりも鮮やかに色付いた実が葉の影にあった。
「ああ、見えたよ。確かにあれならば食べられそうだね。よし、取ってみようか」
紅羽は翠角が指す方へ腕を伸ばし、やがて見事に熟した李子の実を手に取った。
それを見ていた瑠爪は、小さく口を尖らせ、
「紅羽はいいな、おれよりも体が大きくて、腕も脚も長い」
羨むようにそう言う。その言葉に、紅羽は一瞬だけ表情を曇らせた。
「なに――」
とにかく話題を逸らしたかった。だが、咄嗟にかけた言葉が続くはずもなく、紅羽は口ごもる。そして途切れたその言葉を繕うように、優しく瑠爪の頭を撫でた。
「……体が大きいからこそ、不便な時もある。今だってそうだろう? わたしはおぬしらより背が高いから、その分、目線も高い。そのせいでこの実を見つけられなかった。な、子供であるということは、決して悪いことではないんだよ」
「うん……」
紅羽の言いたいことはわかっている。しかし瑠爪は、どこか腑に落ちない。まだそんな顔をしている。
と、その時、
「こんなところで何をしている、紅羽!」
ふいに、三人の後ろから良く響く男の声がした。
振り向きざま、紅羽は呆れたように、
「彩将! ……おぬしこそ、何処を訪ねに来ている。わたしの家は李子の木の根元になんかないぞ」
と、言い放つ。その口調は、呆れながらもどこか嬉しさを含んだ穏やかなものだった。
「なに、そんなことは知っている。先におまえの家に寄らせてもらって虹風を置いてきた。だが、いつ帰るかわからぬおまえを待つのも退屈だと思ってな、わざわざ探しに来たのさ」
紅羽たちが振り返った先に立っていたこの男。今の季節に良く合う藤の狩衣と、歳と相応な紫の指貫を纏い、その腰には一本の立派な太刀と、紅羽の耳飾りとよく似た羽の飾りがついた朱鞘の脇差を携えている。
保南彩将(やすみあやまさ)――
紅羽の友人で、朝廷に仕える武官――わかりやすく言えば、帯刀する役人である。正確にはその意味は違ってくるのだが、〝武〟に優れた〝士〟――武士と呼ぶにふさわしい男だ。
知人の工(たくみ)に頼み、紅羽のために村に庵を建てさせたのも、さらには所有している土地に人を集めてこの村を興したのも、この彩将だ。
この彩将、時折都の遠方、近辺関わらずに都の外で人を助けるために出掛けることがある。ゆえに旅先から都に戻る道の途中で紅羽に会いにこの村を訪れることもあるのだが、先の小鳥の伝達から察するに、今回は都から――おそらく住居の屋敷から直接紅羽を訪ねに来たようだった。
「彩将! 久しぶりだな!」
「おお、瑠爪! 久しぶりだなぁ! ああ、元気そうで何よりだ!」
嬉しそうに駆け寄る瑠爪を、彩将は我が子を抱くように受け止めて優しく迎える。
「翠角、おまえはどうだ? 元気だったか?」
「相変わらずよ」
素っ気ない翠角の返事だったが、それが元気である証拠だと思うと彩将も安心したようだ。
「そうか、それは良いことだ!」
「しかし、どうした彩将。都を出てからまだ二刻半ほど、随分と虹風を急がせたようだが……さては、都で何か出たか?」
紅羽の言う通り、急がない時の彩将は虹風を歩かせながら時折休ませ、都を出てから四刻(よつ)ほどの時間をかけて村に来るのだ。それが此度は二刻半、事実彩将は虹風を走らせ、休みも少なく村へと入ったのだ。
言葉ほど不思議そうな顔はせずに訪ねてくる紅羽に、彩将は少しだけ考え込んでから、呆れた顔をした。
「早い話はそういったことだが……しかし紅羽、なぜ俺が都を出た刻限をおおよそ知っている? ああ、また何か動物やらの通達があったのか?」
「ああ。おぬしが都を出るところを見た小鳥がいてな、先ほど知らせに来てくれたんだ。こうして、わたしが客人にすぐにでも菓子を出せるようにしたいと思っていることを、鳥たちは酌んでくれていてな。今までだって、そうやっておぬしの来訪を知ったことも多い。邪魔のない空を行く鳥たちはとにかく往来が早いからな」
「なるほど、そうか。やはり伝達があったのだな。だが、その割には準備が間に合っていないではないか」
少しからかいつつも、彩将は小鳥の伝達の話に納得している。紅羽が小鳥と意思疎通を図っていることになんら不思議を抱かない。紅羽という男について、何が不思議で何が普通かを理解しているのだ。それほどまでにこの二人は付き合いが長い。
小鳥の伝達の話が落ち着いたと見て、紅羽は先ほど取った李子を彩将に見せる。
「言ってくれるな、おぬしが虹風を急がせるから悪いんだ。ああ、そうだ、虹風も待っているのだったな。ひとまず家に行こう。話はそれからゆっくり聞かせてもらうよ」
「おう」
それから、四人は紅羽の家へと向かった。
四
紅羽の家。
縁側に置かれた、李子の汁で濡れているだけですでに空になっている皿と、茶の入った二つの茶碗を挟み、紅羽と彩将は村を流れる小川を眺めながら座していた。彩将は太刀のみならず脇差までもを腰から外して、武士として無防備な格好をしている。武士が刀を身に付けずにくつろぐということは、傍にいる相手に対して信頼を寄せている証である。
紅羽と彩将は、つまりはそのような関係であった。
二人が眺める小川の傍には一本の木が生えており、それに立派な黒鹿毛(くろかげ)の牝馬(ひんば)が繋がれていた。
彩将の愛馬――虹風。毛並みの美しさや一途に主を慕うその忠誠心、そして速く強靭な脚を持った、彩将自慢の駿馬である。彩将はこの虹風に乗って紅羽に会いに来るほか、宮中で行われる流鏑馬にも虹風と挑むだけでなく、時折都を離れる際にも、従者や車ではなく虹風の脚を頼っているのだ。
虹風は、少し離れた場所で話し込んでいる主とその友を、瑠爪や翠角に毛を撫でられたりしながら、満更でもなさそうな様子で静かに見つめていた。
「怪鳥……」
いぶかしげにそう口にしたのは紅羽だ。
「ああ、俺は実際に見たわけではないのだがな。旅先の国で聞いた話では、暁の頃にそれは大きな怪鳥が、まばゆい光の衣を纏って空を飛んでいくのを見た者がいたというのだ」
「旅先か。それは何処での話だ?」
「駿河国(するがのくに)だ。だがな、紅羽。この怪鳥、都にも出たらしい」
「ほう、都にも……」
「ああ。駿河での用を終えて二日前に都に戻ったのだが、その時にうちの家人(けにん)から聞いた話だ。俺が留守の間に、光の衣を纏った怪鳥が空を飛んでいくのを見たと。……やはり、時刻は暁の頃だったそうだ」
「しかし、駿河と都とはなかなかに遠いではないか」
「よもや、その時刻に日の本中を飛び回っているのかもしれんぞ。暁の頃に起きている人などほとんどおらなんだ、確認のしようもないがな」
「彩将おぬし、気になって、起きていようとは思わないのか?」
小さく笑ってそう訊く紅羽。どうやら、この一言で彩将をからかっているようだ。彩将もそれをわかって、話題にそぐわない笑みを返し、
「思ったさ。だがな、一度暁まで起きていようとして寝てしまった。なかなか長く起きているのは難しいものだ。だからと言って、暁の頃に起きるなどもっと難しい話……で、だ。寝過ごしてみて俺は思ったんだよ。自分で確かめるよりも、先に紅羽に相談した方が良いのではないかとな」
と、紅羽にのってやる。
「なるほどなぁ、それはその通りやもしれんなぁ。ああ、しかし……暁の怪鳥か……」
始めの一言はまだ冗談めいていたが、二言目と同時に紅羽は小さくうつむき何か思案し始めた。しかし彩将はそんなことには構わない。
「なあ、紅羽。その怪鳥、なぜ暁の頃に飛ぶと思う? 人目を避けているのか、はたまた陽の光を避けているのか……」
まるで聞こえていないかのように、紅羽は何も答えない。
「おい紅羽、聞いているか――」
「都に怪鳥が飛んだのは、どれほど前からかわかるか?」
落としていた目線をあげ、ふいに彩将と目を合わせてそう訊いてくる紅羽に、彩将は小さく驚く。
紅羽の唐紅色の瞳に己の瞳を捉えられた彩将は、底の見えない紅玉に吸い込まれそうな、そんな不思議な心持ちで、
「あ、ああ……詳しくは聞いていないが、俺が出掛けている間のことだと言っていたから……ここ一月(ひとつき)ほどのことだと思うが」
と、落ち着きなく答える。
「一月ほど……では、駿河を飛んだ時期はどうだ? そこは聞いているか?」
「駿河でか? ええとなぁ……」
考え出して、彩将は小さく驚いた。
「ああ、思えば不思議なものだ。俺が駿河に着いた数日前、つまりは俺が都を出た頃の近辺の話であったから、やはり一月ほど前から怪鳥が飛び始めたようだ」
彩将からそこまで聞いて、紅羽はまた、彩将から目線を外してうつむきながら思案し始める。何を話しかけても今は無駄だと感じたのか、彩将もあえてうつむく紅羽を見続けはせず、目線を前方に向けた。
「しかし……話に聞くだけでは、まるでかつてのおまえのような話ではないか――」
何気なく発した独り言だったが、彩将ははっとして、慌てて口をつぐんだ。その独り言は考え事をしていた紅羽の耳にも確かに届いていて、彼が小さくも眉をひそめていたことに気付いたからだ。
「す、すまん……! ひどい失言だ……」
何を言われたわけでもないが、彩将は先ほどの失言を詫び、真剣な顔つきで紅羽と面と向かう。
「……いいか紅羽。おまえは紛れもなく、俺と同じ人間だ。おまえも、瑠爪も翠角も、同じ人の世に生きる紛れもない人間なんだ。ああ、なぜかつてのことなど、今とはまるで関係のないことを口にしてしまったのだろうな。先ほどの言葉は忘れてくれ」
その誠実な言葉に向けられた紅羽の顔は、まだどこかに影が落ちてはいるものの、それでも優しいものだった。
「気にするな彩将。おぬしのその心遣いが、わたしは嬉しい」
「……そうか」
その場の空気がまた、穏やかなものに戻る。
「それで、話を戻すがな。その怪鳥、今までに何処かで何かの害を成した、という話は聞いてはいない。だが、俺としてはどうにも気味が悪い。美しさで人の心を惑わす妖(あやかし)なのではないかと、そんな気がしてならなくてな。この手の話はおまえに相談するのが一番だと思ってこうして尋ねに来た」
「確かに、ただの鳥ではないだろうな」
「どうだ、紅羽? その怪鳥、放っておいてよいものだろうか?」
彩将の問いに、紅羽は先ほどまで真剣にではなくとも、また何かを思案するように遠くを見て、
「そうさな……」
と一言つぶやく。
その一言の後に訪れる沈黙を、彩将は破ろうとはしない。見れば、紅羽は両の袖に手を入れている。
「……確信はないが、よもや、という心当たりはあるな」
自分で作った沈黙を破って、紅羽はそう言った。
「本当か?!」
「ああ……」
思わず勢いづく彩将にそうだけ言って、紅羽は眼を細めた。その視線を遠くに移して虹風――正確には、虹風と遊んでいる瑠爪や翠角を見つめているようである。
「虹風、ずっと走ってきて疲れてないか?」
紅羽が見ているまさにその時、主を待ち疲れたのか、少し怠そうに首をうなだれ始める虹風に瑠爪がそう訊いていた。
虹風は、瑠爪の言葉の意味を理解はせずとも、なおも怠そうな様子で瑠爪と目を合わせる。
「そうだ、ちょっと待てよ」
そう言って、小川に両手を浸す瑠爪。すると、片手に四本ずつの大きな爪が薄らと青い光を帯び、途端に小川の水が生き物のようにうねりながら、細い水柱となって虹風の身体へとぶつかった。
「どうだ、気持ちいいか?」
虹風は気持ちよさそうに鼻を鳴らし、それから体を振るわせて毛が含んだ水を地に落とす。
「そっか! 気持ちよかったか!」
「それはいいけど、ちょっと水かけすぎじゃないの」
そう言って、虹風の周りにできた水たまりを見る翠角の言葉を受け、瑠爪も気まずそうにその水たまりを見る。
「あー……ごめん……」
落ち込んだ瑠爪を見て、翠角はなだめるように優しい口調で
「別に怒ってないよ。……大丈夫。ここでだったら、いくらでもなんとかできるから」
と、そう言う。
途端、翠角の額に生えた角が、先ほどの瑠爪の爪と同様に、こちらは緑色に薄らと光り出し、その光に応えるように足元の地が小さく割れる。言うまでもなく水は地に浸み込み、水たまりはなくなった。そして静かに、何事もなかったかのように亀裂が閉じていく。
「おお、神通力か……」
紅羽の目線につられて一部始終を見ていた彩将が、感心するようにつぶやく。
神通力――読んで字の如く、神に通ずる力のことである。神か、あるいは神に繋がりのある者だけが使うことができると言われている。転生神もまた、神に通ずる者なのだ。
「……この村には、あの子らの異形の姿、力を咎める者もいないからな。妖や暴徒などに襲われたとしても身を護れるようにと、少しずつ慣れさせた」
「ほう」
「あの子らが神通力を使うということが、良いことなのか悪いことなのかはわからないがな……」
どこか迷いのある言葉。その意味こそわからずとも、迷いの感情には彩将も気付いたようである。
「なに、わからないことがあってこその人ではないか。何もかもを知っていては、それこそ神か仏か、もしくは妖も同然だろう。……おまえは人だ。それでいいだろうよ」
その言葉に少しの間黙った後、紅羽は小さく安心したように笑みを浮かべた。
「そうか……そうさな、おぬしのような友がいてくれるんだ、人の世もそう悪いものではないのかもしれない」
「おうよ」
「いつだっておぬしの存在、言葉、どれも頼もしい限りだ」
「何を今更。それはお互い様だろう」
「そう言ってくれるとありがたい」
そう言って笑いあう二人。
「それで、先ほどの話だが……」
「ああ」
一気に真剣みを帯びた紅羽の雰囲気に、彩将も気が引き締まる。
「悪いが、今夜は泊っていってもらってもいいだろうか?」
「泊まる? ああ、元よりおまえに相談するついでに、ここでおまえと語らいながら暁を待って怪鳥の姿を拝んでみようとも思っていたからな、それは別に構わないが……俺がここに泊まることと例の怪鳥と、なんの関係があるのだ?」
「関係はない。だが、その怪鳥がなぜ暁に倭国の空を飛ぶのか、おぬしも気になっているのだろう?」
「まあ……いや、待てよ。つまりは先ほどの心当たりがあるというのは、怪鳥の正体のことなのか?」
「ああ。わたしの予想が当たっていれば、わたしはその怪鳥を知っているやもしれん。となると、その正体を確かめるのは真夜中であった方が良くてな……ああ、安心してくれ。もし予想が外れ、その正体が悪しき妖だとしてもだ、わたしが責任を持ちおぬしの命を守ってやる」
「ばか者、自分の身くらい自分で守れる」
彩将はさも自信ありげにそう言って、傍らに置いてある脇差を手にする。
「なにより、おまえから賜ったこの黎明(れいめい)もあることだしな。妖が相手であろうと問題ない」
黎明――明け方の呼び名の一つであり、この脇差の名でもある。
彩将の言葉に応えるがごとく、握られた反動で、黎明の柄に紐で結ばれた羽根飾りが美しく揺れた。
「この黎明、重宝しているぞ。妖も怨霊もを斬れる脇差など、そうあったものではない」
「斬っているのか、人ならざるものを」
「時折はな。駿河にも、朝廷より命を受け、数人同時に憑いた古狐を斬りに行ったくらいだ。人であろうと妖であろうと、弱き者を脅かす者は斬るしかあるまいて……」
「……なあ、彩将。おぬしならわかっているとは思うが、妖を斬る際にも、人と同じ尊き生命(いのち)を斬るのだと思え。怨霊を斬る際には、努々生命ではなく魂を切るのだという覚悟を持てよ。生命を斬っても魂は残るが、魂を斬ってしまえば何も残らぬ」
今までと打って変わった厳しい口調に、彩将も真剣なまなざしを紅羽に向ける。
「わかっている。この黎明を振るうは、おまえの神通力を使うも同然。その使い方を間違えるなど、おまえの友としてあってはならないことだと常に肝に銘じている」
その言葉に、紅羽はふっと緊張を緩める。
「すまない、とんだ杞憂だったな。その扱いを誤る者になど、我が神通力など預けぬよ。ああ、話が逸れたがともかくだ、暁の怪鳥の件は今宵なんとかしてみよう」
「ああ、頼むぞ。いつもありがとうな」
「なに、構わぬさ」
事の始まりは、つまりこのような経緯であった。
五
夜もいよいよ深まる子の刻の頃――深夜一時頃の真夜中だ。庵の中で瑠爪と翠角が寝ている。その様子を、縁側に胡坐をかいて座っていた紅羽と彩将が、屋内と縁側を隔てる障子をそっと開けて見守っている。
「よく寝ているな」
親のような心持ちで、落ち着いた口調でそう言う彩将。
「ああ」
「まったく……こうして見れば、ただの人の子ではないか」
「皆がそう思ってくれるとありがたいのだがな、そう言ってくれるのはおぬしと、この村の人たちくらいだ。……いや、村人たちに関しては、そう思ってくれる者たちをおぬしが集めてくれたのだったな。ああ、これもまたありがたきことだ」
そう言って、紅羽は障子を静かに全て開き、立ち上がって屋内へと入っていく。
「おい、紅羽?」
「瑠爪、翠角……悪いが起きてくれないか」
不思議がる彩将が見ている中、紅羽は寝ている瑠爪と翠角の体を揺さぶり、声をかけて起こそうとする。
「ん……なに……」
「どうしたの紅羽? 何かあった?」
紅羽から今夜のことを聞いていないのか、瑠爪も翠角も何事かと、眠い中にも驚きながら半身を起こす。
「これからここに客を呼ぼうと思ってな。ぜひおぬしらにも会ってほしいんだ」
「客? 彩将ならもう来てるじゃない」
「彩将ではないよ。違うお方だ」
「でも、なんでこんな夜中に客を呼ぶんだ?」
「おぬしたちと同じさ。人の目に触れさせるには忍びない方なんだ」
紅羽の説明に、二人は理解を示せないでいる。そんな二人に、紅羽は優しく微笑んだ。
「なに、会ってみればその理由もすぐにわかるさ。……今からその方を呼びに行くから、少しの間、彩将とここで待っていてくれ」
そう言って、紅羽は縁側まで歩いて行く。
「なあ紅羽、客とは例の怪鳥のことなのか?」
彩将の問いにも、紅羽は先ほど瑠爪たちに向けたものと同じような優しい笑みを見せるだけで答えることなく、立ったまま夜空を見つめている。
月の明かりも細々と頼りない闇夜だ。だが、夜そのものは濃い闇だとしても、月自体は闇に飲まれず力強く光を放って輝いている。
「なんとも良い夜だ。夜の闇と月の光が共にいる……ああ、龍神(りゅうじん)、麒麟(きりん)と共にいた時のことを思い出す」
独り言のような口調でそう言い、紅羽は静かに目を閉じた。
と、その瞬間。紅羽の体は淡い紅色の光――まるで熱くない炎のような光に包まれた。その光が消えた時、そこには大の大人数人をその背に乗せても十分に飛び立てそうなほどに大きな、唐紅の羽毛に身を包んだ鳥がいて、ただ静かに夜の空を見つめていた。
その鳥――破壊と再生を司る天神、鳳凰(ほうおう)。
闇を司る水神である龍神と、光を司る地神である麒麟の盟友と伝えられる神鳥である。
今よりも遠い昔、この三神は現世に闇、光、死、生、水、地、天。それらに関わる様々な理(ことわり)を生みだし、そして守ってきた。時に敬われ、時に畏れられ、必要とあらばその姿を見せることで神々はその存在、力、姿を人間たちに知らしめていた。しかし、いつしか人間たちは自分たちの力を過信し始め驕るようになっていき、それと同時に、神々が存在していることを忘れていった。その結果、多くの神は神々の領域である常世へと戻り、それが叶わぬ神は現世にて息絶えた。ゆえに、今となっては神という存在は架空のもの――ある種の伝説としてしか、人々の記憶には残っていない。
その神々の一神である鳳凰が、今目の前にいるのだ。それにもかかわらず、彩将たちは皆驚きもしない。
「偉大なる鳳凰神……その姿、久方ぶりに見たが相変わらず美しいものよな、紅羽」
思わずそんなことを漏らす彩将に、鳳凰は顔だけを向けて、目だけで微笑みかけたように見える。美しい、また、麗しいとも思わせる、そんな微笑だった。
「ああ、やっとわかったよ、紅羽。その姿で迎え入れる客というと、それは神の類なのであろう? ならば俺は、差し出た真似は決してしないぞ。人間などが関わるには恐れ多い場に居合わせるよう計らってくれたこと、感謝する」
鳳凰は、男気に満ちた彩将の言葉に答えるかのごとく、その巨大な翼を大きく広げた。 そして、三人が見守る中、鳳凰は音も立てずに静かに闇夜へと飛び立った。
六
鳳凰が飛び立ってから、四半刻(しはんとき)――三十分とも待たず空に異変が起きた。
「鳥だ! 紅羽とは別の鳥が飛んでる!」
そう言って瑠爪が指差す先には、いつ、どこから現れたのか、確かに鳳凰とは別の大きな鳥が飛んでいた。鳳凰の後を追うように飛んでいるその鳥は、彩将の話通り、確かにまばゆい光の衣を身に纏っている。
「あの鳥が、おれたちに会ってほしいっていう客なのか?」
「そうじゃないかしら。紅羽を追うように飛んでいるし、紅羽も心なしか、あの鳥を導いているようにも見えるわ。それに紅羽が言う客だもの、人でなくたっておかしくない」
「じゃあ……あの鳥も神なのかな?」
「やもしれんな。紅羽の奴、昼間、あの鳥に心当たりがあると言っていた」
「昼間? じゃあ彩将、もしかして今回はあの鳥の話をしに村に来てくれたの?」
「ああ、そう言えばおまえたちには話していなかったな。そうだ、あの鳥の話をここ一月ほどの間に数回耳にしてな、その正体が気になって紅羽を訪ねに来たのだ――」
そんな話をしている中、鳳凰は三人のいる縁側の前へと降り立った。同時に、紅羽が鳳凰へ姿を変えた時と同様の光が鳳凰を包み、光が消えた頃には何事もなかったかのように、紅羽がすっくとそこに立っていた。
「紅羽!」
思わず駆け寄る瑠爪。
駆け寄ってきた瑠爪を、紅羽は優しくその腕に抱き、それから縁側から自身を見ている翠角を見る。
「翠角もおいで。そろそろ降りてくるだろうから」
そう言われ、言葉の意味こそ呑み込めないままでも、翠角は立ち上がって外に出る。が、縁側に残って外に出た三人を見ている彩将は、動こうとはしない。自分はあの場に行くべき者ではないとわかっているのだろう。ただ、何が起こるのかを見届けようと、そのような心持ちだった――
「彩将! おぬしも、我が客人の姿を見届けていてくれ。……我が友として、胸を張ってな」
「……ああ」
心境を察したような紅羽の申し出に、彩将は力強く、ただそう答えた。
それから少しの後、鳳凰の後を追うように飛んでいた怪鳥が紅羽たちの前へと降り立った。怪鳥が地に足をつけると、空を飛んでいた時に纏っていた光の衣は自然と消えていく。
――烏(からす)だった。
光の衣が無くなってはじめて、それが烏だとわかる。
鳳凰に負けず劣らずの巨体に、黄金色の目と、両脚と尾の間に生えたもう一本の脚を持った、異形の姿をしている。
しばらくの間、紅羽とその烏は互いに見つめあったままだったが、ふいに
「久しいな、八咫烏(やたがらす)」
懐かしさと親しみのこもった口調で、紅羽は烏に向かってそう言った。
「八咫烏……」
初めて聞くその名を、思わず紅羽に訊き返す翠角。
「倭国にて付き合いを持ったわたしの古い友でな、光を纏い、闇を導く導きの神と呼ばれている神鳥だ。古の天皇を熊野国(くまののくに)から大和国(やまとのくに)まで導いたとされてな、太陽の化身とも言われている。しかし妙だな、八咫烏が現世に赴くこと自体は珍しくないが……妖がはびこる今の世だ、その際にはよほどのことがない限りは、妖などと騒がれぬよう小さき烏の姿を装っていたはずだが――」
そう言いながら、何かを伝えようと八咫烏に目配せをする紅羽。八咫烏はその目線を感じて、ふいにその嘴を小さく開いた。
「……その姿、まるで人間ではないか。どうなっているのだ……そなた鳳凰なのであろう? 先ほど余を導いて飛んでいた唐紅の神鳥であろう?」
人のように言葉に合わせて嘴が開閉するわけではない。開いた嘴の奥から、まるで目を合わせた者すべての心に直接問いかけるように響く声。その声は、静かにも困惑に満ちている。
紅羽はただ穏やかな目付きで八咫烏を見つめ、
「……紛う方なく、我はそなたの知る鳳凰ぞ」
目付きとは裏腹に、重く威厳に満ちた声でそう答えた。途端、じわりと紅羽の唐紅色の瞳が右目だけ八咫烏と同じ黄金色に染まった。
紅羽の声であるはずなのに、いつもの紅羽ではない。知っているはずのその人が、すぐ傍にいるはずなのに遠くに感じてしまう。その異様な不安感が、瑠爪と翠角を戸惑わせる。
「紅羽……?」
「……」
怯えるように、思わずその名を呼んでしまう瑠爪。
ただ不安げに紅羽を見ているだけの翠角。
二人の心境もわかったうえで、紅羽はあえて二人と目を合わせずに八咫烏に向き合ったままである。
「ならば……その人間の姿はなんなのだ? その異形の童(わらわ)たちは何者なのだ? 教えてくれ、ようやっと鳳凰を見つけたというに、わからぬことだらけではあんまりだ」
そこまで言って、八咫烏は物憂げな瞳でうつむいてしまう。
「この姿で現世に赴くことに疑問を抱くか? ならば聞け。二月(ふたつき)ほど前に現世へ降り立った時、暁の空を飛ぶ唐紅の鳥の姿をこの目で見たのだ。あれはまさに鳳凰だった。……信じられなかった。鳳凰は数百年の昔に、現世にて死んだものだと思っていたのだからな」
紅羽はただ静かに、八咫烏の話を聞いている。
「もしも余が見たものが真の鳳凰ならば、もしも鳳凰が生きているのならば……そう思うと居ても立ってもいられなくなった。だから、そなたの目に触れるようにとこうして姿を偽ることなく人の世に赴き、この姿をさらすべく現世の空を飛び回っておったのだ。なあ、そなたわかっているのか? 鳳凰は闇と光を繋ぎ合わせ、生命の生き死にともいえよう破壊と再生を司りし偉大なる神ぞ。龍神、麒麟と共に漢の地に降り立ちながら、この倭の地の形成に尽くした恩神ぞ。常世の神々は今でも鳳凰の死を嘆く者がいるというに――余もその一神であるというに……その鳳凰がなぜこのような場所で、そのような姿でいるのだ!」
神も興奮の感情を持つのか、話せば話すほど言葉の勢いが強くなっていく。しかし、紅羽はその勢いに押されることなく、ふいに歓喜の表情を浮かべた。
「……ああ、嬉しいことだ八咫烏。鳳凰の死を嘆き、その真偽を確かめようとわざわざその姿で人の世に赴いてくれていたとは、なんとも嬉しいことだ」
だが、そう言った途端に今度は表情を曇らせる紅羽。
「だがな、確かにわたしはかつての――そなたの知るところの鳳凰だ。しかし、もう鳳凰ではないのだよ」
「なに?」
「鳳凰は死んだ。そなたが言ったように数百年の昔、龍神、麒麟と共に息絶えた」
「しかし……ならば先ほどのそなたの姿は――」
「八咫烏よ。そなた転生神を知っているか?」
紅羽は、これ以上八咫烏を惑わせないようにと気を遣ったのか、鋭く八咫烏の言葉を遮った。
「転生神だと? ああ、知っているさ。人間へと転生した神の呼称であろう? そんな魂が本当にあるのかなどは知らぬがな。ああ、しかし不思議なものよ。いつから、どこから生まれ広まっていったのか、そんなことは誰も知らぬが、当たり前のようにこの言葉は常世にも現世にも居座っているではないか――」
ややばかにされた気分でそう答えながら、八咫烏は一つの疑念を抱く。
「転生神は存在するよ。存在するが、現世に三つしか存在しない。そしてこれ以上、転生神と呼ばれる魂が出てくることは決してないだろうな――」
「まさかそなた……鳳凰の転生神なのか?!」
驚きと疑念によって見開かれた黄金色の目に瑠爪と翠角は小さく怯えてしまったようだが、紅羽はというとしっかりと八咫烏を見据えている。
「ああ、そうだ……わたしは鳳凰の転生神と呼ばれる存在であり、なにより、あと二人の転生神を生み出した存在でもあるのだ」
あと二人――その言葉の意味を八咫烏は訊かずとも気付いてしまう。
「なんと……」
「気が遠くなるほど昔のことだが、いつだって、つい先ほどのことのように思い出せる。……現世での神の存在を支える人間たちの信仰心が薄れ、魂を保てなくなった盟友たちが死していくこと、そしてわたし自身独りで死していくことが怖かった。だから死の直前、先に死した龍神と麒麟の魂をこの手中に取り留めて、現世で生きていける存在――人間として転生させた。そして人として現世のどこかに生まれるであろう二人と共に生きていきたいと願い、わたしも自ら人間へと転生したのだ」
八咫烏は何も言わず、紅羽の話に聞き入っている。
「そなたが二月ほど前に見たという暁に飛ぶ鳥のことだがな……龍神、麒麟とは違い、なぜかわたしはただ人の姿をしているというだけで、他は何一つ鳳凰であったころと変わらないのだ。神であった頃の記憶を余すことなく持ったままであり、なろうと思えば鳳凰の姿だってとれる。使おうと思えば神通力も自在に使える。だからか、時折死ぬはずでありながら生きている生命や、生きるはずでありながら死せる生命の気配を感じることがあってな。その度に生死の矛盾を正すべく、人の目につかぬ暁の頃にかつての姿で倭国の空を飛び廻ることがあるのだ。毎夜のように飛ぶことをしなければ、騒がれることもないからなぁ……そうだ、前に飛んだのがちょうど二月ほど前のことだった」
「では、やはりあの暁の鳥は鳳凰であったか……では、その童たちはまさか――」
そう言った八咫烏の声は、驚愕と共に、どこか確信のようなものがあった。
「ああ、遅くなったが紹介するよ」
八咫烏の言葉を柔らかく遮って、紅羽はまず瑠爪を見る。
「この子が、龍神の転生神である瑠爪――」
それから、翠角を見る。
「そしてこの子が、麒麟の転生神である翠角だ。今はこの村で、三人共に暮らしている」
紹介された二人は戸惑いながらも八咫烏を見ているが、八咫烏は構うことなくその黄金色の目で二人をしっかりと見据えている。
「それと、今更ではあるが……紅羽というのは、人として賜った今のわたしの名だ。紅羽とはなんのことかと悩んでいたのならば、こういうことなのだと呑み込んでおいてくれ」
「……ならば、人間へと生まれ変わったと聞かされてもなお、そなたのことを鳳凰と呼ぶのは配慮に欠けるものがあるな。紅羽……そうか、紅羽か」
「なに、そのようなことは気にするな。そなたの呼びたいように呼べばそれでいい」
「そうか。しかし……瑠爪と翠角といったか、二人はなぜそなたと違いそのような不完全な姿をしている? 三人とも、転生の際に受けた神通力は同じ鳳凰のものなのであろう?」
紅羽が眉をひそめる。まるで昼間、彩将がふいに放った悪気のない独り言を耳にした時のようだ。
「……失敗したのだ。龍神と麒麟を人間にしようとした時、神としての魂を破壊しきれず、中途半端に破壊された魂を人間へと再生させた結果が、この二人の姿だ……」
「……なんと」
「一度落ちた転生神の輪廻からはわたしも、この二人も抜けられぬ。我転生神は老いることはなくとも、だからと言って死なないわけでもなくてな。おそらくは今の生を受けるまで、瑠爪も翠角もその姿ゆえに、殺されてはまた記憶を失くして異形の姿で生まれ、その度に酷な思いをし続けてきたのだろう。実際に、こうしてこの村で暮らすようになるまで、二人とも人ならざる者としてひどい仕打ちを受けていた……惨い話だ。自分はすべてを持ったまま完全なる人の姿をとって転生し誰に虐げられることもなく過ごしておいて、このようなこと……」
そう語る紅羽はまるで自嘲しているように見える。が、同時にひどく自分を責めているようにも見えた。そんな紅羽を見つめる瑠爪と翠角も、辛そうな面持ちである。
「事情はおおよそわかった。だが……人間に生まれ変わるなど大層なことをしておいて、なぜ訪ねに来てくれなかった? 教えてくれても良いだろうに……なあ、鳳凰であった頃の記憶があるのなら、余の開けた歪(ひずみ)がどこにあるかも知っているのだろう?」
「ああ、知っているさ。そなたが穿(うが)いた歪は、この倭国……宇陀(うだ)に建てられた神社の上空にあるのだろう?」
歪――いうなれば、穴である。神が常世から現世を訪れる際に常世の側から神通力をもって穿つもので、開いた歪は主以外の通過を拒む。そして、日の本各地に建つ神社や祠、社などは、そんな歪の指標ともいえる目印なのだ。
つまり紅羽の話によれば、八咫烏は宇陀にある歪を介して常世と現世を行き来していて、他の歪からはその行き来ができないというところだろう。
「そうだ。ああ、そなたの訪問とあらばいつでも常世から参るというに……訪ねてさえくれれば、いつだって……」
残念そうであり、また、自分の非力さを嘆く八咫烏を見て、紅羽は一つため息をついた。だがそれは八咫烏に向けたものではなく、自身に向けたものらしい。
「まったく……そなたや、他にも生前親交のあった神々には、わたしたちはこうして現世に生きていると伝えねばならぬとは思っていたのだが……しかしなぁ、常世の神々には決まりも禁忌もあらぬとはいうが、それでも転生神などという存在を生みだして世の理を乱し、結果、盟友を辛苦のただなかに突き落としたわたしの行為は愚行そのものだろう? それをわかっていて、自ら助けを請おうなどとは思えぬよ」
そこまで話し、一息つく紅羽。
「だが、それはそれで独りよがりの愚行であったようだがな……此度のそなたの行為が物語っているようじゃあないか。ああ、今の今まで何の音沙汰もなくてすまなかった――」
「いや、余の方こそすまなかった。そのようなそなたの考えも無視して、おびき出すような真似をしてしまって」
お互いにすまないと思うからか、紅羽も八咫烏も、気まずそうにうつむいてしまう。
「だが、何と言おうか……やはり姿や魂のありようこそ違えど、鳳凰、龍神、麒麟、そなたらは共にいなければならぬのだ。ああ、そうだ。鳳凰のみならず、龍神、麒麟の魂の無事を知ることができただけでも、現世を飛び廻ったかいはあったというものだ」
沈黙を破ってそう言ってから、八咫烏は視線を遠く――庵の中にいる彩将に移した。
「ところで紅羽よ、瑠爪や翠角ならばこの場に立ち会わせていようとなんら不思議はないが……そなた、随分とあの男にも心を許しているようだな」
「わかるか」
その言葉は、どこか照れくさそうに思える。
「あの脇差から、鳳凰の神通力を感じる。……まったく、そなたらを人に転生せねばならぬ事態に追いやったのは人間の傲りだというに、よくもまあ、その人間になど心を許せるな」
「神にもさまざまな思想の持ち主がいるように、人の思想とて千差万別。あやつがいるからこそ、わたしたちは人として生きていられていると言っても過言ではない。人間全てを傲りの生き物と一括りにしてしまっては勿体ないことこのうえないと思わせてくれる男だぞ、あの彩将という男はな」
「よく言う。買い被りではないのか?」
八咫烏の試すような物言いに、紅羽はふっと笑みを漏らすだけである。それを受け、八咫烏は三本の脚でたどたどしく庵へと近づいた。
「そなた、紅羽たちとはどのような関係と自負している?」
彩将を見据えた八咫烏のその口調は、紅羽と話している時と同じような口調であるが、相手が人間の彩将だからか、どこか先ほどよりも猛々しく、威厳がこもっているように感じる。
「……同じ人の世に生きる、友と自負しております」
神を前に改まってはいるが、だからといって繕われたわけではない口調。急な問いであるにもかかわらず、少しだけ考えたのちに真っ直ぐな声で受け答える彩将に、八咫烏は小さく笑ったように見える。
「奴が偉大なる鳳凰神の生まれ変わりと知ってもか?」
「本人が人として生きようとしているのに神として崇めるなど、不束なことこの上ないでしょう」
「ほう! 奴を人と見るか!」
「先ほどのように――貴方様を迎えに参った時のように自ら鳳凰として存在しようとする時ならば話は別でございましょうが……紅羽の名を纏い、人として生きようとしている限りは、紅羽たちは紛れもない人だと思っております」
「ああ、おもしろい、確かに人とはおもしろい! ならばもう一つ訊かせてくれ。瑠爪と翠角のような異形の姿をした転生神でさえ、そなたは人と言い切れるか」
「人でありましょう。人として懸命に生きる姿は、紛れもなくまことの姿にしか見えません」
八咫烏の黄金色の目をしっかりと見据えて答える彩将。
それから、少しの間二人は黙り込んでいた。
「……知っているか。死して常世に辿り着いた魂は、常世に住まう神々によって何をすべきか、どう過ごすべきかを示されるのだ」
常世の話を持ち出して沈黙を破ったのは八咫烏である。
「それは……初めて耳にした話でございますが、常世のことなど話されてどうなさいましたか」
「つまりは、不慣れな世に存在を続けるためには、其処を知り尽くす者の助力が必要だと余は考えている」
八咫烏の考えを聞かされ、彩将はその意図に気付く。
「……ああ、この現世を知り尽くすは我々人間でありましょうな」
「ならば、導きの神として問う。神として常世に生まれ、人として現世に生きる転生神の生き様を導く覚悟がそなたにはあるか」
「お言葉でございますが……八咫烏様のご訪問、また、ただいまのお話なくとも、もとより人の世を知る者として、この身が果てるまでは微力ながら彼らの助力となる所存でございます」
迷いも悩みもない、力強い言葉。
八咫烏は何も言わなかった。言わなかったが、その黄金色の目を深く深く濃い色へと染め、満足げに小さく喉を鳴らした。そして、またたどたどしく紅羽の傍まで歩いて行き、隣まで来ると歩を止める。
「……なあ、紅羽。人と言葉を交わすなど、どれほど久方ぶりか覚えておらぬよ」
しみじみと、紅羽に語りかける八咫烏。
「ああ、おもしろい男を見つけたものよ、紅羽。確かに人間全てを、神を信仰せぬ傲りの生き物としてしまうにはためらわれるわなぁ。神であった時でさえ龍神や麒麟といった盟友と巡り合い、人になってもなおあのような男と巡り合うとは……まったく希有な縁に恵まれおって」
「希有な縁か……よもや、導きの神の御利益やもしれぬな」
「ばかを言うな。余は人と人の縁を導く神などではない」
そのやりとりには、どこか冗談めいた雰囲気がある。
「……良き友が集まるのは、紛う方なくそなたの威厳の問題だろう。いい加減に自覚をしろ」
「そう言ってくれるか……」
隣り合い、顔も合わせずに話していた紅羽と八咫烏だったが、ここで互いに顔を合わせる。
「紅羽よ。そなたが人として生き、己の愚行を己で正すというのならば、余は自らこれ以上の干渉はせぬ。だが、瑠爪や翠角を守りゆくために神として在らねばならぬ時もあるだろう? そのようなことがあり、神として余の力を必要とするその時は宇陀の地を訪れろ。いや、わざわざ訪れなくとも、友をよこしたって良い。ともかくそなたの頼みとあらば、いつでも常世より参ってこの導きの神の力を貸してくれようぞ」
その目線は終始紅羽に向けられていたが、ただ一度、友の言葉を口にした時だけは彩将に向けられていた。
「ああ、そうするよ」
「神と違い、人間は時に傷を嘗め合い、時に支え合う生き物だと覚えている。ならば共に助けを請うことも人ならば至極自然なことだろうよ。……独りよがりはほどほどにしておけ」
それから、八咫烏は目線を空へと向けて巨大な翼を音もなく広げた。すると、その体を光の衣が包む。同時に、今の今まで黄金色に染まっていた紅羽の右目が、誰が気付くでもなく元の唐紅色へと戻っていった。
「行くのか?」
「ああ。騒がせてすまなかったな」
「なに、わたしに非があっての訪問だ、そなたが気にすることではない。なにより、騒いだのは真夜中に目を覚ましたわずかな人間だけであるしな。……ああ、そうだ。暁の怪鳥は神器、黎明で叩き斬ったと人々に伝えてもらうよう、彩将に頼んでやろう。大事(おおごと)にせず騒ぎを治めるには、神の降臨は伏せておいた方がよかろうて」
「そうか、それはありがたい」
安堵の表情の顔を紅羽に向け、ただそれだけ言うや否や八咫烏は静かに飛び立った。そして鳳凰山を中ほどまで高度を上げると、やがて南の方角へと消えていった。
八咫烏の姿が見えなくなって初めて、彩将は紅羽のもとへと、まるで余韻に浸るかのようにゆっくりと歩いてくる。
「怪鳥の正体が、妖などではなく偉大なる導きの神であられたとは……おお、そうだ。先ほどの話――暁の怪鳥を俺が叩き斬ったと伝え歩くこと、時間はかかるかもしれんがしかと承知した」
「ああ、そう言ってくれると思っていた。勝手に八咫烏と約束などしてすまなんだが、頼んだぞ」
「しかしまあ、これで暁の頃に怪鳥が飛ぶことはなくなるな」
「よほどのことがない限りはな。だが八咫烏は飛ばずとも、暁の頃に怪鳥が飛ぶことはあるやもしれんぞ? わたしとて破壊すべき生命、再生すべき生命があらば暁の頃に倭国を飛び廻る怪鳥なのだからな」
「ばか者、俺が言っているのは此度の八咫烏様のことだ。……しかし、宇陀の地へ踏み入ることを許していただいたのは嬉しきことだが、あれしきの短いやりとりだけで、本当に信用していただけたのだろうかな……」
「あのやりとりに、おぬしの人柄を知るなどの意味はないよ」
「なに?」
「人が神と言葉を交わすことが希有なように、その逆もまた然り。目の前に人間がいて、さらにはそれがわたしが心を許している男だと聞いて、思わず好奇心がくすぐられたのであろう。おぬしと言葉を交わしたのは、ある種の遊びのような感覚であったのではないかな」
「遊びだと? 人の童ならともかく、神が遊びなど――」
「なあ、彩将。神の多くがなぜ人の言うところの鳥獣の姿をしていると思う?」
「そ、それは……わからん」
「人間とは比べられぬような高い知能を持ちながらもその本性は鳥獣と同じく、理屈を嫌い、直感に忠実なところがあるからさ。その点では、獣や人の童こそ、神に近い存在であるとも言えよう。……人からすれば不思議な話か」
紅羽の話を理解はしているのであろうが、それでも彩将は、どうにも腑に落ちなさそうな顔をしている。
「それでも、八咫烏様は彩将のことを本当に信頼しているように見えたけど……どうやって八咫烏様は彩将の人柄を知ったというの?」
やっと八咫烏との対面による緊張の糸が切れたのか、翠角が彩将を励ますかのようにそう口を挟む。
「黎明さ」
「黎明だと?」
紅羽から神通力を授かった神器、黎明の名を聞き、彩将は思わず庵の縁側に置いてきた黎明を見る。
「黎明って、彩将の脇差のことよね? 紅羽が神通力を宿した――」
「ああ。神通力を帯びた刀は神器の一種と言えよう。神器というものはな、放つ神通力が、元の神ではなく今現在の持ち主の魂のありようを映すのさ。もちろんそれは常世と通じぬ人間には見えぬがな。八咫烏は黎明が放つ神通力を通して彩将の魂を直接覗き見て、おそらく一目で信頼できると判断したんだろう」
「すごい。神ってそんな方法で人間を見たりするのね」
「他にもいろいろと方法はあるがな」
そう話す二人の横で、彩将がどうにも落ち着きを失くしている様子だ。
「しかし……それはまあ、なんとも……」
照れているのか、徐々に言葉が小さくなっていく彩将。
「なんとも、なんだ?」
「いや……誰からであろうと、どんな形であろうと、人柄を認められるというのは嬉しいことだと思ってな」
「それはそうだ。わたしとて、友を認められるというのは自身の人柄を認められると同様に嬉しいぞ」
「なんだ、おまえ俺が八咫烏様に認められたということが嬉しいのか」
「ああ、それはもう――」
ふと、袖に違和感を感じて紅羽は視線を落とす。
「ん? どうした翠角」
「話が尽きないことは結構だけど、ちょっと瑠爪を寝かしにいってもいいかしら? この子ずっと、眠いのを我慢してるのよ」
言われて見てみると、確かに瑠爪は眠たそうに瞼を半分ほど落としている。
「いいよ、まだ起きていられるよ……」
子供ながらに気を遣ってか、瑠爪は説得力が全くない小さな声で翠角にそう言うが、翠角は呆れたような顔をする。
「もう、眠いんでしょう? 変に気を遣わないの」
「……うん」
根負けしたからか、それともただ眠気に負けただけなのかは定かではないが、瑠爪は素直にうなずいた。それを見て翠角は瑠爪の前に屈みこみ、彼を背負って立ち上がる。程なくして、翠角の背中からは小さな寝息が聞こえてきた。
「ああ、すまなかったよ。こんな時間に起こされては眠くなっても仕方ないだろう。だが、彩将が話してくれた暁の怪鳥の正体が八咫烏ではないかと思うと、どうしてもおぬしら――龍神と麒麟の魂の無事も知らせてやりたくてな……」
申し訳なさそうに詫びる紅羽。
「大丈夫よ。むしろ八咫烏様を安心させることができたのなら、無理してでも会わせてくれてよかったわ」
「そうか、ならばよかった」
ほっとしたようにそう言って、紅羽は彩将の方を向く。
「さあ、夜明けまではもう少しだが、いつまでもこうして起きているわけにもいかないな。瑠爪だけではなく、皆じきに睡魔に襲われてしまうだろうから、とにかく庵に戻ろうか」
「そうだな。ああ紅羽、悪いが今晩は宿を借りるぞ」
「なに、もとよりおぬしに泊まっていかぬかと持ちかけたのはわたしだろうよ」
やがて紅羽に促されて四人が庵に戻ると、外はまた夜の静寂に包まれる。
時刻は、今まさに暁を迎えようとしてた。深い夜の闇の中に月明かりの光が調和する、美しい暁だった。
七
彩将が訪ねてきた翌日のこと、時刻は正午過ぎ。雨は降らずとも厚い雲に日光が遮られ、気持ちが良いとは言い難い日和だった。
庵に大人の姿はなく、夜中に活動したためにまだぐっすりと寝ている瑠爪と翠角がいるばかりである。そこへ、何処かへ出掛けていた紅羽が戻ってきた。
「ほら二人とも、そろそろ昼に差し掛かるよ」
紅羽に優しく肩をゆすられ、翠角はゆっくりと半身を起こす。
「ああ、ごめんなさい……すっかり寝過ごした」
「それはいいが、しっかり休めたかい?」
「ええ、おかげさまで。そう言えば彩将は?」
「つい先ほど村を出たよ。早く都に戻って朝廷から許可を得て、八咫烏がもう飛ばぬことを伝え歩かねばと言っていた」
「相変わらず忙しい人ね――」
と、そんな二人の話声を聞いて、瑠爪がむくりと上半身を起こす。
「んん……」
「起きたか、瑠爪」
「うん……」
「……まだ眠いか?」
「……うん」
半分はまだ夢心地な様子の瑠爪に、紅羽は冗談めいた笑みを浮かべる。
「残念だったなぁ、もう少し早く起きていれば、彩将を見送れたというに――」
「え……!」
その一言で、瑠爪は一気に目を覚ましたようだ。
「それじゃあ彩将、もう帰っちゃったのか?!」
「ああ、つい先ほどな。見送り終わったからおぬしらを起こしに来たんだ」
「彩将、長い時はずっと会いに来てくれないよな……次はいつ会いに来てくれるのかな……」
彩将は、さすがに年の単位で無沙汰をすることは今までにないが、都での勤めはもちろん、黎明を振るうために都を出て遠出をすることもある。ゆえに、長い時は半年ほど村に来ない時もあった。それを気にしてか、瑠爪はとても残念そうである。
「落ち込んでいたって仕方ないでしょう? あたしだって今まで寝てて、彩将を見送れなかったんだから」
「そうだけど――」
「なあ瑠爪。彩将がな、おぬしらによろしく伝えておいてくれと言っていたぞ」
ふいに紅羽が二人の会話に割り込んでくる。翠角一人で瑠爪の機嫌を繕うのは難しいと思っての助け舟だった。
「他には? 他には何か言ってなかった? おれが寝てる間に何を話してたの?」
別に彩将が何かを言っていくなど、そんな心当たりがあるわけではない。だが、瑠爪はいつもこうである。たまにしか会えない友の言葉を、伝達でも直接でも構わないからと、一つでも多く聞いておきたがる。
「そうさな、何を話したかな――」
ゆったりとそう言い、紅羽は数刻ほど前のことを思いだし始めた。
八
瑠爪と翠角がまだぐっすりと寝ている頃。昨夜、八咫烏を呼び出す前までそうしていたように、紅羽と彩将は障子を閉めて縁側に座り、茶を飲みながら止め処なく昨夜の話をしていた。
「しかし……ああ、一晩などと短い時間では忘れられぬものだな」
茶碗を置き、彩将が興奮の感情を押し殺すようにそう言う。
「忘れられぬとは、何をだ?」
「わかっていて訊くな。昨夜のことに決まっているだろう」
「ああ……おぬし、導きの神を前にしてあの態度、堂々として立派であったぞ」
「そうか、堂々としていたか。なら良いのだが……おまえと親しき仲となってから、数回ほどは神を見てきたというに……未だこの身は神を前にして慣れるということを知ってくれぬ。昨夜も委縮して失礼なことはなかったかと不安なところがあったが、そうか、俺は堂々としていたか。しかし、ああ……まだ、あの神々しき八咫烏様の姿がありありと思い出せるぞ――」
彩将の言葉は再び熱を帯び始める。
「それも一種の信仰心であろう」
「そんなものか」
「ああ。神を神として、神々しくその記憶に残す。それだけで神は救われるというものさ」
決して心地のいい陽射しなどは射していないのだが、紅羽は気持ちよさそうに目を細め、茶をすする。
「しかしまあ……何と言おうか、不思議なことだなぁ」
ふいに彩将がそんなことを口にする。
「不思議……とな?」
「まあ、聞け。何が不思議かと言われれば、俺はこの現世こそが不思議に思えるのさ。我々人間が繁栄し、その陰には妖も紛れ、そして神さえもが降臨することすらある。人も妖も神も、決して一緒くたにできぬ存在たちであろうが、その存在たちがこの現世では同じ空気を吸うこともあるのだと思うと、不思議でたまらなくなる」
静かにも熱弁する彩将に、紅羽はふっと笑いだす。
「なんだ、俺の話はつまらぬか?」
「いいや、つまらなくなどないよ。ただ、わたしは保南彩将という男の方がよほど不思議だと思ってな……」
「なに、俺が不思議だと?」
「ああ。この村は、もとはおぬしがわたしやあの子たちのために人を集めて作ったものだ。よくもまあ……村一つができるほどの人数、我々転生神を受け入れてくれる人間を集めたものだと、常々わたしは感心している。そしてそんな者たちを、武力などではなく人柄で集めたおぬしが不思議でたまらぬのさ」
「おまえ、そんなことが不思議なのか?」
「ああ。なにより、そのような男とこうして並んで茶を飲める仲であるということもまた幸いであり、そして不思議でたまらぬのだ」
「ほう……」
彩将の声を吸い込むように沈黙が訪れる。二人とも、その空気を心地よく感じながら口を閉ざしているのだ。
やがて、
「ああ、何もかもが不思議なものだ……」
しみじみとそう切り出すのは彩将だった。
「まったく……人の世はなんとも、不思議なことが多く退屈しない」
紅羽もまた、しみじみとそう言うだけだった。
九
そのような、どうにも意味がありそうでなさそうな、他愛のない会話の後に、彩将は虹風に乗り村を去ったという。
「なんか……難しい話だな」
自分で聞いておいてそんなことを言う瑠爪こそ、難しい顔をしている。
「そう? 現世は不思議なことが多いんだって、簡単な話じゃない」
対する翠角は素っ気ない。
「そうなんだけど、紅羽も彩将も、何が不思議なのかさっぱりわからない」
「なに、不思議に思うことは皆違って当たり前じゃないか。わたしが不思議に思うことを瑠爪は不思議に思わぬかもしれぬし、瑠爪が不思議に思うことを翠角は不思議に思わぬかもしれぬ。ああ、そう考えるとますます不思議だなぁ」
「おれはますますわからないよ」
話しているうちに一人で不思議がり始めた紅羽に、瑠爪は小さく唇を尖らせる。
「とにかくだ。こうして現世で生きていく以上は、不思議なことにもたくさん出会うだろうということさ。……おぬしらに至っては、尚更な」
最後の一言だけ、わずかに憂いを帯びていた。だが、二人から何かしらの言葉を受けることを恐れてか、紅羽は言うや否やすっくと立ち上がる。
「ほら、朝餉(あさげ)も食べずに寝ていれば腹も減るだろう? 今作るから、表着(うわぎ)でも着てきなさい」
起きたばかりの瑠爪も翠角も、薄い小袖一枚で袴も履いていなければ、いつも小袖の上に着ている表着をまだ着ていない。
「今から作るって、紅羽、あたしたちのことこんな時間まで待っててくれたの?」
「それじゃあ紅羽だって腹減ってるだろ? 待ってなくてもよかったのに」
「なに、わたしの気まぐれだ。……そうだ、最近はあまり村で仕事をしていなかったからな、食べ終えたら畑仕事でも手伝おうな」
「うん」
それから、紅羽は朝餉となる雑穀の粥を作りに釜場へ行く。
これから、紅羽たちの遅い一日がまた始まる。
こうして、今日も転生神たちは平安の時代に、紛れもない人として生きている。