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二話 「犬神(いぬがみ)たちの較(くらべ)」

 

 

 

 長月――九月の終わり頃、季節はいよいよ秋から冬へ移り変わろうとしていた。そんな季節の移ろいは、日の本の何処にいようが遅い早いはあれど必ず訪れる。

 近江国(おうみのくに)にそびえ立つ鳳凰山(ほうおうざん)の麓の村も、今、少しずつ秋の色が消えつつある。

 村でできる作業もだんだんと限られてくる中、転生神である紅羽(くれは)は、同じく転生神である瑠爪(りゅうそう)や翠角(すいかく)と共に、遊んだり村人を手伝ったりと相変わらず気ままな生活を送っている。手伝う作業が畑起こしだろうが、作物の収穫だろうが、はたまた干物作りだろうが、そんなことはどうでもいい。紅羽が何よりも気にし、大事だと思うことは、如何にして穏やかに毎日を過ごしていくか――つまりそういうことなのだ。

 

 

 

 昼前の巳の刻――午前の十一時頃、紅羽は自身の住居である庵の縁側に座り、客人と共に茶を飲んでいた。

 瑠爪と翠角は庵の中にはいない。庵の周りにもいない。おそらくは二人で遊びに出ているのだろう。転生神ゆえにこれ以上歳を重ねることのない二人は永遠に子供のまま――つまりは、永遠に遊び盛りなのだ。

 客人とは、紅羽の友人保南彩将(やすみあやまさ)である。所要があって都を離れていた折、その旅先から都へは帰らずに直接村に立ち寄ったのだ。

 彩将が身に付けている狩衣の色彩は、やや季節遅れの女郎花(おみなえし)。しかも、世辞にも綺麗とは言えないほどに薄汚れている。その出で立ちは、自身の屋敷がある都に長らく戻っていないことを物語っているようだ。

 それでも彩将は、屋敷に戻り旅で汚れた衣服を着替えるよりも早く友に会いたいと思っただけで、決して紅羽を、汚れた格好でも構わぬ相手だとは思っていない。そして紅羽も、そういった行動の真意がわかるほどにこの彩将という男を心底理解している。だからこそ、今回のような薄汚れた格好の訪問をも嬉しく思う。

 この二人は、つまりそんな仲なのである。

 「いつもながら、おまえはまこと美味い茶を出す」

 まだ湯気の立つ茶碗から口を離し、彩将は感心した口調でそう言う。

 些細なことでも、思ったことがふっと口に出てしまう。そんな穏やかな時間の中、二人は茶を飲んでいる。

 「奇遇だな、わたしもおぬしと飲む茶はいつも美味く感じるよ。ああ、しかし……悪かったな。その恰好、旅先から直接村に来てくれたのだろう? 時間があれば、あの子たちに会いに来てくれと言い聞かせていたばっかりに……なあ、屋敷に戻り、もっとゆっくり休んでから来てくれても良かったというに」

 「なに、気にするな。俺がおまえたちに早く会いたいと気を急いただけのこと。なにより今回は山陰道(さんいんどう)を通ってきてな。石見(いわみ)まで巡り、そこで用事を済ませそれから都に向かって折り返したのだが、ここはその帰路の途中にある。都に戻るよりもここに来る方が早かっただけだ」

 快くそう答える彩将に、紅羽も穏やかに、

 「そうか。それならば気にはしないぞ」

 と、満足そうに言った。

 山陰道――五畿七道(ごきしちどう)の一つで、東は丹波国(たんばのくに)より始まり、西は石見国(いわみのくに)まで続く、海に面した街道のことである。

 「しかし……もう、陽が射していても寒いくらいになってしまったな。屋敷を出た時は、終わり頃とは言えまだ夏であったが……気付けば冬も始まるではないか」

 茶をすすって一息つき、それからそんなことを言ったのは彩将だ。

 「まったくだ……もうじき縁側での昼寝もできなくなる」

 紅羽の口調は残念そうだが、表情は相変わらずの穏やかな笑顔である。

 「おまえ、相変わらず昼寝ばかりしているのか?」

 「ばかり、とはひどい言いようじゃあないか」

 「と言うと、違うのか?」

 「そりゃあなあ。瑠爪や翠角と遊ぶこともあるし、畑を手伝うこともある。最近ならば冬に備え魚を干すことも増えたぞ」

 「どうだかなぁ……」

 半信半疑と言った顔で彩将がそう言った時だった。

 どこからか一頭の蝶々がふらふらと飛んできて、座っている紅羽の膝に静かに停まったかと思うと、触覚で恐る恐る紅羽の着物を触っている。

 それを見て彩将は小さく、

 「おお、蝶々だ」

 と、季節外れの蝶々に感嘆の声をあげた。

 そんな彩将をちらりと見てから、紅羽は人差し指を蝶々に差し出す。蝶々は飛び立つことなく誘われるようにその指に乗り、紅羽はそれを見て、蝶々の乗った指を空にかかげるように高く上げる。

 「まだ初冬だと油断していれば、すぐに寒さがやって来る。冬を過ごすための穴蔵に皆先に行っているんだろう? ほら、おまえも早くお行き」

 紅羽の言葉を理解するかのように、蝶々は静かに飛び立つ。紅羽も彩将も、見えなくなるまで蝶々を見送っていた。

 「秋の終わりに蝶々とは……なんとも可笑しなものを見た気がする」

 彩将は、紅羽が人間以外の生き物と意思疎通を図ることを不思議がったりしない。不思議な力、神通力を持っていようと、それは異形の存在だからだとは思わない。少し風変わりな人間である。その程度のことなのだ。

 だからこそ、今の光景を見たところで口から出るのはそんな些細な感想だけなのだ。

 「そうさな……この時期、虫たちは各々の方法で寒さを越そうと身を潜め始めるものだ。時折、先ほどのような呑気な虫も見かけることはあるにはあるが……次に蝶々を見ることができるのは来春かなぁ」

 そう言って、紅羽は茶をすする。

 「ああ、ところで彩将。虫と言えば、おぬし旅先の何処かで蠱術(こじゅつ)と関わらなかったか?」

 ふいに、口から茶碗を放したかと思うと、そんなことを彩将に問う紅羽。

 「蠱術? 何だそれは」

 「生き物の霊を使った呪術の一種さ。用途によって方法は異なってくるが、一番簡単にできる術だと、まず一つ器を用意する。その中に様々な種類の虫を閉じこめ、共食いをさせるんだ」

 「なんと……惨いことをするものだな」

 「いや、惨いのはここからさ。そうして、共食いさせた中で生き残った一匹が蠱毒(こどく)と呼ばれる神霊となるのだが、この蠱毒を用いて人を呪う。その方法は術者によって様々だ。虫を相手に触らせる、虫に血を吸わせる、虫を呪いたい相手ゆかりの地に埋める、などな。ともかく、これが蠱術の一方法だ」

 「恐ろしいものだな。しかし、そんな呪術と関わった覚えなどないが……」

 「そうか……いや、なら気にしないでくれ」

 「なんだ、そんな言い方をされれば気になるだろうが」

 そう言う彩将を見て、紅羽は物憂げそうな顔になる。

 「……いやな、おぬしの沓(くつ)から呪(しゅ)の気を感じたんだよ」

 「な、俺の沓からだと!?」

 「ああ」

 短く答え、紅羽は少しの間思案したのち、

 「……彩将、此度の山陰道の旅の中で、長く――そうさな、一日以上居た場所は何処だ?」

 「無論、石見国だ。都を発ちここに来るまで、宿をとるくらいにしか何処にも立ち寄ってはいない」

 「そうか、石見か……」

 紅羽はおもむろに立ち上がって庵の出入り口――舞良戸(まいらど)の前まで歩いて行き、脱ぎ置かれ丁寧にも揃えられている彩将の沓の片方を手に取った。

 「なあ紅羽、まさかとは思うが俺は呪われているとでも言うのか?」

 彩将は不安げである。蠱術の話などされた後だ、彩将でなくとも不安にもなるだろう。

 「……いや、違うな。おぬしが呪われているのではない」

 少しの間彩将の沓を睨んでいた紅羽が、沓を見たままにそう言う。それから彩将の方を向き直り、神妙な面持ちで、

 「おそらく、おぬしが歩いた山陰道――一日以上その沓で踏んでいたという石見の何処かが呪われているのだろう」

 と、今度はそう言う。

 「なんと――」

 その時、勢いよく戸が開け放たれた。

 「彩将ぁー!!」

 戸が開く勢いにも負けずに勢いよくそう言って庵の中へ入り、出入り口付近で沓を見ていた紅羽の横を抜け、庵の中から遠目に、自らの沓をおずおずと見ていた彩将のもとへと駆けていく瑠爪。彼に続き、翠角は紅羽の隣辺りまで中に入る。

 翠角が歩いた跡はともかく、瑠爪が通った跡はなぜかびっしょりと濡れている。

 「おお、どうした瑠爪」

 「どうしたじゃないよ! どれくらい? 八咫烏(やたがらす)に会った時以来だな!」

 瑠爪はとにかく嬉しそうである。

 それもそのはずだ。瑠爪が言う通り、彩将の前回の訪問は八咫烏の一件があった卯月――夏の始めである。今は初冬。此度の訪問まで、子供の瑠爪にとっては長く感じる時間があった。

 「そうだな、五月(いつつき)も無沙汰してすまない」

 「いいよ、彩将は忙しいって、おれわかってるよ!」

 「そうか、ありがとうな。それにしても瑠爪、いやに着物が濡れているが、今日はどこで遊んでいたんだ?」

 「鳳凰山の麓の滝壺で泳いで来た! もう少しすれば寒くて泳ぐどころじゃなくなるからな! 泳ぎ収めってやつだ!」

 紅羽の庵のすぐ傍を流れる小川を、上流――鳳凰山の方へ向かって歩いて行くと大きな滝壺に辿り着く。瑠爪はこの滝壺で泳ぐことを好んだ。翠角もまた、そんな瑠爪の面倒を見るついでに、滝壺の傍に立つ木に登っていつまでも風を浴びることを好んでいる。

 「ねえ、彩将はいつ村に着いたの?」

 瑠爪ほど顔や言葉に表さずとも、翠角もまた、久しぶりの彩将の訪問を喜んでいるのだ。ゆえに、こうして適当な話題を投げかける。

 「一刻(いっとき)ほど前だったと思う。村に着いてからずっと、ここで紅羽と茶を飲んでいた」

 「そう。それじゃあ、入れ違うわけね」

 瑠爪も翠角も、八時の頃にはすでに滝壺に遊びに行っていた。時間にして一刻半ほど前。そして彩将が村に着いたのが一刻ほど前。

 なるほど、二人が遊びに出てから彩将が村に着くまでにおよそ四半刻の間があく。翠角が言う通りである。

 「……瑠爪、泳いだ後はしっかりと着物の水を絞れと言っているだろう?」

 と、瑠爪を注意したのは紅羽だった。

 生きていく中で、ある時ぴたりと成長、老いが止まってしまう転生神たち三人の中でも、一番の年長である紅羽は、友であると同時に、いわば瑠爪や翠角の父親のような存在なのだ。だが、注意とは言っても相変わらずの優しい口調である。

 着物を着たまま泳ぐなど普通ではないが、瑠爪は、生前滝壺を棲み処にしていた龍神(りゅうじん)の生まれ変わりゆえ、人並み外れた潜水能力を持っている。水の中でも息が続くだけでなく、着物を着たままでも十分に泳ぐことができる。だからか着物が濡れることをなんとも思わないために、泳ぐ時はいつも着衣のままであるのだ。

 「ちゃんと絞った。帰ってくるまでに乾かなかっただけだよ」

 そんな子供の言い訳に紅羽はもちろん、やりとりを見ていた彩将も、やれやれと苦笑している。

 「もう冬が始まるもの、寒くて、夏の頃みたいにすぐには乾かないわね」

 翠角もまた大人二人と同じような苦笑をしているが、それでも瑠爪の側に立った発言をしてくれている。

 実を言うと、このような会話は秋になり冬が近づく度に何度もしている。何度しても一年も経てば忘れてしまうほどの、他愛ない日常だった。

 「それもそうだな。それじゃあ、濡れた場所は踏まないように気をつけなさい」

 「わかってるわ。……それにしても紅羽、あなたさっきから何を見ているの?」

 「ああ、これかい? 彩将の沓をな」

 「沓?」

 「履物の一つだよ。村で仕事をするぶんには草履でも問題ないが、彩将は朝廷に仕える人間だ、裸足や草履などで外を歩けはしないよ」

 彩将は朝廷に仕える武官であり、都内ではそれほどではなくとも日の本中と考えた時には身分の高い人間なのだ。しかし、彩将がそのようなことを鼻にかけたがらないことを知っている紅羽は、朝廷に仕えるとは言っても、高貴な人間などという表現を口にすることはない。

 「そうなのね、人の足元なんて気にしたことがなかったわ。……それで、沓が何かはわかったけど、彩将の沓がどうかしたの?」

 「そうなんだ、俺の沓から何やら呪の気を感じるらしくてな……」

 自分で口にしておいて、呪の言葉を口にしたことで彩将は珍しく弱気になっているようだ。

 「呪って……呪いのことよね?」

 「らしいな、俺もその手のことはよくわからんのだが……」

 そう言い、彩将は紅羽を見て目で「説明しろ」と訴えている。

 「わたしとて、このような僅かな気だけでは、呪の気がある、としか言いようがないよ」

 若干困ったようにそう言って、紅羽は急に眉をひそめた。

 「だが……この沓が放っている呪の気、僅かではあるがかなり強いようにも思える。放っておくのは気が引けるな」

 「強い呪いって……それじゃあ彩将は大丈夫なのか……?」

 心配のあまり、瑠爪は今にも泣きだしそうな顔をしている。

 「ああ、それは大丈夫だよ。この気が彩将に対する呪いならば、今頃彩将は常世(とこよ)の住人だろうさ」

 常世の住人――すなわち死人のことである。

 「紅羽! 穏やかでないことを軽く口にするな!」

 「ああ、悪い。珍しく弱気なようであったから、おぬしは紛れもなく生きておるぞと、そう伝えたつもりだったのだが――」

 「おまえ……時折俺をからかう癖があるだろう」

 「ばれていたか――」

 「紅羽!!」

 いよいよ、彩将は本気である。大の大人が、本気で冗談に参っている。

 「ああ、だから悪かったと言っている。とにかくだ彩将、この呪はおぬしとはなんら関係がない。安心しろ」

 穏やかな、聞いているだけで不安が消えていくような言葉の調子。紅羽は普段から、特に感情の起伏がない時はいつもこのような口調で話すのだが、事が事だけに、こんな話の中で紅羽のこの口調を聞くと、一段と不安の気持ちが落ち着いていくようである。

 彩将も先ほどまでの様子とは一変し、気付けばすでに落ち着き払っていた。

 「……なあ紅羽、おまえ時間はあるか?」

 ふいに紅羽に話しかけたその声は、真剣そのものだった。

 「時間など、いくらでもある」

 そう言った紅羽は、まるで彩将が言いたいことをすでにわかっているような、得意気な顔をしている。

 「石見であれば……徒歩(かち)で七、八日も歩けば着くだろうか」

 考える時間もあまりとらず、紅羽は彩将の目をじっと見てそう言った。

 「付き合ってくれるか」

 「蠱毒は放っておけば人を殺す、最近歩いた土地にその蠱毒があるやもしれん。そう考え始めてしまえば、おぬしはじっとしていられぬ。……そうだろう?」

 言われ、彩将は申し訳なさそうな、はたまた、それでも心強そうな面持ちで、

 「いつもすまない。偽善に聞こえるやもしれんが、俺は幸いにも、おまえから賜った黎明を振るうためとあらば、宮仕えの時以外ならば都を開けることを主上(おかみ)に許さた身。ならばこの手で、この刀で救える人が日の本の何処かにいるのならば、救ってやりたい性分なんだ。だが、悪霊や妖(あやかし)を斬ることができる神器を携えたところで、俺自身には常世の知識など何もない。結局はおまえの力を借りねばならぬようになってしまうが……」

 主上――日本国の最上位、象徴を意味する天皇のことであり、この時代では第六十一代天皇の村上天皇のことを指している。

 この村上天皇、ある時風の噂で、彩将が神器を所有していること、そしてその彩将の人となりを耳にした。その折に、怪異の解決に努めること、そして宮仕えの際には都に戻ることを条件として、彩将が都を長く開けることに許可を出していた。

 ゆえに、彩将は朝廷に仕える身でありながら、時折怪異に困る人々の噂を聞きつけた時には、自ら黎明を携え、虹風を駆り、必要とあらば紅羽の助力を得て件の地に赴くのだ。

 「偽善? ああ、そう思うからいけないんだ。良いではないか、おぬしのその性分を偽善だという者とは、所詮感じ方が違うだけのこと。少なくともわたしは、そうやって進んで人を助けたがるおぬしの性分、人柄が大好きだぞ。そんな友に力を貸してやれるなど、なんとも嬉しいことだよ」

 「そう言ってくれるとありがたい。……ああ、それでだ。虹風は村に預けるとして、俺はいつでも出ることができるから出発はおまえたちの都合に合わせるぞ。石見国までは遠い、瑠爪と翠角も連れて行くのだろう?」

 今回、虹風は都から石見国、そして石見国から村へと十分な休息を取らずに彩将を運んできている。これ以上休みもなしに歩かせるのは憚られたのだろう。彩将が何度も虹風を連れて村に来るため、村人たちも虹風の扱いを心得ている。そのことをわかっているからこそ、彩将はこのような判断ができる。

 「さて、彩将の言う通り、此度は長い外出になりそうだが……おぬしらも来るかい?」

 「行く! おれも行く!」

 真っ先に答えたのは瑠爪だ。

 「翠角は? 翠角も行くよな?」

 「そうね、行きだけで七日も八日もかかるんでしょう? 帰って来るまではその倍はかかるだろうし、その間紅羽がいないのは退屈だもの。あたしも行きたいわ」

 紅羽は小さくうなずいた。

 「それじゃあ、四人で石見に行こうか。それで、瑠爪、翠角、どうだろう。今日一日ゆっくりと休んで、明日にでも出ようと思うのだが、二人はそれで大丈夫かい?」

 「おれはいいよ! 翠角もいいよな?」

 「ええ」

 「それじゃあ早い方がいいだろう、留守にする旨を皆に伝えに行ってくる。ついでに虹風も村の厩舎に預けて来よう。ああ、彩将。おぬしは好きにしていてくれ。まだ旅の疲れも取りきれてなかろうて」

 「ああ、そうさせてもらう」

 彩将の返事を受け、紅羽は立ち上がる。

 紅羽も瑠爪も、麒麟(きりん)の足ゆえに草履が履けない翠角を気遣って常に裸足であり、もちろん翠角も足には何も履いていない。そのため、この三人は出掛けるとなると仕度が早い。

 「あ、待って紅羽! おれも行く!」

 「あたしも行くわ。起きてすぐに遊びに出たから、今日はまだ村の人に挨拶をしていないの」

 「そうか、では三人で行こうか」

 紅羽たち三人は、虹風を連れ、明日から村を留守にする旨を村人たちに話しに出かけて行った。

 事の始まりは、つまりこのような経緯であった。

 

 

 

 彩将が村を訪問した翌日。紅羽、瑠爪、翠角、彩将は四人連れだって近江国を発ち、山陰道の西端にある石見国を目指して歩き始めた。

 近江国を出て六日目、宿をとった因幡国(なばのくに)を出た日の日中、一行は伯耆国(ほうきのくに)に差し掛かっていた。

 「紅羽、疲れてはいないか?」

 歩きながら、彩将がふいにそのようなことを紅羽に訊く。

 「此度の遠出は人の目に触れる時間が長い。無理はしていないか?」

 彩将の言葉に、紅羽は優しくふっと笑う。

 「ああ、ありがとう。疲れてなどいないよ」

 「そうか」

 短くそう答え、彩将は安堵の表情を見せながら再び前を向き直す。

 一行は、石見国に向かう道の途中で当たり前のように、何度も道行く人とすれ違っている。にもかかわらず、誰も紅羽たち転生神の姿を気に留めることがないのだ。

 異形の姿を持つ瑠爪と翠角。異形とは言わずとも、人ではありえない唐紅の髪と瞳を持つ紅羽。

 誰も彼らの姿を気に留めない――紅羽は、村の外では常に力を使っているのだ。

 人として現世に紛れるために、転生神の人ならざる姿を人の姿だと、その姿を目に留める人々に錯覚させる。

 彩将はもちろん、紅羽たちを転生神だと知ったうえで共に暮らす村の人間たちが相手なら必要のない力だが、村を出る際には転生神たちにとって必要不可欠な力だ。

 紅羽は、このように瑠爪と翠角を連れて村を出る時はいつも、力を使ってその姿を誤魔化している。

 鳳凰山麓の村から都ほどの距離、もしくは往復でも数日間の用事なら瑠爪も翠角も村で紅羽の留守を待てるのだが、こうも長い外出となるといつも二人は紅羽について来ることを、彩将は知っている。

 ゆえに、今まで何度も自分の頼みを聞いては、遠出の度に力を使いながらも村の外に出掛けてくれる紅羽を気遣うことを、決して忘れはしなかった。

 「紅羽、疲れたら隠さないで言うんだぞ。紅羽が休んでる間はおれたち隠れて待ってるからな」

 紅羽と彩将の話を聞いて、瑠爪がそう言う。

 「ああ、ありがとう。でも大丈夫だよ。力とは言っても、このまやかしは大したものではなくてなぁ、長く使ったところでさほど疲れることはないんだ」

 紅羽はそう言ってふいに声の調子を落として歩を止め、なぜか彩将を――それも、話しかけるつもりがないのかその懐辺りを見つめ始める。

 「大したものではないって……そんなことはないと思うけど」

 その力で村人たち以外の人間たちからの迫害から逃れている自覚があるためか、翠角には紅羽が謙遜しているように思えた。

 「本当に大したことはないのだよ。このまやかしは、どんな形であれ常世と通ずる者には通じないからな」

 「常世と通ずる者だと?」

 彩将が訊く。

 「陰陽道や仏法などに通ずる人間、はたまた神、霊、妖の類……なあ、そなたもわたしたちが完全なる人間ではないと、気付いているのだろう?」

 紅羽の視線は、相変わらず彩将に向けられている。

 「紅羽……おまえ、まさか俺に話しかけているのではあるまいな?」

 紅羽は思惑の見えない微笑を浮かべながら、何も言わずに視線もずらさない。

 「お、おい……紅羽――」

 だんだんと不安を覚え始めた彩将が、返事を催促しようとした時だった。

 紅羽が突然、彩将の懐に何も言わずに手を入れた。手を入れて、何かを手探りで探している。

 「紅羽、何してるんだ……?」

 そう言うのは瑠爪だ。懐に手を入れられている彩将本人はというと、ただ黙って紅羽の奇行を見守っていた――正確に言えば、見惚れていた。彩将の視界の大半を占領している紅羽の頭部、転生神の証と言える唐紅の長髪に。

 人々には黒く見える紅羽の目も髪も、転生神その人たちに心を許された彩将の目には鮮やかな唐紅色に映る。その人ならざる美しさには、老若男女はおろか、人間、神、妖など関係なく心を乱すような妖しさがあった。

 彩将は、不意に自身の視界を塞いだ、見慣れたはずのその紅髪にただただ見惚れていたのだが、周りの目などお構いなしに彩将の懐で何かを探していた紅羽は、少ししてからなぜか安堵の表情を浮かべ、やっと彩将の懐から手を抜いた。その手には、折りたたまれた一枚の古い和紙が優しく握られていた。

 「何それ……」

 口を開き疑問をぶつけるのは翠角だ。瑠爪も、とても興味がありそうに紅羽が握っている和紙を見つめている。だが、彩将だけは二人のような余裕などなく、驚きの色を隠しきれずに紅羽を見ていた。

 「あれ、彩将の物なのか?」

 紅羽が握っている和紙を指差して、瑠爪がそう訊いてくる。

 「いや……あんなもの、持っていた覚えなどないぞ……」

 紅羽は何も言わずに「そうであろうな」と、でも言わんばかりの顔で彩将を一瞥してから、折りたたまれている和紙を開いた。

 「ああ、なるほど……」

 紅羽がそう語りかけたのは、他でもない和紙そのものだった。

 「なるほど、って……何? 何が書いてあるんだ?」

 「ほら、見てごらん」

 瑠爪に訊かれ、紅羽は三人に見えるように和紙を見せる。そこには、猛々しい山犬が墨で描かれていた。

 「山犬だ」

 「その山犬の絵が、なんだというの?」

 山犬の絵をまじまじと見つめてそう言う子供たちに、紅羽は小さくうなずいてから

 「ただの絵に見えるやもしれんが、これは人が生み出した妖だ。弘法大師(こうぼうだいし)が生前、猪除けに法力を込めて山犬の絵を描いたと、その絵が命を持ったと、そんな話を聞いたことがある」

 と、そう話す。

 弘法大師――平安時代の初期に真言宗の開祖としてその名を知られた空海(くうかい)和尚が、死後に帝から賜った諡号(しごう)が弘法大師である。

 今は亡き空海和尚だが、僧としても名高かったうえに能書家としての腕も確かで、この時代、少しでも教養がある者であればその名を聞いてわからぬ者などいなかった。

 「弘法大師が妖を生み出しただと?」

 官人として朝廷に仕える彩将は教養がある人間のうちに入る。無論、彩将も空海和尚を知っていた。知っていたからこそ、紅羽が語った空海和尚の所業に驚いた。

 「まあ……妖というよりは、式神のような存在と言った方が近いかもしれんがな」

 彩将とそんな話をして、紅羽は和紙に目を落とす。

 「なあ、良ければそろそろ出てきてくれないか? おぬしがなぜ彩将の狩衣に潜んでいたか、少々興味があってなぁ。教えてくれるとありがたいのだが……」

 ……。

 何も起こらない。だが、その間ずっと誰も言葉を発することはなかった。

 長き静寂の中で紅羽は和紙から目を逸らすことなく、まるでその唐紅の瞳で何かを語りかけるように、ただただ静寂を守っていた。

 長き静寂の中、その時は来る。

 「……勝手に道中ご一緒させていただいたご無礼を、どうか許していただきたく」

 声がした。それは誰の耳にも、明らかに紅羽が持っている和紙から聞こえた。

 「許すも何も、はじめから咎めてなどおらんよ」

 優しく穏やかな紅羽の言葉を受け、和紙が淡く光り出す。それを見て、紅羽は和紙をそっと地面に置いた。すると、和紙から墨が盛り上がるように湧き出てきたかと思うと、それは徐々に形を成していく――

 立派な白き狩衣を纏った、犬の顔と手足を持つ妖。それはまるで、人のように二足でしっかりと地を踏みしめていた。

 気付けば、和紙は消え失せていた。

 「おぬし……犬神(いぬがみ)だな」

 語りかける紅羽の右目は、人知れず色を失っていた。

 「おっしゃる通りで……」

 紅羽に犬神と呼ばれた妖は、一枚の和紙として勝手に彩将についてきたことに後ろめたさを感じてか、先ほどから言葉の一つ一つに力がない。

 一歩、彩将が犬神に近づいた。

 「犬神といったな。貴様なぜ俺の狩衣に潜んだりした?」

 犬神は一度、気まずそうにうつむく。そしてゆっくりと顔をあげたかと思うと、その視線を彩将の脇差――神器黎明(れいめい)に向ける。

 「彩将様、貴方様が腰に携える脇差……それは神器でございましょう」

 紅羽が言うように、人に生み出された従順な妖は式神と似たような存在である。生みだした人間の力を反映するところまでもが式神と同様であり、空海和尚ほどの高僧が生み出した妖ともなると、神や妖が放つこの世ならざる気配にも敏感だった。

 「わかるか。そうだ、この黎明は今は亡き鳳凰神の神通力を賜っている」

 「鳳凰神……ああ、その神通力は鳳凰神のものでありましたか」

 納得したようにそう言って、犬神は黎明に視線を落とす。

 「そう、それなのです。石見にて彩将様を拝見した時、その神器を持つ貴方様にお力を貸していただきたいと思ったのですが……失礼ながら、初めて拝見しました貴方様の人柄などわかりませぬゆえ、妖の身である私がいきなりこの姿を現した途端に斬り捨てられてしまう可能性も捨てきれず、石見でこの姿をお見せすることも憚られ……何か良いきっかけはないものかと思い、勝手ながらお着物の懐に忍び込ませていただいたのです」

 「黎明の力を借りたいと? おまえもしや、何か怪異に困っているのか?」

 そう尋ねる彩将の口調は、先ほどの質問の時と一変した情の含まれたものであった。

 妖が相手であろうと、何かに困っている存在と真摯に向き合う彩将の姿こそ、紅羽が彩将を友として好む所以である。場違いだとわかっていても、紅羽は誇らしくも嬉しそうな顔をして彩将を見ていた。

 「怪異……ええ、そうやもしれませぬ。いずれ怪異になるやもしれん……ああ、なんてことだ。時間がないというに、話のわかる方だったというに、あの時お声をかけていればよかったものを、いらぬ恐怖に駆られおって……」

 はじめは彩将の問いに答えていたものの、次第に独り言のように自身を責め始める犬神。その姿に戸惑う瑠爪や翠角に気付いた紅羽は優しく二人の頭を撫でてやり、それから犬神に一歩近づく。近づき、色を失った右目と、唐紅の左目で犬神を見据える。

 「時間がないのなら、なおのこと今は悔いるな。歩きながらでよければ話を聞こう。そのうえで、手伝えることがあればわたしも彩将も喜んで手を貸そう。……先ほど石見で彩将を見かけたと言っていたが、おぬしの向かう先は石見で良いのだろう?」

 「ええ」

 「わたしたちも石見に向かっている……ああ、よもやわたしたちの目的は同じなのかもしれんなぁ」

 悪戯っぽく笑いながらそう言って、紅羽はしばし止めていた歩を進め始めた。

 慌てて紅羽についていこうと速足で歩きだす瑠爪と翠角。そして、少しの間立ち尽くす彩将と犬神。

 「行こう」

 それだけ言って、犬神の隣に立っていた彩将も静かに歩きはじめる。犬神も、数歩遅れて彩将に続く。

 「……黎明と同じ気を放っていらっしゃる。あの方は鳳凰の転生神であられますな」

 「……ああ。だが、あまり神を見る目では見ないでやってくれ」

 「はあ」

 「紅羽は、怪異に困る人々を助けたいという俺の頼みをいつも快く聞き入れ、神通力を用いて助けてくれる。だが、それは紅羽たちの事情を知る俺の頼みだからこそ、その腰をあげてくれているのであってだな……実のところは転生神――人として、瑠爪や翠角と共に穏やかに生きていきたいと思っているのだ。……勝手な頼みかもしれぬが、その辺りはわかってやってくれ」

 切実に、自分のこと以上に真剣に話す彩将に、犬神はただ静かに

 「ええ、それはもう……」

 そう、答えるばかりだった。

 

 

 

 紅羽が話していたように、犬神とは、空海が生前描いた猪よけの絵が魂を宿し実体化したものである。それは、描かれた農村で猪を退けるという役目を果たし空海から「犬神」の名を受け、その後は命を持った一枚の紙として、空海と共に穏やかな時を過ごした。

 やがて、高僧と言えども人である空海は妖である犬神を残して往生し、一人になった犬神は何をするでもなくただ生きていくことを続けた。

 妖術を用い姿を隠して日の本中の寺院という寺院を巡っては、空海のような徳の高い僧などを求め歩いた。求め歩きはするものの、やはり犬神にとっての親であり、主である人物は空海だけである。たとえ徳の高い僧を見つけとて、ただただ「こんな僧もいたものか」と感慨に浸るだけだった。

 誰も、空海に代わる主など現世にいるはずもなかった。

 犬神は、時として人里に現れる猪を追い返すこともあった。しかし空海がいない今となっては犬神はただの妖。感謝もされないどころか、恐れられ、忌み嫌われることすらあった。

 犬神の行動一つ一つに、特に意味ははない。ただ、本当に生きるということ以外にはやることがないのだ。

 己が人と同じく死ぬのかということすらわからない。だからと言って、自ら常世に渡る意味こそ見いだせない。

 ――そもそも、妖の渡るべき常世などあるのだろうか……

 何もわからぬまま、常にそんな疑念を抱きながら犬神は生きていた。

 やがて、犬神という妖の存在自体が忘れられていく。それはまるで、人間たちの信仰心を失い、常世に戻る力も失せて現世にて死んでいった神々のように。だが、人から生まれた犬神は神の名を持つも神ではない。たとえ人々の記憶から消え失せようと死ぬことはなかった。

 犬神は、空(うつ)ろな日々を生きていた。

 そんな中、犬神は久方ぶりに自身の名を耳にした。それは犬神が石見国にいた時のことだった。

 「ああ、そろそろだろうか。呪は成されただろうか。ああ、犬神よ、早くこの地を呪っておくれ。そうして、その魂、早くわしのものとなってくれ……」

 深夜――人っ子一人いないような丑の刻ごろ、一人の男が地面を撫でながらそんなことをつぶやいていた。

 その様子を、姿を隠していた犬神は人知れず見ていたのだ。

 男は黄土色に見える色の狩衣を纏っていたが、もとから黄土色というわけではなく、どうにもただ薄汚れているだけらしい。その衣には夜目でもわかるほどに綻びもしわも多く、なんともみすぼらしい姿であった。

 深夜にこのような男を見れば、人であれば恐れおののくところであろう。だが、犬神は人の恐怖の感情を知らない。驚くこともなく、男がその場を去るまでじっと男が撫でていた地面を見つめていた。

 ――私の他に、犬神の名を持つ者がいるとな……

 犬神はその男に興味を抱いた。いや、男にではない。男が呼びかけた犬神という存在に興味を抱いたのだ。

 「犬神よ、聞こえるか犬神よ」

 犬神は見よう見まねで、男がしていたように地面に手を当て問いかけた。

 「私は高僧、空海様より生み出された犬神という妖。そなた、先ほど犬神と呼ばれていたが、いったい何者だ?」

 答えはない。

 だが、地面にあてた手から何かが犬神に伝わってくる。

 痛み、苦しみ、怨み、憎しみ……それらの感情が、言葉にはならず犬神に流れ込んでくる。

 「――!」

 思わず地面から手を放してしまった犬神だったが、それと同時に、あるものが脳裏に鮮明に浮かんだ。

 犬の頭部。

 恨みがましく目を見開いた犬の頭部が、犬神の手の真下――土の中に埋まっている。そんな様子が犬神の脳裏に浮かんだ。

 ――犬の首……ああ、まさか……

 犬神は、空海が生きていた頃に聞いた話を思い出す。

 

 今より、数十年も昔のことであった。

 犬神の生みの親、空海は布に置かれた犬の首に手を合わせていて、犬神はそんな空海の懐に一枚の和紙として収まっていた。

 犬の首の鼻先には、墨で描かれた膳の絵が一枚置いてある。首はまるで生きているかのように目を開いているが、その目は疲れ切った、どこか悲しそうな色をうかべていた。

 「しかし、このような犬の首に人を呪い殺す力があるとは……恐ろしい話ですな」

  一人の若い僧が、しばらく犬の首を眺めた後に空海に言う。

 「恐ろしいのはこの犬ではなく、この犬を蠱毒にした人間でしょう。人でありながら人の命を奪おうとする。そのためにこのように命を犠牲にする。なんと愚かしい……」

 「その……蠱毒、と言いますと、器の中で虫に共食いをさせて作る神霊のことではないのですか」

 「ええ、それも蠱毒です。ですが、そもそも蠱毒とは生き物を使った呪術そのものを指すのです。犬を使った蠱毒とは、虫のそれとはまた違った惨さがありまして――」

 空海は少しだけ表情を曇らせた。

 「犬の頭だけが出るように土に埋め、動けないようにします。その状態で、犬が飢餓で死ぬ直前まで放っておくのです」

 「なんと……」

 「その間ずっと、犬は目の前――食べようとしても届かぬ場所に食べ物を置かれます。犬の生への執着を高め、そして犬が死ぬ直前にその首を落とす。そうすることでその犬の体は死に、魂を封じられた首は蠱毒と化します。あとは呪をかけたい地にその首を埋めておくだけで、蠱毒による呪が成されてしまうのです」

 空海は目を閉じた。

 「生を奪われ、死ぬことも許されず……魂は今も、この首から抜け出すことも叶わない。なんと不憫なことでしょう。このような魂があって良いはずはないというに……」

 「空海様……この犬は、この魂は救われるのですか?」

 「そればかりはわかりません。……わかりませんが、救われると信じて弔うほかないでしょうなぁ……」

 痛いほどに悲しみに満ちた空海の言葉を、その懐で犬神は聞いていた――

 

 ――そうか……あれもまた、犬神だったのか……

 犬神は、決して空海との思い出を懐かしんでいたわけではない。

 戸惑っているのだ。

 長らく何にも興味を示すことのなかった犬神が久方ぶりに興味を示した、同じ名を持つ不可思議な存在。それが、尊敬する生みの親が言う「あってはならない魂」だった。

 そのあってはならない魂を、放っておく術も、救う術も持ち合わせていなかった犬神は、ただただ戸惑い、その地を動く気にもなれなかった。ゆえに姿を消し、蠱毒の犬神を救ってくれる者をただただ待つことを決めたのだ。

 怪異を断ち切る神器を携えた都の武官――保南彩将が石見国を訪れたのは、奇しくも犬神が石見国に足を止めてまもなくのことだった。

 

 石見国へ向かう道中、犬神が紅羽たちに伝えたのは、このような話だった。

 

 

 

 「では……俺の沓についていたという呪の気というのは――」

 「蠱毒が埋められた地を歩いたためについたものでしょうな」

 呪の原因に納得したような彩将に、犬神がそう答えた。

 「なあ、犬神。先の話に出た、汚れた狩衣の男を見たのはいつ頃のことか覚えているか?」

 そう訊くのは紅羽だ。

 「十日ほど前でございます。その三日後に彩将様をお見かけし、その二日後、彩将様が石見を発つ時にその懐に潜み、ついて参りました」

 「そうか。彩将が石見を発ったのが五日前……ああ、それほど日が経っていてあの強さとは……」

 紅羽は悩ましげな顔をして、何か思案し始める。

 「いかん、いかんな……道を歩いていては間に合わぬ」

 両の袖に手を入れながらそんなことを独り言ち、立ち止まって一行の顔を見回す紅羽。

 この紅羽、深く悩む時、深く考える時、とにかくその思考が深い時には、無意識にも両の袖に手を入れてしまうのだ。

 神ではなく人らしい。そう考えれば、紅羽が癖を見せることは良いことかもしれないが、今、この状況で紅羽がこの癖を見せること――両の袖に手を入れ、ひどく悩んでいる様子をうかがわせることは、決して良い状況とは言えなかった。

 「急な話で悪いのだが、今から道を変えたい」

 「道を変える? 紅羽、それってどういうことだ?」

 瑠爪でなくとも、真意がわかりづらい物言いである。逆を言えば、わかりづらくとも早く自分の意図を伝えたい、つまりはそれほど紅羽は焦っているのだ。

 「人の道ではだめだ、通りやすい道はそれほど時間を使う。獣道を行こう」

 獣道――その呼び名の通り、獣が通る道のことである。

 獣たちは本能的に通りやすい道を選び、繰り返し同じ場所を通るために、自然とそこに道ができるのだ。人の通りやすさと獣の通りやすさはわけが違ってくるために、人が通るには険しい道が多いのだが、その道を使う獣たちが往復する場所と目的地が一致しているのならば、単純に距離だけを考えれば獣道を通る方がよっぽど早い。

 「しかし紅羽様、闇雲に獣道を進めばどこに着くかなどわかったものではありませぬ。それこそかえって遠回りでは――」

 「大丈夫だ、歩きやすく石見まで続いている道なら知っている」

 不安そうな犬神の言葉を遮った紅羽の言葉は、確信に満ちていた。

 実を言うとこの紅羽という男、人として生まれ変わってから近江国の村に落ち着くまで、探しものをしながら日の本中を巡り歩いていた過去がある。その経験に加え、人ならざるもの――虫や獣たちと意思疎通を図ることもできる。そんな紅羽だ、獣道の行く先に詳しくてもなんら不思議などない。

 「――ならば、獣道を急ぎましょう。私はどのような道でも構いませぬゆえ、ただその懐に収めていただければ」

 そう言って、犬神は一瞬のうちにその姿を一枚の和紙に変える。同時に、紅羽の右目はいつもの唐紅色に戻った。

 紅羽は何も言わず、そっと和紙を拾って懐にしまい、

 「おいで、瑠爪」

 と、瑠爪を呼びながらしゃがみ込んで彼に背を向ける。

 「いいのか? 重くない?」

 「ああ、大丈夫だよ」

 紅羽が瑠爪を背負うために彼に背を向けてしゃがみこむのは初めてのことではない。瑠爪は少しだけ遠慮しつつも、紅羽の行動の意味を理解してすぐにその背に飛び乗った。

 沓を履いている彩将、麒麟の脚を持つ翠角にとって、整備されていない獣道を歩くことはどうってことはない。だが、子供であり、足には柔らかな人の皮膚しか持たない瑠爪に獣道を歩かせるのは酷なのだ。

 「紅羽、疲れたら言ってちょうだいね。あたしが代わって瑠爪を背負うから」

 彩将は刀を携えている。何かあった時にはすぐに刀を抜けるよう、手を開けておく必要があるのだ。それをわかって、翠角は紅羽にそう申し出る。

 「ああ、ありがとう。その時は頼むよ、翠角」

 瑠爪を背負い、紅羽は道を逸れて獣道へと歩を進める。彩将も翠角も、何も言わずに紅羽に続いた。

 「犬神よ、急ぎはする。最善も尽くす。だが、最悪の事態も覚悟しておいてくれ」

 懐の犬神に語りかける紅羽の言葉は、ひどく重みをまとっていた。

 

 

 

 「犬神……ようやったではないか。おまえの力、しかと見届けたぞ。おまえを埋めてからというもの、この石見国では病で七人息絶えた。生きている者が憎いか? 憎いだろうな。ならばわしと共に行こう。共に多くの人間を病に侵すのだ。おまえはそのために首となり蠱毒となり、わしの手の中にあるのだ。そうさなぁ……憎い憎い都に行くのはどうだろうよ、なあ?」

 真夜中。紅羽たちが伯耆国で妖、犬神と出会って次に訪れた夜が更けた頃。

 薄汚れた狩衣を着た件(くだん)の男が、地面を撫でながらそんなことを言っている。

 「ああ、土の中は暗かろう、寒かろう。今出してやるからなぁ――」

 男が地面に、持ってきていた木片を立てた。

 「……なんだ?」

 柔らかい。土が異様に柔らかいのだ。男がそのことを不審に思ったその時だった。

 「こうなってしまっては、何処にいようと寒かろうよ」

 厚い雲が月を隠す、まさに闇夜。

 その声は音でありながら、さながら月光のように闇に染み渡る。

 「誰だ!」

 思わず、男は声のした方向――自身の後方を振り向く。そこには、獣道を通り一日もかけずに石見国までたどり着いた紅羽たちがいた。

 紅羽は土にまみれた犬の首を優しく抱え、彩将は折りたたまれた一枚の和紙をその手に持っている。

 紅羽は考えを持って、まやかしを使わず男と接触を図っている。ゆえに、紅羽たちの姿はそのまま転生神の姿として男の目に映っているのだ。

 身なりの良い武士らしき男と人ならざる姿の子供を二人従えた、唐紅の瞳と長髪を持った男が、土の中に埋めたはずの探し物を持ってそこに佇んでいる。その光景に、狩衣の男は目を疑った。

 「探し物はこれかね?」

 まるでわざと挑発するような、そんな穏やかな口調で紅羽が言う。

 「貴様、犬神を返せ!!」

 男は紅羽が何者かということよりも、犬神――蠱毒となった犬の首を取り返すことに躍起になっているようだった。その形相はさながら鬼のようだ。

 「ならんな」

 静かにも、威厳に満ちた声で紅羽は答える。

 「このような蠱毒を作り、おぬし何をしようとしている?」

 「何でも良い! 何でも良いのだそのようなことは!! その犬神はわしが作り上げた、わしの物なのだ! 返せ!!」

 男が紅羽に近づこうとする。

 その瞬間、彩将の手に握られた和紙が光を放ち、瞬く間に犬神の姿を形成した。

 「な、なんだその妖は……?!」

 犬神を目にしてやっと冷静になったのか、男は改めて、目の前にいるのが彩将を除いて皆、人ならざる者たちだということを理解する。

 「なんなのだ……! 貴様ら、妖がこぞってわしの犬神を奪いに来たとでも言うのか?!」

 「妖はこの犬神だけでございます。この方たちは妖などではありませぬ」

 犬神はそれだけしか言わなかった。道中彩将に言われた言葉を肝に銘じ、紅羽たちのことを必要以上に話すことをしてはいけないと悟っていた。

 「犬神だと? ……ああ、おまえ、弘法大師の生み出した猪除けの式神だというのか」

 「空海和尚は式神など従えぬよ。その生い立ち、性質がおぬしの使う式神と似てしまった。それだけだ」

 そう言うのは紅羽である。

 「わしが式神を使うとな……?」

 試すような物言いの男を、紅羽は見据えた。またもや、誰も気付きはしないものの、妖、犬神の出現より紅羽の右目は色を失っている。

 「おぬし、陰陽師であろう? ただの人が犬を土に埋め、首を落したところで蠱毒など作れぬからなぁ」

 陰陽師――様々な占いを得意とし、また、式神を使役し、呪術などの常世と通ずる特殊な術を多く扱う。つまりは現世にいながら常世に通ずる術を行使する者たちのことである。正式には朝廷に仕える役職の一つであり、大内裏に設けられた陰陽寮で仕事をする者を陰陽師と呼ぶのだが、地方に居を置き民間で占いや呪術をおこなう者もまた、陰陽師と呼ばれている。

 では、なぜ紅羽は男を陰陽師だと判断したのか?

 紅羽の言う通り、蠱毒は誰にでもできそうな方法で作れるものに聞こえるが、呪術に通じぬ人間が実際に伝えられる方法を用いたところで、ただ徒(いたず)らに生き物が死ぬだけである。この時代、呪の力を宿した蠱毒を作り使役できる者と言えば、大陸から渡ってきた呪術師の血を引く者たちか、もしくは、日の本にて占星術をはじめ、多くの術を扱う陰陽師くらいであった。

 また、男の身なり――薄汚れているとはいえ、白い狩衣は陰陽師の礼服である。蠱毒を作り上げたことや妖の犬神を知っていること、そして身に付けた薄汚れた白い狩衣から、紅羽は男が陰陽師だと判断したのだ。

 「……ああ、そうだ。わしは朝廷より石見国に左遷された陰陽師さ」

 男は大分、冷静になっているようだった。その口調は先ほどよりも一段と落ち着き払っている。

 「と、いうと陰陽寮か。しかし左遷とは……何があったというのだ?」

 朝廷に仕える身である彩将は、思わずそんなことを男に問う。

 「何があったか、か……ああ、虫を用いて小さな蠱毒を作ってなぁ、人を一人呪い殺した。それが呪いだとは誰にも悟られなんだが、わしが飲ませた薬が良くなかったと、薬が効かぬと知ってて飲ませたと、そういうことになってな。それでここ、石見国まで流されたのだ」

 「なんでだ? なんで人を殺したんだ? おまえが殺したのは悪いやつだったのか?」

 自らの所業を淡々と語る男に、瑠爪が恐る恐ると言った様子でそう訊いた。

 「悪くなどないだろうよ、殺したのはわしの妻だ」

 「妻って……そんな……」

 翠角も男に怯えている。平然と自身の妻を呪い殺したと語る男に、瑠爪も翠角も得体の知れない悪寒に襲われた。

 彩将や犬神も、恐怖ではないが軽蔑の意を込め顔をしかめているが、ただ一人――紅羽だけは表情を変えなかった。

 男は表情を変えない紅羽にいぶかしげな視線を送った後、ふいにつまらなさそうに紅羽から目をそらす。その瞬間、紅羽は人知れず、憐れみを含んだ笑みをその口元に浮かべた。

 「なぜだかなぁ……生き物が少しずつ、少しずつ弱りゆく様が幼少の頃よりたまらなく好きでなぁ。だが、それをどうにも人道より外れた心持ちだと幼心に感じ、内にとどめて生きていったのがいけなかった。陰陽師として仕事をこなしていくうちに、ふと、怨まれずして呪いにより死ぬ往く人間の姿がどうしても見たくなったのだ」

 「貴方様は……それだけの理由で、奥方様を呪い殺したというのですか……?」

 信じられない。犬神の言葉に込められた感情はただそれだけだった。

 「正直、誰でも良いと言えば良かったのだがな。しかし弱りゆく姿を見守るには共に暮らす正妻を呪うのが一番であろう。そう思って妻を呪った。ああ、あれは本当に可笑しかったよ。一日一日、まるで虫が足を羽をもがれるように、少しずつ、少しずつ弱っていくのだ。思えばあれが一番美しいと感じたのは、蠱毒で呪い始めてからだった」

 誰の目にも、そう語る男の姿は狂っていただろう。話している最中に当時のことを思い出していたのか、だんだんとその顔に歓喜の色が浮かんでくるのだ。

 そんな男を凝視しながら、彩将がはっと何かを思い出した。

 「まさかおまえ、効かぬ薬で病の妻を見殺し流されたと噂されていた柏木藤忠(かしわぎふじただ)殿か……?」

 「……わしを知っているか。ああ、目が慣れてきた、そなた良い身なりだものなぁ、さては官人だろう。ならばわしの噂も聞こえていてもおかしくはないよなぁ」

 彩将の身なりは長旅で汚れたままだとは言え、元々の質が良い衣服であるのも相まって、夜の闇に紛れてしまえばその汚れなど、男――藤忠の目には映っていなかった。

 「藤忠殿が何処に流されたかなど知らなんだが、まさか石見にて蠱毒を作っていたとは……先ほど、この犬の首と共に都に行こうなどと言っていたが、まさか都の人間を多く呪い殺すつもりではあるまいな――」

 「そのつもりだ」

 彩将の言葉を遮って、不気味な笑みを浮かべながら藤忠はそう言う。

 「人一人の死に様を見たところで、幼き頃から抑えつけていた欲求は収まらぬよ。もっと多くの死に様を見ずして、生きた心地などせぬわ」

 「でも……都の人間を呪い殺すと言ったって、あなたは石見に流されたんでしょう? たとえ都で多くの人が死んでいくとしても、ここに居ちゃあそれを見ることはできないじゃない」

 翠角の言うことはもっともである。左遷された人間が都をうろついているとなって、騒ぎにならないはずがない。

 「そんなこと、どうにでもなるのだよ」

 藤忠の言葉は、不気味なほどに自信に満ちていた。だが、

 「やめておけ」

 そう言い放つのは紅羽だ。

 「なに?」

 「おそらくはお偉方を呪い、その呪を自ら解いて主上の信用を得、再び陰陽寮に置いてもらおうと。それから少しずつ、少しずつ人々を呪い殺し、その死に様を堪能しようと。そんなことを考えているのだろうが……この犬神、虫で作った蠱毒を扱うのとはわけが違うよ」

 言いながら、紅羽は犬の首を愛おしそうに撫でてやる。

 「これは並みの人間には扱えぬ。ましてや、おまえのような堕落した陰陽師などにはなぁ」

 気付けば、抱える犬の首が持つ目と全く同じ漆黒の色に染まった紅羽の右目。その目で、紅羽は鋭く藤忠を睨んだ。

 「な、なんだと……?」

 藤忠はたじろいだ。

 「ばかを言うな! それはわしがここ石見で仔犬の頃より育て上げ、土に埋め、首を落とし作り上げたわしの蠱毒だ! わしに扱えぬわけがない――」

 「驕るなよ」

 紅羽の言葉であって、紅羽の言葉ではない。そのひどく厳かな一言を放った紅羽の口元は、微塵も動いていなかった。

 さながらその様は、唐紅の神鳥を探して暁の現世を飛び回っていた導きの神――八咫烏の語りかけのようだった。

 「この首、この魂は今宵から我のものだ。貴様などには渡さぬよ――」

 藤忠や犬神だけではない。彩将も、瑠爪も翠角も。その場にいた全ての者が目を疑った先に立っているのは――人の姿をした鳳凰だった。

 

 

 

 「渡さぬだと……? 貴様、わしの犬神をどうするつもりだ?!」

 藤忠はひどく取り乱していた。無理もない。陰陽師と言え、その正体に気付いていないとは言え、穏やかならぬ心持ちの神を目の前にして取り乱さずにいられる者など、そうはいない。

 「生きてもおらず、死んでもいない――常世と現世を繋ぐ魂など、この現世にあってはならぬのだよ」

 なおも動かない紅羽の口。しかし、その場にいる全ての者の脳裏にはっきりと届く言葉。

 それはまるで答えになっていなかったが、藤忠に反論の様子はなかった。

 「犬神が、この世にあってはならぬと言いたいのか?」

 紅羽はうなずいた。

 「この犬神だけでない。徒らに常世と現世を繋ぐ存在を作りだしたおまえもまた、現世にあってはならぬ存在ぞ」

 紅羽の漆黒の右目が、今にも藤忠を吸い込みそうに深く深くさらに闇に染まっていく。

 「まあ、放っておいてもこの犬神の毒を受けて死ぬであろうがなぁ、人として死ねるかはわかりかねる……ならばせめてもの情けだ、今この場で、人として常世に送り出してやろうじゃあないか」

 「わしを、殺すというか……?」

 必死に震えを抑え込んだ声だった。

 藤忠は怯えている。紅羽の言葉に。漆黒の右目に。人ならざる、しかし妖でもない紅羽という存在に。

 紅羽は、藤忠の抱く恐れの念を見透かしていた。

 「なんだ、死が怖いか?」

 「誰でも……死は、恐ろしいだろう……」

 その声は確実に震えていた。着々と見えてくる不透明な紅羽の殺意に、藤忠は完全に怯えきっていた。

 「なんだよ、それ! 奥方を殺して、これからもっとたくさんの人を殺そうとしておいて……自分は死にたくないなんて、そんなのはあんまりだ!」

 「人の命だけではありませぬ。奥方様を呪った際に蠱毒にされた虫たちも、苦しめられ首となったこの犬も、貴方様は徒らにその命を奪われた。その所業を持って自らは死を恐れるとは……」

 瑠爪も犬神も、黙ってはいられなかった。翠角も、興奮する瑠爪の肩に手を置き落ち着かせながら何か言いたげではあるが、ただ軽蔑の眼差しを藤忠に向けるだけに留めている。

 「――黙れ! 化妖(けよう)のもの共が……人の道に口を出しおって……」

 自身の言い分、感情、行動。そのすべてが人の道に反していることを自覚しているのだろう。だからこそ、藤忠は犬神たちの言葉を閉ざそうと必死になる。

 「させぬ……させぬぞ……! この命も、その犬神も! 誰にも渡しはせぬ……犬神を従え、この欲求を満たす邪魔はさせぬ……!」

 軽蔑、嫌悪、憐れみ――様々な感情を纏った眼差しを一身に浴び、藤忠は必死に恐怖と惨めの念を振り払うかのように言葉に勢いを乗せ、そう言い終わるや否や、懐から小さな木箱を取り出した。

 箱には蓋がしてあり、何が入っているのかわからない。

 「何だそれは……?」

 琳(りん)……

 唐紅の羽が鳴る。

 黎明の羽飾りが揺れている。

 不意を突いた藤忠の行動に、彩将は咄嗟に腰の黎明に手をかけたのだ。しかし、手をかけるだけで、この時、まだ抜きはしなかった。

 正直なところ、神通力を使うことへの躊躇を捨てた紅羽――人の姿をした鳳凰が何をするかなど、それは彩将でさえ見当がつかない。そんな紅羽の前で、軽率に鳳凰の神通力を帯びた黎明を振るうわけにはいかないのだ。

 「犬神を返さぬというのなら、この中に入れた蠱毒で貴様らも呪い殺してくれる……虫で作った小さな蠱毒だ、犬神と違い今すぐに貴様らを殺すほどの力はないがな。時間をかけて相手を呪い殺すことはできるのだよ」

 一同を見回して、焦りと恐怖を誤魔化しながらそんなことをわめく藤忠。

 全員に意味を成さなくてもいい。ただ、誰か一人でも恐れをなせばわずかな自信は戻るだろう。わずかでも自信が戻れば、その場を凌ぐ一時の機会に繋がるだろう。

 そんな藤忠の思惑通り、蠱毒の脅しは転生神の子供たちにはひどく意味を成していた。

 翠角の脚はわずかにも死の恐怖に震え、瑠爪は泣きそうな顔をして、大きな爪の生えた両手で力に任せて翠角の着物を握っている。

 「……足をもがれた虫の如く、羽をもがれた虫の如く、無様に死んでいきたいか?」

 藤忠が言葉を発する度に、翠角も瑠爪も怯えの色を増していく。

 藤忠はそんな二人に追い打ちをかけるように、二人の怯えを自信に変えるように、おもむろに木箱の蓋に手をかけた。

 それを見て、紅羽は彩将に目配せをする。

 彩将は小さく驚くも、すぐさま了承の意を込めた眼差しで紅羽を見、黎明をしっかりと握りしめて藤忠を見据えた。

 紅羽と彩将の視線のやりとりに、藤忠は気付いていなかった。

 「……犬神を返す気はないようだな」

 今まさに箱が開かれようとしている――

 「お待ちください!!」

 妖、犬神が叫んだ。

 蓋を開けようとする藤忠の手が止まる。

 「なんだ」

 「どうか……どうかご勘弁を……! その箱を開けることも、この首を持つことも、どうかご勘弁を……!」

 犬神には人の道理がわからない。だからこそ、このような筋の通らないようなものの頼み方しかできなかった。

 それでも、無駄に、無意味に命が奪われることを見過ごしたくはなかったのだ。

 妖でありながら、生みの親の人格を尊重し、人、動物、妖――現世に生きとし生ける命を重んじる。一貫したその想いと不器用なその言動に、彩将も転生神たちも、胸の内に何も思わずにはいられない。

 「……まるで話にならん」

 藤忠の声は、どこか苛立っているように聞こえる。

 「藤忠様、どうかご勘弁を……どうか……」

 ただただ、蠱毒――犬神を、その魂を諦めてほしい。ただただ、この場の誰もを傷つけてほしくない。その想いが、先ほどと同じ一言に強く込められる。

 そんな犬神の頼みに、藤忠は苛立ちを募らせ、

 「もうよい……もうよいわ!」

 と、強く言い放ち、一気に木箱の蓋を開け放った。

 箱の中から、大人の拳ほどもある大きな羽虫――虫から作られた蠱毒が七匹ほど出でたかと思うと、静かにもまっすぐに紅羽たちの方へ向かって飛んでくる。

 「藤忠様――」

 「動くなよ」

 「――彩将様……?」

 策もなく、思わず藤忠を止めようと一歩踏み出した犬神を、彩将が空いている左腕を伸ばして制した。

 彩将の短かな指示をしっかりと受けた犬神が動きを止めると、彩将は一気に黎明を抜き放ち、無駄のない動きで羽虫たち斬り落とす。その動き、たった一振りであった。だが、許された時間の中で振るわれた一振りでは全てを斬りきれない。彩将が切り逃した二匹の蠱毒が紅羽に向かって飛んでいく。

 ……いや、斬り逃したのではない。

 彩将は自身の一振り――与えられたわずかな時間で切り落とせる標的の限界を素早く見極め、そのこぼれ弾を紅羽に向かう二匹に定めたのだ。

 この場で、黎明の力を持たずともこの状況を自力で打破できる人物……それは紅羽しかいないと、そう思っての判断だった。

 左腕に犬の首を抱いた紅羽は、彩将の判断を褒め称えるかのようにその場にそぐわない笑みを浮かべたかと思うと、すっ……と右腕を向かってくる二匹の蠱毒に伸ばした。同時に紅羽の右腕が淡い唐紅の光を纏い、二匹の蠱毒は跡形もなく――まるで最初から何もいなかったかのように消え失せていた。

 ――犬神が動きを止めてから、わずか数秒の出来事だった。

 「な――」

 藤忠は目の前で起きた出来事に、言葉を探す余裕すらなかった。

 彩将の刀の腕――

 紅羽の神通力――

 言葉を用いない二人の連携――

 彩将に斬られ、小さな変哲のない蠅や蚊と化して地に落ちている虫たち――

 その全てに、藤忠は文字通り〝言葉を失って〟いた。

 「これが黎明のお力ですか……」

 自己の判断ですでに動かぬことをやめていた犬神が、斬り落とされた虫の一つを手に取ってまじまじと見つめている。

 「黎明、とな……?」

 藤忠は、知らない言葉を覚えたての子供のように、その神器の名を口にする。

 「今は死せる再生と破壊の天神、鳳凰神の神通力を賜りし神器――」

 琳……

 鞘に納めず切っ先を横にして、峰を藤忠に向けられた黎明の羽飾りが、鳴った。

 「この現世と、かの常世との繋がりを断ち切ることができる脇差。それがこの黎明だ」

 琳……

 黎明の羽飾りは、彩将に同調するように先ほどより強く凛々しく鳴り響く。

 「その刃を受けただけで呪を失うのだ、この手で触れれば、おまえはどうなってしまうだろうなぁ」

 光を纏う右腕を、やりどころもなく徒らに放ったままの紅羽が言う。

 その唐紅と漆黒の瞳に見つめられ、藤忠は気付いた。

 「貴様……まさか鳳凰の転生神か?!」

 紅羽は何も言わず、ただ真っ直ぐに二色の瞳で見つめる。

 「そういうことだ」

 大したことではなさそうに、さらりとそう言い放つ紅羽。

 「なあ、柏木藤忠よ。器を壊せば魂は解放され、常世へ向かう。それが死というものだ。だがなぁ……器の中身――魂を破壊(こわ)したら、どうなるのだろうなぁ?」

 「――!」

 藤忠は、紅羽の放つ神々しくも妖しい笑みに、再び言葉を失う。

 「どうなるのだろうなぁ……」

 一歩、紅羽が藤忠の方へと歩を進める。

 繰り返されたその言葉は、決して強い口調ではない。だが、弱った意思を砕くには十分だった。

 紅羽はさらに歩を進める。

 「教えてくれ、藤忠よ。どうなるのだろうなぁ――」

 「よ、よせ……! やめてくれ! やめてくれぇ!!」

 それが、紅羽たちが聞いた藤忠の最後の言葉だった。

 神の怒りを買ったことを改めて実感した瞬間、藤忠が取れる行動と言えば、その場から立ち去ること――紅羽から逃げること。ただそれだけだった。

 死に物狂いで逃げおおせる藤忠を、誰も追おうとはしなかった。

 いずれは蠱毒犬神を生み出したことによる毒で近く果てる命、追う意味もなかった。

 そこには、一人の武士と一体の妖、そして三人の転生神がいるのみだった。

 

 

 

 九日の時間が経った。

 近江国、紅羽の庵には神々しき神鳥――鳳凰が降り立っていた。

 紅羽たちは、石見国で蠱毒犬神の首を陰陽師柏木藤忠から奪還した後、妖と蠱毒の二体の犬神を連れ、九日の時間をかけて近江国の村に戻った。

 村に帰り着いた日の夜――闇夜に月の光が溶け込む暁の頃、紅羽は妖の犬神のある頼みを聞き、鳳凰となって犬神の前に降り立ったのだ。

 

 ――私を……この犬神をも破壊してくださらぬか?

 

 犬神の、この現世での最期の頼みだった。

 

 

 

 紅羽はその腕に、呪除けとして鳳凰の羽を貼っていつも羽織っている毛衣で包んだ蠱毒――犬神の首を抱え、その懐に、和紙と化した妖――犬神を入れ、彩将、瑠爪、翠角の三人と共に宿をとりながら石見国から近江国に向かっていた。

 一晩のあいだ、右だけを漆黒に染めていた紅羽の瞳は、まやかしを通さなければ今は両方とも唐紅色に戻っていた。

 その右目に干渉していた漆黒の目を見開いた蠱毒はというと、羽を貼る時に静かにその瞼を落とされている。

 「なあ紅羽。その首、村に持ち帰ってどうするんだ?」

 ふいに歩を止め、率直な質問を紅羽にぶつける瑠爪。

 「どうする、とな……」

 紅羽はいつも、優しく微笑んでいる。瑠爪の不意を突いたその質問にも、紅羽は笑顔を崩さなかった。

 「壊すよ。近江に戻って、器を壊し、できることなら魂を常世へ送る」

 穏やかな口調だった。だが、その穏やかさが、彩将に紅羽の心境を悟らせる。

 「紅羽、おまえ何か気がかりなことでもあるのか?」

 心配そうにそう言ってくる彩将に、紅羽は相変わらずの笑顔のまま――その笑顔に少しだけ困ったような色を見せ、彩将を見た。

 「ああ、おぬしは本当に食えぬ男だなぁ」

 「人の心配をしてやって、そのように言われるのは心外だぞ」

 そう言いつつも、彩将はほっとしていた。

 図星だった。

 紅羽は何も心配事のないような顔をしておきながら、一つの気がかりを抱えていた。彩将は紅羽の口調から、探るわけでもなくその気がかりを感じ取ったのだ。

 「気がかり? 気がかりってどういうこと?」

 「心配なこと、気持ちのどこかに引っかかること。だから、気に引っかかるから〝気がかり〟って言うの」

 瑠爪は十二にしたらものをよく知らない。だが、反対に翠角は十四にしてよくものを知っている。このように瑠爪が言葉を知りたがり、紅羽や翠角やその意味を教えてあげることはよくあることだった。

 「ねえ、紅羽。何が気がかりだというの?」

 瑠爪に気がかりの意味を教え、今度は自身に湧いた疑問を紅羽にぶつける翠角。

 「あの陰陽師――柏木藤忠といったか。あやつが言うには、この犬はすでに蠱毒として七人もの人を殺してしまったようじゃないか。七つもの命を食らった大きな蠱毒――この人の姿で使える神通力では手に負えぬ蠱毒を、器だけを壊して魂を常世に送れるか……それがやってみないことにはわからないんだ」

 近江まで首を持ちかえる理由、それは蠱毒の持つ呪の大きさにあった。

 紅羽は、人の姿では使える神通力に制限がでる。ゆえに今回の事態をすべて解決するためには鳳凰に戻る必要があるのだが、紅羽はそのような時は面倒事を避ける意味を持って、決まって近江の村で、暁の頃にその姿をとることにしていた。

 抱えた気がかりを語る紅羽は、まるで蠱毒の苦しみを自身に受けているかのように、辛そうな顔をしていた。

 「わからないって? どうして?」

 瑠爪が訊く。

 「器と魂が、同化しているやもしれん……そうなれば、魂ごと壊してしまうほかなくなる……」

 魂の破壊。すなわち、転生の道を断ち、魂を無に帰すことを意味していた。

 破壊と再生の神通力を司る鳳凰の転生神、紅羽。

 その紅羽と、共に長い時間を過ごしてきた彩将、瑠爪、翠角。

 現世と常世との知識に精通した主に生み出された妖、犬神。

 その場にいる誰もが、魂の破壊の意味を理解していた。

 「埋められて、首を切られて……魂まで壊さなければいけないなんて、そんなの可哀そうよ」

 ふいに翠角が言った。こみ上げる気持ちを抑えるかのように、軽く胸を抑えている。

 「魂を壊すことは、正直あまり気持ちの良いことではない。わたしとて、あまりやりたくはないよ」

 「じゃあさ、紅羽。このままにしておいてあげようよ」

 「……それはだめだ」

 「なんでだよ?」

 少しの間、紅羽は黙り込んだ。

 「紅羽……?」

 答えがないことに、瑠爪は無知ゆえに変なことを言ってしまったかと心配になり、か細い声で紅羽の名を呼ぶ。

 「――すまぬな、瑠爪。上手く、言葉を見つけられぬ」

 紅羽は困っていた。だが、それは決して深刻なものではなく、ただただ説明に使う言葉が見つからない。それだけだった。

 「口下手め、言葉くらい簡単に見つけてみろ」

 珍しく、彩将が紅羽をからかう。

 「なら、おぬしがわたしの言いたいことを瑠爪に伝えてみるか?」

 「無茶を言うな。常世だ、魂だの話など俺にわかるはずがない」

 「なんだ、わかっているから口を出してきたのかと思ったがなぁ……ああ、それでもありがとうなぁ。おぬしと話してるうちに、なんとか説明の言葉も思い浮かんできたよ」

 「そ、そうか……? それならばよいが……」

 彩将が紅羽を最後までからかうなど、やはり無理なことだった。

 紅羽をからかったはずなのに逆に丸め込まれた彩将を見て、瑠爪も翠角も、小さく笑いをこらえていた。

 「いいかい、瑠爪。この犬は、すでに首を切られて死んだはずなんだ。その死んだはずの魂を、柏木藤忠が蠱術を用いてこの首に封じ込め、常世と通じさせることで死した魂を現世に留めた。それはわかるね?」

 「うん」

 「常世と通じながら現世に留まるためには、目に見えぬ糧が必要でな。神であれば人間たちの信仰心であるそれが、蠱毒であれば生き物の魄(はく)だ。それらを得られなくなった時、常世と通じた魂は消滅する」

 魄――魂と対を成す、生を司る気のことである。そもそも生き物の魂は魂魄(こんぱく)と呼ばれる大きな二つの気でできており、魂は精神を支え、魄は肉体を支える。魂魄から考える死とはすなわち、魄が地に還り肉体が消滅することを意味するのだ。

 その魄を取り込まないことには、蠱毒は現世に留まることができない。つまりは、蠱毒が現世に留まれば、それほど命が死ぬのである。

 翠角が、そこまで聞いて紅羽の話を理解し始める。

 「つまり、その犬をそのままにしておくと、それだけ人が死ぬってことね」

 「そういうことだ」

 そう言って、紅羽は腕に抱いた首を見る。

 「だが、それ以前に不憫じゃあないか。ただ、生き物の魄を食らうためだけに現世に存在する。鳴くことも走ることも尾を振ることもできずに、魄を食うか、消滅するかのどちらかしかできぬ。それでは、あまりにも不憫じゃあないか」

 慈悲――慈しみ、同時に悲しむ心。

 抱えた首に向けて紅羽が零す言葉には、まさに慈悲の想いが込められていた。紅羽の言葉が纏う慈悲の感情は空気となってその場を満たし、三人にも、懐の犬神にも伝わった。

 「ああ、不憫だ……犬であれ虫であれ、蠱毒とは本当に不憫だ……」

 誰も、何も言ってやれなかった。沈黙だけがその場を支配し続けた。

 どうにも気まずい空気の中、彩将が無理に少しの笑顔を作って紅羽を見た。

 「なあ紅羽。確かに不憫だ。惨い仕打ちを受けたうえに死してなお生かされるなど、不憫でしかない。だがな、この広い日の本にておまえと縁があったこと――結果はわからずとも、救おうとしてくれる者と出会えたこと、その意味を無駄にしてはいけぬと俺は思う。違うか?」

 そう言って、彩将は向かう先を見た。

 「ともかく、休みつつでもいい。今は急いで近江に戻ろう」

 「……そうさな、一刻も早く器から出してやろう。たとえ器ごと消えることになろうと、永遠に蠱毒として生き続けるよりは良いはずだ」

 紅羽は、誰が見ても先ほどよりずっと顔色が良くなっていた。

 いつもこうである。

 疲れている友の荷物を半分背負うように、彩将の言葉は紅羽の心労を受け負い、その心を軽くする。

 紅羽の心が軽くなるだけで瑠爪も翠角も、そして彩将も心底ほっとするから、やはり紅羽という男は不思議である。

 場が和み、さあ歩きだそうと皆が思ったその時だった。

 「紅羽様……」

 紅羽の懐から声がした。妖の犬神だ。

 「どうした?」

 出そうとしていた歩を留め、紅羽は取り戻した穏やかな口調でそう訊く。

 「お聞きしたいことがありまして」

 「ほう」

 「なぜ、私を連れ歩いてくださるのですか?」

 「なに……おぬし、意味もなくただ倭国を回っていたと言っていたからな。ならば近江の村まで付き合ってもらっても問題ないと思っただけだ」

 そう言って、紅羽は抱えた犬の首を撫でる。

 「この蠱毒をこうして近江に持ち帰ることができるのも、おぬしがこの犬を気にかけ、彩将について来てくれたおかげだ。だから最後まで見届けたいものかと勝手に思い、おぬしも近江まで連れて行こうと思っていたのだが……嫌だというのなら無理強いはしない。ここまで連れ歩いておいて今更だが、犬神、おぬしこれからどうしたい?」

 少しだけ、犬神は黙り込んだ。一枚の和紙となって紅羽の懐に収まっている以上、その表情や心情を読み取ることも難しい。

 「そのことで、お頼み申し上げたいことがあるのです」

 「頼み、とな」

 それから、犬神は少しだけ間を置いた。

 「……近江国にてその犬神の、蠱毒の犬神の器を壊すその時でよろしゅうございます。その時に、どうか私を――この犬神をも破壊してくださらぬか?」

 犬神の声は、神々と違い対象の脳裏に響くものではない。和紙から声が響く、それだけだ。ゆえに犬神の頼みは紅羽以外の三人にも聞こえていた。

 「あなた、何を言ってるの……?」

 「そうだよ、紅羽に壊してもらったらおまえ死んじゃうんだぞ? おまえ、死ななきゃいけない妖じゃないだろ?」

 子供たちは戸惑った。彩将もかける言葉を探しきれず、紅羽の様子をうかがっているようだ。

 「……お気遣い嬉しゅうございます。しかし――」

 姿が見えないゆえに瑠爪たちにはわからないが、人で言う、俯く。犬神はそんな行動をとっていた。

 それから少し間を置いて、

 「空海様が往生されてからというもの、私はなんとも空虚な時を過ごしてまいりました。苦しいとも、辛いとも言い難き時間に、私はほとほと疲れ果てていた。妖も人のように往生できるのかなどわからぬまま、今の今まで生きてきた。そんな折、鳳凰の転生神――紅羽様と出会えました」

 と、犬神は、蠱毒の犬神を救いたい一心で目を向けていなかった、自身の心境を話し始めた。

 「……主を失い、老いもなく生き続ける時間は、それは空虚で疲れるものであろうな」

 紅羽の言葉には、共感とも労いとも言えるような、いくつもの感情が込められている。

 主こそ元から無くとも転生神として人に生まれ、十八を過ぎる頃から老いもなく家族に先立たれ、それでもなお生き続けてきた紅羽だからこそ、共感でき、労うことができるのだろう。

 「人に生み出されし妖の私が常世に渡るには、紅羽様のお力がなければ不可能に思えるのです」

 「鳳凰の神通力でなくとも可能性はあるやもしれんが……下手な僧や陰陽師などと鉢合わせてしまえば、魂から滅せられてしまうやもしれんしなぁ。今、覚悟があるというのなら、わたしの手で常世に送り出すのが最善だろうよ」

 「……申し訳ありませぬ。転生神のお三方は、人として平穏に過ごすことを望んでいると彩将様より聞きました。聞いておきながらこのようなことをお頼み申し上げるなど、申し訳ありませぬ――」

 「気に病むな」

 紅羽は、犬神に言葉を続けさせなかった。これ以上犬神が気を病む様子を感じたくなかった。それ以前に、犬神が真に常世へ渡りたいと願う理由が、紅羽にはわかっていた――

 紅羽が思うに、犬神は妖としては優しすぎた。

 「犬神、おぬしこの蠱毒の魂と連れ添うつもりだろう?」

 「連れ添う、とな?」

 彩将が不思議がる。

 「……まったくその通りで。……名とはまこと不思議なものですな、まるで犬神の名を持つ私が犬神の名を持つ蠱毒を見つけたように、同じ名には何かしらの繋がりがあるのでしょう。初めてその首が埋まった地に手を触れた時、その魂の孤独を感じました。蠱毒とはまさに孤独な魂なのです。たとえその魂が首ごと壊れてしまおうと、やはり死にとうないなどとは思いませぬが、その魂が常世へ向かうとなった時、できることならばその孤独に寄り添ってやりたいと。その魂に寄り添うことが、猪を避け、主を亡くしても生き続けてきた私の使命であったと、そう思ったのです……」

 犬神の話に、もはや誰も犬神の想い、頼みを止めようとはしなかった。

 「犬神。確かにおぬしと会わずとも、彩将の沓の呪をなんとかしようと思ってはいたがな、おぬしの話を聞けたから急ぐ判断ができた。急いで石見に向かったから、この首が都に持ちだされることを防げた。その礼だ、たとえこの首を壊すことがなかったとしても、おぬしが常世へ渡ることを望むなら、破壊の神通力をもって手伝うつもりだよ。ああ、犬神よ……うまく器だけを壊せた時には、どうかこの犬の魂に連れ添ってくれ」

 「ご厚意、忝く(かたじけなく)存じ上げます……」

 犬神の声は、紛う方なく感謝で震えていた。

 

 

 

 いつか、八咫烏が降り立った場所――紅羽の庵の縁側からよく見える場所に、実体化した犬神は立っていた。その横に、鳳凰の羽をはがされた犬の首が置かれている。

 「なんともお美しい御姿で……妖の身でこの目に焼き付けるには、恐れ多き御姿でございますな」

 犬神は、これから死にゆくという自ら選んだ定めを理解しつつも、目の前に降り立った鳳凰の美しさに目を奪われていた。 

 「そうか」

 小さく嘴を開き、鳳凰は言った。その声は庵で様子を見ている彩将、瑠爪、翠角のもとにも届いている。

 「死ぬんだよな……犬神、死んじゃうんだよな……」

 瑠爪は落ち込んでいた。

 「仕方ないよ瑠爪。人が自ら命を断つのとはわけが違う。生きるべき時間を犬神はとっくの昔に過ごしきったんだよ。だから、生きるのが辛いんだ……」

 翠角は、犬神の立場に立って自ら常世へ渡ろうとする心境を瑠爪に教える。

 「妖の理(ことわり)など、俺にはわからぬが……今この場で鳳凰の力をもって常世に送り出してやることが最善なのだろう。難しいことではある。だが、わかってやってくれ、瑠爪」

 彩将にもそう諭され、瑠爪は悲しそうにも納得したうえで小さくうなずいた。

 「犬神。そなた、空海の死後、何年現世に生きた?」

 鳳凰が訊く。

 「百年余りを」

 「その百年は、長かったか?」

 「……ええ」

 犬神は俯いた。ふと、自身が生まれた時、空海が往生した時のことを思いだしたのだ。

 「そうか」

 鳳凰が、一歩犬神に歩み寄る。

 「百年、長かったな」

 「ええ……」

 犬神は泣いていた。

 「よく生きた」

 「ええ……」

 「もう良い。もう休め」

 「ええ……」

 鳳凰の言葉一つ一つに、犬神は感謝しながらただ短く答えていく。

 「なんで犬神は泣いてるんだ?」

 庵にて、瑠爪が言う。

 「魂が洗われているのだろう。……前に紅羽が言っていた。理解され、認められることで心は大層安らぐと。心が安らぐと同時に、魂は洗われると。それは人も妖も同じこととな」

 「紅羽は、犬神を安らかに眠らせてあげようとしてるってことかしら」

 「おそらくはな」

 彩将と翠角の話を、瑠爪もなんとなくの理解を示した顔で聞いていた。

 三人が見守る中、鳳凰は全身に淡い唐紅色の光を纏う。それは紅羽が鳳凰の姿をとる時、鳳凰が紅羽の姿をとる時、紅羽が神通力を使う時に腕に纏う光と同じものだった。

 「本当に、この現世に未練はないのだな?」

 「ええ、空海様より頂いた命(めい)は猪を避けた時にすでに果たし終えました。この蠱毒、犬神の魂を常世に導く命(めい)をもち、現世を去ることが本望でございます」

 「その生の終(つい)を我に託してくれたこと、感謝するぞ」

 鳳凰の表情、瞳には、寂しさも悲しさもなかった。それどころか、言葉の中にある感謝すらも感じられない無感情な唐紅の瞳は、まさに神のものだった。

 犬神は、鳳凰の言葉に答えるように静かに手を合わせ深く頭(こうべ)を垂れた。

 鳳凰は、幾本もある長い尾の中の二本を伸ばし、その片方を蠱毒の犬神の額に、その片方を妖の犬神の額に当てた。

 「壊れるぞ」

 庵にて、彩将が言う。

 それは瑠爪と翠角に、器が壊れる瞬間を見届ける覚悟があるのなら見ろと、器の崩壊をその胸に抱えきれぬのなら目を伏せろと、そんな意味がこもった一言だった。

 瑠爪も翠角も、互いの手を固く握りながら、その手を震わせながら、目を伏せることなく鳳凰と犬神たちを見守っていた。

 鳳凰が、琳とした声で一鳴きした。

 闇夜が震える。

 一層強い唐紅の光が、鳳凰の体から尾を伝ってくる。

 やがて、光が二体の犬神に届く。

 瞬間……犬神たちは息絶えた。

 妖は消え入るように一瞬で和紙と化し、蠱毒は一瞬で朽ち果て犬の頭蓋骨と化した。

 鳳凰が尾を引き寄せる時に起きた風に和紙が舞い、それはまるで寄り添うように、まるで守るように、ふうわりと犬の頭蓋骨に降り立った。

 瑠爪も翠角も、こみ上げる感情を必死に抑え涙をこらえる。その一方で――

 「泣け、紅羽。その涙が弔いの手向けだ」

 尾を戻し終え静かに佇んでいた鳳凰は、嘴を閉じ、一筋の涙を流していた。

 鳳凰が、姿をそのままに人の感情を持った瞬間――紅羽という男に戻った瞬間だった。

 彩将は、ただそれだけを言って鳳凰に歩み寄り、その大きな体を慰めるように抱きかかえ、徐々に光を失いつつある羽毛にその身を任せるだけだった。

 

 

十一

 

 犬神たちが天神鳳凰の神通力を受けたその時から、数年の時間が過ぎた。

 山陰道は石見国には犬の頭蓋骨と一枚の和紙が、小さな祠に祀られていた。その祠は、神器を携えた都の武士によって頭蓋骨と和紙が持ち込まれたことを機に作られたという。

 頭蓋骨の方は、特に変哲はない。生前その骨に身を宿していた主が、今は安らかに眠っていることを想像するに難くない頭蓋骨だ。

 だが、和紙については一つ、不思議なことがあった。

 都の武士から、墨で山犬の絵が描かれていると言われたその和紙だったが、その和紙に描かれた山犬は誰の目にも、今にも紙を抜け出て一鳴きしそうなほどに美しく、鮮やかに、命の輝きと言わんばかりの輝きを纏って映ったという。

 その美しさは、美しく散った命がその生きた証を現世に残した所以だと、人々は語り継いだ。

 その事実を知ってか知らずか、今日も転生神たちは平安の時代に、紛れもない人として生きている。

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