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「鵺(ぬえ)の仔」

 

 

 

 神無月――十月の頃。日の本に冬が訪れ始めた頃である。

 日の本は近江国(おうみのくに)にそびえ立つ霊山、鳳凰山(ほうおうざん)の麓の村では、来年もまた豊作とするために、村人たちが日々忙しく土と枯草ばかりとなった農地を耕し、手入れを怠ることがなかった。

 この時期の土は、起こしたところでその日の夜、そして次の日の朝には霜が降りて凍ってしまうのだが、それでも毎日こうして耕し起こすことで、春の作業が楽なものとなり、作物の実りも良くなるのだ。

 この日、転生神(てんせいしん)の紅羽(くれは)、瑠爪(りゅうそう)、翠角(すいかく)の三人は村人たちを手伝う日と決めたらしく、各々畑に入っては来年の豊作を願いながら土を柔らかく起こしていた。

 中でも翠角は熱心である。

 前世の麒麟(きりん)だった頃の記憶はなくとも、地を愛し生命を愛するその性質は転生神――人に生まれ変わっても健在で、翌年、緑に生える畑を思えば、その足は熱心に土を踏みならすというものだ。

 反対に瑠爪はというと、

 「紅羽ぁ……」

 「なんだ、今日はもう飽きたか?」

 「うん」

 と、このような調子である。

 無理もない。転生神ゆえに十二で老いが止まった瑠爪だが、心の齢も十二ほどかというと、そうでもない。この瑠爪、体の歳よりも心の歳はいくつかばかり幼いのだ。

 そのような子供には、夏のように虫がいるわけでもない畑で、延々と土を踏みならすだけの作業はひどく退屈だった。

 「それじゃあ、翠角は日が暮れるまで続けるだろうから、わたしたちはそろそろ庵(いおり)に戻ろうか」

 「うん、戻る!」

 冬であり、さすが龍神(りゅうじん)の生まれ変わりの瑠爪といえど、春が来るまではとても泳げる気候ではない。

 この時期は庵の中、もしくは寒くなればいつでも庵に入ることのできる庵の周りが、瑠爪と翠角の遊び場となる。

 庵に帰るとなると、瑠爪は嬉しそうだった。

 「それじゃあ、翠角に、先に帰っているよと伝えてくるから――」

 紅羽が、瑠爪にそう言っている最中だった。

 「紅羽ぁ!! ちょっと来てくれないか!!」

 少し離れた場所から、紅羽を呼ぶ声があった。

 「――すまないなぁ、瑠爪。帰るのは、もう少し待っておくれな」

 瑠爪の反応を予想してか、苦笑気味にそう言い、呼ばれた方へ歩き出す紅羽。

 瑠爪はやはりつまらなさそうに頬を膨らませるも、文句は言わずに紅羽について行った。

 

 

 

 紅羽を呼んだ村人の周りには、他の場所で土を踏んでいた村人たちや、同じく他の場所にいた翠角までもが集まって、なにやら物珍しげにそれを見ていた。

 「どうしたんだ?」

 「ああ、紅羽。悪いなぁ、これを見てくれないか?」

 村人がそう言って指差したそれは、鱗のような紋様がある、大きな石のようなものだった。

 「不思議な紋様だろう? ただの石とは思えなんだ」

 「しかしこの紋様、なんなんだろうなぁ? 魚か蛇か、鱗のようにも見えないか?」

 「鱗と言うと、龍なんかも鱗があるぞ」

 「なんだおまえ、龍を見たことでもあるのか」

 「あるわけないだろう。そんな話をよく聞くだけだ」

 口々に不思議がる村人たちの横で、紅羽はおもむろに紋様の石を両手で持ち上げる。

 それはほのかに温かく、ずしりと重みがあった。

 「ねえ紅羽、何かわかる?」

 翠角が訊く。

 翠角の問いには何も答えず、紅羽はそっと、石の上部をつまんだ。

 「――なんだぁ?」

 様子を見守っていた村人の一人が、そんな声をあげた。

 紋様に見えていたその部分は、縄のようなものが石に巻き付いていたために見えていたのだ。

 紅羽がするすると、その紋様の正体である縄のようなものをほどいていくと、皆が石だと思っていたそれの本当の姿が露わになった。

 それは、身を縮ませ眠っている小さな獣だった。

 「なんだ、それ?」

 瑠爪が訊く。

 「これは……ああ、鵺(ぬえ)の仔じゃあないか」

 紅羽は、獣の仔をまじまじと見つめたのち、思い出したかのようにそう言った。

 「鵺だって?」

 村人の一人が、紅羽の言葉を言い返す。

 「鵺と言えば、夜に鳴く鳥じゃあないか」

 「そうだ、どう見てもそれは鳥なんかじゃない、妖(あやかし)だろう」

 鵺とは、虎鶫(とらつぐみ)とも呼ばれる鵯(ひよどり)ほどの大きさの鳥の別称でもあり、この頃は虎鶫の名よりも、鵺の名の方が広く人々に知られていた。

 「そうでもあるが、昔、このように猿の顔、狸の胴体、虎の手足、蛇の尾を持った獣もまた、鵺と呼ぶと聞いたことがあってな――ああ、ほら。この蛇の尾で体を包んでいたんだよ」

 片手で鵺の仔の尻を支え、もう片手で蛇の尾をつまむ紅羽。

 言われてよく見ると、確かに猿の顔、狸の胴、虎の手足に蛇の尾を持った、奇妙な獣である。

 その特徴の中でも、日の本にはこの時代まだ渡っていない虎などという獣の一部だという手足に至っては、その場にいた皆が恐る恐る、しかし怖いもの見たさでまじまじと見つめている。

 「手足が虎ということは、虎というのは不思議な模様を持つ獣なんだなぁ」

 「しかし、このような模様の生き物は他にもいる。虎自体はただの獣ではないのか」

 「そうだ、鵺こそこのような模様を持っているなぁ」

 「この指、この爪、虎とは猫のような生き物なのかもしれないぞ」

 物珍しさからそのような話が絶えないが、忘れてはいけないのはこの獣が虎ではなく、虎をはじめとした様々な獣の部位を持つ妖ということである。

 「なあ紅羽、それは人を喰らうのか……?」

 一人が、他の者たちの話題と色を変えた質問を紅羽にした。

 妖を前にして気にすべきことは、やはりそのことであろう。

 紅羽は、珍しくも難しい顔をする。

 「いいや。わたしも、様々な獣の部位を持った獣を、夜鳴きの鳥と同じく鵺と呼ぶと、それだけを聞いたことがあるだけでな、詳しくはわからなんだ」

 そんな紅羽の言葉に、村人たちは皆不安そうな顔をする。

 「紅羽でもわからんか」

 「だが、妖だぞ? それもこのような獣の姿だ」

 「そうだなぁ、人を喰わんとしても、狸は人を化かすしなぁ」

 「蛇だって恐ろしい」

 「山猿も人をかどわすことがある」

 と、村人たちが口々に鵺に疑念を持ち始める。

 「紅羽よう、その妖、大事を起こす前に殺してしまった方が良いんでないか?」

 一人が、そんなことを言った。

 「――だめだよ、殺しちゃだめだ」

 紅羽が何かを答える前に、瑠爪が切実にそう言った。

 「瑠爪……」

 鵺を殺そうと言いだした村人が、ばつが悪そうに瑠爪を心配する。

 「まだ何もしてないのに、殺しちゃだめだ……」

 「そうね。人だって人を殺めることはあるわ。けれどだからと言って、生まれた人の子を、将来人を殺めるかもしれないからと言って、みんな殺してしまうわけにはいかないでしょう?」

 瑠爪に賛同する翠角の話には、大きな説得力があった。

 村人たちは、瑠爪や翠角の言うこともわかりはするが、やはり得体の知れない獣への恐怖も捨てきれず、どうすればいいのかわからない。

 「しかし、なあ……」

 「生かして村の外に放したとしても、人喰いの妖ならば人を求めてここまで来てしまうかもしれん」

 「この村に埋まっていたんだ、十分にありえるよなぁ」

 「しかし、翠角の言うことも尤(もっと)もだ」

 悩み、話し合い、答えの見つからない村人たちをしばらく見ていた紅羽だったが、ふいに、

 「ああ、それではこうしよう。この鵺はわたしたちが預かり、人を喰わぬとわかった頃に村の外に放そうじゃあないか。その間、この獣が獰猛な素性を見せた時には、わたしが責任を持って葬ろう。なあ、それでどうだろう」

 と、瑠爪と翠角、そして村人たちに提案をした。

 破壊と再生を司る天神、鳳凰(ほうおう)の神通力を持つ紅羽にとって、人であろうと妖だろうとその魂の器――体を壊し、死をもたらすことは容易い。

 しかし、紅羽――鳳凰はあくまで人として生まれ変わることを望んだ。その結果として神通力や前世の記憶を意図せず引き継いでしまっただけであり、必要さえなければ神通力は使わないことこそ、人に生まれ変わった意味である――

 が、ここからがまた紅羽という男の難しさ、ややこしさである。

 人は、自身が襲われた時や、自身の大事な人が襲われた時などには、その襲ってきた対象から逃げるか、もしくはその対象に反撃を試みるだろう。それが人なのである。

 ゆえに、紅羽も自身であったり、友や、自分たちの理解者である村人たち、それらの人々が大事にする存在が襲われる際には、人が農具や刀を振るう代わりに神通力を用いることがあるのだ。

 村の人々は、もとより紅羽の一番の理解者である都の武官、保南彩将(やすみあやまさ)を慕う者たちであり、彩将が、転生神を理解し受け入れてくれる者たちと信じた者たちである。

 そのような人間たちだ、紅羽の神通力を怖がることもなければ、それを利用しようとも思わない。

 紅羽はその心遣いを裏切ることを嫌ったため、〝偶然にも不可思議な力を持って生まれた人間〟として、村人のために神通力を使うことも多かった。

 此度の提案もまた、そのような紅羽の生き方があって、必要とあらば神通力を使い鵺を葬ると、そういうことであった。

 「いいのかい、紅羽? 俺たちはそれで構わないが、寝首でもかかれた時には、紅羽と言えど危ないじゃあないか」

 「なに、血を流し過ぎなければ死にはしない。喰われた部分を再生させればわたしはいくらでも生きてゆけるからなぁ、そのような心配はいらないよ」

 破壊の神通力と同様に、紅羽は再生の神通力をも司る。怪我で壊された部位、病に食われた内部、生き物に限らず壊れてしまった物などを、元の状態に戻すことも容易かった。

 「そうか、それじゃあその妖は任せるよ」

 「ああ、ありがとうなぁ紅羽」

 「瑠爪、翠角、おまえたち立派だよ」

 「その鵺も、人を喰らわぬ妖なら良いなぁ」

 村人たちは口々に紅羽に感謝し、瑠爪や翠角の考えを尊重した。

 事の始まりは、つまりこのような経緯であった。

 

 

 

 眠りながら発見された鵺の仔が目を覚ましたのは、夕刻の頃だった。

 

 ひょうーっ!

 

 紅羽が、庵の外と中を隔てる舞良戸(まいらど)より外にある釜場(かまば)にて夕餉(ゆうげ)の用意をしている最中、庵の中に寝かせていた鵺の仔がそのような声を発した。

 それは虎鶫の雛のような鳴き声に似てはいるも、それと比べものにはならない程に気味の悪さを含んでいた。

 「なんだ、今の声は……」

 紅羽が庵の中を覗くと、中で遊んでいたはずの瑠爪と翠角が、庵の端に寄って鵺と距離を置き、鵺を凝視していた。

 「紅羽! 鵺が起きたの! ねえ、聞こえた? この鵺、気持ちの悪い声で鳴いたわ」

 翠角が説明をすると紅羽はおもむろに、先ほどよりはずっと小さな声で、しかし気味の悪い声で鳴き続ける鵺の仔に近付き、人の赤子を抱くように抱き上げた。

 ひょう、ひょう……

 鵺の仔は、抱き上げられると急に甘えたような声を出し始めた。

 「鳴き方、変わったな……」

 そう言って、瑠爪は恐る恐る、紅羽に抱かれた鵺に近付く。

 鵺はそのようなことは気にもせず、甘えた声を出し続けながら、なぜか紅羽の体を、その虎の手で何かを探るように触り出す。

 「こいつ、なにやってるんだ?」

 「さあなぁ……」

 瑠爪と紅羽が鵺の行動を不思議がっていると、

 「もしかして、乳を飲みたいんじゃないかしら」

 と、翠角が言った。

 「ああ、なるほどなぁ」

 紅羽は納得する。納得して、困る。

 「しかし、そうだとしてもどうすればよいか……」

 このように困る紅羽を、瑠爪も翠角もあまり見たことがない。

 「もしかして、の話よ? まだわかりきってないことで困ってもしょうがないわ」

 「そうだよ紅羽、粥を食べるかもしれないし、水で満足するかもしれないし、いろいろあげてみようよ」

 翠角も瑠爪も、鵺が人と同じ物を食し、人を喰わないこと――殺す必要がないことを願っている。

 紅羽はそのことをわかっていて、微笑ましく笑った。

 「そうさな、あれこれ悩むだけなら簡単だ。まずは夕餉の粥と、水でも与えてみようか――ああ、そうだ。粥を火にかけていたのだった」

 紅羽がそう言うと、翠角が紅羽に両手を差し出す。

 「とりあえず、その子はあたしたちが見ておくわ」

 「ああ、ありがとう」

 紅羽は、翠角に鵺の仔を渡して、再び釜場へ向かった。

 

 

 

 紅羽は、また困っていた。というのも、鵺の仔が粥を食べないのだ。

 紅羽が自分の分の粥を木の匙で掬い、息で冷まして、床に敷いた藁の菰(こも)の上に寝かせた鵺の口元に運ぶが、鵺はそれを、最初黙って見つめるだけだった。

 食べ物かどうかを警戒しているのかと思い、目の前で紅羽が一口食べて見せ、それから同じく鵺の口元に粥を掬った匙を運んでやるも、結果は同じである。

 それでは、やや強引ではあるがと、鵺が呼吸の際にわずかに口を開けた際に匙をその中に入れようともしたが、それに気付いた鵺は、虎の手を突っ張って必死に匙を遠のけようとしながら、

 ひょーう!

 と、一際気味の悪い声で鳴く始末。

 やはり妖と言えど赤子。この子には乳が必要なのかと、考えはそこに至って紅羽は困っているのである。

 「ああ、どうしたものか……」

 言いながら、紅羽は自身の分の粥を一口、自分の口に運んだ。

 「近くに、子育てをしている犬はいないかしらね」

 「子育てをしてる犬?」

 翠角の発言に、瑠爪が食いついた。

 「ええ。乳が出る母犬が、自分の子以外の仔犬を育てたり、他の獣だとか、あるいは捨てられた人の赤ん坊を育てようとする話は、意外とあるものよ」

 「そうなんだ」

 こうして、また一つ瑠爪は物事を覚えていく。

 「都なんかでは、猫も同じようなことをすることがあるらしい」

 「そうなの。それは初めて聞いたわ」

 この時代、猫は異国から伝わり、都などの貴族が好んで飼育し始めた生き物であり、犬のようにもとから日の本の地にいたわけではなかった。ゆえに、紅羽は都と特定して話をしているのだ。

 翠角もまた、こうして、自身の知らない知識を紅羽や彩将、村の大人たちから賜っていき、かしこくなっていく。

 しかしまあ、今は瑠爪や翠角がかしこくなったところでどうしようもなく、とにかく今、この村には猫はもちろんのこと、犬すらもいなかった。

 翠角が紅羽の話に相槌を打ってから、自然と沈黙が生まれた。

 「――さて、どうしたものか」

 紅羽が、また一口粥を食べてから、そう言って沈黙を破った。

 「村に妊婦はいないもんなぁ」

 「ちょっと瑠爪、たとえ村に今妊婦がいても、さすがにこの子に乳を飲ませてはくれないでしょう」

 「なんでだ?」

 「だって、怖いでしょう?」

 「そうか?」

 男であり、子供である瑠爪とこのような話を続けても埒が明かないと思った翠角は、少し怪訝そうな顔をして、小さくため息をついてから粥を食べ始めた。

 「なんだよ、翠角」

 「殿方、子供にはわからないわよ、きっと。だから瑠爪と今の話をするだけ無駄なの」

 「ふうん」

 瑠爪は特別機嫌を損ねることもなく、話を続けないのならと、粥を食べる。

 この瑠爪、人の手を持たず、物を持つことにも苦労をしていたこともあるのだが、紅羽がわざわざ木を削り作ってくれた匙を気に入り、必死に慣れを積み重ね、今では何の苦労もなく粥を食べられるのである。

 「ああ、そうだろうよ。人の赤子なら歯がないとわかりきっている、吸われる痛さはあっても噛まれる痛さはないからなぁ。しかし、よくわからぬ生き物の赤子となれば、歯がないとも限らぬ。だから怖いのだろう翠角?」

 粥を食べながら二人の話を聞いていた紅羽が、大人の男として、翠角の言いたいことをわかりやすく解釈し、そう話した。

 「そう」

 翠角は、紅羽の話に満足したようにそう言ったのだが、それを受け、

 「そっか、女ってそんなに痛さに弱いのか」

 何を思ったか、瑠爪は瑠璃の爪の先で翠角の胸――乳房の部分を軽く触った。

 「――瑠爪!!」

 爪の先とはいえ触る程度で刺さらなかったこと、そしてちょうど翠角は粥の椀を床に置いていたから大事には至らなかったものの、翠角は驚きと羞恥、そして予想もしない瑠爪の無礼な行動への怒りで声を荒げた。

 怒鳴られた瑠爪はというと、怒鳴られたことへの落ち込みよりも、ただ翠角の声に驚いただけのようで、咄嗟に身を引いて固めていた。

 「こら、瑠爪。女子(おなご)の胸を淫らに触れてはいけないよ」

 紅羽が、すかさず、穏やかにも注意する。

 「なんで……?」

 瑠爪は、恐る恐るといった様子で訊いてくる。

 「なんで、と言われても難しい」

 人間、大人になる過程でほぼ確実に男女の在り方を知っていくものである。

 つまりは、これ以上の成長が不可能である転生神である以上は、瑠爪が理解するにはほぼ不可能であることだと、紅羽は瑠爪の不老には触れずに、そう言いたかった。

 「ふうん……覚えておく。女の胸には触らない」

 「まあ、そう覚えておけば、謂れなく急に叱られることもあるまいて」

 厳密に言えば、胸以外にも触れば無礼な部位など当たり前のように他にもあるのだが、今は話をややこしくするまいと、紅羽はそれ以上をこの時に教えようとはしなかった。

 瑠爪の、知りたがるくせには妙に納得も早い考え方を、紅羽はしっかりと理解していた。

 「して、鵺の食べ物だ」

 瑠爪と翠角のやりとりを見ながら穏やかな顔をしていた紅羽は、再び眉をひそめた。

 「じゃあさ紅羽、川の浅いところでおれ、魚獲ってこようか?」

 紅羽は苦笑して首を左右に振った。

 「いいや、気持ちはありがたいが魚はやめておこう」

 「どうして?」

 訊くのは翠角である。

 「この鵺、何が魂の元となっているかがわからぬ。猿なのか、狸なのか、はたまた虎なのか蛇なのか……いずれにしても生きて動いている肉を喰らう生き物だが、猿や狸などは木の実も好んで食す。もしもこの鵺が、猿や狸のように雑穀を食すことができ、雑穀の味を覚えさせることができるのならば、獣や魚などの生きていた肉を欲さずに、人を襲うこともないのではないかと思ってな」

 「言われてみれば、そうね」

 「だから、逆に魚や肉の味を覚えさせてしまえば、いずれはその牙が人の肉にまで及んでしまうかもしれないだろう?」

 「それじゃあ、粥とかを全く食べなかったらどうするの?」

 恐る恐る、瑠爪が訊く。

 「その時は、仕方あるまいて」

 そう言って険しくなった紅羽の顔を見て、瑠爪がふいに自分の粥を掬った匙を鵺の仔の口に近付けた。

 「なあ、食べろよぉ。肉なんて食べたら、おまえ殺されちゃうんだぞ?」

 粥――雑穀を食さない。それはつまり、この鵺という妖は肉を主食とし、人を襲う可能性も高いということを意味する。そしてそうなった場合には、村人たちの安全を考え、鵺を生かしておくことが難しくなると、そういうことである。

 それは物を知らない瑠爪でもよくわかり、だからこそ瑠爪は鵺に粥を食べてほしかった。

 心配そうに、必死に粥を鵺に食わそうとする瑠爪だったが、

 ――ひょーう! ひょうひょう!! ひょーう!!

 鵺の仔は、人の赤子が親に空腹や眠気、粗相を訴える時のように激しく鳴き叫んだ。

 だが、その鳴き声は人の赤子と違い、嫌に気味が悪く耳を突く。

 瑠爪は思わず匙を落として耳を塞ぐ。翠角も紅羽さえも、瑠爪同様にその鳴き声を聞いていられなかった。

 「鳴くな、鳴くなよぉ!」

 「すごい鳴き声! 気持ち悪い!!」

 鵺の声に慄く二人を、紅羽も自身の耳を抑えるのに精一杯でどうにもしてあげられない。

 そんな状態の中で、気付く。

 ――この鳴き声、妖気か……?

 精気、神通力、霊気、仙気、妖気――現世(うつしよ)の地を踏み、魂を持つものが放つ気を感じ分けることのできる紅羽は、鵺の仔の鳴き声がただの音ではなく、妖気であることに気が付いた。

 ――ああ、仕方がない。

 紅羽は、ふいに自身の耳から手を離す。

 「紅羽、何をするの?」

 耳を抑えながら、紅羽が何を答えても聞き取れない状況であるにもかかわらず、翠角は思わず紅羽に声をかける。

 紅羽は何も言わずに、素早い動きで片手で鵺を抱き、もう片手で鵺の口を塞いだ。

 ひゅー、ひょー……!

 口の中で、くぐもった声を出そうとする鵺。さすがに口を閉じていれば、耳を塞ぐほどの音ではなくなる。

 「瑠爪、わたしの分でいいから、粥を隙間から流してやってくれ」

 「わかった」

 紅羽に言われて、瑠爪は紅羽の粥を匙で掬い、鵺の口の端の、わずかに開いた隙間に匙を押し込んだ。

 紅羽は、瑠爪が匙を鵺の口から抜いたこと、その匙が空になっていることを確認して、口の隙間をなくすように鵺の口を先ほどよりも強く塞いだ。

 ひょう、ひょうぅ!

 手足や尾をばたつかせ、閉じた口の中で必死に鳴く鵺だったが、先ほどと違って粥が口の中で動くぴちゃぴちゃとした音も鳴き声に混じる。

 その粥の音が聞こえなくなった頃、紅羽は鵺を落ち着かせるために腹などをさすりながら、そっと鵺の口を抑えていた手を離した。

 ひょう……

 鵺は、先ほどのように鳴き叫ぶことはなく、動き疲れたのか力なくそう鳴いた。

 紅羽たちは、そんな鵺をしばらく黙って見ていたが、

 「落ち着いたか……」

 紅羽は、ほっと胸をなでおろした。

 「紅羽、そいつ、もう鳴かない?」

 「どうだろうなぁ……」

 「嫌だよ、あんな気持ち悪い声、また聞かなきゃいけないの……」

 瑠爪は嫌悪を露わにそう言う。

 人が相手であれば、紅羽であれ翠角であれ、瑠爪の露骨な物言いには何かしら注意をするのだが、何しろ相手は妖の赤ん坊である。さすがに、紅羽も翠角も苦笑するだけで瑠爪に同意を示しているようだった。

 そんな中、鵺の仔が紅羽の腕に抱かれたままに大きな欠伸をした。

 「あら、さっきまで寝ていたのに、もう眠たいのかしら」

 「でも、一口しか食べてないのに眠くなんかなるか?」

 「さあ……」

 と、翠角と瑠爪が話している間も、紅羽は鵺の腹をさすり続けていた。

 「おお」

 紅羽がふいにそんな声をあげた時、鵺は尾こそ巻いていなかったが、土の中から見つかった時のように、まるで石のように身を縮め、寝息も立てずに寝付いていた。

 「もしやこの鵺……生まれて間もなく、自身が何を喰えるかもわからずに彷徨って、昨晩にでも村に辿り着き、空腹と寒さであのような姿で眠っていたのやもしれんな」

 眠る鵺の姿に、紅羽はそう推測を立てた。

 「そっかぁ……でも、鳴かなかったら可愛いのになぁ」

 「本当。妖と言ってもまだ赤ん坊だものね」

 と、二人はまるで人の赤子を見守るように優しく言うのだが、

 「確かに今は可愛いかもしれんがなぁ、あまりこの子に入れ込んではいけないよ」

 と、紅羽は少し厳し目な口調でそう言った。

 「なんで?」

 瑠爪が訊くのが、翠角よりも早かった。

 「たとえこの鵺が人を喰わぬ妖だとしても、いつまでも人里には置いておけまいよ。いつか、山か森か、村の外に放す時に、可愛がれば可愛がるほどにその時が辛くなるだろう?」

 「そっかぁ」

 瑠爪は、寂しそうにも納得もしていた。

 「まあ、今の様子だけではまだ、このまま放しても良いかはわかりかねる。もう数日は世話をしてやらねばならぬだろうがな」

 「その間、あの声で鳴かないでくれれば嬉しいんだけど」

 困ったように笑ってそう言う翠角に、瑠爪も紅羽もつられて苦笑した。

 ――だが……まったく、あの鳴き声は一体なんなのか……

 ただ一人、紅羽はその苦笑の下でひどく真剣にそう考えていた。

 

 

 

 紅羽が鵺の仔を預かって、七日が経った。

 その間、紅羽たちは朝餉と夕餉の度に初日のように自分たちの粥を鵺の仔に与えようとしたのだが、鵺の仔はまったくと言っていいほど、自分から粥を食べようとしなかった。

 その度に紅羽たちは無理矢理に粥を食べさせようとするのだが、鵺はひょー、ひょーと気味の悪い声でけたたましく鳴き叫び、必死に粥を拒むのだ。

 そして夕餉の時に至っては、鳴き叫んで紅羽たちの耳をさんざん傷めつけたのち、いつも満足げに眠りにつくのだ。

 しかし、鳴き声がけたたましく気味が悪く、聞けば耳の痛みからか体が怠く感じるだけで、他に人に害を及ぼす様子もなければ、不思議なことに、無理矢理口の中に入れられる僅かな粥だけでも今のところは弱ることなく元気で、食べる物を多く必要とすることもない。

 紅羽は、未だにこの妖の仔をどうしたものかと悩んでいた。

 

 時刻は昼過ぎ。

 瑠爪と翠角は寒空の下、いつか彩将が土産に持ってきてくれた鞠を転がして、庵の縁側から見える小川の傍で鵺と遊んでいる。

 鵺の仔を預かってから、毎日このような調子で日中を過ごしているのだ。

 紅羽はというと、今は大人しいとはいえ不可思議な妖と共にいる瑠爪、翠角から目を離すこともできず、毎日鵺と遊ぶ二人を縁側に座り見守りながら、その内心で鵺の行動や様子を見張っていた。

 「よう、紅羽」

 「ああ、平太(へいた)じゃないか。ほら、座ってくれ。時間があるなら茶でも出そう」

 昼過ぎとはいえ冷えた陽気の下、村の農夫、平太が紅羽の庵を訪ねてきた。

 この平太という農夫、鵺の仔を土の中から見つけた張本人である。

 平太は、紅羽に促されるままに彼の隣に座り、茶を入れに行くために立ち上がろうとする紅羽に、

 「ああ、いいよ紅羽。お構いなく」

 と、言った。

 冬になり、茶の葉も年が明けるまでは取り置きを使うことになる。

 紅羽が、彩将の来訪にはいつも、茶を淹れ、共に飲むことを好んでいることは村中の知るところであり、平太もそのことを知っているため、あえて茶を断ったのだった。

 「そうかい?」

 紅羽は、上げかけた腰を下ろす。

 「で、だ。あの妖は安全なのかい?」

 平太の問いに、紅羽は眉をひそめる。

 「すまぬな。それがまだ、判断がつかないんだ」

 「紅羽でもわからないのか?」

 いつかも聞いたような言葉である。

 紅羽は村の人間たちにも、彩将が紅羽を頼るように頼りにされている。ゆえに悪気はなく、村人たちは紅羽の知識の中にないものの方が少ないと思い、このような言葉がふっと口を出てしまうのだ。

 「わたしとて、不可思議なものすべてを知っているわけではないからなぁ。鵺のことは、昔にその姿と名を聞いただけなんだ」

 「その時に、その話をしてくれた人に、もっと詳しく聞こうとは思わなかったのか?」

 「聞けぬよ。獣の鵺のことを教えてくれたのは年老いた古い虎鶫だったが、その時すでに、死にかけていた」

 「虎鶫ってぇと、夜鳴きの鳥の鵺かい?」

 「ああ」

 「まったく、おめえは獣とも話せるから不思議なもんだ。しかし、そんな話、一体いつに聞いたんだ?」

 そう訊ねる平太に、紅羽は、何かを懐かしむように目を細めた。

 「いつ、か……ああ、あれはまだ、都が平安の都に遷都される前だったよ……」

 都が平城京にあった頃――紅羽が、探しものをして日の本中を渡り歩いていた頃のことである。

 

 

 

 奈良の時代のいつか――

 時刻は、日もとっぷりと暮れた夜である。

 日の本の何処かの森で、紅羽は大きな木の幹に背を預け、静かに日の出を待っていた。

 いつものことである。

 都へ、村へ。野へ、山へ。

 紅羽は見つからない探しものを求めて、場所など構わず足を運んだ。

 そんな中、今宵は森の中で夜を迎えたのである。

 ふと――まだ暁にも達さない頃、眠っていた紅羽は目を覚ました。

 

 ひょー…… ひょう……

 

 頭上――木の上の方から、虎鶫の声が聞こえてくる。

 随分と、力のない声だった。

 紅羽が不思議に思って上を見上げた週間――

 どさり、

 と、狸ほどの大きさはあろう雌の虎鶫が、木の上、葉の海の中から落ちてきた。

 「おお――」

 紅羽が咄嗟に出した両腕に、運良く虎鶫は受け止められた。

 「これ、どうした」

 虎鶫は、力なく首を持ち上げ、

 ひょう……

 と、鳴いた。

 「逝くのか」

 虎鶫は再び、力なくひょう、と鳴く――

 前にも話したことがあったかもしれない。紅羽は、鳥や虫などの言葉を持たない生き物とも会話をすることができる。それは、紛れもなく鳥の姿をした天神、鳳凰の神通力による力なのだ。

 紅羽は今、この大きな虎鶫と会話をしているのである。

 「一人で逝くのは怖かろう。その魄(はく)尽きるまで、気晴らしにでも何か話をしようじゃないか」

 そう言って、紅羽は鵺をその腕に優しく抱き、再び木の幹に背を預けた。

 紅羽は、生き物が生きて体を動かす力の源である魄が尽き、その虎鶫が往生するまで、弔い代わりにと話を聞くことでその魂を洗おうと思ったのだ――

 それは、鳥の姿をした天神の生まれ変わりである男の、小さな気まぐれだった。

 この時、紅羽の腕にその身をうずめた虎鶫が紅羽に話したこととは、このようなことであった――

 

 

 

 ――私はすでに、ただの鵺ではないのであろうなぁ。

 ――あなたには敵わぬが、私はもう五十年は生きたと思う。他の鵺たちは、十年生きても、二十年は生きられなかった。

 ――ほら、私の体は獣のように大きいだろう。長く生きたからであろうかなぁ。

 ――しかし、生まれながらの妖ではないからなぁ、日に日に常世が見えてくるのだよ。

 ――人は愚かだから気付かぬだろうなぁ、あなたは鳳凰の転生神。この森に入られた時から、私は気付いていたよ。

 ――死ぬのは怖い。そう思って古巣で動かぬ日々の中、あなたの気配を感じて思い出した、人に転生した神がいると。

 ――転生神あなたに、ただの鳥でも、妖と化した鳥でも生まれ変わることができるのか、それを聞けたら恐れず往生できる気がしてなぁ。

 ――あなたに声をかけようとした。だが、この老体、言うことを聞いてくれなくてな、地に落ちるところであった。危うく聞きたいことも訊けずに死に急ぐところであったよ。

 

 紅羽は、虎鶫が話したいことをただただ聞いていた。

 そうすることで、虎鶫の魂を洗い、死の恐怖を洗っていった。

 

 ――なぜ、こうもただの鵺として生まれて長生きができたかは私もわからなんだがなぁ、この一生、不思議なこともあったのだよ。

 ――いつだったか、産んだ卵を蛇に食われた。その蛇をな、古い山猿が器用に仕留めて食ったんだ。だが、まだ終わらない。その山猿が老いて死んだ後の骸を、腹を空かした狸が食った。そして、その狸が私の古巣の根元で息を引き取り、ちょうど腹が減っていたので私がその骸を食ったのだがな、その腹から卵が出てきたのだよ。

 「ほう、それはおぬしが産んだ卵だな?」

 ――さすがは転生神、察しが良い。そうだ、あれは私の産んだ卵だった。なぜわかったかって? その時にはすでに私も長く生き過ぎていてな、うまくは言えぬがわかったのだよ。

 ――不思議なことになぁ、最初その卵は狸が死ぬ少し前に食った何かの卵だと思い、ついでに食ってやろうと思ったのだが、つついてみて何かを感じる。おそらくは、卵の記憶か何かであろう。ああ、そうか、おまえは蛇に食われ、猿に食われ、狸にも食われ、その形をそのままに私のもとに戻ってきたのか。

 ――そう思い、愛おしく不憫になって、古巣に運ぶことはできなんだが……木の根元、そうさ。あなたが今腰を掛けている辺りで一月(ひとつき)ほど温めてやったのだよ。

 ――果たして、生まれたのは奇妙な獣だった。獣が卵から生まれたのだ。猿の顔をし、狸の体を持ち、尾は蛇で、手足は猫。それも、手足には私と同じ模様を持っている。

 ――ただの鵺として生まれた私から、生まれた時から妖だった仔が生まれた。不思議なことだろう?

 ――だが、その獣は私を母とは思えず、生まれてすぐに何処かへ消えてしまった。山猿か、狸か、猫の乳でも求めたのやもしれん。蛇が食すように他の鳥の卵を欲したのかもしれん。

 ――いいや、あれはきっと……母を、私を喰わぬために、あのように幼き弱き体のまま、私の元を去ったのやもしれんなぁ……

 

 そこまで話して、虎鶫は瞼を落とした。

 

 ――今もあれが生きているのか、今はすでに死しているのか。どちらにしても、あのような姿の仔を成しているのか、代を繋げず、息絶えたか独りで生きているのか……そのようなことは私にはわからなんだがなぁ……ただ、転生神よ。もしもそのような獣を見かけた時には、その時は鵺と呼んでやっておくれ。猿だの、狸だの、蛇だ猫だの、言われてしまうのは不憫でならぬ。あの子は去り際、紛れもなく我ら鵺の声で鳴いたのだ。私を母と思い喰うことをためらったのだ。あの子はやはり、鵺だったのだ。

 ――ああ、転生神。話すことが楽しくてな、すっかり訊くのを忘れていた。ただの鳥も、妖物と化した鳥も、また死して同じ魂として、この現世に生まれることはできるのだろうかね。

 その質問を投げかける時ですらも、虎鶫は瞼を上げることが叶わない。

 「――ああ、できるとも。罪を犯さぬ畜生たちは皆、地獄に落ちることがない。常世へ渡り、望むならばその記憶を代償に、またこの現世へ戻ってこられるさ」

 畜生とは――虫、魚、鳥、獣……人を含まない、あらゆる動物のことを指した。

 ――そうかい。ああ、あなたを見つけて良かったよ。あんなに恐ろしゅうて敵わなんだ往生も、今なら眠るようにできそうだ。

 「おやすみ、鵺よ。そなたは良く生きた。ああ、我の守ったあの空を、飛んでくれてありがとうなぁ」

 生前、鳳凰は破壊と再生を司りながら、天――つまりは空を守っていた。

 翼を持ち、空を舞う鳥たちは、皆かつては鳳凰の守護を受けていた。

 そして、鳳凰亡き今、鳥たちは鳳凰を慈しみその空を駆けるのだ。

 死に逝く一羽の鳥を送ろうと、気付けば紅羽の心持ちは鳳凰と化していた。

 ――死してまた、あの空に身を任せたい。

 「……」

 ――……。

 虎鶫が言葉を失くし、紅羽と虎鶫が静寂の中に取り残されてから、どれほどの時間が経っただろうか。

 虎鶫は、静かに、安らかに往生した。

 長く生き過ぎ妖気を纏ったその身体は、魄の喪失と共に霧のように薄れていき、やがて夜の闇中に消えていった。

 「鳥より生まれし獣の鵺、か……」

 虎鶫の母鳥としての願いを、紅羽は平安の時代まで忘れることはなかった。

 気付けば、空は暁を迎えていた。

 

 

 

 この平安の時代の中、平太は今、心だけが奈良の時代に飛んでいたような、まるで紅羽の旅に寄り添っていたかのような、そのような、なんとも不可思議な心持だった――

 鳳凰の転生神が持つ膨大な記憶の世界に、平太は惹き込まれていたのだった。

 「てぇと……あの妖は、その、紅羽が看取った鵺の子だってことかい?」

 古い虎鶫の話を聞き終え、平太は自分なりに考えをまとめて紅羽にそう訊く。

 「どうであろうなぁ……見たところ、何を喰えば良いかもわからぬ赤ん坊。わたしが獣の鵺の話を聞いてからの年月を考えれば、おそらくはあの母鳥が生んだ鵺が、歳経て新たに成した子や、もしかすれば、その子がさらに成した子なのかもしれん」

 紅羽は、話し終えた今でも、まだ懐かしみの眼差しをしていた。

 「あの母鳥が産んだ鵺は、生まれてまもなく自力で母の元を去って行ったという。あの子もそうして、生まれてすぐに母の元を去り、訳もわからずここに来たのかもしれんなぁ」

 「そんなこともあるんだなぁ」

 と、その時だった。

 ――ひょおーーー!!

 瑠爪、翠角と鞠を転がして遊んでいた鵺が、急にけたたましく鳴き出した。

 見ると、鞠を追うことに夢中になった鵺が誤って小川に落ちたらしい。

 人の子であってもその膝丈にも満たない深さの川ではあるのだが、如何せん今は冬である。その水の冷たさに、鵺は一際大きく、気味の悪い声で鳴き叫んだのだ。

 「なんだ、この声は――!」

 紅羽たち以外の人間の前では初めて鳴いた鵺に、平太もやはり耳を塞ぎ苦しんでいる。

 紅羽は、大きな鳴き声の響く中で耳を塞ぐ相手に何を言っても聞こえないと思い、自身も耳を塞ぎながら立ち上がり、同じく鵺の傍で耳を塞ぎ動けなくなっている瑠爪と翠角のもとに歩み寄る。

 「――いい加減にしないか!!」

 珍しく、紅羽はその言葉に怒気を含んでいたようだった。

 川の中の鵺に怒鳴り、それと同時に鵺の体を片手で掴んで川からあげる紅羽。そして、鵺はそのまま紅羽に抱きかかえられ、その口を強く手で抑えられた。

 「ありがとう、紅羽……耳がちぎれるかと思った……」

 「本当……今のは一番ひどかったんじゃないかしら……」

 二人は、ひどく参っているようだった。

 ――ひょうぅ……!

 鵺は、紅羽たちに初めて粥を食べさせられた時のように、塞がれた口の奥で必死に鳴こうとするだけでなく、虎の爪で紅羽の腕を刺すように引っ掻き、蛇の尾で紅羽の体を何度も叩いている。

 「まったく、なぜおまえはそうもよく鳴くんだ。そう、事ある毎に鳴くというなら、人を喰わぬでも面倒を見きれぬぞ」

 さすがの紅羽も、今の鳴き声には耐えがたい苦痛を感じたらしい。瑠爪も翠角も、このように感情的になる紅羽はあまり見たことがなかった。

 「紅羽、まだ赤ん坊だよ、そんなに怒ったら可哀そうだよ」

 瑠爪はそう言うが、翠角は少しだけ嫌そうな顔をしている。

 「でも、紅羽の言う通りよ。あんな声で何度も何度も鳴かれたら、本当に耳がちぎれてしまいそう……」

 「なんだよ、翠角――」

 瑠爪がそう言った時だった。

 どさり――

 庵の方から重い音がした。

 「――平太!」

 紅羽は思わず、鵺を抱いたままに庵に駆け寄る。

 縁側に座っていた平太が、前方に倒れ意識を失っていた。

 「どうした、平太! おい!」

 紅羽が呼びかけるも、平太は返事をしない。

 「紅羽……平太、大丈夫なのか?」

 気付けば、瑠爪と翠角も平太のもとに駆け寄ってきていた。

 「生きてはいるが……先ほどまでどうということもなかったのに、なぜ急に――」

 ふいに、紅羽は自らの腕の中を見た。

 鵺が、声だけでなくその身体全体に妖気を纏っている。そしてその妖気が、細い糸のように平太に向かって伸び、鵺と同様に平太に纏わりついているのだ。

 ――まさか……

 紅羽は嫌な予感を覚え、鵺を抱え、その口を抑える両手の代わりに、村の中だからと躊躇うこともなく一本の鳳凰の尾を体から生やし、その先端で妖気の糸に触れてみた。

 瞬間、紅羽の表情は険しくなる。

 瑠爪と翠角が緊張しながら紅羽の行動を見守る中、紅羽は妖気の糸に触れた尾に神通力を纏う。

 淡い紅色の光が紅羽の体から鳳凰の尾へと伝わり、鵺と平太を繋いでいた妖気の糸まで光が届くと、紅色の光が妖気の糸をを切り取った。

 「ん……」

 平太は、目を覚ました。 

 「平太!」

 身を起こしながら、駆け寄る瑠爪、翠角を見て、それから平太は困った顔をして紅羽を見る。

 「ああ、紅羽。情けないよ、俺は気絶するほどに、あの気味の悪い鳴き声に怯えていたというのかね」

 「いや、そうではない」

 真剣な表情をしてそう言う紅羽を、瑠爪、翠角、平太の三人は皆、驚きを隠せずに見る。

 「瑠爪、翠角……すまぬな。この鵺、いずれは人を喰らうであろう――」

 「そんな!」

 翠角が言った。紅羽が謝った意味を、すぐに理解したからだ。

 鵺が、いずれ人を喰らう――それは、紅羽たちが人として生きている以上、その人に害をなす存在だとわかった鵺を生かし、人への害を見過ごすわけにはいけないということだった。

 「獣のように、肉を貪り食いはしないが……この鵺、鳴き声を用いて生き物の精気を吸う妖のようだ」

 「鳴き声……?」

 瑠爪が訊いた。

 「鳥の鵺も、それは気味の悪い声で鳴くものだが、この鵺の仔ほどひどい声ではない。この鵺は、精気を吸い取るための妖気を鳴き声として獲物に聞かせ、そうして獲物に妖気を纏わりつかせて精気を吸っているんだ。今、この口を塞ぐのがあと少しでも遅ければ、平太は死んでいたやもしれない……」

 「死……?!」

 自身の身に起こっていたかもしれない出来事に、平太は思わず身を震わせる。

 「人も獣も、虫も鳥も、生きている限りはその身に精気を纏っている。妖で言うところの妖気というところか。生き物は、その気をすべて失えば、それはすなわち、死に至ることを意味する」

 紅羽の話に、瑠爪、翠角は思うところがあってはっとした。

 言われてみて確かに、鵺の仔が激しく鳴き叫んだ後にはいつも、その前と比べて体がひどく怠く感じていたことを思い出した。

 転生神は、人として生きる半神半人(はんじんはんにん)の存在である。ゆえに、鵺の仔の鳴き声を聞いても平太のように死にかけることはなかったが、それでも鵺の仔は確実に紅羽たちから精気を吸っていて、それを糧に、ろくに食物を取らずとも弱ることなく生き続けていたのだ。

 「でも紅羽、おれたちもずっとこいつの鳴き声聞いてきたけど、平太みたいに倒れたりしてないよ?」

 鵺を殺してほしくない一心でそう訴える瑠爪だったが、紅羽は表情を曇らせ、

 「転生神は、半神半人の魂を持っている。わかるかい? 人が耐えられない力にも、耐えられることもあるんだよ」

 と、悲しそうな口調で言った。

 紅羽は、自身が人のために神通力を使うことは嫌悪しなかった。瑠爪や翠角が、自分を人として感じているうえで、神通力を使うことにも迷いこそあれ嫌悪はない。

 だがこうして、転生神が人と違うという事実を二人に突きつける時、紅羽はいつでもその心を痛めてしまうのだった。

 「なら……あたしたちの庵で世話をすれば、そうすればこの子も殺さなくたって――」

 鵺をかばう瑠爪を不憫に思った翠角も、紅羽にそう提案する。

 しかし、紅羽は眉をひそめて首を横に振った。

 「だめだ。今は大人しくしてくれているが、成長すれば、いずれわたしたちの目を盗んで村に赴くやもしれん。庵にいながら、村まで届く声を出せるようになるやもしれん。それに――」

 そう言って、視線を自身の腕に落とす紅羽。

 口を塞がれた鵺が、先ほどから必死に紅羽の腕から逃れようとしていたのだが、その爪によって、紅羽の腕は血にまみれていた。

 「おい、紅羽、その腕……」

 驚く平太に、紅羽は顔色を変えずに、

 「大したことはない。怪我など後でいくらでも治せる」

 と言い

 「問題は、この鵺が今なお平太の精気を狙っている――人の精気の味を覚えてしまったことだ」

 続けて、そう言った。

 「なんだって……?」

 「平太、試しにわたしの後ろに回ってみてくれないか?」

 「あ、ああ。わかった」

 不思議がりながらも平太が紅羽の後ろに歩いて回ると、鵺は平太を追おうと、体を抑えつける紅羽の腕をさらに激しく傷付け始めた。

 「紅羽、その妖、俺を追おうとしているのか……?」

 紅羽は、平太の方へ振り向いてうなずいた。

 「この鵺、今まで――わたしたちからは大した量の精気など得られずに、自らの鳴き声と精気の関係など気付かず、訳もわからぬうちにその腹を満たし満足していたのだろうが……それは、我らが神通力が鵺の妖気の多くを打ち消していたからのこと。先ほど、平太から、多くの精気を鳴くことで得られたことを、理解してしまったらしい」

 真剣に、そしてひどく焦っているようにそう言う紅羽に、もはや瑠爪も翠角も、何も言い返すことはできなかった。

 「この子を見つけた日、翠角が言ったことは尤もだよ。人を喰うかも知れない、その可能性だけで殺めてしまうのは可哀そうなことだ。しかしこの子は、人の精気を、命を糧にしないと自らが生きられないことを、じきに悟る。そうなってからでは、おそらくこの村は……ひどければこの倭国は人が絶えてしまう」

 推測を絡めている紅羽の話だが、その推測がほぼ確実であることを、その場の誰もが理解していた。

 「だったら、紅羽……せめて、あなたが常世に送ってあげて……」

 翠角が、紅羽をじっと見て言った。

 「紅羽なら、苦しませずに殺めることができるんでしょう……?」

 紅羽は、小さくうなずいた。

 「でも、翠角……」

 瑠爪が、今にも泣きそうな顔をして翠角の表着(うわぎ)の裾を、大きな爪で器用に挟んで引っ張る。

 「瑠爪、仕方のないことって、生きていればたくさんあるのよ、きっと」

 翠角は、それ以上を言わなかった。瑠爪も、それ以上を訊いてはいけないと悟る。

 「紅羽、お願い……鵺を苦しめないであげて」

 翠角の表着を放し、瑠爪は紅羽にそう言った。

 「ああ……」

 紅羽は、自らが言い出したことでありながら、悲しそうにそう答えた。

 「紅羽、すまないな、本当に……」

 平太もまた、これから行おうとしていることに紅羽が心を痛めていることを知っていて、ただそう言うことしかできなかった――

 平太の言葉に、紅羽が答えようとした時だった。

 「――っ!」

 鵺が、塞がれていた口をぐわら、と急に大きく開き、紅羽の左手を噛みちぎったのだ。

 紅羽の手を喰いちぎりその腕から解放された鵺は、紅羽の左手を咥えたまま、庵の近くに生えている木の枝へと、虎の手足で力強く飛び移った。

 「紅羽、手! 手が……!」

 手首より先を鵺に喰われたあまりにもおぞましい光景に、瑠爪は怖さと、そして紅羽の痛みを自身に思い浮かべて泣いている。

 「大丈夫だ、死にはしない……」

 咄嗟に右手で左の手首を抑えながらそう言う紅羽の声は、痛みと失血によって今にも消え入りそうなほどに擦れていた。無理もない。左手だけでなく、この時すでに、紅羽は虎の爪によって右腕からも血を流しているのだ。

 もう立っていられるほどの力も出せないらしく、紅羽はその場に膝をついた。

 痛みに耐えながら紅羽が鵺の跳んだ方を見ると、鵺は木の枝に器用に乗ったまま、紅羽の左手を咥えたままに、紅羽たちの方をじっと見ている。

 「なんだ、あいつ、なんて寂しそうな顔をしているんだ……」

 平太が言った。

 獣とは言え、人に似ている猿の顔を持つ鵺からは、その表情がよく読み取れた。

 平太が言う通り、鵺はただ、寂しそうな、はたまた悲しそうな顔をして、紅羽たちを見下ろしていた。

 「殺されると、悟ったのだろう……面倒を見られて殺されるなど、憎まれても仕方のないことを、あの鵺は……なぜ、あのような顔を……」

 紅羽もまた、平太が言った鵺の表情と同じように、悲哀の色を滲ませそう言った、

 紅羽は鵺を殺すことにわずかにも躊躇いを感じ、鵺はわずかにも紅羽を憎み切れなかった。

 そのわずか、わずかの感情が、紅羽と鵺の命を繋いでいるようだった。

 「お願い! 何処かへ行くというのなら、死んでしまうほどに人の精気を吸わないで!」

 翠角は、こちらをじっと見つめたまま動こうとしない鵺に、必死にそう訴えた。

 「人に害を成せば、紅羽が手を下さなくてもあなたは誰かに殺される! 紅羽や瑠爪が、あなたに生きてほしい気持ちで面倒を見ていたこと、無駄にしないで……!」

 翠角は泣いていた。

 紅羽の手が喰いちぎられたことへの恐れではなく、人の精気を糧とするとわかった鵺が自分たちの元を離れれば、いずれ誰かに、その命を奪われることを思い、泣いていた。

 鵺は、ふいに村の外の方角へ向き直り、紅羽たちに背を向けた。

 「鵺! 行くなよ!」

 瑠爪もまた、自分たちの元を離れた鵺の行く末を思い、鵺の身を案じ、不器用にもただそれだけを、必死に叫んだ。

 

 ひょう。

 

 手首を咥えた口の奥から、鵺は小さくもよく響く声でそう鳴いた。

 鳴いて、蛇の尾で乗っていた枝を軽くたたき、軽い足取りで近くの木々へと跳び移り、跳び移り、やがて鵺はその姿を消したのだった。

 左手を失った紅羽はもちろんのこと、翠角も、瑠爪も、平太も、鵺を追うことはしなかった。

 それは決して、紅羽の手を喰いちぎり、人の精気を糧とする妖の赤子を恐れたからではなく、人と妖が交わることの難しさに、その心を痛めてのことだった。

 気付けば、紅羽もまた、痛みなどのせいではなく鵺の仔との共存を果たせなかった自身の結論を悔いて、その唐紅の瞳に涙を溜めていた。

 

 

 

 「そのようなこともあれば、気も落としてしまうであろうよ」

 紅羽の庵、囲炉裏の傍に座した保南彩将がそう言った。

 霜月――十一月に入ってすぐのこと。

 冬に入った村で困り事がないかを確かめようと鳳凰山麓の村を訪れた彩将は、村を回り終えた後に庵に寄り、紅羽から鵺の仔の話を一通り聞き終わったところであった。

 「おまえは、飄々としてみせて、それでいて繊細なことを自覚するべきだ。だからと言って、何事にも手を出すなとは言わないがな。おまえにしか救えない存在も、この現世には多すぎるのだからな」

 彩将の正面に座している紅羽は、両の手で茶碗を持ったままに苦笑した――再生の神通力によって数日の時間をかけて治癒した紅羽の左手は、今では何事もなかったかのように、当たり前に左腕、左手首の先についている。

 「難しいことを言うな。わたしはおぬしと違い、教養などないのだ」

 「ばかものが、教養などなくとも今の話くらい理解できるだろう」

 紅羽はまた、苦笑する。

 「なかなかに手厳しいじゃあないか」

 「おまえには、これくらいが丁度いいだろう」

 そう言って、彩将は笑った。

 紅羽も、つられて笑った。

 「しかし彩将、わからないのだよ。なぜあの鵺が村の土に埋まっていたのか、平太が倒れたその時まで自らの鳴き声の力を本当に知らなかったのか、何処へ消えてしまったのか、世話をしておきながら殺そうとしたわたしを憎んでいたのか……ああ、何もわからなんだ」

 「わからなくて良い、悩んで良いのだ、紅羽。それが人だ。そしてすべての生き物が誰も傷付けず、共に生きてゆくのは無理なことなのだ」

 彩将は、そう言って、紅羽が淹れてくれていた茶を一口飲んだ。

 紅羽が、親友のためにと蓄えておいた茶である。美味くないわけがなかった。

 彩将は、しばらくは口の中で茶の香りに酔い、それから一息ついて、

 「そして、悩んだ友の力になりたいと思うのが、また友であり、俺はその友であるつもりだ。そのようなこと、ないと思うがな、もしもそのことを忘れているようであれば、俺はひどく悲しいぞ」

 と、続けると、紅羽が茶を一口飲んだ。飲んで、

 「忘れていれば、話しなどせん。おぬしに聞いてほしかった、慰めてほしかった。彩将が友でいてくれていることで、今わたしは本当に救われている。鵺が逃げ出してからあまり日を開けずに訪ねて来てくれたこと、本当に助かったぞ」

 と、返す。

 「そうか」

 その一言は、素っ気なくも、照れくささを含んでいた。

 「――して、瑠爪たちは?」

 彩将がこう訊くのである、本人たちは今、庵にはいない。瑠爪と翠角は今、紅羽と彩将に気を遣って、村の子供たちと屋内遊びをしに出かけていた。

 「最初、塞いでいたよ。無理もない。自分たちの子のようにあの鵺を可愛がっていた。殺さぬ方法を、必死に探っていた。だが、二人とも心も子供のまま育たないというに、立派なものだ」

 「ほう、立派とは?」

 「自分たちも辛いだろうに、彩将が来るまではずっとあの子たちがわたしを励ましてくれていた。今日とて、久々におぬしに会えるというに、こうしてわたしに彩将との時間をくれている。立派なものだ」

 嬉しく、申し訳なく、そしてどこか不思議そうに話す紅羽。

 「それほど、おまえが普段からあの二人に与えるものが大きいのだろうよ」

 「そうであれば、良いのだがなぁ」

 「そうであるから、二人は、自分たちも辛くとも、紅羽に気を遣いたいのだろうよ」

 「それは、嬉しいことだなぁ」

 「まことになぁ」

 それから、二人は少しの間黙っていた。黙って、時折茶を口に含む。

 「見たところ――」

 口の中の茶を飲み干してそう言うのは、彩将だ。

 「大丈夫そうではあるが、怪我は痛まないか?」

 「危ないところではあったがなぁ、なんとかなったよ。あれほど血を流したのは初めてだったかもしれん。いくら再生の神通力を使えるとは言っても、それを使う余力も血と共に流してしまえば、わたしとて死ぬだろうからなぁ」

 「ばかものが、俺より先に死ぬなど、許さぬからな」

 「おぬしこそ、死に急ぐ真似などしようものなら、許さぬぞ」

 また、二人は互いに声をあげて笑いあった。

 「さて――」

 紅羽が腰を上げる。

 「彩将を長く独り占めしてしまえば、あの子たちに怒られてしまうからなぁ。話は済んだと伝えに行くよ」

 「おう」

 「瑠爪などは、滝壺で泳げないからかここ最近は元気が有り余っている。心して遊んでやってくれ」

 「おお、それは楽しみではないか」

 「頼もしいやつめ」

 皮肉を込めて笑い、それから紅羽は、舞良戸へ向かう。

 「なあ、彩将」

 囲炉裏の傍に座している彩将に背を向けたまま、紅羽は声をかけた。

 「もしも、黎明(れいめい)を振るうため遠出した時にでも……鵺の声で鳴き、人の精気を吸う妖を見つけたら……その妖が、人を死に至らしめるほどに鳴くことをしていないのなら……その時は、その妖を見逃してやってはくれないか」

 その声は、わずかにも震えていた。

 「……おまえが信じて黎明を託したこの俺が、妖ならすべてを切り捨てると思うか?」

 「思わぬ」

 即答だった。

 そう言って、顔だけで斜め後ろに振り向き彩将を見た紅羽の顔は、優しく笑っていた。

 

 

 

 平安の時代が終わる頃――紅羽たちがまだ迎えていない時間の中に置いて、天皇の住まう清涼殿(せいりょうでん)に怪異があった。

 夜な夜な、清涼殿に黒雲が立ち込め、その中から不気味な声が響くのだ。

 その鳴き声の怪しさはこの世のものとは思えないほどで、それを聞き続けた此の時の天皇は、ついに病に伏せってしまった。

 どのような祈祷も薬も効かずその命を危ぶまれた天皇だったが、天皇を救うために、弓の名手であった源頼政(みなもとのよりまさ)が鳴き声の主の討伐を命じられた。

 頼政は家来の猪早太(いのはやた)と共に、見事怪異の元となった妖を討ち取った。

 その後、頼政は妖の復活を恐れ、その体をいくつかに切り刻んでそれぞれを笹の小舟に乗せて海に流したのだが、その際――頼政が妖の体を切り刻んだ際に妖の腹の中から、淡い唐紅の光を放ち美しいまでに形を保った人の左手首が出てきたことは、時代をどんなに経たところで、どの書にも記されることはなかった。

 ただ、後世まで伝えられた事実としては、この時二人が討ち取った妖は猿の顔を持ち、狸の胴に虎の手足が生えた、蛇の尾を持つ大きな獣であり、その名を、似た鳴き声の鳥からとって鵺と呼ばれた。ということである――

 

 このような遠い時間の果てに起こる出来事を、平安の中頃を生きている紅羽たちが知るはずもなく、紅羽はいつしか、思い出そうと思えば手が届く、しかし常には手を伸ばさないような記憶の中に鵺の仔の記憶を置き去り、やがて、必要がなければ鵺の仔のことなど忘れて生きていくようになった。

 それは瑠爪も翠角も同様であり、それぞれが抱えていた憂いの念は、彼らの生活に影響を及ぼさないほどに小さく、薄く、やがて消えていった。

 紅羽は今日も、寒空の下で遊ぶ瑠爪と翠角を優しく見守り、次はいつ来るかも知れない親友を待ちわびている。

 こうして、今日も転生神たちは平安の時代に、紛れもない人として生きている。

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