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「表裏頭脳 ケンイチ」
第1話「物理部の悲劇と目覚めた人格」~後編~
3-2(①)
次の日、いつもの賢一に戻ったわけではないが、それでも陽に説得された賢一は渋々学校に来ていた。そして今は昼休みである。
賢「(ったく、宗光の奴……こんなつまらねーところに引っ張り出しやがって…)」
そう思った賢一の脳裏に、今朝、陽から言われた言葉がよぎっていく。
―陽「学校は行かなきゃだめよ。ヨシくんはちゃんと勉強ができないなりに、毎日ちゃんと学校には通ってるの。あなたが何者かはわからないけど、傍から見ればあなたはヨシくんなんだから!」―
賢「…ッチ!」
そう舌打ちした賢一だったが、ふと後ろの席に座っている男子2人の会話が聞こえてきた。
男1「くっそ、弁当箱開かねえ!」
男2「バッカ、詰めすぎじゃねえの?」
男1「そんなに詰めてねーよ!」
男2「ちょっと貸せよ…って、あっち!」
男1「さっき、コンビニのレンジで温めてきたからな!」
男2「それ、早く言えよ!」
その様子を密かに見ていた賢一は、心なしか驚いた表情を隠せずにいた。
賢「(…弁当箱が、開かない?)」
②
放課後、賢一は1人物理室の前に来ていた。物理室の下はちょうど音楽室だからか、吹奏楽部の練習が聞こえている。6時間目が終わってそれほど時間が経っていないことから見ると、おそらくは自主練であろう。
賢「(まったくうるさい部活だ…昨日のように活動休止していればいいものを…)」
そんな事を思いながら、賢一は静かにドアを開けた。そこには複雑そうな顔をして、黒板のチョーク置き場でチョークをいじっている熊谷がいるだけだった。
賢「ずいぶんと集まりが悪いんだな……」
熊「君……メディア部の、神童くんだっけ?」
小さく驚いてそう言った後、、熊谷は苦笑する。
熊「ほら、まだ3時半にもなってないじゃないか。……俺が早すぎるだけで、別に集まりが悪い訳じゃないさ。」
そう言う熊谷を、賢一はどこかつまらなさそうに見ている。
熊「で?君こそこんな時間にメディア部にも行かないで、なんでこんなとこに?」
賢「準備室をもう一度見に来た。…それくらいバカでもわかるだろう。」
表情を変えずにそう言う賢一に、熊谷は真剣な顔をする。
熊「だろうね。……ちょっと待ってくれるか?」
そう言いながら、熊谷は準備室のドアについた小窓から準備室の向こうを見る。賢一もその隣に立って寺尾の姿を確認する。
熊「先生……あの、メディア部の神童くんが準備室を見たいって来てるんですけど……」
ドアを開けて心配げにそう声をかける熊谷の目線の先には、準備室の窓際に置かれた大きめのビーカーに活けられた花に向かって、目をつぶり合掌をしている寺尾の姿があった。寺尾は熊谷の声に気付いて目を開け、熊谷と賢一を見る。
寺「ん?……ああ、そうか。」
熊「調べさせてあげていいですか?」
寺「別に構わないよ。…亡くなった篠原も、君の熱心な気持ちに喜んでくれているだろうしな…」
そう言って寺尾は物理室へと歩いてくる。そのすれ違いざまに賢一はふと何かに気付くように寺尾を見た。
寺「何かわかんないことがあったら、熊谷に訊いてくれ。私は職員室に戻るから。」
賢一に見られたことも気付かずにそう言って、寺尾は物理室を出て行ったが、賢一は寺尾が物理室を出て行くまでずっと彼を見ていた。
熊「どうしたんだ?」
不思議がる熊谷に、賢一は目線を花に移して言う。
賢「あの花、寺尾が活けたのか?」
熊「ん?ああ、そうだよ。今日学校来る前に買ってきたんだって。あ、ビーカーに活けようって言ったのは俺だけどね。あのビーカー、今の1年生専用にしてた奴だからさ、その方が篠原もなじみがあるかなって思って。……でも、それがどうしたんだ?」
賢「いや……」
そう言って言葉を呑む賢一。
賢「なんでもねえよ。」
そう言いながら賢一は準備室に入って行く。そんな賢一を、部屋の境目で不思議そうに見ている熊谷だったが、そんなことはお構いなしに窓際で回っている換気扇の近くへと歩み寄っていく。
賢「(この換気扇、給排気型か…)」
それから何かを探すようにきょろきょろしたかと思うと、ふと目立たないところに置いてある、埃をかぶった機械を見つけた。しかしコードの束にはついている埃は、まだらである。
賢「これは…真空ポンプか?」
機械を真空ポンプと呼ぶ賢一を不思議がることもなく、熊谷はどこか懐かしそうに真空ポンプを見る。
熊「今年の新入生歓迎会の実験で使ったっきり使ってないな。授業でも使わないみたいだし。ま、あったらあったで、また来年の歓迎会かなんかで使うだろうけどさ、今はまともに埃も払ってないなぁ~…」
賢「これは、他の部員や寺尾も使えるのか?」
熊「ん~、遠藤と亡くなった篠原は知らなかったかもしれないけど、2年生と俺、寺尾先生は使えるはずだよ。」
賢「じゃあ、ここにコレがあることを知っているのは?」
熊「う~ん、授業では使わないモノだって寺尾先生は言ってたから、俺たちだけじゃないかな?結構前に買ったものらしいから、他の先生だって知ってるかどうか……あと、篠原と遠藤は知らなかったかもしれないな。あの2人の性格だったら、こんなとこで埃かぶってる機材を見つけたら、きっときれいに拭いてるだろうし。」
賢「その話、本当だろうな?」
真空ポンプを見つめたままにそう言う賢一に、熊谷はどこか緊張気味に答える。
熊「あ、ああ…?」
③
賢一は物理室を後にして、先ほどの準備室の様子を思い出していた。
賢「(もしや、とは思ったが……真空ポンプ、そんなものがあそこにあったとは盲点だったな。コードに埃がたまってなかったところを見ても、最近使われたことは明らか…だとすれば、あの事もうなずける…)」
準備室で見聞きしたことと今までの疑問を照らし合わせながら廊下を歩いていた賢一だったが、偶然物理室に向かう遠藤を遠目に見つけ、その手に1輪だけ花を持っていることに気が付く。
賢「(アイツは、物理部の遠藤。部活に行くってだけで泣きそうな顔しやがって……)」
そして、ふと悲しげな表情になる。
賢「(死んだ人間が1人なら、悲しむ人間は何人なんだろうな……)」
その頃部室では、ホワイトボードにたくさんのメモ帳が貼ってあった。
海「すごいすごい!昨日の放課後と今日だけでこんなに調べちゃうなんて!」
晶「みんな頑張ったなぁ……さすがはメディア部員、といったところか?」
心から感心したようにそう言う晶に、孝彦が言う。
孝「コイツと組まされでもしたら、こうもいかなかったでしょうけどね。」
隆「へっ!そりゃ俺のセリフだ!」
孝「なんだと―」
路「おっと悪い。俺の調べたのも貼らせてくれよ。」
そう言って龍路がホワイトボードにメモを張ると、晶はまた感心した。
晶「お!お前のメモはずいぶん見やすいな。」
路「俺が写真を撮るしか能がないと思ったら大間違いですよ?写真家とメモ魔は紙一重!ってか、それ以前にしっかり調べてきたんですから、篠原さんと遠藤さんの関係を。」
賢「ったく、そんなことで浮かれて、お前らホントにバカなんだな。」
ドアを開けて入室一言目、そう言い放つ賢一に、部室は気まずい沈黙に包まれた。
陽「ちょ、ちょっと…」
賢「調べろと言われて調べられないようなら切り捨ててたところだが、だからと言ってそんなに騒ぐことでもねえだろうが。」
晶「お前な、昨日からなんなんだよ―」
賢「とにかく…」
そう言って賢一はドアを乱暴に閉め、ホワイトボードを眺めに来た。
賢「お前らの取ったこのメモ、全て間違いはないんだな?」
晶「ああ、もちろんだ!物理部顧問の寺尾正造先生と篠原さんに悪い噂はなかったぞ。そもそも、寺尾先生は授業もわかりやすいし、生徒のこともしっかり見ているって、生徒、保護者ともに評判がいいからな。人柄を考えれば、殺人なんてことはできないだろう。」
賢「篠原から見てはどうだったんだ?」
晶「それはわからんな。なにしろ本人が死んでしまったんだから。」
路「それだったら、俺わかりますよ。」
晶「ホントか?」
路「ええ、俺の担当は1年生の遠藤由佳さんでしたからね。1年生同士ってことで部活内でも仲が良かったらしく、よくいろんな話をしていたそうです。その中で、寺尾先生のことを、優しくて真面目な人だと尊敬していたとも話してました。」
賢「遠藤と篠原はどうだったんだ?」
路「ああ、さっきも言ったけど、1年同士ってことで仲が良かったと。…ただ、遠藤さんは少し引っ込み思案なところがあるらしくて、篠原さんに軽くコンプレックスを抱いていたのも確かみたいだけどな。」
賢「コンプレックス、か……」
路「ああ。遠藤さんのクラスメートが言ってたんだ。「篠原さんの、思ったことを面と向かって言えるあの性格が羨ましい」って愚痴る時があったって。」
賢「…。おい、1年は遠藤だけか?」
路「ああ。あとは2年が2人と、3年の部長1人だけだ。2年生を担当したの、お前らだよな?」
隆「ああ。俺は3組の霧江治則に話を聞いてきたけど、アイツは篠原さんとはあんまり接点がなかったらしい。…というのもだ。霧江は篠原さんのあの真面目な性格が少し苦手だったんだと。だから必要最低限、関わらないようにしていたってさ。」
修「へえ、川西さんとは真逆ですね。」
賢「川西……もう1人の2年生だな。」
修「はい。4組の川西絵梨さんなんですけど、彼女は篠原さんや遠藤さんのことを可愛がっていたみたいです。部活外でも、よく3人で、もしくは後輩のどちらかと2人で出かけたりしてたようですから。」
賢「で、残る1人はどうなんだ?」
孝「ああ、3年の熊谷勇斗部長なんだけど、彼も特に篠原さんとの悪い話は聞かなかったよ。熊谷部長は、部活だけじゃなくてもテスト時期とかは部員に勉強教えたり、頼られる存在らしくてな、篠原さんも熊谷部長のことは頼りにしていたんだと。」
賢「これで物理部の関係者は全員か?」
晶「ああ。」
賢「なるほどな…」
そう言って、賢一は黙り込んだ。
海「何かわかりました?」
賢「いや、どいつもこいつも篠原を殺す動機はイマイチだ。……おとといの篠原のあの様子、物理部の人間と何かあったんじゃないかと踏んでいたんだが……」
路「動機はイマイチか…じゃあ、アリバイとかはどうだ?ほら、殺人事件と言えば、よくアリバイを確かめたりするだろ?」
賢「フン…アリバイなんてあってないようなものだ。鳩谷が昨日言ってただろう?篠原は今日は無断欠席をしているうえに、昨日は家にも帰ってなかったと。そして、死体となって発見されたのが今日の放課後。これらのことを踏まえると、篠原が殺されたのは、メディア部を訪ねてから発見されるまでの間となるが…警察が事故として処理した以上、篠原の死んだ時間は割り出されていない。しかも物理部は他の部活に比べて活動時間が短い。その分部員が自由に動き回れる時間も多い。つまりだ、これだけ時間幅が広ければ、アリバイから犯人を割り出すのは難しいだろう。」
賢一の話に、部員たちは納得したのか誰も何も言わない。そんな中、ふと陽が口を開く。
陽「確かにそうね…でも、思ったんだけど、物理部だけを疑ってて大丈夫なの?」
賢「犯人があの中にいることは間違いない。」
修「え?何でですか?」
賢「篠原を準備室に閉じ込めたカラクリを使えたのは、物理部員と寺尾の5人しかいないんだ。…まあ、1年の遠藤は微妙なところだがな。」
陽「え?!」
晶「お前、窓やドアが開かなかった理由がわかったのか?!」
驚く部員たちだったが、賢一はそれを鬱陶しそうに見てから静かに言う。
賢「真空だよ…」
海「真空?」
賢「厳密に言えば、減圧状態だ。……密封された部屋ってのは、外との気圧の変化でドアや窓が開かなくなる。それが減圧状態だ。そして、あの物理準備室には空間を真空に近づけることのできる、真空ポンプが置いてあった。おそらく、あの部屋を減圧状態にするために使われたんだろう。」
隆「しんくうぽんぷ……?」
賢「なんだ、知らないのか?」
不思議がる隆平に、賢一はまるでバカにするようにそう言う。
隆「けっ!悪かったな!どーせ俺は何にも知らないバカだよ―」
賢「まあ、知らなくて当然だがな。」
隆「へ?」
賢「真空ポンプなんて、タダの高校生の知るところじゃない。だからこそ、犯人は真空ポンプの使い方を知っている、物理部の2,3年生と顧問の寺尾に限られるのさ。」
隆「お、俺、遊ばれた?」
狐に化かされたような顔で、咄嗟に近くにいた修丸を見る隆平。
修「た、多分…」
隆「な…?!このヤロ―」
路「でも、遠藤さんは?さっき、遠藤さんは微妙だとも言ってたよな?」
いつもの調子で、隆平がケンカを売り出す前に龍路が遮る。
賢「熊谷の話が本当だとしたら、今回の犯行を除いて、最後にポンプが使われたのは今年の新入生歓迎会だそうだ。」
陽「そっか、1年生の遠藤さんは、その時は入部してた訳じゃないから!」
賢「そういうことだ。まあ、他の3人や寺尾に使い方を聞いていた、もしくはすでにあのポンプの存在や、使い方を知っていた、となれば話は別だがな。今の段階で遠藤を白だとするのはまだ早いだろうな。」
賢一の話を聞いて、部員たちは各々に自分たちの調べた事実をもとに考え出す。
隆「だとしたら、一番怪しいのは霧江じゃねえの?アイツが一番篠原さんとの仲が良くなかったみたいだしよ。」
海「でも1年生の遠藤さんも、篠原さんにコンプレックスを抱いてたみたいですし…先輩方から真空ポンプの使い方を聞いていたって可能性もあるんでしょ?」
修「あの、川西さんはどうでしょうか?物理部員の中では一番仲が良かったっていいますけど、逆にそれがもつれたって可能性も…」
晶「それを言ったら熊谷だって怪しく思えてきたな…仲良くしているのは表面上だけだとか…」
孝「表面上の関係かぁ…だったら、寺尾先生にも同じことが言えるんじゃないですか?」
晶「そうだなぁ…」
路「誰も怪しくはないって思ってたけど、こうなると全員怪しく思えちまうな……」
海「ねぇ~……」
そんなやりとりを見ながら、賢一が呆れたようにため息をついた。
陽「どうしたの?」
陽が恐る恐る聞く。
賢「バカといると、本当に疲れる……」
賢一は独り言のように、隣にいる陽ですらやっと聞こえるような小さな声でつぶやいた。
隆「おいこらそこ!!バカって言うのもいい加減にしろ!」
陽「嘘……隆平くん聞こえたの?!」
隆「ケッ!俺の地獄耳舐めんなよ!」
賢「フン……何が地獄耳だ。そんなしょうもない事を自慢してる暇があったら少しは―」
そう言いかけて、賢一の脳裏に昨日の部室での出来事がよぎった。
―孝「篠原さんには気づいても先生には気づかないなんて、お前の地獄耳も役に立たねえな。」
隆「うるせえな、さっきは話に集中してたんだよ!」
その時、篠原が気まずそうに静かに席を立った。
晶「どうした?」
篠「いえ、なんか忙しそうだから、また今度にします…」―
賢「そうか…だからあの時…」
隆「おい、俺の地獄耳をしょうもないとは何事だ―」
隆平の話も聞かず、賢一は立ち上がって部室の外に出ようとした。
隆「こ、こら!お前また人の話も聞かずに―」
陽「何かわかったの?!」
陽にまで話を遮られ、隆平はショックを受けた様子だった。
賢「犯人の見当がついた。……本人から直接動機聞き出して、テメエのせいじゃねえって教えてやるんだよ。」
そう言って、賢一は部室を出た。その言葉にみな賢一が何を言いたいのかを理解できずにいたが、ハッと思い出すかのように陽が立ち上がる。
陽「あ、待って!私も行く!」
そう言って、陽も賢一を追うようにして部室を出る。
晶「お、おい!…たくっ!自分らも行くぞ!」
晶は不機嫌そうに頭をかいたのち、修丸の手を引っ張った。
修「え?…あ、ちょっと!」
そんな2人を見て、龍路は少し困ったように龍海の顔を見る。
路「えっとぉ…」
海「僕らも行こ、兄ちゃん?」
路「そうだな。」
お互いに小さく笑い、佐武兄弟も部室を出る。
隆「……。ったくよぉ、置いてけ掘りは勘弁だぜ!」
孝「同じく……ってか、あそこまで話聞かされて、犯人が気にならない方がどうかしてる。」
残った2人も、隆平は意気揚々と、孝彦はどこか呆れたように部室を出た。
4(④)
物理室には、先ほど賢一が来た時にはいないメンバーも含めて、今は全員がそろっていた。
遠「え?!」
音が鳴るほどにいきなりドアを蹴破る賢一に、声を上げた遠藤のみならず、物理部員4人と寺尾はひどく驚いた。
霧「おい!いきなりなんなんだよ!」
隆「あ、それ俺らのセリフ!……ったく、お前な、いきなり他の部の部室のドアを蹴破る奴があるか!」
賢「フン…。」
相変わらずのつまらなさそうな返事をするだけで、賢一は悪びれる様子もない。
熊「また君か……今度は何だ?また準備室を見せてくれとでも?」
さすがの熊谷も、怒りこそしないがどこか苦笑気味である。
賢「その必要はもうない。」
川「え?じゃあ、一体何の用でここに?」
賢「篠原の仇を討ちに……なんて殊勝な事を言う気はないが、篠原がどうやって、そしてどうして殺されたのかを教えてやろうと思ってな。」
その一言に、物理部員たちはみな驚きを隠せない。
川「ちょ、ちょっと!殺されたって、何言ってるの?!」
寺「そうだ!篠原は、その…事故で死んだんじゃ…」
賢「寝言は寝て言え。」
寺「え…?」
賢「あれは殺人だ。有毒ガスからの退路を塞ぎ、確実に被害者を死に至らしめる、きわめて単純かつ残忍な方法を用いた……」
熊「退路を塞ぐ?なんのことだ?」
陽「えっと…普通、ガスが発生したら窓を開けたり、外に出たりするでしょう?なのに篠原さんはそのどちらもしなかった。それはどうしてか、ってことよね?」
賢「ああ。…厳密に言えば「しなかった」ではなく「できなかった」だがな。」
遠「どういうこと?」
賢「まあ、順を追って説明していく。まず重要なのは、あのバケツが科学部、化学部、物理部の3つの部活で共用しているという事だ。よりたくさんの集団が1つのバケツを使うということは、中に塩素系の漂白剤や洗剤が入っていても、それが殺意があってのことだとは誰も思わず、しかも誰がそれを入れたかを特定しづらくなり、至極自然に事故を装わせることができることに繋がる。そして2つ目に重要な事は、掃除の内容、および順序が暗黙のうちに決まっていたことにある。」
修「あの、それのどこが重要なんです?」
賢「洗剤を使う作業が、最後にあるところだ。」
熊「最後に?」
賢「ああ。篠原が洗剤を使う作業を始める前、つまり自ら有毒ガスを発生させる前に犯人はあの部屋にあった真空ポンプのスイッチを入れてから、篠原を1人準備室に残し、ドアを閉めたうえで換気扇を止めたんだ。……ポンプの作動音も、活動時間の短い物理部が終わっても練習している、下の階の吹奏楽部の音に紛れちまうだろうしな。」
遠「真空、ポンプ?」
賢一の出したワードに、遠藤は首をかしげている。そのことに気付いた川西は思い出すように説明を始める。
川「ほら、新入生歓迎会で圧力の実験を見せたでしょ?その時に使った機械の事よ。」
その説明の最中に、霧江が何かを思いつく。
霧「あ!もしかして減圧状態か?!」
霧江のその言葉に、賢一はどこか小さくだが、不敵な笑みを浮かべる。
賢「ああ。犯人が準備室から出て、部屋を密室にしてから篠原が洗剤を使う作業に入るまでの掃き掃除や片づけをしている間に、密閉された準備室は外よりも気圧が低くなり、減圧状態になる。…物理部や物理教師のお前たちなら、これくらい知ってて当然だろう?」
寺「そうか!そうしたら窓もドアも、まるでカギをかけたかのように開かなくなってしまう!…だから篠原はあの部屋から出られなかったのか…」
賢「そういうことだ。窓もドアも開かず、換気扇を回すにしてもスイッチは物理室にしかない。篠原がいつもの流れで洗剤をバケツに入れ、塩素ガスを発生させてしまった時は、退路はすでに塞がれた後だったというわけさ。」
隆「ひでぇ…」
賢「あとは篠原が死んだ後、夜でも朝でもいい。誰かがドア越しに篠原を発見する前に、ドアが開かないという不可解な点を消し去るために減圧状態を元に戻してやれば、犯行は終了だ。ここの換気扇は中の空気を外に出すと同時に、外の空気を取り入れる給排気型だから、換気扇を回すだけでそれは可能だからな。まあ、逆にそれでドアも窓も開く状態に戻してしまったがために、「事故だとしたら、なぜ窓を開けたり外に逃げなかったのか」という疑問につながったわけだが。」
海「だけど、犯人はどうやって換気扇のスイッチのある物理室に入ったんですか?普通、部活や授業で使わない時ってこういう部屋はカギをかけるでしょ?」
ふと不思議そうにそんな疑問を口にする龍海だったが、龍路がそれに気付く。
路「いや、カギをかけるのは掃除を担当している1年生で、昨日は1人だけだった1年生の篠原さんはカギをかける前にこと切れたんだから、物理室も準備室もカギは開きっ放しという事になるんじゃないか?」
海「あ、そっか!じゃあ、誰でも物理室に入ることはできたんだ!」
疑問の解決に、どこか嬉しそうにそう言う龍海だったが、その言葉が物理部員たちにある事実を思い知らせる。
熊「でも、待てよ…?そうなると、俺たち全員、篠原を殺すことができたってことじゃないのか?」
賢「全員、ではないだろう。少なくとも部活を休んでいて、かつ真空ポンプの使い方を知らない遠藤に、この犯行は不可能だ。…さっきの様子じゃ、遠藤は真空ポンプ自体を知らなかったようだからな。」
川「ってことは、美紅ちゃんを殺せたのは部長、あたし、霧江の中の誰かってこと?…あ!そう言えば、あんた美紅ちゃんの事、苦手だって言ってたわよね!」
疑いの色を濃くして霧江を見る川西に、霧江は慌てる。
霧「バ、バカ言うなよ!苦手だからってなんで殺さなきゃいけないんだよ!」
熊「霧江、お前…!」
霧江を見る熊谷も、どこか疑心暗鬼な目をしている。
霧「ちょ、部長まで!」
賢「…自分たちで犯人を割り出そうとしているところ、悪いんだが、大事なことを忘れてないか?」
遠「え?」
そう言って、賢一は静かにある人物を見る。
賢「この犯行が行えたのは、何も生徒だけじゃないってことだよ。…なあ、そうだろう?……物理部顧問、寺尾正造センセイ?」
寺「な…?!」
熊「先生が、篠原を…?!」
遠「そんな、まさか…!」
賢一の放った言葉に、名前を出された寺尾はもちろん、物理部員もメディア部員も、みな驚きを隠せない。
寺「い、いきなり何を言い出すかと思えば…私が篠原を殺した犯人だって?……はは、バカバカしいにも程がある。」
賢「バカバカしい、か。フン……お前、自分の生徒に罪を押し付ける気か?」
皮肉そうに小さく笑ってそう言う賢一に、寺尾は衝動的に眉をひそめる。
寺「な、に…?」
賢「オレの話を聞いていたら、の話だが…お前が犯人じゃないのなら、必然的に容疑は物理部員に及ぶだろう?」
寺「わ、私は別にそんなつもりで言ったわけでは…第一、物理部員たちに犯行は可能だと言う状況の中で、なぜ私が犯人にされるんだ?!」
焦りを隠そうとして、余計に慌ててしまう寺尾だったが、そんな寺尾を見て晶も不思議そうに賢一を見る。
晶「そうだぞ、ヨシ…じゃなくて、えっと……ああ、もう!とにかくだ!お前な、何を根拠に寺尾先生が犯人だと言ってんだ?」
賢「篠原が、何も相談せずに帰ったこと。それが根拠の1つ目だ。」
孝「篠原さんが帰ったこと?それがどうして…」
賢一の言葉を不思議がる孝彦に、賢一はどこか面倒くさそうな顔をする。
賢「……篠原が部室を出る前に起きたことは何だ?」
修「えっと、隆平くんと孝彦くんがいつものようにケンカをして…」
賢「それより前だ。」
修「え?んーと……そうです!鳩谷先生が模造紙を持ってきてくれました!」
賢「そう。篠原は鳩谷が来たことで、話をやめて帰ってしまった。」
霧「それがなんだってんだ?」
賢「つまりだ。篠原の相談と言うのは、教師がいる空間ではできない話だったんだ。おそらくは教師の誰かが…詳しくはオレも見当がつかないが、何か、真面目なアイツの見過ごせないことをしている現場を見てしまったんだろう。メディア部に対して調べものは得意か?と訊いてきたあたり、その教師が誰かを調べてもらいたかったんじゃないか?」
賢一の話を聞いて、陽は納得したように言う。
陽「そっか、その教師って言うのが誰かわからなくて、鳩谷先生の可能性もあったから、篠原さんは帰っちゃったんだ。」
賢「ああ。鳩谷が来る直前に「昨日の夜」と口走っていたことから考えても、間違いないだろう。暗い中では、顔なんかよく見えないからな。」
寺「デ、デタラメだ!私が篠原の見過ごせないことをして、それを見られたから口封じに殺したとでも言いたいのか?そんなもの、お前の推論でしかないだろう!」
川「そうよ!…寺尾先生のような方が、そんなひどいことするわけが―」
賢「なんで換気扇も回さず、部屋を閉め切って掃除なんかしてたんだ…」
川西の言葉を遮り、賢一は静かにそう言う。
熊「え?」
賢「これが根拠の2つ目、オレが最初に準備室を調べに来た時、寺尾が言った言葉だ。」
隆「そういや、そんなこと言ってたような…」
寺「それが、どうしたと言うんだ…」
賢「わからないか?この言葉の持つ意味が…」
そう言う賢一としばし睨みあった寺尾だったが、その沈黙を破ったのは賢一だった。賢一はふっと寺尾から目を逸らし、スイッチ盤の方へと歩き出す。
路「お、おい…」
賢「なんで換気扇も回さず…」
そう言って、賢一は準備室の換気扇のスイッチを切った。
寺「!」
賢「佐武のガキが撮った篠原発見時のビデオには、しっかり稼働している換気扇が映っていた。それから、オレが電灯や換気扇のスイッチをいじったか、と聞いた時、誰一人としていじった者はいなかったうえに、遠藤はこう言った。「換気扇はずっと回してる」と。じゃあ、なぜお前は知っていたんだ?篠原が掃除をした時に換気扇は回っていなかったと。」
寺「そ、それは…篠原が掃除をする時に、換気扇を止めていたのを見たから…」
そう言う寺尾の言葉には、すでに落ち着きは消え失せている。
賢「お粗末な言い訳だな。じゃあ、誰が何のために再び換気扇を回した?部屋から出られなかった篠原には到底無理な話だぞ?」
寺「それはさっきお前が言っただろう?!換気扇を回したのは、減圧状態を解除しようとした犯人で…とにかく私は篠原を殺してなんか―」
必死にそう言う寺尾を見て、賢一は呆れるように深くため息をつく。
賢「そこまで言うなら、指紋でも取るか?」
寺「指紋、だと?!」
賢「お前の言い分を信じるのならば、篠原が換気扇を止めた後に、犯人が減圧状態を解除するために換気扇を回したということになる。…とすればだ、お前たちは篠原を見つけてから誰もスイッチに触っていないと言うのだから、その換気扇のスイッチの一番上についている指紋が、犯人を示しているということになるだろう?それでお前以外の指紋が出れば、オレの早とちり、ということになるが…どうする?」
寺「くっ…」
悔しそうにそう漏らした寺尾は、拳に入っていた力をフッと抜いて言った。
寺「ダメだな…」
熊「え?」
寺「そんなことをされちゃ、もはや言い逃れは不可能だよ……」
遠「先生…そんな…!」
晶「認める…ということですか?」
落ち着いてはいるものの、晶もどこか信じたくない、と言ったような顔をしている。
寺「ああ。そうさ、私が篠原を事故に見せかけて殺したんだ。…警察の目をごまかせたところまではうまくいったのに、やはり、昨日突発的に思いついた方法じゃ、見抜かれるのが関の山か。」
そう語る寺尾の顔には、もはや反論する気も失せきっていた。
川「でも、なんで先生が美紅ちゃんを!?どうして?!」
寺「どうして、か…フフ、ほとんど彼の言った通りだよ。口封じさ。」
海「口封じ……」
寺「篠原に見られてしまったんだ、私が来年度の大学の入試問題を横流しする約束をしていた生徒から、金を受け取るところをな。」
孝「入試問題の横流しって……」
寺尾の告白には、孝彦だけでなくその場にいるほとんどの人間が驚いたようだった。
寺「私の兄が、その生徒の志望する大学で入試試験の管理をしていてね、入試問題の入手自体はそれほど難しくないんだよ。」
隆「あの…そーゆーのはよくわかんないんですけど、その……」
何と言えばいいのか言葉に詰まる隆平を見て、寺尾はどこか追い詰められたような表情をする。
寺「……息子が詐欺まがいの被害にあってしまってね、その事を相談されたのは、すでに借金をして金を騙し取られてしまった後だった。……しかも相当慌てていたんだろう、ろくに調べもしないで性質の悪い金貸しから金を借りてしまったらしくて、今は毎日借金取りから逃げ回ってると言っていたよ。……連絡も向こうからの電話を待つしかなくて、たとえ電話をくれたってどこにいるかは教えてくれないんだ。」
そして、寂しそうな表情を浮かべ始める。
寺「とてもいい子なんだ。……騙されたこと自体、息子の人の好さを利用したような手口だったし、居場所を教えてくれないのだって、きっと私に迷惑をかけたくないとでも思っているからだろう。……電話をくれる度に元気のなくなっていく声を聞いて、親として助けてやりたいと思うのは当然だろう?そこで、もともと話を持ち掛けられていた入試問題の横流しの件を呑むことにしたんだよ。向こうが提案してきた報酬額なら、十分息子の借金を返せたからね。それでこっちの事情も話して、先に金を受け取ることにしたんだ。」
霧「先生んとこ、そんなことになってたんスか……」
どこか同情するようなその言葉に、寺尾は自嘲するように言う。
寺「……あの夜、物理部だけでなく、他の部活もとっくに活動を終えた時間を選んで物理室にその生徒を呼び出して金を受け取り、これで息子を助けてやれると思った矢先に廊下から物音がしてな、廊下を覗いたら篠原が慌てた様子で走って行くのが見えたんだ。念のために電気を消しておいたのが幸いしてその時は顔を見られずに済んだようだが、次の日にそれとなく彼女を見張っていたら、彼女は君たち…メディア部を頼ろうとしていた。」
そう言って、寺尾はどこか諦めるような目でメディア部員たちの方を見る。
寺「できてからまだ数年目とはいえ、君たちの情報収集能力の高さは大したものだという評判だ。篠原が君たちに相談をしてしまったら最後、息子を助けることはできなくなってしまう……だから君たちの部室に入って行く篠原を見た時は、もう終わりだと思ったよ……」
そこまで聞いて、陽はフッと不安げな顔をする。
陽「じゃあ、あの時鳩谷先生が来たのって、もしかして……?」
寺「いや、それは偶然だ。私が、篠原が相談をしないで帰ったことを知ったのは、篠原がメディア部の部室を出てからだからな
5(⑤)
―寺(M)「あの時、篠原をメディア部の部室の外から監視していた私は、篠原が部屋を出てきたのを見計らって、偶然を装ってそれとなしに訊いてみたんだ。」
廊下の死角に立ってメディア部の部室を見ていた寺尾の目に、たった今部室から出てきた篠原の姿が映った。それと同時に、寺尾はゆっくりと篠原の後を追うように歩き出す。
寺「篠原、どうした?こんなとこで…」
篠「あ、寺尾先生……いえ、ちょっと、メディア部に相談したいことがあって…でも、忙しそうだったから、また明日来ようと思って。」
寺「なんだ、何も話してこなかったのか?」
篠「ええ。」
寺「そうか。…もし私でよかったら、話だけでも訊くぞ?」
篠「いえ、大丈夫です。大したことじゃないですから。」
少し疲れた顔でそう言った後、篠原は小さく会釈して物理室へと向かって行った。―
⑥
寺「今日中にコイツの口を塞がなければ、メディア部は動き出す。…そうなる前にと、そう思って篠原を事故に見せかけて始末しようと決めたんだ。」
そう語る寺尾の口調は、冷静を装ってはいるものの、どこか後ろめたさを帯びていた。
熊「先生、あの…1ついいですか?」
寺「なんだ?」
熊「もし…もし昨日、遠藤が部活を休んでいなかったら、篠原を殺したりはしなかったんですか?……先生が口を塞ぎたかったのは、篠原だけだったんでしょう?」
熊谷の問いに、寺尾はふっと自嘲するような、疲れ切った笑みを見せる。
寺「逆だな…」
遠「え…?!」
寺「もはや私には、篠原があの部屋で掃除をするあの時しか時間はなかった。そこに誰がいようと、一緒に死んでしまえば問題はない。」
遠「な…!」
恐ろしさに思わず顔に手を当てる遠藤。そんな遠藤を見て、賢一は小さくも眉をひそめる。
賢「もういい……」
寺「何だって…?」
賢「強がるな。今の、誰を殺そうとかまわないと言う話……自分で手にかけたとはいえ、生徒の死に涙を流すような人間の口から語られる話ではないと思うが。」
川「え……なにそれ、どういうこと?」
その時、熊谷が思い出したかのように賢一の方を見る。
熊「あ、もしかしてさっき部室に来た時に先生のこと見てたのって……」
晶「さっき、って…なんかあったのか?」
そんな熊谷を、晶も不思議そうに見る。
熊「いや、さっき部活始まる前に彼がここに来てさ、準備室をもう一度見たいって。その時に先生がほら…」
そう言って熊谷は準備室へのドアまで歩いて行き、ドアを開けた。
熊「あの花、あっちの背の高い花は遠藤が活けてくれたんだけど、他のはもともと先生が持ってきたものなんだ。それでさ、神童くんが来た時、先生、あの花の前で手ぇ合わせてたんだ。それで神童くんが来たって知らせて先生が部屋を出る時に、彼、何かに気付いたみたいにずっと先生の方を見てたんだけど……そっか、先生泣いてたんだ……」
賢「泣いてた、というほどのものでもないかもしれない。だが、あの時の寺尾の目は明らかに充血してたし、潤んでもいたように見えた……あの時は熊谷もオレも、別に寺尾を見ていたわけではないからな、悲しむ演技をする必要もないだろう?なのに寺尾は泣いていた。……後悔、もしくは反省をしているうえで、これ以上何を背負おうとする?」
その言葉に、寺尾はどこか意外そうな驚きを見せている。そして、それは意味は違えど陽も同じだった。そして少しの沈黙の後、賢一は静かに出入り口へと踵を返した。
路「おい……」
心配そうに声をかける龍路だったが、まるで聞こえていないかのように何の反応も見せない賢一。そして物理室を出ようとする直前に立ち止り、みんなに背を向けたままに話し始める。
賢「オレは別に、警察の手助けをするために篠原を殺した人間を暴いたわけではない。これからどうしたらいいかは、お前が自分で考えるんだな。」
霧「…どーいうことだ?」
不思議がる生徒たちの中で、霧江が先陣を切って口を開く。
遠「もしかして、自首しろってことでしょうか……」
そんな話を聞いて、物理室の出入り口に近い所に立っていた修丸が、少しおどおどと訊く。
修「そういうこと、なんですか……?」
その問いに、賢一は振り向きもせずにそっと自分の胸に手を当てて切なげな顔をする。
賢「さあな……まあ、少なくともアイツなら、たとえ相手が殺人犯だとしても、ここまで追い込まれた人間をこれ以上追い詰めようとはしない。」
そこまで言って、賢一は寺尾の方を振り返った。
賢「ここにいる人間全員がそれを許すのなら……篠原を殺したことを悔いているのなら……今のうちに自首することを勧めておく。」
そうとだけ言って、賢一は部室を出て行った。
寺「篠原……」
緊張の糸が切れたのか、寺尾はこぼすようにそんな言葉をつぶやいた。そして、その瞬間に頭をよぎっていくのは、後悔が見せた幻だったのか……
⑦
―篠「あの、寺尾先生って物理部の顧問なんですよね?」
物理の授業が終わると同時に、教卓の上を整理している寺尾のもとに元気よく駆けてきてはそう言う篠原。
寺「ああ、そうだよ。」
優しいその言葉に、篠原は嬉しそうに、そしてどこか緊張気味に言う。
篠「……あの、入部届って先生に出せばいいんでしょうか?」
その言葉に寺尾は小さく驚くも、嬉しそうに言う。
寺「もしかして、入部希望かい?」
篠「はい!あの、それで今日見学とかって……」
寺「大丈夫だよ。……2階の物理室はわかるね?放課後待ってるから、遠慮せずにおいで。」
篠「ありがとうございます!」―
―篠「霧江先輩!…学校では携帯の電源切らないとだめですよ!」
霧「わぁったよ、ったく……」
部活の最中に、癖で携帯で時計を見ようとした霧江を見て、篠原が注意をしている。
熊「篠原はホントに真面目だな。…霧江とは正反対だ。」
川「ホントですね!…でも美紅ちゃん、あんまり真面目すぎると疲れちゃうかもよ?」
その言葉に、篠原は少し困った顔をする。
篠「あの、やっぱ真面目すぎるって問題ですか?」
そんな篠原に、寺尾が優しく言う。
寺「問題なんかじゃないさ。…自分の思ったことをはっきり人に伝えられるのはなかなか難しいことだし、それをしっかりとできる篠原は大したものだよ。」
篠「先生……」―
―授業の終わりに、授業中の疑問を質問し終えた篠原は教卓でノートをまとめながら嬉しそうに言う。
篠「先生の説明って、私すごく好きです!」
寺「そうか?」
少し苦笑気味にそう言う寺尾に、篠原は続ける。
篠「はい!……わかりやすいっていうか、その人に合った教え方をしてくれるでしょう?そう言う先生、他の教科ではあんまりいないから……」
寺「ありがとう、篠原。そう言ってくれると教えがいがあるってもんだよ。」
篠「私、教師じゃなくっても、先生みたいに関わる人、1人1人と向き合えるような大人になりたいなぁ…」
憧れを抱いてそう言う篠原を、寺尾はどこかくすぐったそうに見ていた。―
―部活が終わり、篠原が掃除をしようと準備室に入ったのを見て、ためらうようにその後をついて行く寺尾。
篠「あれ、先生どうしたんですか?」
寺「ああ、いや……ほら、洗剤が無くなりかけてた気がしてね、これを渡してから帰ろうと思って。」
そう言って寺尾が手渡したのは、酸性の洗剤だった。
篠「あ、ありがとうございます!……結構面倒くさいんですよね、洗剤もらいに行くのって。」
苦笑いしてそう言う篠原に、寺尾はすでに、素直に笑ってあげられなかった。
寺「じゃ、じゃあ私もそろそろ行くよ。……ドアのとこ、掃きづらいだろうから閉めていくよ。」
篠「はーい!」
篠原がそう言って掃き掃除を始めたのを見計らい、寺尾は吹奏楽部の音に稼働音が紛れることをいいことに、篠原が見ていない隙に静かに真空ポンプのスイッチを入れ、逃げるように物理室を後にした。
寺「(すまない……!だが、あのことがバレては、あの子の借金は返せないんだ……!)」
悔やむ気持ちをぬぐい切れずに、寺尾は廊下を走って行った。―
⑧
寺「すまない……篠原……!」
流しこそしなくとも、先ほど賢一が言っていたのと同じように、目を充血させて涙を溜め、悔いるようにそうつぶやく。
熊「先生……」
不安げに寺尾を見る熊谷に、寺尾は小さく、どこか荷が下りたような顔で笑う。
寺「自首をすれば少しでも罪が軽くなる…そんな思いで自首をしに行くわけではないと、篠原はわかってくれるだろうか……」
川「大丈夫ですよ……美紅ちゃんなら、きっと先生も辛かったんだってわかってくれます……」
川西の言葉を聞いて、寺尾は安心したような表情を見せる。
寺「そうか……」
一言そう言って、寺尾はメディア部員たちの方を見る。
寺「君たちにも迷惑をかけてしまったな……」
そう言ってから、寺尾は出入り口へと歩き出す。
寺「よかったら、「犯行を悔いていることに気付いてもらえて、救われた気分だ」と、神童くんに伝えてくれ。」
出入り口の付近でそう言う寺尾。
陽「わかりました……」
陽の答えを聞いて、寺尾は部室を出て行った。
遠「でも……神童くんの言ってた「アイツ」って、誰のことなんでしょうね?」
霧「さあな……親友とか、そーゆう人じゃねえのか?」
そう不思議がる物理部員たちの横で、メディア部員たちも何かを不思議がっている。
孝「にしても賢一の奴、1人で篠原さんの死の真相を突き止めちまうなんて……」
晶「先生が泣いてたことに気付くとか、人の感情に敏感なとことかはいつも通りの気もするが……あの人を寄せ付けない雰囲気とか、頭の回転の速さや記憶力は、常人の物じゃなかったよな。」
路「まったく、どうなってんでしょうね……」
そんな話を聞きながら、陽はどこか不安げに物理室の出入り口を見つめていた。
⑨
家に帰った賢一はまた自分の部屋に閉じこもり、陽は彼を気遣って、部屋の外側のドアによしかかっていた。
陽「寺尾先生がね、あなたにお礼を言ってたわ。犯行を悔いていることに気付いてくれて救われたって。」
賢「……。」
陽が部屋の外にいることにとっくに気づいていた賢一も、陽はわからなくとも、同じくドアを背に立っていた。そして何も答えない賢一だったが、陽はふと話題を変えてくる。
陽「……。ねえ、アイツってヨシくんの事でしょ?」
賢「だったらどうした。」
陽「どうした、ってことはないけど…でも、よかった。」
賢「よかった?何が……」
陽「あなたとヨシくん、全然性格が違うからもっと平気で冷酷なことができるかと思ってて、少し怖かった。けど、あなたは先生にとって一番いい方法を選ばせてくれたから。あなたが事故ではなく事件だって調べてくれたことで、篠原さんもきっと浮かばれただろうから……」
賢「フン……。勘違いするな。オレはただ、篠原を事故に見せかけて殺し、ほくそえんでいる野郎の面を拝みたかっただけだ。それに、なぜ篠原が有毒ガスの発生する部屋から逃げ出さなかったのかも引っかかっていたしな。……あんなの、ただの暇つぶしだよ―」
陽「嘘。」
賢一の言葉を遮り、優しくも力強くそう言う陽。
賢「な―」
陽「あなた、ヨシくんのために事件を解決してくれたんでしょ?」
賢「賢一の為だと?……フン、寝言は寝て言え。」
陽「寝言なんかじゃないわ。篠原さんを殺した犯人は、ヨシくんの心を追い詰めた犯人でもある……こう言ったら篠原さんに悪いかもしれないけど、あなたはヨシくんを傷つけた犯人が許せなかった。篠原さんの死に関して、悪いのはヨシくんじゃないって教えてあげるために、事件のことを調べて―」
賢「寝言は寝て言えと何度言わせりゃ気が済む!なんでオレがアイツのために……ったく、お前と話していると調子が狂う。」
陽「ごめんなさい。」
そう言いつつも、陽の声は優しかった。そしてしばらくの沈黙が訪れる。
賢「……。賢一に、自分を責めるなと伝えておけ。」
陽「え?」
聞き返す陽だったが、賢一はもう一度言うでもなくベッドへと歩きはじめる。
賢「バカどもの相手をしまくったせいで疲れた。オレはそろそろ休む。」
陽「あ……ちょっと待って!」
その一言に、賢一はベッドとドアの中間あたりで立ち止まり、ドアの方を向く。
賢「……ったく、休むだけで何を待てと言うんだ…」
陽「えっとね……その、ありがとうって言いたくて。」
賢「それは、なんの礼だ……?」
陽「あなたのおかげで、ヨシくんはきっとまた元気になってくれる気がするから……あとなんとなくだけど、あなたがいてくれるおかげでヨシくんも存在している気がして……だから、ありがとう。」
賢「そんなことで礼を言われる筋合いはない……話はそれだけか?」
陽「うん。ごめんね、疲れてるのに……」
そう言って、陽は少し迷うように言葉を呑む。しかし、決意と優しさに満ちた顔で賢一の部屋の方を見る。
陽「ゆっくり休んでね。……ケンイチくん。」
賢「ケンイチ……」
豹変してからは珍しく、不思議がるような口調の賢一に、陽は優しく言う。
陽「ヨシくんの名前で呼ばれるのが嫌なら、あなたも名前を持てばいいと思って。」
賢「名前だと?そんなもの、オレには必要ない。」
陽「いいえ、きっと必要な物よ。あなたはちゃんと存在している。なのに名前がないなんて、それは悲しすぎるじゃない……あのね、賢一(よしかず)って書いて、ケンイチって読むの。……いや?」
賢……ケ「フン……勝手にしろ。」
その一言に、陽は嬉しそうな顔をする。
陽「今回は本当にありがとう。おやすみ、ケンイチくん…」
ケ「…おい、宗光。」
賢一の部屋の前から去ろうとする陽を、賢一…ケンイチがそっけなくも呼び止める。
陽「え、何?」
ケ「……」
陽「ちょっと、ケンイチくん?」
不思議がってドアを開けた陽の目に飛び込んできたのは、ベッドに座っている見覚えのある顔だった。
賢「あ…」
陽「ヨシ、くん……?」
賢「ひな……」
陽「ヨシくんに戻ったのね……」
安心したようにそう言う陽に、賢一は少し黙り込んでから、申し訳なさそうに言った。
賢「心配、かけちゃったね…ごめん…」
陽「知ってるの?あなたが気を失ってからのこと…」
賢「うん…うまく言えないけど、彼の行動はとか話したこととかは伝わって来ていたし、彼が見聞きしたことだって、全部僕も感じてた。事件のことも、ひなのことも……あと、さっきのケンイチって名前のことも。」
陽「そう…」
何とも言えない複雑な表情でそう一言答える陽に、賢一は優しく笑って言う。
賢「ケンイチ……すごくいい名前だと思うよ。彼、きっと喜んでくれてるんじゃないかな?」
陽「そうかしら……顔は見ないで話してたからわからないけど……」
賢「僕だって本当はどうかなんてわからないけど……でも、すごくそんな気がするんだ。「嬉しい」って気持ちが、伝わる気がする……」
陽「そう……よかった……」
そう言って、陽は賢一の顔を優しく見た。
陽「……もう、大丈夫なの?」
賢「うん。……ケンイチのおかげ、かな……―!」
そう言う賢一を、陽の腕が優しく抱え込む。その抱擁に、賢一も嬉しそうに陽を軽く抱き返した。
陽(M)「私はそれ以上何も言わずに、ただギュッとヨシくんを抱きしめてあげるだけでした。ヨシくんも、私と同じで何も言わず、そんな私を抱き返してくれて……ヨシくんが帰ってきた。それも、あの優しい笑顔が壊れないままで……それが誰のおかげか、私は絶対に忘れない。ヨシくんを守ってくれて、ありがとう。ケンイチくん……」
⑩
陽・賢「いってきまーす!」
父「おう、気をつけてなぁ!」
翌朝、いつもの時間に2人は玄関を出たが、それが間違いだったことに気付くのすぐ後のことである……
賢「あ、チャリンコがない!」
陽が玄関の戸を閉めている時、自転車を置いている場所からそんな声が聞こえる。
陽「え?!…あ、そうよ!ケンイチくん、自転車乗れないからって学校に置いてってたんだった!…って、ヨシくん、ケンイチくんの行動も知ってるんだじゃなかったの?」
賢「いや……その、そうなんだけどさ……すっかり忘れてた…」
その一言に、陽は珍しく心の底から呆れてしまう。
陽「もう~、しっかりしてよ…」
そう言ってむくれた陽だったが、バツ悪そうにしている賢一と目が合うと、2人でにっこり笑った。
陽「遅刻なんて嫌だから、走るわよ!」
賢「うん!」
陽「でも、疲れたら私のペースに合わせてよね。」
賢「了解しました!」
わざとらしい敬語の後に、2人は一緒に走り出す。
陽(M)「確かにケンイチくんはすごかった。もしケンイチくんが現れないでヨシくんのままだったら、篠原さんの死の真相はきっと明かされなかっただろうから。でも、頭が悪くたって、不器用だって、ヨシくんはヨシくんなんだから…ただそれだけで私はいいの。そんなヨシくんが私の隣にいてくれることが、私の……大切な当たり前だから…」
賢「ひな、早くー!」
陽「わかってるー!」
走りながら、陽は思い出したかのように賢一を見た。
陽「そう言えばヨシくん、宿題終わったの?」
賢「終わるわけないじゃん。」
陽「またあ!そんなことじゃあ留年しちゃうよ?」
賢「大丈夫だよ、体育の成績はいいんだから。」
陽「もう~!高校はそんなに甘くないんだから…」
今日もまた、こうして「当たり前」の1日が始まろうとしていた…