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表裏頭脳ケンイチ
第9話「賢一とケンイチ」~後編~
⑩(3)
晶たちの乗る車から見えない位置にある、かつて賢一が小さな手でこじ開けた廃工場の搬出口の前でケンイチは立ち止まる。そして上着のポケットからサンストーンを取り出し、切なげな眼差しでそれを見つめる。
ケ「お前まで失う訳にはいかねーんだよ……」
小さくも切実にそうつぶやき、ケンイチはサンストーンをギュッと握りしめる。そしてその手を上着のポケットに突っ込んでサンストーンをしまい、おそらく鳩谷が付け直したのであろう、搬出口をふさぐ真新しそうな戸と壁の間のわずかな隙間に、かつての賢一と同じく指を入れて力を込める。だが戸はなかなか外れる気配はなく、10年の歳月で体が成長したにもかかわらず、ケンイチは10年前と同じほどの無力さを痛感する。それは搬出口の戸が新しく付け替えられていたからというだけなのか、それともケンイチが10年前の賢一と同じほどしか力がないからなのか、それはケンイチにもわからなかった。
ケ「……っ!」
しばらく粘ったおかげか、搬出口の戸は大きな音を立てて外れた。その音に、中にいた鳩谷は小さく、陽は大きく驚きを見せる。その中へ、ケンイチが静かに入ってきた。
陽「ケンイチ、くん……」
鳩「……さすがだな、ここに来たってことは、あの暗号が解けたんだろう?」ケンイチを見てそう言った鳩谷は、まるで待ち合わせ相手を見つけた子供のように、なぜか少し嬉しそうに見えた。
ケ「……」
鳩「まあ、お前ほどの頭脳があれば、あれくらいの暗号は解けて当たり前か。」
そう言って、鳩谷は少しぶらぶらと歩きながらケンイチを見る。
鳩「懐かしいだろう?……お前の大好きな智香子が死んだ倉庫だ。ちょうど……」
そう言って、鳩谷は陽を見る。
鳩「宗光がいるあたりで、智香子は死んだんだったな。」
ケ「……智香子は、あれからどこにいったんだ。」
何も知らない人からすれば意味を成さないその質問の意味を、鳩谷は理解していた。
鳩「安心しろよ、智司さんが智香子の母さんの隣に墓を建てた。……今となっちゃ、並んでいるのは親子3人になってしまったがな。」
陽「3人って……」
驚く陽を一瞥し、鳩谷は小さく反応を見せただけのケンイチを見る。
鳩「智司さんは、智香子が死んでから狂ったように毎日毎日酒に酔い浸って、智香子の後を追うようにあの事件から1年もたたないうちに亡くなった。……智香子の復讐を遂げることができる人間は、もう俺しか残っていないんだよ。」
切なげな顔でそう言った後、鳩谷はふと思い出すかのように言う。
鳩「…それにしても早かったな。徒歩だとすれば閏台市からここまで、普通ならもっと時間がかかるはずだが。」
ケ「……あいつらが、助けてくれた。」
鳩「……メディア部か。」
ケ「ああ。」
ケンイチの言う「あいつら」が誰なのかわかっていたかのような鳩谷の言葉に、ケンイチは表情1つ変えずにただそう答える。そして鳩谷を見据えて静かに話し出す。
ケ「ここまで響鬼が車を運転してくれたから、智香子が死んだ時間までにここに辿り着けた。…オレの向かう先がどこであっても大丈夫なように、地図帳を持って響鬼の隣で道を指示してくれていたのは湯堂だ。…湯堂の持ってきた地図帳を、図書室のカウンターから持ち出してくれたのは幾永で、写真部顧問の六角に車を貸してくれるよう頼んだのは佐武の兄だと聞いた。それに10年前の賢一と同様に、1人で慌てて部室を飛び出したオレと響鬼たちが合流できるようにと、インターネットの制限のかかった学校のパソコンの設定を変えてインターネットを繋ぎ、近宮が連絡用にとオレに持たせてくれていた携帯のGPSを使ってオレを探してくれたのは佐武の弟だ。それができたのも、近宮が携帯を貸していてくれたから……」
そこまで話し、ケンイチは自信を失くすようにうつむく。
ケ「ここに来るまで、あいつらはずっとオレのことを支えてくれた。オレ1人では、決してお前の言うタイムリミットだかには間に合わなかっただろうな……」
そう話すケンイチを、陽はただ不安そうに見ているだけであるが、鳩谷は皮肉な笑みを浮かべる。
鳩「なんで……俺の担当している部活の生徒に限って、バカな奴らが集まったんだろうな。お前のような化け物に揃いも揃って力を貸す……まったくもって理解できないよ。」
陽「やめてください……」
小さくも力づよくそうつぶやいた陽に、鳩谷は少し不思議がって彼女の顔を見る。
鳩「なんだって?」
陽「ヨシくんもケンイチくんも……!化け物なんかじゃありません!」
その言葉に、ケンイチは悲しそうに反応を示し、鳩谷は小さくも嫌悪な顔をする。
鳩「……まあ、確かにお前の知っている賢一は記憶も失くして、そのうえ頭の方も普通…いや、それ以下かもしれないくらいによくないからな。少なくともお前の弟は化け物には見えなかったかもしれない。」
それから、鳩谷は自嘲するように言う。
鳩「だが、俺の知っている神童賢一は化け物としか言いようがない子供だった。それに、今俺たちの目の前にいるこの男はどうなんだ?……今年度になってメディア部の周りで起き始めた、異常なほどに多い殺人事件。事故や自殺を装い、警察ですら犯人に騙されたケースも多かった。それなのにこいつは普通の高校生…いや、高校生でなくとも普通は到底知っていないだろう知識を使い、少ない情報から殺人犯を導き出し続けてきた。……言動や雰囲気こそ違うが、俺の知っている神童賢一とまったく同じだ。」
その言葉に、ケンイチは小さく眉をひそめる。
鳩「……メディア部の連中はお前のことを「ケンイチ」なんて、さも賢一とは別の人間のように扱ってきているが。……実際はどうなんだよ?」
そう言って、鳩谷は挑発するようにケンイチを見据える。
鳩「お前、本当は記憶喪失でも多重人格でもなくて……ずっと記憶を失くしたフリをしてきただけじゃないのか?智香子を殺した罪悪感から逃れようとして、記憶を失くした頭のよくない子供を演じてきて……それでいて物理部で起きた事件の時にボロが出そうになって、頭が悪く記憶を失くしたままの賢一であり続けるために、ケンイチなんてくだらない人格を演じているんじゃないのか?……そうなんだろう、賢一―」
ケ「黙れ!!」
ひどく……怒りと悲しみを含んだ声だった。その怒号に、鳩谷は別に気を悪くするでもなく、口を閉じる。
ケ「オレは……オレは賢一じゃない!……オレはケンイチだ!!」
その言葉に、陽は言葉にはせずとも驚きを隠せなかった。それはまるで、口裂け男の事件の時に犯人である田代に名を聞かれ、自ら「ケンイチ」の名を名乗った彼を見た時と同じような…そんな驚きだった。そして、その事には気付かずにケンイチは悲しさをこらえるように話だす。
ケ「確かにオレは賢一と共に生まれ……賢一の一部として生きてきた……」
そこまで言って、ケンイチは泣きそうな声になってうつむいてしまう。
ケ「ずっと……賢一を不幸にすることしかできない、いらない存在だと思っていた。」
そう言って、ケンイチは顔を上げた。
ケ「だけど宗光は……!賢一は賢一で、オレはオレだと言ってくれた……賢一だけじゃなく、オレのことも必要としてくれた……オレの存在を、認めてくれたんだ……!」
初めて聞いたケンイチの本音に、陽は何とも言えない気持ちになる。自分が当たり前に思っていた、ケンイチにとっては鬱陶しいかもしれないその想いを、その本人がしっかりと受け止めてくれていた事。それらが安心と喜びと、そして自分の気持ちが賢一とケンイチ、2人に対して何かが違う事への不安となって陽にのしかかる。
鳩「じゃあ、結局お前は何者なんだ?賢一でないと言っても、お前のその体、その頭脳は紛れもなく賢一の物じゃないのか?」
つまらなさそうな顔をする鳩谷のその問いに、ケンイチは少し前のやりとりを思い出し、静かに目を閉じる。
―晶「そう言えば……お前は結局何者なんだ?さっきの、賢一の記憶を奪たっていうのは……」
ケ「オレは……オレは賢一の―――」―
その時に放った答えを頭の中に反芻し、ケンイチは静かに目を開けた。そして逃げを微塵も感じさせない眼差しで、まっすぐに鳩谷を見据える。
ケ「オレは……かつて化け物と呼ばれた賢一の頭脳そのものだ。」
その答えに、陽も鳩谷も、小さいながらも驚きを見せる。
鳩「頭脳、だと……?」
いぶかしげな鳩谷だったが、陽はどこか納得するようにケンイチを見る。
陽「ヨシくんと一緒に生まれたって……そういうことだったんだ……」
ケ「賢一が絶対的記憶力を持っていたことも、あの頃は今のような自我を持っていなかったオレが、賢一が見たこと聞いたことを見境もなく記憶していったから。賢一が尋常でない頭の回転の速さを誇っていたのも、ただアイツが考えようとする気持ちに、オレがふんべつなく反応して動いてしまったから。理解力の高さだって、オレが本来あるべき脳の成長の早さを無視して、自分ですら知らない限界まで肥大していこうとしていたから……」
そこまで話し、ケンイチはふと泣きそうになって言葉を一度呑んでしまう。それから、一息置いて言う。
ケ「あの頃は……自我を持たなかったあの頃はオレのその行為が賢一を不幸にして……智香子を失ってしまうことになるなんて、知ることすらできなかったんだ……」
鳩「冗談も休み休み言え!……お前が賢一の頭脳なら、なぜ!今こうして俺の目の前にいる?脳みそが主人を押しのけて独り歩きをするなんて、そんなバカな話があると言うのか?!」
怒りを含んだその口調に、ケンイチは静かに答え始める。
ケ「確かに、オレは自我も何も持たない賢一の脳の一部でしかなかった。だが賢一が、生まれて初めて考えることをやめたあの瞬間……目の前で智香子が死んだあの瞬間に、オレは賢一とは別の人格として、自我を持って生まれたんだ。」
陽「それって……ヨシくんが死んでしまわないように……?」
その言葉に、ケンイチはどこか寂しそうな顔をしてうつむく。
ケ「それは、わからない……結局のところ、オレさえいなければ賢一は智香子を失うことも、自ら死のうとすることもなかった……なのに賢一を守るために生まれた、なんていうのもおかしな…いや、都合の良すぎる話だろう……」
そしてひどく後悔の色を見せるケンイチ。
ケ「だけど……それでもオレは思ったんだ。賢一に死んでほしくない、化け物でも神の童でもなく、普通の子供として生きてほしいと!……だから、賢一が生きようとすることを妨げる今までの記憶を抱えて、オレは奴の脳から分離した。分離して、賢一の中の絶対に陽の当たらない心の奥底で……賢一を生かすためだけに存在しようと決めたんだ。それがオレにできる、賢一と智香子への償いだと思ったから……」
今まで黙って話を聞いていた鳩谷が、小さく、ひどく呆れたため息をつく。
鳩「だからなんだ。智香子が死んだのは賢一の頭脳であるお前のせいであって、賢一は悪くないとでも言いたいのか?」
冷淡にそう言い放つ鳩谷。
鳩「そんな都合のいい話に、誰が納得すると思うんだ?……お前が何と言おうと、あの時賢一が勇み足を踏んでここに1人で乗りこんだりしなければ、あの男だって逆上して発砲することはなかった。…それ以前に、賢一の存在さえなければあの誘拐事件だって起きなかった……」
そこまで静かに語り、鳩谷は一気に憎しみを込め、思わずその場で強く足を踏み鳴らした。
鳩「それに、お前が賢一の頭脳であって、賢一が本当に記憶を失くしているという話を信じるとしてもだ!…智香子のことを忘れて、その「カワリ」を見つけてのうのうと今日まで生きてきやがって……そんなこと、許されるわけがないだろうが……!」
陽を指差してそう言い放ち、それから鳩谷の声は震えはじめる。
鳩「それじゃあ……智香子があんまりにもかわいそうじゃないか!!」
それは、悔しさを隠しているような、もしくは涙をこらえているような声だった。
鳩「認めたくなんかなかったがな……血の繋がりなんて気にもしないで、智香子は本気で賢一のことを愛してたんだ!自分の持てるすべての時間、すべての愛情……智香子は人生のすべてを賢一に捧げてた!なのに賢一のせいで命を落として、そのうえその賢一が今は智香子のことを何もかも忘れて…智香子のカワリを見つけて…何事もなかったかのように毎日を幸せそうに……そんなこと、許せるわけないだろうがぁ!」
悲痛にそう叫んで、鳩谷は上着の内ポケットから刃物を取り出し、その切っ先を陽に向ける。
ケ・陽「!」
鳩「智香子が死んで、それからは智香子のことも賢一のことも忘れようと必死だった!必死だったのに!!お前たちが現れたせいで……智香子に生き写しの宗光と、智香子のすべてを奪った張本人の賢一が俺の前に現れたせいで……!否が応でもあの時のことが頭の中から抜けなくなった!寝ても覚めても、智香子の悲しそうな顔が焼き付いて、離れなくなった!!お前らさえいなければ……あの時のことなんて、思い出さずに済んだかもしれないのに……」
段々と、また語尾が震えだす鳩谷。そして何を思ったか、自暴気味にふっと小さく笑みを浮かべる。
鳩「お前たちと出会って少しして、気付いたんだ。智香子が悲しい顔をしているのは、命も未来も、すべてを捧げた男にものの見事に裏切られたことが悲しいからだって……今頃になって賢一が俺の前に現れたのは、智香子が、賢一への復讐を俺に任せたいからなんだって……」
そして、鳩谷の顔には一気に憎悪が押し寄せる。
鳩「だから!智香子を惨めにさせる存在を……智香子のカワリの宗光を殺して、お前に絶対に消えない絶望を与えてやるって決めたんだ!智香子の無念を晴らしてやるって………!それが俺にできる、智香子の敵討ち……賢一への復讐なんだよ!!」
ケ「ふざけるな!!……何が復讐だ!!宗光を殺したところで、智香子が救われるとでも本気で思ってるのか?!」
鳩谷の主張に間髪入れずに、ケンイチも悲しさと怒りの入り混じった怒号を放つ。
鳩「ふざけてるのはお前の方だ!…都合の悪い事だけ賢一に忘れさせて、今の今まで宗光を智香子のカワリにして―」
ケ「カワリなんかじゃねえ!!」
その怒号に、鳩谷は思わず言葉を呑んでしまう。そして陽は、ケンイチの抱える想いの、何かをしっかりと感じた。
ケ「智香子のカワリなんて……この世のどこ探したっている訳ねえだろうが!」
そう言って、ケンイチは陽を見た。
ケ「宗光もそうだ!この世のどこ探したって宗光のカワリはいない!神童智香子も、宗光陽も……誰のカワリなんかじゃねえんだよ!」
その言葉に、鳩谷は悔しそうに言い返そうとする。
鳩「で……でも!いくらなんでもおかしいじゃないか!容姿も、性格も、賢一の姉であるという事実も!」
そこまで言って、鳩谷の胸中には悔しさがこみあげてくる。
鳩「それに……なんでお前のような化け物を、愛すことができるんだ!そんなこと、智香子にしかできないじゃないか……!」
その言葉に、ケンイチはひどく悲しげな顔をする。
鳩「…なんだ、今度はもう反論はないのか?」
無理に余裕を作るようにそう言う鳩谷に、ケンイチはうつむく。
鳩「……見ろ、やっぱり宗光は智香子の―」
ケ「オレは……賢一を生かすためには弱くあってはいけないと思った。」
鳩谷の言葉を遮り、うつむいたままそう話しだすケンイチを、鳩谷は不思議そうに、陽は心配そうに見ている。
ケ「その結果、オレの人格は皮肉にも、厳格で人の痛みを知ることのなかった智司の人格そのものとなってしまった……」
そこまで話し、ケンイチは顔を上げた。
ケ「でも…賢一は違う!アイツはどんなに辛い思いをしようと、決して他人を責めることはなかった!どんなに自分が苦しい時だって、いつも他の人間の心境を第一に考えて行動していた!…生まれ持ったその優しさを、賢一は……智司からどんなに憎まれようとも失うことはなかった……オレに記憶を奪われようとも忘れることはなかった……!」
そこまで言って、ケンイチは流しこそせずとも、目に涙が溜まっていくのを感じる。
ケ「智香子や宗光が、思いやりのある人間だから……それももちろんある。だけどな……賢一が智香子や宗光に愛されるのは、他でもない賢一の優しさがあるからなんだよ!!宗光が賢一を智香子のように受け入れ、弟として愛してくれているのは、宗光が智香子のカワリだからなんかじゃない!1人の人間として、賢一の優しさに惹かれたからなんだ!」
そして、ケンイチは問いかけるように鳩谷を見る。
ケ「お前も、たとえ賢一に見せてきた態度が偽りだとしても……教師として、顧問としてこの1年間賢一と接してきて……それくらい気付いてるんだろう?!」
その一言に、鳩谷はふっと…おそらく本人は思い出したくも、認めたくもなかった事実が頭をよぎっていく。
⑪
―鳩「神童、もう帰っていいぞ……?今日は部活もないし、宗光も待ってるだろう?」
鳩谷が授業でよく使う語学教室で、教室がオレンジ色に染まるほど日が暮れた時間に、賢一と鳩谷は何かを探しているようだった。
賢「大丈夫ですよ。……なくしたペンって、大事な物なんでしょう?」
鳩「ああ……もうずっと前の話だが、大事な人からもらった物だからな……」
賢「だったら、見つかるまで付き合いますよ!……それくらい、僕にもできますからね。」
鳩「そうか……ありがとう。」
快くそう言う賢一に、鳩谷は複雑そうにそう答える。鳩谷のなくしたペンというのは、智香子の遺品であった。
鳩「でも、お前も気付かないふりして素通りすればよかったのに……実際、何人か生徒と目はあったけど誰も手伝いになんて来てくれなかったぞ?」
賢「だって、先生どう見たって困ってたじゃないですか。…こう言ったら僕の自己満足かもしれませんけど、やっぱ困ってる人見て放っておくの、嫌なんですよね。」
少し恥ずかしそうに苦笑するその顔を見て、鳩谷は小さく笑った。
鳩「ったく、お前はとんだお人よしだよ。……でも、本当にありがとな。」
次の日、休み時間に鳩谷は陽の机の近くに行く。
鳩「宗光、昨日はすまなかったな。」
陽「え、昨日…ですか?」
不思議そうに訊き返す陽に、鳩谷も同じように不思議そうな顔をして返す。
鳩「いや、俺の探し物に神童を付き合わせちゃったから、帰るの遅くなっただろう?」
陽「あ、そうだったんですか?」
そう言って、陽は苦笑気味にも優しい笑顔になる。
陽「ヨシくん、昨日は筆入れをなくして、それで探し回って遅くなったって言ってたんですけど……」
その言葉に、鳩谷は思わず小さくも驚く。
鳩「え…?いや、でもアイツ、俺の探し物が見つかったらまっすぐお前のとこに行ってたが……」
陽「あの、私が先生からこのこと聞いたって、ヨシくんには内緒にしといてくださいね。あの子なりの気遣いだろうから……」
どこかいたずらっぽくそう言う陽に、鳩谷もつられるように小さく笑う。
鳩「ああ、わかった……」―
それから、鳩谷の脳裏には部員たちの声がよぎっていく。
―晶「前に、女らしくできないのはやっぱ変かなって賢一に愚痴ったことがあるんです。そしたらアイツ、「変とか変じゃないとかそんなことよりも、自分の意思を曲げることなく通せることはすごいことだと思う」って、そう言うんですよ。…それも、慰めとかお世辞とか、そんなことは全然感じないから不思議ですよね。」
修「僕って少し怖がりでしょ?それでからかわれるのなんていつものことなんですけど、そういう時に居合わせたら、賢一くんはからかってきた人にこう言ってくれるんです。「怖がりよりも、それをからかって面白がってる方がよっぽどみっともない!」って。それも、自分のことじゃないのに、すごく悔しそうな……こっちが申し訳なくなっちゃうような顔でですよ?」
隆「賢一ってマジでバカっスよね!……俺、勉強はしないで、バイトやら部活やらやりたいことだけやってるってよく言われてきたけど、アイツそんな俺のこと「どんなことでも一生懸命ですごい」って褒めてきやがるんですから!……すごいのはアイツですよ。人をけなすより、褒めることの方をいつだって優先しやがってさ、普通はそんな人間のデキたことなんてできねーよ……」
孝「1人で本読んでる時とかなんですけど、本当に1人でいたい時と、実はそうじゃない時ってあるじゃないですか。賢一の奴、決まって俺が強がって1人でいる時に、本当は誰かに声かけてほしい時に声かけてくれるんですよ。……見てるんですかね、人の表情とかそーいうの。アイツのそういう気遣いのおかげか、無理に1人でいるの止めようかなって最近思うんですよ。」
路「俺、よく頼られすぎだって言われるんですけど、それ言ったら賢一だって人に気を遣いすぎだと思いません?それでいて誰かを助けてる時のアイツ、すっごく嬉しそうなんですよね。見てるこっちもなんか嬉しくなっちまうような、そんな笑顔でさ……俺はやっぱ、誰かに頼られた時は、心のどこかで「ありがとう」の一言だけでもいいからって見返り求めちゃってる部分があるけど、アイツはそんなことないんだろうなぁ。」
海「賢一センパイって優しいんですよ!相談ごとがある時、いっつも嫌な顔しないで聞いてくれるんです!相談する度に時間も喰っちゃうし、きっとウジウジするような話聞いて、ストレスたまっちゃってるのに……話を聞いてもらうだけで気持ちが楽になるなんて、そんな人そうそういないと思うんですよね。それってすごいことだと思うし、だから僕もセンパイみたいに人のために何かできるような男になりたいなぁって思うんです!」―
鳩「だから……だからなんだと言うんだ!」
脳裏にまとわりつくような、今まで無理矢理に抑えてきた賢一への信頼を打ち切るようにそう叫ぶ鳩谷。
鳩「確かに……確かに賢一は優しいさ!偽善でもなんでもなく、アイツは常に他の人間の笑顔を求めている……それは認める……!だけど、それは記憶も天才的な頭脳もなかったから―」
ケ「なら……なぜお前の愛した女は、化け物の頭脳を持った賢一を弟として、そして男として愛したんだ?」
静かにも力づよくそう言い放つケンイチ。
ケ「智香子にとって頭脳なんて関係ない。智香子は……ただ賢一の優しさに惹かれたんだ。そしてその優しさに賢一も惹かれた……互いに、互いの幸せだけを願って支え合い続けてきた……」
そして、ケンイチは智香子の笑顔を思い出し、一層切ない顔をする。
ケ「その智香子が復讐なんて……賢一が不幸になることを、賢一の大事な人間が再び賢一の前から消えてしまうことを望んでいると、本気で思うのか……?」
その一言に、鳩谷はハッとする。そして、その心の隙を突くように智香子との思い出がよぎる。
―楝「それにしても、賢一くんも幸せだよな。智香子みたいに優しい子が姉じゃなかったら、誰にも愛してもらえなかったんじゃないか?」
高校からの帰り道、ふとそんな話を振られて、智香子はどこか悲しげにかぶりを振る。
智「……きっと私じゃなくても大丈夫だよ。ヨシくんはとっても優しい子だから、私の代わりにあの子のお姉ちゃんになってくれる人も、きっとあの子を愛せると思うの。ううん、私の代わりとかそんなんじゃなくても、あの子は誰からだって愛されるわ。……あんなに辛い思いをしたって、誰かを恨むことも責めることもしない。あの子の優しさが、きっとあの子を愛させてくれる。」
そこまで言って、智香子はどこか寂しそうな笑顔で楝蛇を見る。
智「もし、私があの子の傍にいてあげられなくなっても……あの子を愛してくれる人がいてくれるなら、それでいいんだ。それこそ、そんな人がいてくれるなら、ヨシくんにはその人と幸せになってほしい。……ヨシくんを本当に幸せにしてあげること、それだけは、私にはできないから……」
血の繋がりを嘆く智香子の本心を、楝蛇は認めたくなくとも感づいていた。自分では、彼女の実弟にはかなうことはないのだと……
楝「俺なら、無理だけどな……」
賢一に負けたことを認めたくないがために、そう言い放った楝蛇の口調はどこかムキになっているところがあった。
智「え?」
楝「俺は……大切に思ってる人が自分以外の人間と幸せになってほしいなんて、そんなこと思えないよ……」
智「知人……」
悔しさのあまり震える声でそう言う楝蛇を、智香子は心配そうに、そしてどこか申し訳なさそうに見ていた。―
まるで予知していたかのように、賢一の傍にいられなくなった時のことを話していた智香子のことを思い出し、鳩谷はうつむいてしまう。
鳩「なんなんだよ……」
小さくそうつぶやいた鳩谷を、陽が心配そうに見る。
陽「先生……?」
そんな陽が見た鳩谷は、うつむきながらも泣いていた。
鳩「智香子のことを忘れようとして……俺は智香子の願いまでも忘れようとしていたのか……?自分の好きな女の願いを……俺は嫉妬なんて醜い感情のせいで、握りつぶそうとしていたのか……?」
涙をこぼしながらそう言って、鳩谷は自嘲するように陽を見る。
鳩「情けないよな……好きな女を本当に幸せにできるのは自分ではないってわかりきってて、それを認められなくて……自分自身の身勝手な感情のせいで結局は智香子の一番の願いさえも、俺は……」
そう言う鳩谷に、陽は憐れむでもなく、本心からの言葉を届けようとする。
陽「でも…たとえ智香子さんの一番になれなくても……先生の智香子さんを想っていた気持ちだって本物なんでしょう?……その気持ちは、きっと智香子さんだって気付いていたと思います。」
その言葉に、鳩谷はハッとして驚く。
鳩「智香子が、俺の気持ちに……?」
陽「先生の話を聞いてしか私は智香子さんを知らないけど……でも、ヨシくんのお姉さんだもの……ヨシくんを愛してくれた女性だもの……きっと智香子さんは、先生の気持ちに気付いていて、答えることはできなくても、嬉しく思っていたに決まってます……」
陽の話に聞き入っていた鳩谷のもとに、もはや鳩谷に殺気がないことを実感したケンイチが静かに歩み寄る。
ケ「これは……本当は賢一に一番に聞かせてやりたかったことだが……智香子を愛してくれたお前に、最初に教えてやるよ。」
その言葉を不思議がる鳩谷と陽。
陽「どういうこと…?」
ケ「智香子は、死ぬ前に賢一に何かを囁いていた。だが、目の前で最愛の姉が銃弾に倒れたその姿に、賢一はその言葉を受け取ることができなかったんだ。」
陽にそう説明してから、ケンイチは鳩谷の方を向いて静かに口を開く。
ケ「銃弾に体を射抜かれて……死ぬとわかっていて智香子は倒れ様、賢一に最期に言ったんだ。「来てくれて、ありがとう」と……かすれ、消え入るような声で、心の底から…な。」
その話を自分にする意味を、鳩谷はわかっていた。決して賢一への敗北感を強めるわけでもなく、その真意は……
ケ「最期まで、人を恨むことを知らないような……相手の気遣い、心遣いを酌める女だ。宗光の言ったように、智香子はお前の気持ちにも気付いていて、だからこそ、お前の前では賢一との関係を口にしなかったんだろう。」
そう言って、ケンイチは寂しそうにうつむく。
ケ「お前の気持ちに気付いていて、それでも友として傍にい続けたこと……お前には結果的に残酷な仕打ちに思えたかもしれない。だが、それが何よりの、智香子のお前への感謝の形だったんだ。」
その一言に、鳩谷は手に持っていた刃物を床に落とした。
ケ「今なら、わかってやれるんじゃないか……?智香子のことを心から愛してくれた、お前なら……」
そしてケンイチのその言葉に、鳩谷の目からは先ほどとは比べ物にならない大粒の涙がボロボロと零れ落ちる。
鳩「俺は……俺は結局……智香子の望んでいたことを……智香子が命を懸けてまで愛した男の幸せを……奪おうとしていただけだったんだな……智香子の愛した男を恨み続けて……死んでからも、智香子を不幸にしていただけだったんだな……」
そう言って膝をついた鳩谷を見て、ケンイチはやりきれなさそうに鳩谷の落したナイフを拾い、陽の両手を拘束していた縄を切った。そして2人で悲しそうに顔を見合わせた後、陽は鳩谷の肩に優しく手を乗せる。
陽「智香子さんは、不幸なんかじゃありませんよ……」
その言葉に、鳩谷は陽の顔を見るだけで何も言わない。
陽「間違いかけた想いだったとしても、死んだ後もこんなにも自分のことを想ってくれている人がいるのに、不幸なわけないじゃないですか……」
優しくも切なくそう言う陽の顔を見て、鳩谷はまたうつむく。
ケ「オレは賢一に智香子のことを忘れさせてしまった。だがお前は、忘れようとしたとは言え、智香子を愛し続けてくれた。……賢一の代わりに礼を言わせてくれ。……ありがとう、知人。」
陽に続き、静かにも心のこもったケンイチの言葉に、復讐を誓ってからは誰からも呼ばれたことのなかった、最愛の女性からいつも呼ばれていた「トモヒト」というその響きに、鳩谷は消え入るような声でつぶやく。
鳩「すまない、智香子……すまない、宗光………すまない、賢一……!」
うつむいたまま泣き続ける鳩谷を、ケンイチと陽は彼が落ち着くまで、ずっと見守っていてあげていた。……外で振っていた雪は、いつのまにか優しい雨に変わっていた。
⑫(4)
陽「お父さんや部活のみんながいいって言ったらの話ですけど、私、先生のやったことを警察に話すつもりはありません……」
鳩谷の気持ちがだいぶ落ち着いた頃合いを見てそう言う陽に、ケンイチもそっぽを向いて続ける。
ケ「メディア部の連中なら大丈夫だろう。…ここに来るまで、車の中で近宮の携帯を借りて全員で話をしていたが……宗光だけでなくて鳩谷のこともひどく心配していた。……陽一郎だって、同じ賢一の父親と言っても智司と違って人の痛みがわかる人間だ。きっと、お前の苦悩もわかってくれるだろう。」
そんな2人の話に、鳩谷は驚きを隠せなかった。
鳩「し、しかし……」
ケ「神童賢一を恨んでいた楝蛇知人はもういない。ここにいるのは、神童賢一や宗光陽の部活の顧問、鳩谷知人だ。……違うか?」
つまらなさそうな顔でそう言うケンイチを見て、鳩谷は申し訳なさそうな顔をする。
ケ「オレが初めて事件を解決した時……物理室を出る時に言った言葉を覚えているか?」
鳩「そんなこと……お前じゃあるまいし覚えてるわけないだろう?」
無理やりに苦笑してそう言う鳩谷に、ケンイチは言う。
ケ「賢一は追い込まれた人間をさらに追い詰めることはしない。そう言ったんだ。」
陽「あ、私覚えてる……あの時は初めてケンイチくんに会って、ちょっと怖いなって思ってたけど……あの言葉を聞いてなんだか嬉しかったもの。」
懐かしがるようにそう言う陽を、ケンイチは珍しく恥ずかしそうな笑顔で見る。そして真面目な顔に戻り、鳩谷を見る。
ケ「あの時は、結果的に篠原が不幸になってしまった……だから寺尾は自首をした。だが、今回お前は誰を不幸にすることもなく、自身の過ちに気付いた。……それでいいじゃねえか。」
そう言って、ケンイチは立ち上がりながら言う。
ケ「逮捕、起訴されることだけが償いだと思ったら、大間違いだ。」
そして、鳩谷に手を差し伸べて言う。
ケ「お前がメディア部の連中を信じられるのなら……戻って来いよ。戻って、もう一度やり直せ。賢一もきっと…いや、絶対にそれを望んでいるはずだ。」
そう言って陽を見たケンイチに、陽は優しく暖かい笑顔でうなずいた。その様子を見た鳩谷は少しためらった後、静かにケンイチの手を取った。
鳩「ありがとう……」
ただそれだけ言って、鳩谷は立ちあがった。そんな鳩谷に背を向けて、ケンイチは言う。
ケ「鳩谷、お前ここには車で来たんだろう?」
鳩「ああ。…さすがに徒歩で宗光をここまで運んだら、それこそ今頃は警察沙汰だろうからな。」
その言葉に、ケンイチはなぜか間を置く。そして、次にケンイチが放った言葉のトーンは、ひどく静かだった。
ケ「……。だったら、先に閏台に戻っていてくれ。」
鳩「先に?……お前たちは?」
ケ「外で響鬼と湯堂が待っていてくれている。それに……」
何かを言いかけて、ケンイチは振り向いて鳩谷を見た。
ケ「いや、とにかく先に出ていてくれ。……オレたちは響鬼の運転で帰るから。」
その言葉に、鳩谷は不思議がりつつも小さくうなずいた。
鳩「わかった……」
そう言って、開け放たれたままの搬出口まで歩いて行き、どこか後ろ髪を引かれるように一度ケンイチと陽のいる工場内を振り返った。
鳩「またな……ケンイチ。」
初めて彼の存在を認めて、感謝と親愛の意味を込めてその名を呼び、鳩谷は迷いを振り切るように工場を後にした。それから少しして、工場の中からは鳩谷の姿が見えなくなった頃、ケンイチは静かに搬出口の方を向く。
ケ「とりあえず、オレたちも出よう。」
陽「……うん。」
陽の方を向くこともなく1人外に向かうケンイチに、陽はただそう答えただけで静かについて行く。陽がついて来ていることを確認もせずに、しかし確信しているケンイチは下弦の月が映る雨見川の河原まで歩き、そこで立ち止まって上着のポケットに手を入れた。
陽「どうしたの…?こっちって、道路なんてないよね…?」
ケンイチの少し後ろでそう言って、陽は心配そうにケンイチの隣に来る。
ケ「智香子のハンカチは、結局は賢一へのプレゼントだったとしても返してやれなかった……」
川を見たまま、ケンイチはポケットから手を出した。
ケ「でも、今回は間に合った……これ、遅くなったけど返すよ。」
陽「あ……でも、これヨシくんの部屋にあるって……」
ケ「いつでも返せるように……それと、お前の無事を信じるように……賢一がこれを持ってメディア部の部室に行ったんだ。」
そこまで言って握った手を開き、ケンイチはどこか寂しそうな、そして今までに見たことのないような優しい笑顔で陽の顔を見る。
ケ「サンストーン、太陽の石……まるでお前のような暖かな色を持つ天然石だ。……賢一の誕生日プレゼントに使う、大事な物なんだろう?」
その言葉に、陽はどこか諦めるように、しかしケンイチ同様に優しい顔をした。
陽「そうね……すごく大事な物よ。」
そこまで言って、小さく不思議そうな顔をする。
陽「……でも、ケンイチくんが知ってるってことは、ヨシくんにもバレちゃってるのかな?内緒で作ってたつもりだったんだけど……」
ケ「いや……お前の居場所を探す時、部室でこれをちょっとだけ出したんだが、その時に響鬼から聞いたんだ。響鬼が引退した日にお前と響鬼が2人で部活を抜けたのは、賢一へのプレゼントに使う天然石を選びに行ったんだと。……大丈夫だ、その時も今も、賢一はまだ周りの状況を感じられる状況じゃない。賢一にはバレちゃいない。」
その言葉に、ふと陽は不安そうな色を見せる。
陽「そう言えば……ヨシくんはどうしてるの?」
ケンイチもどこか、その言葉には影を落とす。
ケ「お前がいなくなったことと、鳩谷が部室に貼っていった智香子の写真のせいで記憶を取り戻しちまった。……今はあの時と、オレがお前の前に初めて現れた時と同じような状態なんだ。」
その話を聞いて、さらに不安の色を濃くする陽。それに気付いたケンイチは、どこか冷静を装うように言う。
ケ「でも、大丈夫だ。……うまくは言えないが、賢一の心は死んじゃいない。それだけはわかる。……お前が無事だったんだ、きっとすぐに元気になる。元気になって、オレと入れ替われる。」
ケンイチの話に、陽は安心と寂しさの入り混じった感情に襲われた。そんな陽の複雑な心情に、理由こそ解らずとも気づいたケンイチは、いつもの冷静な口調で話題を逸らそうとした。
ケ「お前のことだ、サンストーン以外にも何か石を選んだんだろう?……何を選んでやったんだ?」
陽にもケンイチの心遣いがわかった。わかったからこそ、陽は自分の複雑な心境を悟らせてはいけないと、ケンイチ同様に無理やりにでも平然とした口調を装う。
陽「もう、ホント鋭いんだから……サンストーンと、前進って意味のインカローズを選んだわ。」
ケ「前進、か……確かに、オレのせいで「今」から進めずにいた賢一には、必要な石かもしれないな。」
どこか皮肉にそう言うケンイチに、陽は切なげな顔をして言う。
陽「別にそういう意味じゃないの。…ただ、これから何が起きても、ヨシくんには前に進んでほしかったから。」
そんな陽に、ケンイチはどこか気まずそうな顔をしてからぶっきらぼうに、今まで返しそびれていたサンストーンを持った手を差し出した。
ケ「ほら、これでさっさと完成させてやれ。宗光家での賢一の誕生日は、明日なんだろう?」
その言葉に、陽は優しくかぶりを振った。
陽「ヨシくんにあげるブレスレットは、もう完成してるわ……」
その言葉に、さすがのケンイチも驚きを隠せなかった。
ケ「完成している?……じゃあなんで、返してほしいと言ってたんだ?」
不思議がるケンイチの手を優しく取り、陽はサンストーンを受け取った。そしてケンイチが見ている中でブレザーのポケットから小さな巾着を取り出し、その中から丁寧に、サンストーンとプレナイトが交互に通されているブレスレットのようなものを取り出す。その片方の端には石が抜けないような玉結びがあったが、その反対側の端には石1つ分らしきスペースが開いてあるだけで結ばれてはおらず、ケンイチが持ってきたサンストーンはそこに通された。
ケ「その石…サンストーンとプレナイトか?」
陽「うん。……プレナイトの意味って知ってる?」
全ての石が通ったブレスレットの両端を結びながらそう訊く陽に、ケンイチは静かに言う。
ケ「本当の自分を見つける……だろう?」
陽「そう……結局は杞憂だったみたいだけど、私、ヨシくんとケンイチくんは違う存在なんだって、わかってほしかったんだ。」
その言葉に、ケンイチは驚いた。そしてそんなケンイチの右手を優しく取り、陽は完成したてのブレスレットをつけてやる。
陽「あなたが、智香子さんにも私にも代わりはいないんだって言ってくれたのと同じ。…本当のケンイチくんは、ヨシくんの一部なんかじゃなくて代わりのいない大事な存在なんだって、そのことをわかってほしかったからこの石を選んだの。」
ケ「本当の、オレ……?」
ブレスレットを見つめてそう言うケンイチに、陽はなおも優しく続ける。
陽「本当は明日渡した方がいいかもしれないけど、でもケンイチくん本人に渡したいって気持ちもあったの。だから、1日早いけど受け取ってくれる?」
そう言われ、ケンイチはなぜか泣きそうな顔をして陽から目を逸らした。それに気付き、陽は少し申し訳なさそうな顔をする。
陽「あ……ごめんね。急にこんなもの渡されたりしたら、嫌だよね……」
そう言ってから、陽はカラ元気を装って明るいトーンで言う。
陽「そういえば!晶センパイと修丸くん、待っててくれてるんだよね?!……そろそろ帰ろっか!」
陽の言葉に何も言わず、ただ立ち尽くしているだけのケンイチ。陽もこれ以上は何を言えばいいのかわからなくなり、困りかけたその時だった。
ケ「下弦の月が何の象徴か、知っているか?」
陽「え…下弦の、月?」
ケ「弦が下を向いた半月…今この川に映っている月のことだ。」
陽「……ううん、知らないわ。」
ケ「下弦の月は、別れの象徴なんだよ。」
静かにも何かを覚悟するようなその言葉に、陽は理由こそわからずとも大きな不安に襲われた。
陽「別れ……?」
ケ「10年前の今日、智香子が死んだ時だって……空には下弦の月が浮かんでいた。まるで、賢一と智香子の別れを嘲笑うかのように。」
陽「……でも、先生は私を殺したりは―」
ケ「皮肉だな。今はまるで、オレに情けをかけてくれているかのように感じるよ。」
そう言って陽を見たケンイチの顔は、切なく、寂しく…とても悲しいものだった。そんなケンイチに、陽は何も言えなくなってしまう。
ケ「これ以上は……無理みたいだ。」
陽「え……?」
ケンイチの言葉の意味が、理屈を通り越して陽の脳裏を浸透していく……
ケ「これ以上オレが人格として存在していれば……賢一の人格は死んじまうみたいだ。」
陽「どういうこと―」
ケ「さよならだ、宗光……」
その一言に、陽は何も言い返せなかった。それを見越して、ケンイチは再び川を見る。
ケ「お前がいなくなる前の日、オレは賢一に言ってやった。「賢一を信じている宗光に応えられないのなら、オレがお前を殺してやる」と。」
陽「ケンイチくんが……ヨシくんを?」
陽のその問いに、ケンイチはそっと自分の胸に右手を当てる。月明かりが、その手首を飾るブレスレットの天然石を照らしている。
ケ「ああ。……だが、賢一は記憶を取り戻した今でも、10年前とは違って生きようとしている。心の中で、目覚めようとしている。……それなのに、オレに賢一を殺す権利はない。」
ケンイチの言う「殺す」の意味を、陽は理解した。そして、理解と同時にその瞳に涙があふれてくるのを感じた。
ケ「賢一が記憶を取り戻した以上、記憶を伴って賢一の脳から分離したオレは、存在し続けられそうにない。……それこそ、賢一の人格を殺してしまえば、話は別だが……」
そこまで言って、ケンイチは陽を見た。優しく、寂しい笑顔だった。
ケ「この体で生きるべき存在は、オレじゃない。……賢一だ。これ以上オレが表に出ていていいわけが、オレが賢一に成り代わっていいわけがないんだ。」
そして、ケンイチは静かに一筋だけ、涙を流した。
ケ「オレは……還らなくちゃいけないんだ……」
陽「還るって……どういうこと?」
涙をこらえるような声だった。意味を知ってて…答えを知っててもそう訊かずにはいられなかった。そして自分の予想していた答えと、違う答えがほしかった。だが、現実はそうはいかなかった。
ケ「本来、オレの居るべき場所……賢一の中にだよ……」
陽「それって……あなたにはもう会えないって事?」
ケ「言っただろう?さよならだと……賢一の中に還れば、オレはまた10年前までと同じ、賢一の脳の一部になる。……意思も人格もない、ただの……」
そう言いながら、ケンイチは先ほどまでとは違い、止めようとしても溢れ出てくる涙を止めることもできなくなり、それは声にも表れていた。「ケンイチ」として初めて見せる、素直な涙。隠すことのない、優しさ。それは、紛れもなく賢一を支えてきた「1つの存在」の姿だった。
ケ「だけど……オレ、存在してたんだよな……頭脳でも、賢一の一部でもなくて、1人の人間として……代わりのいない1つの存在として……神童ケンイチとして……」
そこまで言って、ケンイチは一気に右腕で涙をぬぐう。ぬぐわれた涙がブレスレットに絡みつき光を放っている。そんなことには気付かずに、若干落ち着いたと言うだけで、まだ涙をこらえるように震える声でケンイチは続ける。
ケ「今まで、オレも鳩谷と同じく……何度もお前を見ては智香子を思い出していた。お前と智香子を同じにしてしまうのが怖くて、嫌がっているのを知ってて、宗光としか呼べなかった……本当にすまなかった。」
陽「そんなこと、謝らないでよ……智香子さんのことを知っていて、それでも私は私だって思ってくれていたってだけで……それだけで十分。名前のことなんて気にしてないわ……」
ケ「お前は……オレに陽のあたる場所をつくってくれた……いや、お前の存在こそが、名前の通り…オレにとっての、賢一にとってのヒナタだったんだ……」
そう言って、ケンイチは思わず陽を抱きしめる。それはもはや、姉弟としての感情ではなかった。そして陽もその心を受けとめ、ケンイチを抱き返す。そのぬくもりを感じ、ケンイチは再び溢れる涙を止める術もなく、泣くことを隠すこともなく、震える声で言う。
ケ「今更だけど……お前がオレに名前をくれた時、すごく嬉しかった……オレの存在を認めてくれて、オレのことを信じてくれて…………ありがとう、陽……!!」
陽「どういたしまして……私も、ケンイチくんが名前を受け入れてくれた時、私を信じるって言ってくれた時、すごく嬉しかった。さっきだって、私は智香子さんのカワリじゃないって言ってくれて……本当に嬉しかった。」
ケンイチ同様に、泣いていることを隠す様子もない陽の声に、ケンイチは静かに体制を戻し、まっすぐに陽を見つめる。
ケ「賢一のこと……頼んだぜ?アイツは絶対にお前を幸せにしてくれる。…それに、アイツを…賢一を幸せにしてやれるのは、陽だけだから……」
陽「ケンイチくん……」
寂しそうにそうつぶやく陽を見つめて、ケンイチも寂しそうに、しかしどこか嬉しそうに小さく微笑み、右手首のブレスレットを愛おしく握って静かに目を閉じた。そして少しの沈黙の後、静かに目を開けるケンイチを…ケンイチが守り通した賢一を、陽は何も言わずに、先ほどのケンイチのように抱きしめた。そして賢一も、何も言わずに陽を抱き返した。そんな2人を包んでいた、10年前とは違う優しい雨は……いつの間にか降りやんでいたようだった。
陽「(ありがとう……本当に、ありがとう……!)」
⑬
陽(M)「それから…ケンイチくんがいなくなったあの日から、あっという間に1週間が過ぎようとしていた。」
隆「つーかよ、この人だかりで見つけられるかぁ?」
路「どーだろうなぁ……何せ俺らは少人数、そして向こうはたった1人だけ。」
孝「名前を呼ぼうにも、吹奏楽部がうるさくてかなわないしな。」
陽「仕方ないんじゃない?吹奏楽部はメンバー多いし、やることも盛大だから……」
3月6日、私立閏台高等学校は卒業式を迎えていた。式が終わった今、吹奏楽部の在校生による(あくまで吹奏楽部卒業生のための)「仰げば尊し」が響く生徒玄関前で、在校生たちは部活や仲の良かった3年生が校舎から出てくるのをところどころにグループを作って待っており、メディア部もその例外ではなかった。部内唯一の3年生であり、送られる側である晶が校舎から出てくるのを待っているのである。
海「ねぇ~。この曲なんて言うんでしたっけ?」
孝「ん?こりゃ「仰げば尊し」……って!なんでお前こんなとこにいるんだよ?!」
隆「うわ、マジだ!まさかサボりか?!」
高校生だけで集まっていたはずなのに、なぜかメディア部のメンバーの中に中学生が混じっていることに今更気付く孝彦と隆平に、当の本人龍海は不機嫌そうにむくれ、龍路が苦笑している。
海「むぅ~!サボりじゃないです!僕だって晶センパイ送りたいんです!」
鳩「いや、その気持ちはわかるが、お前まだ中学生だろ……?」
1週間前にケンイチが言っていた通り、メディア部のメンバーや陽の父親、陽一郎にやり直すことを許された鳩谷は、今もこうして、「メディア部の仲間」として彼らの傍にいることを許されていた。教師として彼らを見守ることが、少なくとも今の自分にできることだと、今日もメディア部と共に行動しているのである。
路「いえね、今日は中学校も義務教育終業集会なんですよ。」
義務教育終業集会とは、中高一貫システムである閏台中のいわば「卒業式もどき」であり、やることは3学期の終業式のような式と、毎年数名出る、他の高校への進学者へのささやかな卒業式のような式であるため、大抵毎年、高校の卒業式よりも早く終わる。
海「そ、そ!だから午前中で式も何も終わっちゃったし、みんなどーせ高校で一緒だからってこうやって集まったりしないからすっ飛んできたんです!」
陽「よかったわね、まだセンパイ出てきてないのよ?」
海「ホント?間に合ってよかったぁ♪」
と、そこに人ごみをかき分けて賢一がメディア部のもとへとやってきた。
隆「お、どうだった賢一?」
賢「ダメです…人が多すぎて玄関にすら入れなくて、中の様子まで見えなくって……」
1年生ゆえか偵察に出されていた賢一だったが、成果はなかったようである。少し落胆気味の賢一だったが、そんな彼を見て鳩谷が慰めるように言う。
鳩「まあ、響鬼だってそこまで薄情な奴でもないし、帰る前にメディア部を見つけにきてくれるさ。」
賢「そうですね…」
納得してそう言う賢一。と、その時…
修「いましたぁ!!」
今までなぜか黙りっぱなしだった修丸が、玄関よりも高いところを見てそう叫ぶ。
路「「いました」ってお前、どこ見てるんだよ?」
修「今センパイ、2階の廊下走って行くのが見えたんです!たぶん、階段の方に走ってたからもう少しで来てくれますよ!」
嬉しそうにそう言う修丸だったが、隆平がどこか引き気味に言う。
隆「待て待て待て……なんでここから2階の廊下なんて見えるんだよ?」
実際、メディア部が集まっている場所は校舎の窓の向こうなど、普通に考えて見えなさそうな場所であった。
修「隆平くんの耳と一緒ですよ。…僕の目、右が3,2で左が3,5ですから!」
珍しく、どこか勝ち誇るようにそう言う修丸。
隆「いや、目と耳一緒にされても困るんだけどよ。」
呆れる隆平。そしてその隣では。
孝「……この目玉バカが。」
どこかうらやむような口調でそう吐き捨てる孝彦だったが、その声の小ささと吹奏楽部の音と生徒たちの騒ぐ声も相まって、孝彦が何かを言ったことすら修丸は気付いていない。
修「あ、センパ~イ!!」
呑気にも嬉しそうにそう叫ぶ修丸に、他のメンバーもつられて修丸が見ている方向と同じ方を見る。
晶「なんだお前ら、こんなところにこじんまりと集まりやがって!」
嬉しそうにそう言って歩いてきた晶は、手に卒業証書を持ち、服装はいつもと違って女子の制服を着ていた。
海「うわぁ、センパイ、スカートはいてる!!」
中学生ゆえに式自体には出ていない龍海が驚きながら咄嗟にビデオカメラを晶に向けるが、それを見て晶は少し怒ったようにそのレンズを証書でふさぐ。
海「あー……」
晶「お前はんっっっとに何でもかんでもビデオに撮って……ってか、なんで中学生がここにいるんだよ?!」
海「もー、みんなして同じこと聞かないでくださいよ!中学も今日は義務教育終業集会だから午前中で学校終わったんです!センパイ送ってあげたくて急いで来たんです!……―!」
そう言われ、晶は少し驚くもすぐに嬉しそうに龍海の頭をぐしゃぐしゃとなでてやる。
晶「そっか、わざわざありがとな!」
海「いえ~!」
そんな様子を見て、龍路がメンバー全員に聞こえるように言う。
路「じゃ、主役が来たところで移動すっか!」
晶「移動?」
路「せっかくだから写真撮りましょうよ?ほら、今日はスタンド持参したんです!」
そう言って、龍路はリュックの中からカメラスタンドを取り出し、それを引き延ばす。
陽「でも、どこに行っても他の部活の人でいっぱいじゃない?」
鳩「だったら、いいとこがあるぞ?」
孝「いいとこ?玄関前は他の部活に占拠されてますけど……」
鳩「何言ってる?お前たちにとって、玄関前よりもっといいとこがあるじゃないか。」
自信ありげにそう言う鳩谷に、皆不思議な顔をした。
⑭
陽「わあ、確かに私たちにとってはここが最高の場所ですね!」
鳩谷に案内された場所を見て、陽をはじめメンバー全員が納得する。
鳩「だろう?…お前たちにとっては特別な場所であって、しかし人は集まらない。」
修「部室の前とは、考えましたね先生!」
鳩谷が案内してくれたのは、メディア部部室の窓に面している、校舎の側面だった。
路「よっし、じゃあカメラ用意しとくからその間に並んどいてくれ~。」
隆「おい~!いくらなんでも人任せ過ぎるだろうが新部長!」
路「悪いが俺は放任主義だ!」
ふざけるように突っかかる隆平に、カメラとスタンドを調整しながらそう言う龍路。
孝「嘘こけ、何が放任主義だよこのブラコン!」
路「なんとでも言え!どーせ俺はブラコンだよ!」
呆れ口調とどこか楽しげな口調を入り混ぜてそう言う孝彦に、準備をする手を休めず、しかしどこかふざけたように言い返す龍路。
路「よーし、大丈夫だな。……お、なんだかんだでしっかり並んでるじゃんか。」
龍路がカメラの調整を終えて校舎の方を見ると、なんとなくではあるが、晶を中心にみんなしっかり並んでいた。
海「兄ちゃん、ここだからねー!」
路「おーう!」
自分の隣の空きスペースを指してそう言う龍海に、龍路も元気よく返事をする。そしてファインダーを覗いてみて、ふと気づくように言った。
路「なあ、陽と賢一もっとくっつけないか?」
陽「え?」
賢「もっとですか?」
そう言ってお互いに目が合った賢一と陽は、ハッとお互いに顔を赤くする。と、その時賢一は誰かの肘に小突かれるのを感じた。
隆「おんやぁ?顔が赤いぜぇ、賢一くぅ~ん?」
賢「ちょ、からかわないでくださいよ!」
隆「いや、悪りぃ、悪りぃ!でもやっぱお前らは隣同士じゃないとなぁ!」
陽「もう~……」
そんなやりとりの間に、龍路はタイマーをセットして龍海の隣に来ていた。
路「ほら、お前ら早くカメラの方、向けって!」
後ろの列に並んでいる陽や賢一、隆平にそう言う龍路に、3人は少し恥ずかしそうにカメラのレンズを見る。そしてカメラのライトの点滅が次第に早くなっていって、シャッターが切られた。
⑮
写真を撮り終わり、メディア部員たちは再び生徒玄関前の、玄関から離れた場所に集まっていた。
孝「それじゃ、センパイ。俺たちそろそろ行きますね。」
隆「大学生だろうとなんだろうと、メディア部はいつだってセンパイのことオールウェルカムですからね!」
寂しさついでにどこか泣きそうな隆平だったが、晶はいつもの調子でやや呆れ気味である。
晶「なんだよ、それ。お前はもっと英語…てか勉強自体頑張れよな!」
隆「了解っす!」
晶「孝彦!……隆平のことく・れ・ぐ・れ・も!頼んだからな!」
孝「任せてください。」
孝彦がそう言うと、少しの沈黙の中で2人はどこか名残惜しそうな顔をして、正門の方へと歩き出す。
路「じゃ、俺たちも帰るか。」
海「うん!……センパイ、僕ちゃんと高校生なったらメディア部入るから安心してくださいね!」
晶「ったく、お前は結局2年間メディア部に入り浸りやがって……ってか、引退した時も同じようなこと言ったような……ま、いっか。」
そう言いながら、晶は先ほどのように龍海の頭をぐしゃぐしゃと撫でてやる。
晶「龍路!まあ~、あのメンバーまとめんのは大変だろうけどさ、持ちまえの兄貴力で頑張ってくれよ!」
路「ええ、もちろん!…あ、さっきの写真できたら送るんで、待っててくださいね。」
晶「ああ。楽しみにしてる。」
路「それじゃ……センパイ、大学行っても頑張ってくださいね。」
海「僕たち応援してますからねぇ!」
晶「ありがとな。ま、お前らも兄弟仲良くやれよ!」
そう言う晶に、2人は嬉しそうに笑って正門へと歩き出す。そして佐武兄弟が見えなくなったところで、晶がふっと寂しげに言う。
晶「さて、いつまでもここにいたら余計寂しくなるし、自分も帰るかな。」
修「あ、だったら僕も途中までいいですか?」
少し慌て目な修丸に、晶は小さく呆れるように笑って言う。
晶「なんだぁ、お前もしかして寂しいのか?」
修「いや、だって…そりゃもう会えないって訳じゃなくても、今までよりは会える頻度だって少なくなるじゃないですか。」
修丸のその話に、陽と賢一はふっと切なげな顔を見せたが、本人たち以外、誰もそのことには気付いていない。
晶「ま、途中まで帰り道一緒なのに別々に帰るのもアレだしな。…じゃ、一緒に帰るか。」
そう言って、晶は鳩谷の方を見る。
晶「それじゃ、自分らも帰ります。」
鳩「ああ。…大学は勉強だけじゃなくていろいろあるからな、きっと楽しいぞ!……頑張って夢を叶えろよ響鬼。」
晶「ええ、もちろん!……あの、先生。今年はいろいろありましたけど、それでもホントお世話になりました!」
その笑顔に、鳩谷はどこかくすぐったそうに苦笑する。
鳩「世話になったのはお互い様だよ。……まあ、近宮も言ってたけど、たまには高校にも遊びにおいで。」
修「僕たちいつでも待ってますから。ねえ?」
修丸に振られ、賢一と陽も嬉しそうにうなずく。
陽「ええ。」
そんな2人を見て、晶も嬉しそうに言う。
晶「ありがとな。」
そして、思い出したかのようにハッとする。
晶「あ、そうだ。帰る前に1コだけ。」
そう言って、晶は優しくも強気な笑顔を見せる。
晶「賢一、陽。その、高校生にこんなこと言うのもまだ早い気もするが……」
そして、いたずらっぽく嬉しそうに笑う。
晶「2人とも、ちゃんと幸せになれよ!」
その一言に賢一も陽も、恥ずかしそうな中にも幸せそうに微笑んだ。
陽「……はい。」
賢「ありがとうございます。」
そんな2人を見て、晶だけでなく鳩谷や修丸も微笑ましい顔をしていた。
晶「よし!……じゃ、帰るか修丸?」
修「そうですね。……それじゃあ、また部活で!」
そう言って、晶と修丸も正門を出て行った。そんな2人を見送って、鳩谷はふっと切なげに賢一と陽を見る。
鳩「本当に……今更こんなこと言ったってもう遅いかもしれないが……俺はケンイチのおかげで、智香子を不幸にしなくて済んだ。賢一と分かりあうこともできた。それに……こうして、お前たちの幸せを心から喜ぶこともできたんだ……」
うつむきながら寂しそうにそう言って、鳩谷は賢一と陽を見る。
鳩「ケンイチが、その存在を懸けてまで守ろうとしたのは、紛れもなくお前たちの幸せだ。……響鬼が言っていた事とかぶる上に、それも俺がこんな事を言えた義理じゃないが……幸せになってくれ。ケンイチや、智香子の分もな……」
賢・陽「……はい。」
静かにも、優しく強い返事だった。
⑯
桜の木々が小さなつぼみをつけ始めた通学路を、賢一と陽は並んで、そしてささやかにも手を繋ぎながら歩いていた。陽の左手に繋がれた賢一の右手には、何も装飾はなかった。
賢「……やっぱりダメだな。」
陽「え?」
不思議がる陽に、賢一は寂しそうに言う。
賢「忘れるつもりなんて絶対にないさ。ないけど、ケンイチのことを考える度にいろいろと思い出しちゃうんだ。この道だって、ケンイチは何度も歩いてる。その時に何を思ってたかなんてわからないけど、でも……きっといつだって、事件のせいで不幸になってしまった人のことを助けてあげようって必死だったんじゃないかな……」
陽「そうね……」
陽も、ケンイチのことを思い出しては切なげにそう言う。
陽「初めてケンイチくんに会った時は、もうヨシくんに会えなくなるんじゃないかってちょっと怖かったりもしたけど、結局はそうならないために、ケンイチくんはヨシくんと入れ替わってくれたのよね。」
賢「ケンイチがいなかったら、僕は10年前にきっと死んでいた。ひなにも父さんにも、メディア部のみんなにも会えないで…先生と分かりあうこともできないで……ケンイチは、僕の恩人だよ。」
そう言って、賢一は寂しさの中に悲しそうな表情を浮かべ始める。
賢「なのに……ケンイチはいつだって僕のことを守ってくれたのに……僕はケンイチに何もしてあげられなかった……何もしてあげられないまま……いなくなっちゃった……」
そう言いながら、賢一は寂しさゆえか声が震えはじめていた。
陽「……そんなことないよ。」
賢「え?」
そう言って、陽は賢一を見て立ち止まる。
陽「ケンイチくんは、ヨシくんに生きてもらうことを…生きて幸せになってもらうことを強く望んでいた。……だから、ヨシくんが今を精一杯、幸せに生きていくことが、それがケンイチくんへの恩返しになるんじゃないかしら。」
賢「……そう、だね。」
静かにそう言う賢一。そして、賢一はかつてケンイチがやっていたように、自身の胸に左手を当てる。その手首には、サンストーンとインカローズが通されたブレスレットがつけられていた。
賢「ケンイチは消えたんじゃない……今だって、僕の中にいてくれてるんだ。もう会えないかもしれないけど、それでもケンイチが存在した時間は…存在した事実は消えたりはしないんだよね……」
その言葉に、陽も寂しそうな笑顔になる。
陽「ええ。……私たちがケンイチくんを忘れなければ、彼はヨシくんの中で、きっと存在し続けてくれるわ。私たちのこと、見守ってくれる……」
賢「僕、ケンイチがいた時間は絶対に忘れない。それが、僕にできる恩返しだから。」
陽「そうね……」
そして2人は、繋がれた手をお互いに優しく握り返した。と、その時だった。
賢「あ……」陽「え……」
2人の脇を、前から誰かがすれ違って行った。
賢(M)「その時、僕ははっきりと見た気がした。誰か……そう、僕と同じ背格好の誰かが僕たちの横をすれ違っていくのを…その右手首には、僕が左手首につけているものとよく似たブレスレットがあったのを……」
そして2人は、ハッとして同時に後ろを振り向いた。そこには……