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表裏頭脳ケンイチ
第9話「賢一とケンイチ」
①(1)
雪の降る中、ケンイチは歩道に沿って建っている塀に片手をつき、激しく苦しそうに息を切らしていた。
ケ「(くそっ…!動けよ!……止まってる場合じゃねえだろうが!!)」
そんな思いで自分の膝を殴るケンイチだったが、それから1歩踏み出してまた立ち止まる。
ケ「(同じじゃねーかよ、あの時と、まったく……頭脳だけで……なんの力もなしに、何ができるってんだよ……!)」
そう思い、悔しそうに涙を目に溜めた時だった。
《ブーーー!!ブッブーーー!!》
車道の方から聞こえたクラクションに、ケンイチは思わず顔を上げる。と、同時に1台の車がケンイチの隣で停止した。
修「ケンイチくん!…大丈夫ですか?!」
晶「ったく、なぁにへばってんだよ?……そういやお前、賢一と違って自転車にも乗れないっつってたもんな。」
歩道側にある助手席側のウインドウが開いたかと思うと、その助手席にはマップ帳を持った修丸が、運転席にはハンドルを握っている晶が乗っていた。
ケ「響鬼……それに湯堂も……お前ら、なんで……」
驚くばかりのケンイチに、晶は力強く笑って言う。
晶「そーいうのは走りながら話すからさ、いいから乗れよ!」
その言葉に、ケンイチは何も答えずに後部座席に乗った。
晶「で、お前は1人でどこに行こうとしてたんだ?」
ドアを閉めるケンイチに、その時間をも無駄にはできまいと、晶はすぐに発信できるようにと、ハザードランプを消し、バックミラーを見て後ろを気にしながらそう訊く。
ケ「……山梨との県境にある、和柳里市だ。」
晶「県境の和柳里か……わかった!そんじゃ出るぞ!」
そう言うや否や、後方から車が来ていないことはすでに確認済みの晶は、すぐに車を走らせ始める。
晶「修丸、地図の方頼んだぞ?」
修「任せてください!こう見えて道案内は結構得意ですから!」
そんな2人を後部座席から見ているケンイチは、だいぶ整ってきた息づかいで言う。
ケ「和柳里に入れば、あとはオレも道はわかる。…悪いが、そこまで頼んでもいいか?」
珍しく素直なケンイチに、2人とも別に不思議がることもなく、快く答える。
修「ええ、そりゃ言われなくても!」
晶「そのために来たようなもんだからな!」
そう答えた後、晶はしっかりと前方を見ながら少しだけ自信ありげに言う。
晶「いくらお前でも、自分が免許持ってるなんて驚いたろ?自分、誕生日が5月の始めでさ、18になってすぐに自動車学校通い始めたんだ。だから、秋ごろには免許取って、1番上の兄貴の車借りたりして結構運転はしてたんだよ。」
修「閏台高校は、バイトとか免許とか、そういうことは結構自由ですからね。でもすごいですよ、部活も学校も行きながら免許取るなんて!」
晶「だろ?…でもまあ、こんな形で役に立てるなんてさ、やっぱ18なってすぐに免許取っといてよかったよ。」
そんな話に、ケンイチはどこか安心するような表情をするが、すぐに何か不思議そうな顔をする。
ケ「だが、この車……数学の六角の車じゃないのか?」
晶「お、さすがなんでも覚えてんな。そうなんだよ。これ、数学…ってか写真部の六角先生の車でさ。…ま~、お前が部室飛び出してからいろいろあってさ……」
そう言って、晶はケンイチに追いつくまでのことを思い出すように話し出す。
②
―ケンイチが部室を飛び出した後、みな最初はどうしていいかわからなかった。
孝「アイツ、1人で飛び出しやがって……」
晶「ったく、陽の居場所がわかったってんなら、教えてくれりゃ車出してやるのに……」
その言葉に、みな驚きで何も言わずに晶を見る。
晶「ん?なんだよみんなして……」
修「あ、いえ……センパイ、車出すって、その……」
晶「ああ~、言ってなかったけどな、実はな、去年の10月ごろに免許取ってんだ。しかもマニュアルな。」
隠していたつもりではなくとも、驚かれてしまったことでどこか言いにくそうに言う晶。
隆「センパイ、それすげーじゃないっスか!だったら早くケンイチ乗せてやってくださいよ!アイツ、賢一と違って運動オンチだからさ!」
晶「だから、乗せるにしてもアイツがどこに向かったかわかんないといけないし、自分で言い出しといてなんだが、初心者マーク付きの車なんてあるわけないし……」
隆「あ、居場所の方なら大丈夫ですよ。」
そう言って、隆平は自分の携帯を取り出す。
晶「そっか、アイツまだお前の携帯持ってたもんな。」
隆「ええ。……。」
そう言いながら、携帯を耳元に運ぶ隆平。しかし、少しの間の後に気まずそうに手元に携帯を持ってくる。
隆「ダメだ、電源入ってるくせにアイツたぶん気付いてねぇや……しゃーねえな、ネット使うか!」
孝「は…?ネット?」
不思議がる孝彦に、隆平は得意気に言う。
隆「あの携帯な、GPSがついてっからネット使えばすぐに居場所がわかんのさ!」
その言葉に、孝彦は一気に呆れる。
孝「それはいいけどさ、……お前、どこでネット使うんだよ?この時間がないって時に、わざわざ家まで帰る気か?」
隆「え?いや、それは……」
困る隆平だったが、その傍らで龍海は何かを考え込んでいた。
海「あの、高校にもパソコン室とかコンピューター室とかってありますか?」
修「え?ええ、ありますよ。2階にコンピューター室。」
海「だったらそこでネット使えるんじゃないですか?」
路「いや、でもな…ネットは確か先生の方で制限かけてるはずだぜ?今日は土曜だから、情報の代々木先生は来てないし、他にパソコン詳しそうな先生なんて知らないし……」
心配そうな龍路だったが、龍海は以外にも明るく言う。
海「ああ、それならダイジョーブ!ほら、僕って一応中学じゃパソコン部だからさ、そーいう制限の設定とかの変え方は知ってるんだ!!…それで、あのぉ……誰か鍵借りに行くのについて来てくれません?」
隆「だったら、俺ついてってやるよ!…ネット繋がったって、ケンイチに渡した携帯の機種わかんないんじゃGPSも使えないからさ。」
そんな2人を見て、龍路が言う。
路「じゃあ、俺は車の方何とかしてくるよ。写真部の顧問の六角先生なら、事情話せば貸してくれると思うからさ。」
孝「あれ、でも六角先生って車持ってたっけ?」
不思議がる孝彦。
路「ああ。それこそセンパイと同じような時期に免許取って、車買い換えた親戚から古い方をもらったんだ、って、前に写真部遊びに行った時に聞いたんだ。…ま、車の少ない土曜日の写真部の活動の時しか乗ってこないらしいけどな。」
そう言って、龍路は晶を見る。
路「センパイと同じで、先生の車もまだ初心者マーク付きのはずですから、センパイも運転できるはずですよ?」
晶「お、そりゃ助かる!」
隆「よっしゃ、じゃあ車の方は大丈夫そうだし、さっさとネット繋ぎに行くぞ龍海!」
海「はーい!」
部室を出て行く2人見送って、龍路も部室の外へと向かう。
路「じゃあ、俺も六角先生探してきます。」
晶「あ、それなら自分も行くよ。…車借りれたとして、運転すんのは自分だからな。」
修「あ、あの…僕らはどうすれば……」
孝彦をちらっと見て困る修丸だったが、孝彦は「別に」と言ったような顔をしているし、龍路は珍しくそのことに気付かずに部室を出る。そんな状況で、晶もやや困り気味である。
晶「あー、その、まあとりあえずなんかしとけ!…孝彦、修丸のこと頼んだ!」
孝「はあ……」
部室を出て行った龍路を見て、晶は慌てたようにそう言いながら部室を出る。
修「いや、なんかって言われても……」
出入り口を見てそうぼやく修丸だったが、ふと孝彦はそんな修丸の顔を見る。
孝「なあ、お前道案内とか得意か?」
修「え?道案内って言うと……?」
孝「んっとな……じゃあ地図見ながらセンパイに指示出せそうか?」
そう言われ、修丸も気づいたように言う。
修「ああ、そういうことなら大丈夫です!結構そういうことは得意なんですよ!」
孝「そっか。だったらちょっと一緒に来てもらっていいか?」
その言葉に不思議そうな顔をする修丸だったが、そんな修丸を無視してさっさと部室を出て行く孝彦。それを見て修丸も慌てて部室を後にした。―
③
晶「んでさ、写真部の部室で六角先生見っけて、それで龍路が事情話したらすんなり車貸してくれたんだ。龍路の奴、ちょろちょろ写真部に出入りしてるから、先生も真面目に取り合ってくれたんだよ。」
修「龍海くんもすんなりネット繋げれたみたいで、それで隆平くんもすぐにケンイチくんの場所を探してくれたんです。孝彦くんも、図書室のカウンターの中から、学校で買ったばかりでまだ生徒には貸し出ししてない、新しくて見やすい地図帳を出してきてくれたんですよ。…さすが現役図書委員ですよね!」
そう言って、後部座席のケンイチに嬉しそうに地図帳を数冊見せる修丸。
晶「しかも先生から許可もらって駐車場向かってる時に、ちょうどお前の居場所がわかったって隆平からも連絡来てよ。……まあ、お前にしたら遅すぎかもしれないけど、自分らも結構頑張ったんだぞ。」
運転しながら、バックミラーでケンイチの様子を見る晶と、直接後部座席を見る修丸に、ケンイチは隠すことなく素直に嬉しそうな顔をする。
ケ「いや、遅くなんかない。来てくれて本当に助かった……」
そんなケンイチを見て、修丸も晶も安心したような顔をする。と、その時ケンイチのポケットから着メロが聞こえる。
晶「出てやってくれないか?たぶん隆平だと思うからさ。」
ケ「ああ。」
そう言って、ケンイチは携帯を耳元の持って行かずに、すぐにスピーカーフォンにして、後部座席の真ん中あたりに置く。
隆「おいこらケンイチ!俺、さっきもお前に電話かけたんだぞ!なのになんで出なかったんだよ!」
電話の向こうにいるのは、部室に集まった隆平、孝彦、龍路、龍海の4人である。いきなり聞こえる隆平の怒鳴り声に少しだけ嫌そうな顔をして、そそくさと反対側のドアポケットに携帯を突っ込むケンイチ。
ケ「慌てていて気付かなかった。……悪かったよ。」
素直にそう言うケンイチに、隆平もどこか拍子が抜けたような口調になる。
隆「あ、いや…別に謝ることじゃねえけどよ……あのさ、センパイと合流はできたのか?たぶん助手席に修丸も乗ってると思うけど―」
晶「大丈夫だ、ちゃんと拾えた。今はもう走ってるよ。」
隆平の問いに、晶が運転しながら答える。その声を聞いて、隆平が不思議がる。
隆「あれ、もしかしてスピーカーフォンっスか?」
修「ええ…隆平くんの声、丸聞こえですよ(汗)。」
隆「ああ?!うるせえなぁ!って、バカ!俺の携帯返せ!」
孝「バカはお前だ、俺らだって話に混ぜろよ。」
なぜかケンカ腰な隆平だったが、携帯が移動しているからか孝彦の声が近くなったり遠くなったりしながら、その直後にボタンを押すような音がする。
孝「それにお前な、修丸にケンカ売ってどうすんだよ?」
海「そーですよ、修丸センパイビビりなんだから。」
孝彦がスピーカーフォンにして隆平の携帯を机に置いたため、孝彦や龍海の声も聞こえる。
孝「ケンイチ、俺の声聞こえてるか?」
ケ「ああ、大丈夫だ。」
孝「なあ、お前陽がいる場所の見当がついてるんだろ?」
ケ「ああ……」
どこか不安げなその返事に、孝彦は続ける。
孝「先生のしていることは誘拐に脅迫、こりゃもう明らかな犯罪だ。お前が向かってる場所を教えてくれたら、こっちから警察に連絡しようと思うんだけど……いいか?」
ケンイチの返事に見える不安を感じ取ったのか、孝彦はケンイチの意見を待つ。
ケ「……」
海「ケンイチさん……?」
返事のない電話の向こうを、不安げに気にする4人。
孝「別にお前に任せるのが不安とか、そういう意味じゃなくて―」
ケ「わかっている。ただ……警察にこのことを知らせたと鳩谷にバレれば、その時点で宗光は殺される。」
孝「な……!それ、先生が言ってたのか?!」
ケ「ああ。……これはオレたちの問題だ、ともな。……お前や、お前の父親が悪いなんてことはない。だが、鳩谷はお前の父親が警察であることを知っている。……下手な犯罪者よりも警察の動きには敏感になっているはずだ。」
孝「そっか……だったら、お前に任せるしかなさそうだな……」
どこか落胆するような孝彦の言葉の後、ケンイチはしばらくの間黙り込んでしまう。
ケ「……和柳里市の波山町4丁目…雨見川の川沿いに、廃屋になっている小さな工場があるはずだ。……おそらく、鳩谷はそこに宗光を連れ込んでいる。」
ふいに地名を口にするケンイチに、孝彦は少し驚く。
孝「お、おい……」
ケ「一応、覚えていてくれないか?……いざとなったら、お前たちを頼りたい。」
孝「……わかった。」
素直なケンイチの言葉に、孝彦も優しく答える。
孝「悪いけど、もう一度言ってもらっていいか?」
ケ「ああ。和柳里市の波山町4丁目、雨見川沿いにある小さな廃工場だ。」
ケンイチの話を聞きながら、孝彦は素早くメモを取る。
孝「和柳里市、波山町4丁目……んで、雨見川沿いの廃工場だな?……もしお前の方で警察呼べそうだって判断したら、連絡してくれ。…俺から親父に直接連絡入れる方が、110番するよかずっと早いはずだから。」
ケ「ああ、わかった……」
路「しっかし、和柳里市って閏台市から結構離れてないか?なんでそんなとこに……」
不思議がる龍路だったが、電話の向こうからは何も帰ってこない。それを4人が困ったような顔して互いに互いの顔を見合わせた、その時。
ケ「……今もあるかはわからないが、神童家があるのが、波山ではないが和柳里市なんだ。」
海「え…それって、賢一センパイは和柳里市で生まれたってことですか?」
ケ「ああ。神童家も、智司の勤める研究施設も和柳里にある。」
隆「じゃあよ、その雨見川だかの傍にある工場ってのは何なんだ?」
ケ「……。」
その問いに、ケンイチはまた黙り込む。車の中でその様子を見ていた修丸が、ケンイチをひどく心配している。
隆「ケンイチ?おい、聞こえてるか?」
修「あの、聞こえてはいるみたいですけど……」
ケンイチを心配して代わりに答えた修丸だったが、そんな修丸の気遣いに気付いて、ケンイチは静かに携帯の方を見る。
ケ「……あの廃工場で智香子は死んだ。そして、智香子が死んだその瞬間、賢一の中に、賢一とは別のもう1つの意思を持った存在である、オレが生まれたんだ。」
晶「もしかして…あの暗号の答えが物理ってのは……」
ケ「鳩谷本人に訊かないことには真意はわからないが、おそらくオレの存在の誕生を意味してるんじゃないかと思う。……あの廃工場でオレは賢一とは別の意思として生まれ、そして物理室の事件でオレは賢一と入れ替わり、宗光から呼び名をもらった。……オレが初めて意思を持ったのが智香子が死んだ時…10年前だと言う話は、いつか鳩谷も聞いていたはずだ。だとすれば、楝蛇知人にとってオレが生まれた場所があの廃工場なら、鳩谷知人にとってオレが生まれたきっかけが、物理部での事件なんだろう。」
路「そっか、だから先生、あの暗号の答えがお前にとって何を意味するか、とか言ってたんだな?」
ケ「あの廃工場に宗光がいるなんて絶対の確信なんかないが、あそこ以外に物理が意味する場所なんて思いつかないんだ……」
孝「でも自信なんかなくったって、動かないよりはずっとマシだろ?」
自信なさげなケンイチの言葉に、励ますように孝彦が言う。
隆「そうだよな。違うかもしれないって不安があっても動けんのは、お前が強いからだと思うぜ?」
いつもは意見の衝突ばかりの2人だが、そんな2人が同じ意見でケンイチを励ますことに、佐武兄弟もどこか嬉しげである。そして、見えこそしないが、電話の向こうのケンイチも、嬉しそうに電話を見ていたことを、修丸はちゃんと見ている。
海「あの、それで……訊いていいかどうかわかんないんですけど……」
一転して、どこか言いにくそうにそう言う龍海だったが、電話の向こうのケンイチには彼が何を言いたいかが大方わかっているようだった。
ケ「智香子はなぜ死んだか…か?」
その言葉に龍海は驚き、そしてしゃべらないことには伝わらないということも忘れてただうなずく。それを見た龍路が代わりに電話の向こうへという。
路「ああ、そのことが聞きたいみたいだよ。……正直言うと、俺も気にはなってるんだけど、でもそんなこと、興味があるからって訊いていいことじゃ―」
ケ「お前たちをここまで巻き込んだのはオレや賢一だ。…それに、ここまで協力してもらっていて、それでいて事の発端を教えてやらないのも、おかしな話だろう……」
そう語るケンイチの声を、晶は運転をしながらもどこか切なそうに聞いている。
ケ「鳩谷の言う、智香子の復讐というのは……今からちょうど10年前の、2月26日に端を欲した。……偶然なのか必然なのか、あの日も今日みたいに深々と雪が降っていたよ。」
そしてケンイチは静かに目を閉じ、10年前の出来事をありありと思い出し始める。
④
―ケ(M)「あの日、賢一はいつものように家で、高校に行っている智香子の帰りを待っていた。だが智司も、あの日は月に数回ある、研究所には行かずに家での資料を整理する日に当たっていたため、実質家にいたのは2人だったがな……」
10年前の2月26日の、夕方より少し早い頃、賢一は小さな包みを大事そうに持って、どこか不安げに窓の外をずっと見ていた。
司「お前、何を大事そうに持ってるんだ?」
仕事用のデスクでパソコンを使いながら、ふと窓際に目をやって智司が賢一にそう訊くと、賢一は窓の外を見たままでギュッと包みを抱え込む。
司「バカが、誰がお前の物など取り上げるか……」
賢「僕のじゃないよ……」
司「何……?」
賢「今朝、学校行く時にちかのカバンから落ちたから……帰ってきたら返そうと思って……」
賢一の話を聞いて、智司はデスクでの仕事に戻りながら言う。
司「お前、まさか智香子のカバンからくすねたんじゃないだろうな?」
その言葉には何も言わず、再び包みを抱える腕に力を込める。
司「ったく、相変わらず気味の悪いガキだ……」
返事がないことを不振がって賢一の方を見た智司が、怪訝な顔をしてそうつぶやく。その声を聞いて、賢一は智司の方を振り向いた。
賢「……ごめんなさい。」
司「なんだ?お前は今、何か悪い事でもしたのか?」
意地も悪くそう言う智司の言葉に、賢一は悲しそうな顔をして、何も言わずに窓の外へと振り向きなおす。
司「フン……智香子が帰ってくるまでこんなガキと2人きりとは……平日の資料整理ほど気分の悪い仕事はないな……」
賢「ちか……」
智司の口から出る智香子の名に、賢一はなぜか不安げにそうつぶやく。それに気付いた智司はなぜか怪訝そうな顔をし、そして立ち上がって賢一のもとへと歩み寄った。
司「なあ賢一、なんで智香子はお前みたいな化け物に優しくするんだろうな?……まさか、お前たちが夜中にこそこそ何かしているのを、オレが知らないとでも思ってるのか?」
賢一は静かに振り向くだけで、何も言わずにうつむいてしまう。
賢「……」
司「なんだ、その態度は?……何が言いたいんだ?」
賢「別に、何も……」
うつむいたままの賢一に、智司はひどくつまらなさそうな顔をしてぶらぶらと部屋の中を歩きだす。
司「……ったく、智香子の奴がいないだけで息が詰まる―」
その時、家の電話が鳴りだした。その音に智司は嫌悪をあらわにして、面倒臭そうに受話器を取ろうとする。賢一はそれを、不安げな様子でただじっと見ていた。
司「はい、神童ですが……」
?「あ、神童さん?私、船橋です。」
司「船橋か……珍しいな、お前が電話なんて。」
賢一との会話で生まれた苛立ちを押さえようとする智司のその言葉に、智司と同じく医療研究者である船橋開成は、電話の向こうで、どこか不気味に小さく笑う。
船「落ち着いて聞いてほしいんですけどね……今、お宅のお嬢さんをお預りしてるんですよ。」
瞬間、智司は眉をひそめる。
司「なに……?」
船「ちょっとあなたに頼みたいことがありまして、返事次第だと智香子さん、無事じゃ済まないかもしれませんね。」
司「……おい、何の冗談だ!!」
尋常じゃない様子の智司を見て、賢一はうろたえるように彼のもとへと近寄ってくる。
賢「あの、お父さん……?」
そんな賢一を、智司は衝動的に嫌悪をあらわにして睨みつける。
司「なんだ!?…お前はあっちに行っていろ!!」
その声に賢一はびくつき、電話の向こうの人物はおかしげに笑っている。
船「今の、あなたのとこの長男ですよね?……何怒ってるんですか?苗字に違わず、神童……神の童のような知能を持ったお子さんなんだ、もっと大事にするべきでしょ?」
司「ふざけるな!!お前らに何がわかる……神の童だと?あれは化け物だ!!香莉を殺した上に、智香子までたぶらかす……賢一は神なんかじゃない、化け物なんだよ!!」
船「……神童さん、あなた自分で罰当たりな事を言ってるって気付いてます?私らだって、賢一くんみたいな天才的な跡継ぎが欲しいんですよ。そうでないと、他の研究家に手柄を取られ続けて、いずれは飢え死にしてしまうんだから。でもね、生まれる子供の頭脳なんて親には選べない。どんなに教育したところで、子どもの出来が悪ければ意味がない。……素晴らしい子宝に恵まれておいて、それを化け物とはないでしょう?」
司「黙れ……」
船「まったくひどい話ですよね。親が子を選べないように、子も親を選べない。……本当、賢一くんが不憫で堪りませんよ。」
司「黙れ…!」
船「しかも化け物だ、なんだと言っておいて、結局あなたは賢一くんを使って医療研究の世界を牛耳るつもりなんでしょう?……そんなことされたら私らは堪ったもんじゃありませんよ。」
司「黙れと言ってるだろうが!!」
船「いいんですか?黙るのは構いませんが、それでは智香子さんは返してあげられませんよ?」
司「貴様……!」
船「落ち着きましたかね?……話の続きですが、実は神童家を危険視しているのは私だけじゃないんですよ。錦野さんも陸山さんも、私の考えに賛同してくれましてね。そして3人で話しあって、1つの結論に辿り着いたんです。……いくらあなたでも、智香子さんの命がかかっているとなったら、医療研究から手を引いてくれるんじゃないか、とね。」
司「なんだと…!?」
船「ああ、少し回りくどかったですね。では単刀直入に言います。神童さん、あなたには医療研究から手を引いてほしいんですよ。もちろんタダで、とは言いません。私たちの要求を呑んでくれると言うのなら、智香子さんは無事にお返しします。……逆を言えば、要求を呑んでくれないと言うのなら、智香子さんの命はないと思ってください。」
司「寝言は寝て言え!!そんな要求、呑む気などあるわけないだろうが!バカなことを考えてる暇があるのなら、さっさと智香子を返せ!!」
智司のその言葉に、賢一は何かを確信するかのように一層不安を募らせる。
船「…まあ、いきなりの話で気が動転してしまうのも仕方ありませんね。……ですがね、私は別に寝言を言っているつもりも毛頭ありませんし、タダで智香子さんをお返しする気もありません。……またあとで連絡しますから、それまでに頭を冷やして、どうすることがあなたにとって一番いいのかを考えておいてくださいね。……まあ、あなたのような自尊心の塊のような人間が、私情に他人を巻き込むとは思いませんが、これは我々の問題です。くれぐれも警察には内密にお願いします。では、失礼。」
それだけ言って、船橋は電話を切る。不通音の鳴り続ける受話器をただぶらりと下げた手に持ち、智司はにわかに、どうしようもない焦りに襲われる。
司「なぜだ……なぜ智香子が……」
呆然とそうつぶやく智司に、賢一は不安を隠すこともできずに訊く。
賢「ちかは…?!ちかは無事なの?!」
そんな賢一を、智司は今まで1番憎しみを込めた表情で睨む。
司「お前か……」
静かに受話器を元に戻す智司。
賢「え…?」
司「お前がいるせいで、智香子はこんな目に逢ったのか……!」
その言葉に、賢一は何も言い返せなかった。
司「そうだ、お前だ!!お前がいるせいで、みんな不幸になるんだ!!」
そう言って智司は衝動的に両手で賢一の首を掴む。しかし賢一は、その手から逃れようともせず、なんの抵抗もしない。
司「香莉はお前を産んだせいで死んだ!智香子だって、お前が化け物の頭脳を持っているがばかりに危険な目に逢っている!!お前さえいなければ―」
その時、再び電話が鳴り響く。その音に智司は即座に反応し、賢一の首を絞める手を止めて電話を取る。
司「船橋、貴様―」
楝「あの…俺、楝蛇ですけど……」
司「楝蛇…?知人くんか?」
楝「あ、はい……あの、智香子どうしたんですか?学校の方に連絡いってないって、先生方が……」
司「智香子は、学校に来ていないのか……?」
楝「ええ、今日は朝から来てなくて……あの、智香子は―」
司「さらわれた……」
楝「え……?あの……」
司「賢一のせいだよ……!賢一さえいなけりゃ智香子は―」
楝「落ち着いてください!……その、あとで家にお邪魔してもいいですか?」
司「あ、ああ……構わないが……」
楝「ありがとうございます……あの、とりあえず智香子の行きそうなとこ、全部回ってからそっち行きますから、その時に話聞かせてください。それじゃ!」
楝蛇が電話を切り、静かに受話器を戻す智司を見て、賢一は智司のもとへと歩み寄ろうとする。
司「寄るな……お前はオレに殺されたいのか?」
先ほどとはうって変わって憔悴した様子の智司を、賢一はただ悲しそうに見るだけだった。―
⑤(2)
鳩「公衆電話から智香子の家に電話をかけて、急いで智香子の行きそうな場所を回ったけど、どこにも智香子は行っていなかった。それで智司さんから話を聞こうと思って智香子の家に行ったんだけど、それでどれだけ智司さんが追い詰められているかすぐに察したよ。…智司さんと距離を置くように部屋の隅に立っていた賢一の首に、くっきりと手形が残っていたんだからな。」
偶然なのか必然なのか、ケンイチが晶の運転する車に乗った時、鳩谷は陽のいる廃工場へと帰って来て、さらにケンイチが晶たちに10年前のことを話し始めたと同時に、鳩谷もまったく同じ話を陽に聞かせていたのだった。
陽「手形…?」
鳩「ああ……あれは、どう見たって絞め殺そうとした痕にしか見えなかったね。……俺も、聞いていいものかあの時はわからなかったから、本当のことは知らないけどな。」
そう言って自嘲するように小さく笑う鳩谷。そんな鳩谷に、陽は真剣に聞く。
陽「あの、それで智香子さんは……」
鳩「ああ、悪い。話が逸れたな。……それでだ、あれから俺は智香子の家に行って、詳しい話を聞いたんだ……」
ケンイチと同様、鳩谷は10年前の出来事を思い出すように語りだす。
―楝「医療研究から手を引け……?」
楝蛇が神童家に着いた時は、時期も相まってか外は夕陽もすでに沈んでいた。神童家に来た楝蛇は、電話から目を離さずに先ほどの出来事を話す智司から、船橋からの電話の内容を聞いていた。
司「ああ、奴はそう言ってた。……要求を呑まないと、智香子の命はないと思え、ともな……くそっ!オレが賢一を使って医療研究を牛耳るだと?!ふざけたことを……!」
そう言って、智司は部屋の隅に立っている賢一を見る。その手には先ほどの包みはすでになく、楝蛇が来る前に、上着のポケットにしまったようだった。
司「お前のような化け物に、誰が研究を継がせると言うんだ……」
皮肉を込めてそう言う智司に、賢一は何も言わずに、ただ悲しそうな顔をして目を逸らす。
楝「あの、警察に通報した方がいいんじゃないですか?…明らかにこれは誘拐です。それに脅迫だってしてきてる……」
司「ダメだ……さっきの電話で、警察への通報はするなと言われている。奴らはヘタな誘拐犯のような能無しではないんだ……下手に通報すれば智香子は……」
そう言って片手で顔を押さえる智司を見て、楝蛇はただ、心配そうに彼を見るしかできないでいる。
楝「相手方の要求を呑む…という選択は、やはりないんですか?」
智司を見ずにそう言う楝蛇の言葉に、智司は堅く拳を握る。
司「それだけはできない……医療研究は、神童家が何代にも渡って取り組み、やっとここまで名を馳せてきた大事な仕事なんだ……それをオレの代で終わらせるなんて、そんなことは……」
楝「それじゃあ智香子はどうなるんですか……?」
不安と若干の責めを含む楝蛇の口調に、智司も耳が痛そうにうつむく。
司「わかっている!……オレだって、智香子を奴らに殺させるなんて、そんなことは……」
そう言って、智司はまた賢一を見る。
司「お前さえいなければ……もしも智香子が死ぬようなことがあったら―」
と、その時再び電話が鳴り、智司は反射的に立ち上がる。それを見て楝蛇も智司の近くに立つが、賢一は動こうとしなかった。
司「船橋か……」
静かにそう言う智司の声を聞いて、電話の向こうでは不敵な余裕をたたえた声が聞こえてくる。
船「どうですかね、神童さん。…少しは頭も冷えましたか?」
司「智香子は……無事なんだろうな!」
会話になっていないとわかっていても、智司にはそのことが何よりの不安だった。
船「ええ、もちろん。まだ交渉は成立も決裂もしていませんからね。……ちょっと待ってください。」
そう言ってからの船橋の声は電話から離れたように感じる。
船「お父さん、あなたのことを心配されていますけど、お話でもしますか?」
それから少しの間があり、船橋の声は受話器越しに戻ってくる。
船「お待たせしました。そちらに賢一くんはいますかね?」
司「賢一がどうした……!」
苛立ちをあらわにする智司を、船橋はどこかあざ笑うかのように言う。
船「いえ、智香子さんが賢一くんの声が聞きたいと、そう言ってまして……私たちとしてもね、智香子さんを不安にさせたいからこんなことをしている訳ではありませんので、できれば賢一くんに代わっていただきたいのですが。」
その言葉に、智司は無意識にも悲しげな顔をして賢一を見る。
司「……わかった。今代わる。」
そう言って、智司は受話器を少しだけ耳元から離す。
司「賢一……智香子がお前と話したいそうだ。」
智司の言葉に賢一は小さく驚くも、何も言わずに智司のもとへと歩いていく。そして少しためらうように智司から受話器を受け取ると、静かに言う。
賢「もしもし……?」
智「ヨシくん?……」
電話の向こうから聞こえる智香子の声は、ひどく怯えているようだった。
賢「ちか!…大丈夫?怪我とかしてない?」
智「うん……大丈夫……」
今にも泣きそうな智香子の声に、賢一はできるだけ安心させようと、落ち着きを装って言う。
賢「ねえ、今どこにいるかとかはわかる?」
智「……ごめんなさい。わかんないの……学校行く途中で錦野さんに声かけられて、そしたら薬みたいなものかがされて……気が付いたら、ここに連れてこられてたから……」
賢「そう……」
落胆する様子の賢一の声に、そばで話を聞いている智司や楝蛇も事情を察する。
賢「あのさ……倉庫とか、家の中とか……そういうのはわかる?」
智「……たぶん、工場だと思う。結構小さめで、もう使われてなさそうだけど……」
賢「廃工場って事?」
智「うん……大きな機械が何個か置いてあるの。ほとんど錆びてたりして使えなさそうだけど……」
賢「じゃあ……窓とかは?外の様子とかは見えないの?」
居場所を特定するような会話をしていることを知っておきながら、船橋たちがいつまで智香子に電話を持たせているかわからない状況で、賢一は慌て始めながらもそう訊く。
智「えっと……窓はあるんだけど、建物とかは何も見えなくて……」
控えめにそう言う智香子を、電話の向こうで船橋たちはなぜか慌てる様子もなく見ている。
智「ごめんね、さすがに窓までは近づかせてもらえなくて……」
気を落としてそう言った後、ふと智香子は何かに気付く。
智「あ…でも月が見えるよ。雲の間から顔出してる。」
そう言って、智香子は自分を落ち着かせるように言う。
智「今日は半月なんだね、下が半分欠けちゃってる……月が見えるってことは、ここは高い場所なのかな?……でも、みんな何も言わないってのは、違うのかもしれないね……」
自信なさげにそうつぶやいてから、智香子はふいに、怯えの中にも優しい声で言う。
智「あのね、ヨシくん……ヨシくんは何にも悪くないんだからね。」
賢「え……?」
智「お父さんのことだから、きっとこうなったのはヨシくんのせいだ、とか言ってるんだろうけど……ヨシくんは何も悪くないんだから、そんなこと気にしちゃダメだよ?」
智香子の言葉に、賢一は悲しそうにうつむく。
賢「でも……実際、僕さえいなかったら…ちかはこんな目に逢ったりはしなかったんだよ?」
智「いなかったらなんて、そんなこと言わないで……今だってこうして声が聴けただけで、こんな状況なのにすごくホッとしてるんだから……」
優しくそう言って、智香子は少し間を置く。
智「ホント、話ができてよかった……きっと、もう会えないだろうから……」
電話越しでもわかる。智香子はこらえながらも泣いているようだった。
賢「会えないって……どういうこと?!」
驚く賢一の言葉に、智司も楝蛇も何事かと賢一を見る。
智「だって、お父さんが医療研究をやめないと、私殺されるんだよ?……ヨシくんだって見てきたでしょ?お父さんがどれだけ研究に時間をかけてきたか、どれだけ研究を頑張ってきたか……なのに、私のせいでその邪魔をするなんてできないもの……」
話しながら、智香子はこらえることもできなくなって泣き出していた。そして、受話器から少し離れたところから、船橋の声が聞こえる。
船「研究をやめるかやめないかは、あなたじゃなくて智司さんが決める事ですよ。」
智「あ……」
船橋は智香子から受話器を取り上げる。
船「賢一くん、すみませんけどお父さんに代わってもらっていいですか?」
賢一はまるで放心するようにうつむいたまま、何も言わずにただ受話器を智司に差し出す。
賢「船橋さんが、お父さんと代わってって……」
その言葉に、智司は眉をひそめて受話器を受け取る。その物音を聞いたのか、船橋の方から話しかけてくる。
船「本当、あなたはいいお子さんをお持ちですね。」
司「……」
黙り込む智司に、船橋は続ける。
船「智香子さん、あなたが研究に携わり続けるためなら死んでもいい覚悟のようで。……まあ我々としては、あなたに研究をやめてもらって、かつ智香子さんは無事にお返ししたいところなのですがね。」
司「そう思うのなら、さっさと智香子を解放しろ……!」
静かにも怒りを表す智司。そんな智司の隣で、賢一は何かを必死に考えている。
船「こちらこそ、そう思うのなら早く医療研究から手を引くと決断してほしいものですよ。……それともなにか?智香子さんの命がかかったこの状況で、まだ時間がほしいとでも言うんですか?」
その言葉に、智司は苦虫を噛み潰すような顔をする。
司「……。父も祖父も……医療研究に全てを捧げるかのように生き、死んでいった……!神童家にとって、それほど医療研究は意味を成すものなんだ!なのにそれをオレの代で投げ出すなど、そんなことできるわけないだろう!!」
船「では、智香子さんはどうなってもいいと?」
ひどく冷血にそう言い放つ船橋に、智司はさらに怒りを募らせる。
司「そんなことは言っていない!!智香子も、研究も、お前たちの思い通りになど……」
その時、賢一はふと開きっ放しになっているカーテンの外を見て、ハッと何かに気付いたようだった。そして、何も言わずに玄関の方へと走り出し、リビングと玄関を繋ぐドアの向こうへと消えていく。
楝「あ…」
司「放っておけ!」
小さくも驚く楝蛇だったが、賢一のことを気にする暇もない智司はそう怒鳴る。
船「神童さん…?あなたまさか警察でも呼んでいるんじゃ―」
司「バカを言うな。賢一がこんな時に、来客の対応をしようとしただけだ。」
勤めて冷静を装う智司の声に、船橋も納得する。
船「そうですか、それは失礼しました。」
司「第一、オレが私情に他人を巻き込むとは思えないと言ったのは、貴様だろうが……」
嫌悪をあらわにそう言う智司に、船橋はまるでバカにするように小さく笑う。
船「確かにそうでしたね。とにかくだ、こちらだっていつまでもあなたの決断を待っている訳にもいかないんです。……そうですね、明日の朝の7時まで。それまでが私たちの限界です。その時刻にまた連絡いたしますから、その時に研究を続ける、もしくは決められないという答えなら、智香子さんとは二度と会えなくなると思ってください。」
そう言って、船橋は一方的に電話を切る。
楝「あの、賢一くんは……」
司「放っておけ……」
静かにも冷たく言い放つ智司に、楝蛇はどこか迷いを隠せずに言う。
楝「すみません、俺、賢一くんを探しに行っていいですか?」
その言葉に、智司は落胆するように楝蛇を見る。
司「君まであの化け物を肯定するのか……?」
その言葉に、楝蛇は先ほどとはまた違う迷いを見せる。
楝「……智香子には言えないできましたけど、俺もあなたと同じなんです。」
司「オレと同じ?」
楝「智香子はいつだって、あの子のことを1番に考える。俺がどんなに智香子のことを想ったって、あの子の存在が邪魔をする……俺だって、賢一の存在は十分疎ましいですよ!」
その言葉に、智司は不謹慎にも小さく安堵の色を見せるが、すぐに不可解そうな顔をする。
司「そうか……それで、君は賢一が智香子のいる場所がわかって家を出たとでも言うのか?」
楝蛇は小さくうなずく。
楝「アイツの頭脳を頼るのも屈辱ですけど……でも、今は智香子の命がかかってるんです!」
何よりも智香子の無事を願う楝蛇を見て、智司はどこか諦めるように静かに言う。
司「……わかったよ。」
楝「場所がわかったら、近くの公衆電話から連絡します。」
静かにそう言って、楝蛇も玄関へと向かった。―
⑥
鳩「もともとその日は今日みたいに、朝から雪が降ってはいたんだが……賢一を探しに外に出た時には、気のせいかもしれないが雪が一層冷たく感じたのを、今でも覚えてるんだ。」
10年前の話の合間合間に見える鳩谷の悲しそうな顔に、陽は度々気付いていた。
ケ「賢一は一度見た情報は絶対に忘れない。自分の住んでいる和柳里にいくつの廃工場があるか、その廃工場がそれぞれどこにあるか、そんなことは思い出そうとすればいくらでも思い出せる。……智香子から聞いたわずかな情報を頼りに、賢一は必死に考えた。」
晶「考えたって言っても……そんな少ない情報で何がわかったってんだ?」
運転をしながらも不思議がってそう訊く晶に、ケンイチは顔色を曇らせる。
ケ「いや……智香子は十分すぎるヒントを口にしていた。」
隆「ヒント……?」
電話の向こう、部室に残っているメンバーもケンイチの言葉の答えを探し出せていない。
修「そんなこと、言ってましたっけ……?」
ケンイチが話してくれる10年前の話の内容を必死に思い出そうとする修丸に、ケンイチは静かにつぶやく。
ケ「下が欠けている半月……」
その言葉に、部員たちは誰1人として理解を示せない。
ケ「これはまだ、お前たちには話していないんだが……あの日は確かに半月が出ていた。……上半分が欠けた、下弦の月がな。」
「!」
静かに言い放たれたその言葉に、部員たちは全員が全員驚きを隠せなかった。
孝「で、でも……智香子さんが見えたって言ってたのは下の欠けた半月なんだろ?なのになんで…そんなのありえないだろ!」
海「そうですよ!そんな鏡みたいなことって……」
その時、ケンイチの言葉を受けとめられない2人や隆平の隣で、龍路が何かに気付いたように言う。
路「もしかして、川か……?」
電話の向こうでその答えを聞いたケンイチは、人知れずうつむく。
隆「川?川が何なんだよ?」
路「ほら、川って水だから鏡みたいにいろいろ映るだろ?……俺、何回か夜の川とか写真に撮ったことあるんだけど、その時は今のケンイチの話みたいに、実際とは反対側が欠けてる月が川に映ってたんだ。」
海「じゃあ、智香子さんがいたのは川が見える廃工場ってこと?」
電話の向こうで不思議がる龍海の声を聞き、修丸がふと思い出すように言う。
修「でも、川が見える廃工場って言えば、陽さんが今いるのも雨見川の傍の廃工場なんですよね―」
そこまで言って、修丸はある事実に気付く。
修「あの、ケンイチくん……」
ケ「……」
何も言わないケンイチに、修丸は続ける。
修「智香子さんが亡くなった場所と、陽さんが今いると思われる場所って……同じ場所なんですよね……?」
ケ「……ああ。」
晶「ん、でも…智香子さんがその、連れてかれてた場所ってのも川の見える廃工場って―」
孝「それってまさか、智香子さんはそこでそいつらに殺されたってことか?!」
晶の言葉を遮ってそう言う孝彦の言葉に、ケンイチはまた人知れずうつむく。
路「おい、ケンイチ……どうなんだよ……」
ケ「……智香子の居場所に見当をつけて賢一が外に飛び出した時、今日と同じく朝から降っていた雪は、みぞれ交じりの冷たいものになっていた。」
ケンイチからの答えを聞けずに不安に駆られる部員たちの心中もよそに、ケンイチは再び10年前の出来事を語りだす。
⑦
―智香子の居場所に見当をつけた賢一は、自宅からそう離れていない場所にある、雨見川沿いの廃工場を目指して必死に走っていた。
賢「(今日の月は下弦の月……この時間は上が欠けてるのに、それが反対に見えるってことは、ちかは川に映ってる月を見てるんだ……)」
そう考えるころ、賢一は町中の廃工場の前を通り過ぎる。
賢「(川が見えるってことは、窓が川よりかなり高い位置にあるってことで、でもこの町に2階建て以上の廃工場はない……)」
賢一は、町中を抜けて大きな川が見える場所に出る。少し離れた場所には、「雨見川amemigawa」と書かれた看板が建っている。
賢「(川の付近に建っている廃工場は3つ……その中でもこの時間の月が見える東側に窓があるのは……―!)」
そう思った賢一は、ある建物を目にして思わず立ち止まる。入口らしい場所にだけ、その建物には似つかわしい新しめの扉がついていて、しかし建物全体は錆や色褪せのひどい、見るからに廃工場である。
賢「(ここしかないよ……)」
そして賢一は上着のポケットに片手を入れ、小さな包みを出してそれをじっと見つめる。
賢「(ごめんね、ちか……僕のせいで、怖い目に逢わせちゃって……)」
その想いと共に、無意識ながらも包みを持つ手に力が入る。そして賢一は包みをポケットにしまってからためらいもなく、数メートル先に建っている廃工場へと走り出し、入り口とは反対側、川と面した方へと回り込む。それから、正面の入り口に比べて小さめの出入り口を見つける。
賢「(廃材の搬出口……他の壁と同じような色ってことは、入り口と違って改装されてないはず……きっとここからなら……)」
一縷の望みをその小さな搬出口に懸け、賢一は静かに搬出口の戸と壁の隙間に小さな指をかけ、雪で冷え切ったその指に必死に力を込める。
賢「く……っ!」
歯を食いしばって力を込めた時、さび付いた金具が外れ、大きな音と共に廃工場の中に外のわずかな明かりが入り込む。
陸「な、なんだ?!」
突然の異変に、入り口の近くでジャンバーのポケットに両手を突っ込んでいる男…陸山倫、智香子の傍に座っている男…錦野伸厳、同じく智香子の前に座り、何かを話していた様子の男…船橋開成、そして怯え、疲れ切った様子で座り込んでいた智香子の4人が一斉に廃材の搬出口を見る。
智「嘘……ヨシくん……?!」
賢「ちか!」
廃工場に入るや否や、すぐに智香子を見つけて駆け寄る賢一。無事な姉の姿に安堵してか、智香子の傍の男たちのことなど、すでに賢一の眼中にはなかった。
賢「よかった……本当に無事だったんだね……」
心の底から自分の無事を喜ぶ弟を見て、智香子も自分の置かれている状況を忘れて、安堵の色を浮かべる。
智「……私のこと、探してくれたの?」
賢「うん…考えたんだ。ちかがいる場所のこと、必死に考えたんだよ!」
嬉しさと安堵で泣きそうな賢一を智香子は優しく見ている。と、その時。
錦「考えただって……?!まさか……」
できるだけ感情を押さえようと努めるも、驚きを隠せずにそう言う錦野は、咄嗟にか賢一が入ってきた搬出口をふさぐように立っている。そして智香子の傍では船橋が悔しそうな表情をしている。
船「一体、何を頼りにここを……」
陸「船橋、お前何か余計な事でも言ったんじゃないのか?!」
船「そんなミスはしていない!…そもそも、この子と話をしたのは智香子さんだ!」
錦「…だが、あの会話のどこにそんな……」
そう言う錦野…ではなく、錦野の後ろの立ちふさがれている搬出口を見て、賢一はどこか隙を探すような目をしながら話し出す。
賢「ちかが、月が見えるって言ってたから……」
船「月?……そんなもの、東側に窓がある建物ならばどこだって……」
賢「今日の月は下弦の月だから……夜更けじゃないと下が欠けるなんてことはないから……」
その言葉に、錦野はハッとして自分の立っている搬出口の外を見る。
錦「…川か!……くそ、そんなことだけでなんで……―!」
川を見た時、錦野は何かがぶつかる衝撃に襲われ、気付けば彼は工場の外にはじき出されていた。
賢「ちか!!」
隙を見せた錦野を渾身の力で外へと突き飛ばし、賢一は智香子を必死に呼ぶ。その意味をその場の全員が理解した時……1発の銃声が鳴り響いた。
智「嘘……」
頭のすぐそばに銃痕を見つけた賢一、船橋たちの計画に拳銃が用いられていることを初めて知った智香子、仲間のいきなりの発砲を予期していなかった船橋、工場の中の異変に気付く錦野……銃声の鳴りどころを皆が驚いて見てみる。そこには、ひどく焦りをあらわにして拳銃を構えている陸山がいた。
船「何している、陸山ぁ!!」
仲間の勝手な行動に、さすがの船橋も冷静ではいられない。
陸「こ…殺すしかないだろう……!?交渉も成立しないで……人質に逃げられるなんて……だったらもう殺すしかないだろう!!」
震える声でそう叫び、陸山は銃口を再び賢一へと向ける。
陸「そうだよ……お前だ……お前さえいなけりゃ、俺たちもこんなことしないで済んだんだ……こんな危ない橋なんぞ渡らなくても、神童の研究の上を行くことだって……」
そう言って指を引き金にかける陸山。その様子を、賢一はただ悲しそうに、銃口から逃げようともせずにただ見ているだけである。
錦「よせ、陸山!!」
工場の外から錦野が陸山を止めようとするが、陸山は聞き入れない。そして引き金にかけられた指に、力が入る。
賢「……」
賢一はまっすぐに陸山を見据え、怯えなどは微塵も感じさせなかった。
賢「……―!」
その瞬間に何が起きたのか、賢一の頭脳をもってしても理解することはできなかった。ただ彼が見たのは、陸山が引き金を引く直前、自分の目の前に誰かが立ちはだかるように現れた……ただそれだけだった。
智「―……」
賢一をかばい数発の銃弾をその身に受けた智香子は、崩れ落ちながら何かを口にしたようだった。
賢「……ち…か……?」
目の前で崩れ落ちていくのが、最愛の姉であることを理解した時……すでに何もかもが遅かった。
陸「う……うわぁあああ!」
衝動的な自らの行動に驚愕する陸山の叫びも、いつの間にか雪から変わった雨が川を打つ音も、外にいる錦野が事態を察して1人逃げ出す足音も、智香子が残した最期の言葉も……何もかもが賢一には届かなかった。―
⑧
……雨見川沿いの廃工場で、ケンイチがそこまで話す、ほんの少しだけ前に遡る。
鳩「賢一が家を出て、すぐに追わなかったのが悪かったんだな……頭脳こそ明晰でも体はまだ子供、ましてやアイツは智司さんに家からろくに出してもらえていなかったから、他の同年代の子供と比べたって体力はなかったはずだ。足跡をたどればすぐに追いつけると思ったんだが、雪が段々と湿っぽくなってアイツの足跡を消していたこと、智香子のことで普段以上にアイツが焦っていたことが原因か、なかなか賢一は見つからなくてな……」
どこか残念そうにそう話す鳩谷に、陽は少し聞きづらそうに訊く。
陽「それで……見つけられたんですか……?」
その問いに、鳩谷は皮肉そうに苦笑して再び話し始める。
鳩「……それでも、まちまちではあったが子供の足跡はところどころに残っていたから、それと賢一が智香子から聞いていた廃工場という言葉を頼りに、俺も必死に賢一…いや、智香子を探したさ。」
―楝「くそ…アイツどこに―」
雪の降る中、走り回ったせいでかいた汗をぬぐいながら焦ってそう言う楝蛇だったが、近くで響いたある音に気付く。
楝「今の……銃声か……?!」
いきなり響く銃声に、自分のいる位置とそう遠くない廃工場に見当をつけた楝蛇は走り出す。
楝「(……智香子!)」
智香子の無事を願い、楝蛇はただ走る。そして目の前に1つの建物が現れた時、楝蛇はふと何か嫌な悪寒を感じる。
楝「(まさか、智香子はあの中じゃ……)」
嫌な予感をぬぐい切れずに楝蛇は工場と急いで走り、真新しい出入り口を見て、賢一と同様に工場を回ってみる。
錦「よせ、陸山!!」
そう叫ぶ、工場の裏で腰を抜かしている錦野には目もくれず、見つけた開け放たれた搬出口の中から工場の中を見る。
楝「智香子!……―!」
一瞬、智香子らしき人物を見つけて安堵した楝蛇だったが、それも束の間だった。智香子は、たった今放たれた銃弾に体を射抜かれ、人形のように崩れ落ちて行った。その口元が賢一に向けて動いたことだけが、鮮明に楝蛇の目に映る。そして小さくも智香子の名を呼ぶ賢一の声は、楝蛇には聞えていなかった。
陸「う……うわぁあああ!」
代わりに聞こえるのは、自身の行為に驚き嘆く陸山の叫びと、慌てて逃げ出した錦野の足音である。
楝「智香子……」
楝蛇は、賢一のすぐ近くで倒れた智香子が、すでに動くこともなく、ただ血がとめどなく流れていくだけであることを、嫌が追うにも理解するしかなかった。そんな工場の外にいる楝蛇を見て船橋も陸山も驚くが、賢一だけは彼に気付いてはいるものの、何の反応も示さなかった。
船「なんだ、君は……」
陸山の行為に未だ頭の整理をつけられない船橋は、震える声で楝蛇に言うが、楝蛇は船橋ではなく、拳銃を持って震えている陸山の方を見る。
楝「お前が、撃ったのか……?」
起伏のないその声に、陸山は怯えるような声で言う。
陸「お…俺は悪くない……!俺は神童の長男を狙って……でも、娘の方が勝手に……」
取り乱しかけながらそう言う陸山を冷ややかに睨みつけ、楝蛇は船橋の存在を無視するように智香子へと近寄る。
楝「智香子……なんでだよ……なんでそこまでして、あんな化け物のこと……」
すでに答えを聞くことは不可能だとわかりきっていても、血に濡れることも構わず智香子を抱き上げ、震える声でそうつぶやくと楝蛇は悔しさで歯を食いしばる。そして智香子を抱いたまま、賢一に背を向けたままに静かに呟き始める。
楝「お前が何も考えずにこんなところに来なければ……あの男が取り乱すこともなかったんじゃないか……」
それから愛おしそうに、冷たくなりつつある智香子の頬に手を添える。
楝「お前が、その化け物じみた頭脳のせいで必要以上に智香子に心配をさせなければ、智香子は自分の時間を大事にできたんじゃないのか……」
何も言わない賢一。そして楝蛇が静かに流した涙が、智香子の顔の上に落ちた。
楝「お前が智香子をそそのかしたりしなければ、智香子はもっと普通に恋愛もできたんじゃないか……」
そう言って、楝蛇は悲しみと憎しみが入り混じった顔をして、後ろに立ち尽くしている賢一の方を見る。
楝「お前がいなければ……智香子は死ななくて済んだんじゃないのか……」
感情をあらわにする楝蛇を見る賢一は、まるで何も感じていないような顔をしていた。
楝「お前のせいだ……お前が殺したんだ!!お前さえいなければ、智香子は死なずに済んだ!もっと幸せになれた!!お前が智香子のすべてを奪ったんだ!!!」
まくしたてるようにそう言う楝蛇すらも、賢一は表情1つ変えずに見ている。
楝「なんとか言えよ……なんとか言えよ、この化け物がぁ!!」
感情に任せて賢一を力強く揺さぶる楝蛇と、それでもうつむいたままで何も言わない賢一。そんな2人を、船橋も陸山も何も言わずに、ただ見ているだけだった。
賢「僕が…ちかを……殺した……?」
楝蛇の揺さぶりが落ち着き、少し間をおいて感情もなしにそう言う賢一。そしてふらふらと智香子に近寄ろうとする。
楝「寄るな……」
楝蛇が静かに賢一を制止する。
楝「智香子に寄るな!化け物が!!」
感情的になる楝蛇の言葉にひるむわけでもなく、賢一はふいに自分が開けた搬出口の方を向き、静かに歩き出した。楝蛇も船橋も陸山も、誰一人として彼を追おうとする者はいなかった……―
⑨
陽「ヨシくんのこと、追わなかったんですか……?」
鳩「……アイツを追うよりも、俺は何より智香子の傍にいたかったんだ。……智香子を一番傍に感じる事が出来たその時間も、すぐに終わってしまったけどな。」
陽「……」
不思議がって言葉を呑む陽に、鳩谷は思い出して不愉快になったのか、なぜかつまらなさそうな顔をする。
鳩「智香子が撃たれた時の銃声を聞いて、誰かが通報したんだろうな。あの後すぐに警察が来て、2人ともあっさり逮捕されたよ。銃を持っていない方の男が、何を思ったのか自分から警察に投降したんだ。」
陽「先生は、それからどうしたんですか……?」
鳩「事情聴取は受けさせられた。でも、犯人側がほとんど自供していたおかげで、そんなに時間もかからなかったよ。ただ、発砲の理由が「仲間内でもめ事があって、その際に暴発した」とだけ聞かされて、賢一のことは何も聞かされなかった。……おそらく、奴らが少しでも罪を軽くしようとそんなことを口走ったんだろうな。」
陽「そんな嘘、すぐバレるのに……」
鳩「いや、結局警察側もあの男たちの供述を信じたよ。」
あっさりとそう言う鳩谷に、陽は小さくも驚く。
陽「え……でも―」
鳩「俺はそのことについて、何も反論しなかった。……あの時はもう、賢一のことは口にすることさえ嫌だったからな。智香子が死んで……とにかく、あの家族のことは忘れてしまいたかったんだ……」
そう言う鳩谷は、今までに見たことがないような、悲しい顔をしていた。
ケ「どんなに頭脳明晰だと言っても、賢一はまだ幼い子供だった。この世の誰よりも大切に想っていた智香子が死んでしまうかもしれないと考えた時、その智香子の居場所がわかってしまった時……6歳の子供の理性では、感情的に動いてしまう己を止めることは不可能だったんだ。……そしてその幼さゆえの失態が、結果的に智香子を殺してしまったんだよ。」
そう語るケンイチの顔は、まるでひどく後悔しているようだった。
隆「それで……なんで賢一は工場を出てったんだ?」
ケ「たった1人……この世でたった1人だけ、自分を認めてくれている存在を自らの失態で失って、それで生きていけるほど賢一は図太くない……」
電話の向こうからの疑問に、ケンイチは静かにうつむく。
ケ「雪から変わった雨も手伝って、廃工場のすぐそばを流れる雨見川はいつも以上に勢いを増していた。」
海「え…それって―」
ケ「飛び込んだよ。……何もためらわずにな。そして川伝いに和柳里から閏台まで流れ着き、宗光の親子が河原で倒れていた賢一を見つけて介抱したんだ。」
修「でも…和柳里市から閏台市までって……そんな距離を川で溺れて大丈夫だったんですか?」
不思議そうに、かつ心配そうに後部座席を見てそう言う修丸に、ケンイチは再び後悔するような顔をして言う。
ケ「あの時死なせてやればよかったのかもしれない……でも、オレは賢一を死なせたくなかった。」
泣きそうなその声に、運転をしながら晶が事を察する。
晶「つまり、お前が賢一を助けてくれたんだな?」
そう言って晶がバックミラーを覗くと、そこにはとてもバツの悪そうな顔をしているケンイチがいた。
ケ「そんなんじゃねえよ……」
ケンイチの言葉の後、ケンイチに対してではなさそうな小声が電話の向こうから聞こえてくる。
海「そんなんじゃないって、どゆことだろ?」
路「たぶんだけど……その時に、ケンイチが表に出たって事じゃないかな?」
隆「ケンイチが表に出た?それがなんで賢一を助けたってことになるんだよ?」
そう不思議がる隆平を見て、孝彦が携帯の方を見る。
孝「だそうだけど、どうなんだケンイチ?」
その言葉に、ケンイチは静かに携帯を見る。
ケ「……ああ、佐武の言う通りだ。賢一が気を失う直前に、オレはアイツを押しのけて表に出た。それで、浮き替わりになりそうなものを探して、できる限りの間少しでも水を飲まないようにとずっと掴まっていた。……結局、オレも流されている途中で気を失っちまったがな。」
孝「じゃあ、賢一はその時の反動で記憶を失っちまったってことなのか?」
孝彦の言葉に、ケンイチは黙り込む。
孝「おい……」
ケ「……違う。」
路「違うって……じゃあなんで賢一は記憶を失くしたんだ?」
ケ「オレが……記憶もろとも賢一の脳から分離したからだよ。……言うなれば賢一はオレに、生まれてから6年間分の記憶を盗まれたようなものなんだ。」
その言葉に全員が言葉を呑む。そのことに気付いていながら、ケンイチは窓の外を見る。そこには、いつの間にか道路の脇に流れ始めていた雨見川が見えた。
ケ「響鬼、停めてくれ。」
晶「……わかった。」
静かにそう言うケンイチに、晶もただそう答えて道路の脇に車を停めた。
ケ「あの廃工場…あれが智香子が死んだ場所なんだ。おそらく、宗光もあそこにいる。」
そう言って窓の外を目配せするケンイチにつられ、晶も修丸もケンイチが見ている先にある廃屋を見る。
晶「あれが……賢一の姉さんが死んだ場所……」
そう言う晶の隣で修丸が何かに気付き、静かにもひどく驚く。
修「あ……!」
晶「なんだよ、急に……」
修「いえ……その……川に、下半分が欠けてる月が……」
そう言われ、晶はハッとして窓を開けて空を見る。空には、雲の切れ間から上半分が欠けた下弦の月が覗いたり隠れたりしている。
晶「……。ケンイチの話と同じじゃないか……!」
そんな話を聞いて、ケンイチは寂しそうに静かに言う。
ケ「下弦の月……別れの象徴だ。……記憶をオレに奪われようと、賢一の過去夢の中には必ず下弦の月と、雨か雪が付きまとっていた。……それほどまでに当時はまだ6歳でありながら、賢一の罪の意識は強かったんだ。」
そこまで話し、ケンイチは独り言のように声を潜める。
ケ「本当は……賢一ではなくオレの責任であるにもかかわらずな……」
その言葉に、晶も修丸も不思議がって後部座席を見るが、声の小ささからか部室のメンバーにはケンイチの独り言は聞こえていなかった。
ケ「ここまで乗せてくれて、本当に感謝している。……だが、ここからはオレ1人で行かせてくれないか?」
その言葉に、晶は「やれやれ」と言った顔をする。
晶「お前のことだ。自分らも行くって言ったって、きかないんだろ?」
そして、静かにも強気に、そして優しく言う。
晶「行って来い。……これは元部長命令だ!」
修「ケンイチくんが陽さんを連れて戻って来てくれるまで、僕たちここで待ってますから。」
晶に続き、修丸も少し心配そうに、そして優しく言う。ケンイチを励ます2人の声は、もちろん電話の向こうにも聞こえていたようで…
隆「おいこら、なんか勝手に話し進んでるみたいだけどよ!俺からも言わせろ―」
海「ケンイチさん!絶対に陽センパイ助けてくださいね!!」
隆「あ!それと陽も―」
孝「陽もそうだし、できればでいい!先生もなんとか説得してくれよ!こんなこと、お前にしか頼めないからさ!」
隆「えっと……そうだ!あと無理は―」
路「でも、無理だけはするな!これは新部長命令だからな!!……ほら、お前もなんか言ってやれよ隆平?」
そう言われ、部室の隆平はムスッとしている。
隆「あのなぁ!そう思うなら、みんなして人が喋ろうとする度に邪魔すんじゃねーよ!!」
その言葉に部室の3人は不思議そうな顔をしているが、隆平はお構いなく携帯を見る。
隆「とにかくだ、ケンイチ!!うまくは言えねーけどよ!頑張って来い!!」
電話の向こうから聞こえる部員たちの激励に、ケンイチは寂しそうにも小さく笑った。
ケ「不思議だな……」
修「え…?」
小さくつぶやくケンイチに、修丸が気付いて声を漏らす。それに気付いたケンイチは、ドアハンドルにかけかけた手を止める。
ケ「今まで……オレは何度も生まれたことを後悔してきた。だが、こうしてお前たちに支えられて、生まれてよかったと感じてる……」
晶「ケンイチ……」
嬉しそうな中にも寂しく見えたその顔を見て心配しながら、晶はフッと思い出したように、どこか遠慮がちに言う。
晶「そう言えば……お前は結局何者なんだ?さっきの、賢一の記憶を奪ったっていうのは……」
その言葉に、ケンイチは少しの間晶を見ていたが、ふっと何も言わないままにドアを開ける。だが晶も修丸も、ケンイチを止めようとはしなかった。そしてケンイチが車の外に出た時……
ケ「オレは……オレは賢一の―――」
振り向くこともなく自らの正体をメディア部の仲間たちに告げ、ケンイチは車のドアを閉めた。そして、過去の過ちのケリをつけに、陽と鳩谷の待つ廃工場へと歩き出したその姿を、晶と修丸は車の中から見守るしかできなかった。